男はにやりと笑った。そして眼前の鉄の黒い椅子をじっとりと見た。
椅子は天井の白い光源によって妖しく輝いていた。
そこには全裸の湊友希那が座っていた。その両手足は、それぞれ椅子の肘掛けと前方の脚にロープで拘束されていた。そのため乳房や膣の割れ目などが丸見えだった。友希那は鋭い目つきで男のことを見ていた。理不尽にこの場所に留められていることが何よりも強い理不尽として脳を覆っていた。
男は友希那に歩み寄ると頭部をがっしりと握った。友希那はそれでも男を睨みつけた。露骨な嫌悪の色が両目の黄金色の瞳に浮いていた。
「……何よ」
男が友希那から手を離すと、その右手で友希那の頬を叩いた。パシン、と乾いた音が鳴った。男の平手打ちは思っていたよりも強烈だった。頬の表面を細い針で何度も刺されたようなチクチクとした感覚だった。しかし友希那はそれでも男を睨んだ。自分の意思が固くて強く、何をしても砕けないことを示していた。
「そんなことをされたって、私は屈しないわ……!」
男は友希那の言葉を無視して室内壁際の棚に向かった。
ここは八畳ほどの個室だった。男が所有する施設の一室で、高い防音性があった。男は棚の中から金属バットを取り出した。それは天井からの薄い白の光を受けて不気味に輝いていた。男は数回素振りをしながら友希那の元に戻った。金属バットの冷たい質感を見た友希那は全身に強烈な吐き気が伝わって背筋がツンと冷たくなるのを感じた。しかし顔では無表情を貫こうと力んだ。とにかくこの男に、自分の怯えている本心を察せられてはいけないと思った。表情筋にぐっと力を入れ、とにかく仏頂面を守った。
男がバットを構えた。狙いは友希那の肌色の腹部だった。大きく振り上げるとめいっぱいの力で友希那の腹を強打した。バコッ、という鈍い音が鳴った。同時に友希那は「うぐっ!」と嗚咽のような低い声を上げた。腹の底からこみ上げてくる激痛だった。それは下腹をぎゅっと抓られるような苦痛だった。男は休まず再びバットを振り上げて友希那の腹を叩いた。肌とその奥の肉が弾ける音が鳴った。友希那はその衝撃で呼吸が、まるで栓をされたように停止するのを感じた。みぞおちの辺りから強烈な吐き気が上がり、しかし胃に何も入っていなかったためただの巨大な呻き声として口から出た。友希那はバットが離れた自分の腹を見た。色白だった肌はすっかり炎症し赤に染まっていた。腫れ上がる皮膚からひりついた痛みが流れていた。
「ふ、ふんっ……。大したこと、ないわね……」
男は友希那の見栄を無視してがバットを床に置いた。バットはカラカラと音を立てながら適当な位置に転がった。男はすたすたと棚に向かい、すぐに別の道具を持ち出した。それは真っ黒な円柱型で、一見すると警棒のように見えたが友希那にはその道具の正確な用途がわからなかった。
男はその道具を友希那の眼前に持っていった。次の瞬間道具から青白い閃光が飛び散り、同時にバチバチバチ、という甲高い音が鳴った。友希那はそれを見て全てを理解した。この道具はスタンガンに違いなかった。そして男は今まさにスタンガンのスイッチを入れ、友希那の前で放電をしてみせたのだった。
友希那は再び脳がカッと熱くなり、視界の景色から現実らしさが一気に喪失するのを体感した。強烈な心細さを胸の奥で感じた。全身が震え、開いた口が塞がらなかった。脳裡ではこのスタンガンで殴られた時の映像が流れていた。打撃の痛みと共に電流が身体を伝わり、指先まで痺れている自分を想像するとそれだけで身体の芯が縮こまった。嫌だった。どうしようもなく嫌だった。友希那は無意識のうちに「嫌だ……」と震える声で呟いていた。しかし男は止まらなかった。無遠慮で鳴り響くスタンガンを構え、一気に振り上げると友希那の腹目掛けて打ち下ろした。友希那はきゅっと両目を瞑って耐えた。瞬間、びりびりと痺れる感覚が全身に轟いた。男はスタンガンを友希那の腹に接触させたまま静止した。絶え間なく流れる電流に友希那は「あががががっ!」と叫んだ。強烈な電撃によって喉が震えていた。思考が吹き飛び、苦痛のことしか考えられなくなっていた。脳にバチンと響く電極の刺激だった。
