オレは剣の腕を磨いてきた。だが、いつからだろうか。
その為の剣が、誰かの大事なものを奪っている事に気がついたのは。
――ユラン=シュミルダ
「――――」
誰の声も聞こえない。
誰の姿も映らない。
以前、オンドリッドを霧の中から救出した時も、似たような状況だった。
だが、その時とは比べ物にならない。
足元すらおぼつかず、濃霧に包まれて何も見えない。
自身の身体すら確認出来ない程で、得も言われぬ恐怖が訪れる。
まるで、世界にたった一人だけになってしまったような感覚。
胸を押し潰すかのような寂寥感が襲いかかってくる。
「…………」
ふと、掌に温もりを感じた。
霧に包まれる前に掴んだ腕。
確かに誰かがいるという事実だけで、こんなにも心強い。
「あ、あの……」
肉球の感触と手触りのいい毛並みだけが伝わってくる。
これは――
「ソレイユ、か? すまん。咄嗟の出来事で思わず……」
かなり力強く握りしめており、彼女にとっては
痛みを感じるほどの強さだったかもしれない。
「いえ、それより他の人は……」
「わからん。一体、何がどうなったのか……」
フロストヘルムの呟き――虚構のサヴァトが目覚めたと言っていた。
まだ少し、猶予は残されていると思ったが間に合わなかったのだろうか。
彼の様子から察するに、想定外だったらしいが。
だとしたら、虚構のサヴァトはリュメイヌに向かうはずだ。
一刻も早く、器のある場所とやらに行かなければ手遅れになる。
「こういった状況は無闇に動かない事が鉄則だが、
時間が惜しい。彼らを探しつつ、
器とやらの元へ向かうしかないだろうな」
今は皆が無事である事を祈るしかない。
事態は一刻を争うのだ。
「分かりました、けど、
この霧の中をですか……?」
「…………」
お互いの姿も朧げなこの状況。
進む事も戻る事も困難に見えた。
せめて、もう少し視界が良ければ
目印か何かを付けながら進めるのだが――
「……どうして私の庭園に貴方たちがいるの?」
その時、声が聞こえた。
それと同時に霧は徐々に氷霧へと変わり、
宙は宝石が舞っているかのようにに輝き始める。
決して視界は良好になったとは言い難いが、
先程よりは幾分かマシになっていた。
「――霧氷の乙女」
そこには、少女らしくその場にしゃがみ込み、
時間の兎達と共に庭園を眺める霧氷の乙女がいた。
あまりにも突拍子の無い状況だったが、もう驚かなかった。
「何故、こんな所にいる?」
「それはこちらの台詞なのだけれど。
ここは