男が友希那からスタンガンを離した。その途端友希那の身体を支配していた電撃が止んだ。友希那は深く呼吸をした。四肢の感覚がわからなかった。激烈な電気攻撃によって感覚が麻痺しているようだった。
そんな友希那の頬を、男はスイッチを入れていないスタンガンで殴った。パシン、と音が響いて頬が震えた。男は続けてスタンガンにスイッチを入れ、友希那の腹を再度殴りつけた。
「うがががががっ!」
友希那に再び電撃が走った。全身ががたがたと小刻みに震えていた。呼吸すら困難になるほどの電流だった。細胞の根底から痺れていた。
男が腹からスタンガンを離した。友希那は犬のように呼吸を吐いて、吸った。四肢の感覚はもう完全に無かった。脳が焦げているのではないかと思った。ゆっくりと見上げると男がスタンガンを棚に戻していた。それを見た友希那は安堵した。これでもうあの電撃を受けることがないという事実に何よりも強い安心感を得ていた。
男が次に出したのは、指が一本入るほどの小さな輪が横に四つ繋がった道具だった。男は友希那の前でその道具を右手に装着した。ぎゅっと四本指の根元まで押し込むと握り拳を作って数回素振りをした。それを目撃した友希那は、腹の底がひやりと冷たくなるのを感じていた。また殴られるのか、と思った。しかし四肢を拘束されてるため今の自分にはどうすることもできなかった。友希那は必死に歯を食いしばった。気持ちを強く持とう、と思った。気概だけはしっかりとしておかないと男に敗北してしまうと思った。
準備完了した男はすぐに友希那の顔面を殴った。ドシャ、という鈍い音が鳴り、友希那の頬が震えた。男は再び友希那を殴った。鉄で作られた輪が顔面の肉を弾き、湿った打撃の音が鳴り響いた。男は連続で友希那の顔面を殴った。友希那の美しい顔の形を変形させる勢いだった。数十回の打撃に友希那はとにかく耐えた。皮膚が剥がれ、肉がえぐられる度に激痛が走ったがそれでも耐えた。そうするしかなかった。他に何もできなかった。殴られている間、友希那は自分の無力さに愕然とした。しかしその思考もすぐに吹き飛んだ。男の連続の打撃はそれほどに凄まじかった。
やがて男の攻撃が止んだ。友希那の顔面はすっかり血にまみれていた。至る所の皮膚が瞳の形にぱっくりと裂け、中の肉も擦り切れ、その箇所から血の筋が垂れて真っ赤だった。いくつもの傷を受けた友希那は、顔面に灼熱の中から取り出した火箸を当てられているような感覚になっていた。
友希那は顔面中に粘り付く熱と激痛に耐えていた。ここで弱音を吐けばその瞬間に男に負けたことになるような気がしていた。だからこそ腹の奥にぐっと力を込め、途切れない強烈な痛みに耐えていた。すると棚に向かった男が次にとんかちを取り出した。友希那はそれをぎゅっと見つめた。また殴られることに対する果てしない感情の揺らぎが脳を覆っていた。まさに終わりなき打撃の拷問だった。
男はとんかちを振り上げ、素早く友希那に叩きつけた。男の狙いは頭部のようだった。友希那は両目を閉じて迫り来る痛みに耐えようとした。しかし頭部に来るはずだった痛みは無かった。友希那は慎重に目を開いた。自分の頭頂部の少し上の位置でとんかちが止まっていた。真っ黒な円柱の部分が眼前に来ていた。友希那は男の顔を見た。男はにやついていた。そのままとんかちを振り上げて再び友希那に下ろした。友希那は息を呑んで再び目を瞑った。今度こそ殴られるっ、と思った。しかしまたとんかちは自分の頭を叩かなかった。目を開き、男の顔を見るとその口角はさらに吊り上がっていた。
男は完全に友希那の情緒を弄んでいた。友希那の揺れ動く感情の起伏を玩具のように扱っていた。男がすかさずとんかちを振り上げた。友希那はもう男の思い通りになるつもりはなかった。開いた目で男のことを睨み続けた。するととんかちが勢い良く友希那の頭部を叩いた。
バコッ、という衝撃と共に、頭頂部から全身に駆け巡る鋭い激痛に友希那は困惑した。男は自分の情緒を遊んでいるはずだった。しかし今度のは『素振り』ではなく『本気の打撃』だった。頭皮が熱を帯び、頭蓋が裂け、脳が震える衝撃だった。くらつく脳裡をぎゅっと集結させて友希那は必死に思考した。しかし強烈な痛みによってその思考は冷静さを欠いていた。考えがまとまらず、視界すらもくらくらとさ迷っていた。すると男がとんかちを振り上げた。友希那は両手で頭を守りたい衝動に駆られた。拘束されている手を瞬間的に動かした。しかしぎっちりとまとわりついているロープは友希那の両腕を離してはくれず、ただギシッ、と動くだけだった。男のとんかちが友希那の頭を叩いた。頭皮に触れる硬い物質の感覚がはっきりとわかった。肌が膨れ上がり、たん瘤が出来ていくのが手に取るように分かった。
男は次にとんかちを右から振るった。ちょうど友希那の頬に直撃し、その何よりも硬い黒色の円柱が柔らかい肌と肉を弾いた。口内で粘膜が裂け、途端に血が溢れた。
男はそれから止まらずに友希那をとんかちで叩いた。頭頂部を三回叩くと右の頬を五回叩き、腹を十数回叩いた。全身が火照ったように燃え盛り、皮下の組織が激痛に悲鳴を上げていた。男の『連撃』に友希那はひたすら耐えた。しかし自分の理性もすでに限界だった。これ以上男の打撃を喰らえばその痛みに泣き出してしまうような気がしていた。
友希那の頭と腹とを叩いた男は次に唐突に拘束されている右手を叩き始めた。握り拳になっている素手を上から叩いた。友希那は素手の骨が砕けるような感触に陥った。苦痛だった。手の甲は真っ赤に腫れ上がった。すぐに感覚が消えた。素手の感覚が遮断された。すると男がとんかちを止め、そんな、感覚が無くなった友希那の手の指を一本一本伸ばしていった。友希那はそれに抵抗しようとした。しかし一切の感覚が消えているため指を少しも動かすことができなかった。結局男は友希那の五指全てを伸ばし、それにとんかちを下ろした。感覚が無いにもかかわらず痛みだけは鮮明に伝わってきた。友希那はその五指への攻撃に呻いた。すると両目から涙が流れた。いよいよ限界のようだった。止まらない涙をどうすることもできず、友希那は泣き出した。しくしくと引きつった泣き声だった。理不尽な苦痛に対する涙だった。男が友希那の両肩を掴み、真っ赤な頬を流れる涙と血を同時に舌で掬い取った。その大胆で執拗な舌遣いを頬で経験した友希那は背筋がざわざわと凍り付く感覚になった。この男からずれば自分の全ての反応が娯楽であり、もう何をしても好意的に受け取られるのではないかと思った。涙は止まらず、男はそれを血と一緒に舐め取った。
数分して男の舌が離れた。友希那の頬は男の唾液でてかっていた。友希那の涙は止まっていなかった。男の唾液を洗い流すかのように頬を伝わり、ぽたぽたと垂れていた。
男が棚に向かった。友希那はもう嫌だった。これ以上殴られ続ければ理性が崩壊し、本当の『気狂い』になってしまう可能性があった。それだけは嫌だった。友希那はまだ音楽をしたかった。自分の脳で生み出されるまだ見ぬ楽曲の未来を手放すことはしたくなかった。しかし四肢をいくら動かしてもロープは解けなかった。力強く動かしてもギシギシと音を立てるだけだった。
やがて男が振り向いた。その手には小さな注射器が握られていた。中には卵黄のような黄色の液体が充填されていた。男は友希那に近づいた。友希那の目は注射器に釘付けだった。中の薬液が妙に毒々しく思えていた。
男が注射器を持った手を振り上げた。友希那は目を瞑った。数秒後、右肩にひやりとした感触が触れた。それは皮膚の組織を貫き、体内にツンと侵入した。すぐに先端からあの薬液が注入されるのがはっきりとわかった。
数秒後、友希那は暗澹たる眠気に襲われた。それは自分の意識を強制的に切断するような無理やりなものだった。両瞼が重くなった。その二枚の皮膚を持ち上げるのがひどく億劫で、どうしようもなく面倒な行為だと思えてきていた。
(何よっ、こ、れ……)
友希那は脳裡に蔓延る胡乱な眠気に、なす術も無く落ちていった。
唐突に振りかかった全身の冷たさに、友希那は悲鳴を上げながら覚醒した。どうやら冷水をかけられたようだった。長い頭髪が背中に貼り付いていた。
奇妙な感覚があった。それは自分が浮遊しているような感覚だった。眼前には、少し離れた位置に黒い壁であろうコンクリートがあった。友希那は四肢を動かそうとした。しかし両手足は動かなかった。驚いて右を向くと驚愕した。自分の腕は天井から吊り下がってるロープに繋がれていた。友希那は素早く左を見た。左腕も同様に、上からのロープによって止められていた。友希那は両足を動かそうとした。しかし動かなかった。両腕同様にロープによって止められているようだった。友希那は遅れて、最初に視界に入った壁だと思っていた黒色が、実は床であることを理解した。
(何よこれっ……)
今の友希那は床から六十センチほど上の位置で、顔面を下にして大の字で吊り下げられていた。四肢を動かしてもびくともせず、ロープがぎしぎしと音を立てるだけだった。
迫り来る人の気配があった。友希那は前を向いた。そこにはあの男が立っていた。右手に黒いロープのようなものをもっていた。友希那は目を凝らして男の持っているものを睨んだ。それは鞭だった。天井からの光によって黒光りするそれを、男は床に激しく打ち付けた。バチン、という弾けた音が鳴った。友希那は愕然とした。あれで身体を叩かれれば、これまで体験したことのない激痛に見舞われるはずだった。その痛みの妄想をした途端に、背中に強烈な鳥肌が散布し、神経が鋭く凍り付くのを感じた。
「あ、あなたっ。まだ私にそんなことをするのっ?」
友希那は必死になって訊ねた。あんなにも痛みを味わったにもかかわらず、まだ続けようとしてくる男のことが信じられなかった。
男は答えなかった。返答の代わりに再び鞭を床に打ち付けた。パシッ、という鋭い音が鳴った。それはただの言葉での返答よりも強烈で、絶望的な宣言だった。鞭を振るうということは、男の中で友希那を虐げる確実な意思があるということだった。友希那は戦慄した。この場から逃げ出したかった。しかし四肢をいくら動かしてもロープは解けなかった。脳裡には冷たい衝動が蔓延っていた。それは鋭い刃のようになって全身を巡り、最終的に股間に留まった。友希那は腹の下の位置からこみ上げてくる違和感を察知した。それは途端に耐えられないものに成長した。瞬間、友希那の股間から黄色い尿が飛び出した。それはびちゃびちゃと音を立てながらコンクリートの床に落ち、黄色の水溜まりとなった。
友希那の放尿は数秒で終わった。男にその瞬間を目撃された友希那は大量の羞恥心によって全身がわなわなと震えていた。これで自分が委縮していることもばれてしまったのではないかという焦燥感が脳裡に現れていた。
男が鞭を振り上げた。友希那は目を背けてからぎゅっと瞑った。次の瞬間背中の中心に熱のある痛みが走った。身体が無意識にびくんと震えた。男が再び鞭を振るった。
「いぎっ!」
友希那は呻いていた。それは高速で振り下ろされる鞭が激突した衝撃だった。じんわりとした痛みだった。肉が震え、骨が軋む痛みだった。
男の『鞭打ち』は止まらなかった。一度目、二度目の振り下ろしを皮切りに、連続で友希那の背中を叩いた。友希那はその連撃に身体をのけ反らせて悲鳴を上げた。鋭い痛みが全身に熱として流れていた。背中が真っ赤に腫れ上がるのがはっきりとわかった。
「も、もうやめてっ……! こんなの、嫌っ……」
それは友希那が初めて吐露した弱音だった。疲弊しきった身体の底からぽろりと出た泣き言だった。しかし男は鞭を止めなかった。むしろその、友希那の悲痛な叫びを聞いたことで鞭の速度が上がった。
「もう許してえっ! お願いっ。お願いよおっ……」
友希那は両目をぎゅっと瞑りながら精一杯叫んだ。心の底から鞭を止めてほしかった。背中の肉がえぐれ、弾け飛ぶような感覚があった。友希那は次いで「やめてっ! やめてええっ!」と泣きながらがむしゃらに叫んだ。そこに先ほどまでの強気な姿勢は無かった。仏頂面だった顔は圧倒的な脅威に対する完全な戦慄にまみれていた。度重なる痛みによって弱った心だけが残っていた。
「死んじゃうっ。死んじゃうからあっ!」
すると男の鞭が止んだ。真っ赤な友希那の背中がじりじりと痛んでいた。まるで弱い火炎が背中一面を覆っているような感覚だった。
「私がっ、私が何したって言うのよっ……」友希那は床のコンクリートを睨みながら叫んだ。「もうやだっ……。やめてよっ……」その声はひどく震えていた。冷たい心細さと猛烈な痛みで頭がどうにかなりそうだった。
すると男が友希那から離れた。この部屋にも先ほどの部屋と同様に壁際に棚があった。男はその棚に向かい、何かを取った。友希那には男の背中しか見えなかったため男が何を取ったのか、具体的なところがわからなかった。やがて男が振り返った。その手にはやかんがあった。渋い金色の丸っこい一般的なものだった。
「な、なによそれっ……」
男が友希那に近づいた。友希那はやかんを凝視した。しかしいくら見つめてもやかんの中身はわからなかった。男が友希那の背中の上にやかんを持っていった。そしてそのまま傾けると、やかんから透明な液体が流れて友希那の背中にかかった。
「いぎいっ!」
その瞬間痺れる激痛が神経を脅かした。
「い、痛いっ! なにこれえっ! 痛いっ、痛いいっ!」
やかんから出たのは熱湯だった。熱々のお湯が傷だらけの背中に触れると友希那は悲鳴を上げた。背中に触れたお湯はそのまま床にびちゃびちゃと垂れ、尿を流していた。
「痛いっ! 痛い痛い痛い痛いっ! やめてっ! やめて!」
熱湯によって友希那の傷がしみていた。それはもはや微細な電流のような痛みだった。友希那は必死に四肢を動かして痛みに耐えた。数々の創傷に熱湯が染み込み、肌にまとわりつく電撃のような、灼熱のような激痛だった。その、皮膚をじゅくじゅくと刺激する熱は背中一面を覆い尽くし、友希那はなかなか癒えないしつこい痛みを味わうことになった。
男はやかんの中の全ての熱湯を友希那にぶちまけた。じんわりと染み込む痛みに友希那は最後まで悲鳴を上げた。中が空になったことを確認した男はやかんを棚に戻した。そして鞭を取り出し、泣いている友希那の視界に持っていった。それは再び鞭を使うぞ、と友希那に示しているということだった。友希那は絶句した。視界の中の黒光りする鞭を睨みつけた。もう鞭で叩かれるのは嫌だった。というかこれ以上の激痛を味わうこと自体がどうしようもなく嫌だった。
「ごめんなさいいっ……。ごめんなさい! あ、謝るからっ、もうやめてっ。許してっ」
友希那は引きつった声で謝罪しながら男の顔を見上げた。具体的に何がどう悪いのかわからなかったがそれでも必死に謝った。男はにやりと笑い、ズボンのポケットから折り畳み式のナイフを取り出して展開した。天井の光を受けて燦然と輝く刀身が、今の友希那にはなによりも強烈な脅威だった。男は友希那の方にナイフを向けて、友希那の身体を刺すふりをした。それはつまり『鞭打ちが嫌なら殺すぞ』ということだった。
「い、嫌ですっ! い、命だけはっ! 命だけは許してくださいっ!」友希那は必死に叫んだ。そこにいつもの矜持や、強気の意思は無かった。ただ生き残りたいという執念だけがあり、男に心の底から懇願していた。「わかった! たくさん殴って良いからっ! ど、どうか殺さないでっ!」
死ぬのは嫌だった。生きるためなら身体を差し出しても良いという勢いだった。すると男がナイフをたたみ、ポケットにしまった。そして鞭を振り上げると床を叩いた。バシン、という乾いた音が鳴った。
また叩かれるっ! と友希那は思った。
しかし男は鞭を友希那に振るわなかった。それどころか棚に行き、鞭を置いた。
男が取り出したのは、とんかちによく似た形状の道具だった。全体的に銀色で、持ち手の部分だけが黒色だった。驚くべきなのは先端に付いている円柱の両端に、棘のようなものが付いているということだった。
それはいわゆる『肉叩き』だった。その名の通り、肉の下ごしらえとして叩く時に使う道具だった。男は肉叩きを空で振るった。ブウンッ、という空気を切る音が鳴った。
友希那は息を呑んだ。あのとげとげしい物体で叩かれれば、今までとはくらべものにならない痛みが覆うはずだった。もう痛いのはこりごりだった。痛みを想像すると自然と涙が流れた。四肢を動かしても相変わらずロープがぎしぎしと歪むだけだった。
男が友希那に肉叩きを打ち下ろした。背中の、右側中心が打撃された。ドチャリ、という柔らかい肉が打たれる音が鳴り、友希那に痛みが走った。友希那は歯を食いしばって叫んだ。それは予想をはるかに超える激痛だった。あの棘が皮膚にめり込み、肉まで轟く痛みだった。男の二発目がすぐに迫った。今度は肩に近い位置だった。骨に直撃しガツンとした痛みが走り、友希那はさらに悲鳴を上げた。どうしようもない痛みに呼吸が止まるかと思った。男の三発目が飛び出した。今度は一発目と同じ位置だった。肉がえぐれ、内臓まで響くような痛みに友希那は「ううぐっ!」と呻いた。実際背中の皮膚がえぐれ、たらりと真っ赤な血が流れていた。
男の打撃が止んだ。友希那は背中のありとあらゆる位置がじりじりと痛み、腫れ上がっていくのを感じていた。両目からは大粒の涙が流れ、ぽたぽたと床に落ちていた。
男の四発目は突然訪れた。
それは友希那の、右腕の肘関節に向けられたものだった。
「うぐうっ! 痛いいっ……」
骨が軋み、がくがくと揺れる感触があった。男は続けて友希那の肘を打った。連続で打つとすぐに関節が真っ赤に染まった。皮膚がぺろりと剥がれ、中の肉が丸見えだった。しかし男はそれでも打撃を止めなかった。執拗に友希那の関節を狙っていた。連続で打たれると骨が砕けるような感触になった。中の方から崩壊する感覚に友希那は悲鳴を上げた。
実際、腕の中の骨は砕けていた。粉砕された骨によって友希那には内側から来る痛みがあった。それは打撃によって来る痛みとは根本的なところから違う種類の痛みだった。じりじりと継続するもので、耐えがたい苦痛だった。友希那は叩かれ続けた右腕を見た。皮膚は完全に剥がれ、どこからともなく血が垂れていた。肘関節の位置は真っ赤に変色し、動かそうとしても言うことを聞かなかった。中の骨は完全に砕けているようだった。そこからは絶え間なく痛みが流れていた。
男が友希那の左側に向かった。友希那はすぐに察した。右腕の次は左腕のようだった。しかしそれを理解したところでどうすることもできなかった。固いロープで繋がれている以上、できることと言えばこの男の身勝手な打撃に耐え続けることだけだった。
男が肉叩きを振り下ろした。友希那の予想通り、やはり左腕の肘関節を狙っていた。硬いものにぶつかった肉叩きはそのまま皮膚に棘がめりこみ、その瞬間友希那に猛烈な痛みが走った。友希那は呻いていた。また腕を破壊される、と思っていた。その予測通りに男は続けて友希那の腕を叩いた。肉叩きが皮膚をえぐり、骨を砕いていった。友希那は泣きながらその痛みに耐えた。歯を強く食いしばり、六十センチ離れた床を睨みながらとにかく耐えた。
(もういやあっ……。このままじゃ、動けなくなっちゃうわ……)
内心ではじんわりとした無力感があった。全身の筋肉がゆったりと弛緩し、脳では激しく様々な感情が巻き起こっていた。このまま四肢の全ての関節を破壊されれば、自分はもう一人で移動したり、物を掴むことができなくなってしまうのではないかと思っていた。それは嫌だった。もしそうなれば自分は実質、廃人同然の生活を強いられるはずだった。
(このまま、このまま負けちゃうの……?)
やはりどう考えても、この危機を脱する方法は思いつかなかった。このまま男の玩具として使い潰されるしかできないような気がしていた。友希那はそれが耐えられなかった。自分の人間としての大切な機能を好き勝手に弄ばれるのは屈辱的だった。
友希那は自分の左腕を見つめた。何度も打たれたことで関節部分は真っ赤に腫れ、皮膚が剥きかけのバナナの皮のように大きく剥がれていた。中の肉から血が滲み、さらにその中の骨が完全に砕けていることが猛烈な痛みでわかった。
「痛い……。痛いわ……」
男は次に友希那の左足の側に向かった。次、男の毒牙にかかるのは足の膝関節のようだった。男は止まらなかった。息つく暇もなかった。肉叩きを友希那の左膝関節に叩き下ろした。バコッ、という音が鳴った。友希那の呻き声がそれに続いた。肉が歪み、中の骨にまで達する激痛が走った。男は続けて肉叩きを下ろした。ベチン、ベチン、ペチン、と肉が震える音が鳴った。脚の皮膚が剥がれ、赤黒い血が垂れ、肉がえぐれ、中の骨が粉砕していた。足から流れる熱の痛みは足の感覚を麻痺させるほどのものだった。しかし男はそれだけで満足しなかった。すぐに右足の側に向かい、肉叩きを下ろした。友希那の呻き声が再び上がった。最後の正常な関節を破壊されていた。これで自分はもう完全に四肢を動かすことができなくなり、その先にまっているのは廃人的生活だった。何をするにも他人の補助を必要とし、どんなに慎ましく生きたとしても他人に多大な迷惑をかける人生が待っていた。
(そんなの……、嫌っ! 絶対に嫌っ!)
その、『お荷物』でしかない人生を想像した友希那は大粒の涙を流した。はっきり言って四肢から流れる痛みなどよりも、今後の地獄のような人生の方が辛かった。痛みは耐えれたが人生は耐えることができなかった。どうすることもできなかった。もうまともに音楽活動ができなくなると考えると、このまま生きているよりも一層のこと、死んでしまった方が幸福なのではないかとさえ思えてきていた。
友希那の四肢を叩き終えた男は唐突に部屋の隅に向かった。そして壁際にある大きなボタンを押した。すると天井から騒々しい音が鳴った。工事現場のようだ、と友希那は思った。次の瞬間友希那は床に落下した。どうやら天井から吊り下げられているロープが切断されたようだった。友希那はようやく自由になった自分の四肢を見た。皮膚が剥がれたことで真っ赤に染まっている手足はあらぬ方向にぐにゃりと曲がっていた。それは中の関節が完全に崩壊し、蛸の足のような軟質な状態になっている証拠だった。友希那はゆっくりと右腕を動かしてみた。その瞬間鋭い痛みが走り、友希那は顔をしかめた。骨が折れているため少し動かすだけで激痛がこみ上げてきていた。
前方でガコン、という大きな音が鳴った。友希那はつられて前を見た。そこには男が立っており、その傍らの扉が開かれていた。真っ黒な扉の先には廊下が一直線に続いていた。天井に青白い光を放つ蛍光灯が等間隔で設置されており、まさに学校の廊下のようだった。
男は次に友希那の後方に向かった。そして壁際にあるボタンを押した。するとガゴゴゴゴ、という轟音が鳴った。友希那は必死に後方を見た。後ろの壁そのものが上昇していた。どうやら壁自体が大きな扉のようだった。
開かれた扉の先に現れたのはロードローラーだった。円柱の前輪が重々しく、もしあれで押しつぶされたら身体がぺちゃんこになると友希那は思った。
男はロードローラーに乗った。そしていくつかの操作をした。その途端ブルルンッ、というエンジン音が鳴った。ロードローラーが発信準備を整えたようだった。
男が降りると、その瞬間ロードローラーがゆっくりと動き出した。友希那が居る前方へと発進した。男はそのまま部屋から退室し、廊下をすたすたと歩いていった。すぐにその背中は消えて居なくなった。
「う、嘘っ……」
友希那は絶句した。つい先ほどの妄想が現実として迫ってきていた。ゆったりと回転してこちらに近づいてくるあの円柱に潰されれば、自分は確実に死ぬだろうと思った。まず両足が砕かれ、次に胴とその中の内臓がぐちゃりと潰れ、両手が粉砕されると頭蓋が砕かれ、最後に友希那を友希那たらしめている脳がその形を喪失し、ただの液体と化すのだろうと思った。
逃げなくては、と友希那は思った。何としてでもこの凶器から遠ざからなければ、と思った。力強く右腕を前方に伸ばした。言うことを一切聞かない関節が揺れ動く度に痛みが走った。しかし気にしている暇は無かった。とにかくこの『死』そのものから少しでも遠ざからなくてはいけなかった。だから友希那は奥歯を噛みしめて進んだ。砕けている両腕を使って匍匐前進をした。しかし痛いだけではなく、自分が思っている方向とは別の方向に勝手に動き回る四つの関節を以てしてそれを行うのは、友希那が思っている以上に大変だった。四肢を引きずるようにして前進をしても少ししか進まなかった。
(に、逃げないとっ……。し、死にたくないっ!)
友希那は今までよりも力強く両手を振り上げて進んだ。すると今までよりも強い痛みが走った。全身に脂汗が滲み出し、呼吸が乱れていた。身体はようやくその半身が部屋から出ていた。ロードローラーは足元に迫ってきていた。痛みが邪魔をして上手く力が入っていなかった。それでも友希那は一生懸命に部屋から出ようとした。踏ん張って腕を投げるように前に突き出した。曲がった関節が強くうねり、痛みによって絶叫した。友希那は足を勢い良く踏み上げた。しかしそれはほとんど引きずったような具合だった上、そこまで大きく動いたわけでもなかった。両足はすでに痛みによってその感覚を失いつつあり、そうなると体重を増すだけの邪魔な存在だった。
ようやく全身が部屋から出た。友希那はすでに限界だった。全身を覆う痛みに脳がおかしくなりそうだった。廊下のひんやりとした床に到達した友希那は後方を見た。ロードローラーは部屋の中でとどまっていた。流石にこの廊下まで追ってくることはないようだった。友希那は少しだけ安堵した。しかしすぐに、痛みによって思考は現実に戻った。ここまで来たのは良かったが、ここからどうするべきか、先の道筋が全く掴めなかった。お先真っ暗となった思考の中にあるのは痛みだけだった。四肢から迸る痛みは友希那の思考力を低下させた。どこに追いやることもできない痛みが脳を支配し、何も考えることができなくなった。
するとそんな友希那の耳に、何か違和感のある音が届いた。それは甲高く、金属的な音だった。友希那はより強く神経を尖らせた。それは何かが高速で回転するような規則的な音だった。友希那は辺りを見渡した。一メートルほど先の右側の壁に扉があり、音はその中から聞こえてきているようだった。友希那はすぐにあそこに行こうと思った。このまま路頭に迷うよりも、小さくても良いから何か目標に縋っていたかった。
友希那は地面を這って移動した。
「ううううううっ……」
四肢が砕かれている友希那にとっては一メートルでも長距離だった。手足を動かす度に痛みが増幅し、友希那は悲鳴を上げながら扉に近づいた。
その扉は木製だった。さらに引くのではなく押すことで開く種類であり、友希那は頭を使って扉を開けた。
中は友希那が居た部屋と同様に八畳程の部屋で薄暗かった。友希那は耳を澄ませた。音は相変わらず鳴っていた。それは部屋の一番奥まった位置から鳴っているようだった。友希那は目を凝らして先を見た。奥の壁際に煌めくものを見つけた。友希那は踏ん張って室内に入って進んだ。
それはのこぎりだった。壁に埋め込まれており、円形で、高速で回転しているのこぎりだった。床に這っている友希那でも使えるように、床に近い位置に埋め込まれていた。
今の友希那にはその高速回転する刃が、何よりも魅力的なものに見えた。この刃で四肢を切断すれば、今全身を蝕む激痛と別れることができるような気がした。しかしそれは明らかに無理な思考で、四肢を切断すればその痛みが改めて身体を襲うはずだったが、ここまでの激痛の波によって思考が凝り固まっている友希那に、切断後の痛みを想像することはできなかった。
友希那は固唾を飲んだ。そして右腕をのこぎりに突き出した。回転する刃が作る風が肘に当たっていた。友希那は歯を食いしばって肘関節を刃に触れさせた。その瞬間とてつもない痛みが流れた。友希那は「うううううううっ!」と呻いた。両目から大粒の涙が流れた。切り裂かれた肉体から血が噴き出し、刃が真っ赤に濡れた。友希那は力強く腕をのこぎりに押し付けた。痛かったがそれよりも腕を切断したかった。刃は肉を断ち、そのまま骨を削った。
友希那の右腕が切断された。位置ば肘関節で、激しく動く刃によってやったため切断面は綺麗だった。断面からは血が流れ、止まる様子がなかった。ふーっ、ふーっ、と息をする友希那はすぐに左腕を刃に当てた。友希那の悲鳴が室内に轟いた。強烈な痛みだったがこれで関節の痛みを感じることが良くなると思うと安堵感が脳に満ちた。
高速回転するぎざぎざの刃がぐにゃりと曲がっている腕を綺麗に切断した。血飛沫が散り、辺りを赤色一色にした。左腕を切断した友希那は上半身を起き上らせ、右脚の太腿の中間地点をのこぎりに当てた。
「あがあああっ! あああっ!」
友希那の絶叫が轟き、より大量の血が飛び散った。分厚い肉を切断した刃はすぐに骨に到達した。強靭な刃は骨も簡単に切断し、友希那の足が分離した。
友希那は止まらず左足も切断した。右同様に太腿の真ん中の位置だった。室内には血飛沫と肉片が飛び散り、刃は全体が真っ赤だった。こんなにも大量の物体を切断したというのに刃の回転は少しも衰えていないどころか、心なしか最初よりも速まっているような気がした。
四肢を切断し終えた友希那は後方に倒れた。もうこれで関節のあの痛みに耐えなくて済むと思うと無意識に口元が緩んだ。
「はははっ! あっはははははははっ!」
友希那は力の限り笑った。心の底から出た笑い声だった。せっせと関節を破壊し、苦痛を味わってほしかったであろうあの男に勝利したような気がしていた。しかし友希那は不意に、自分はこれからどうやって動けば良いんだろう、と思った。その思考が脳を貫いた瞬間笑い声が止まった。表情筋は瞬間的に機能を喪失していた。真顔の友希那は、もう自分には両手足が無く、いわゆる義肢を必須とする生活がやってくるのではないかと思った。しかしそれでも良いと思った。あの激痛に悶えるよりよっぽど良いと思った。義肢を使えばまた歩くことができ、物を掴むことができると思うとそれだけで幸福になった。全ての部位が義肢になった音楽家など、話題性も抜群で最良だと心の底から思った。
友希那は薄暗い天井を見つめながら、青薔薇の柄が入った義肢はあるかしら、と妄想した。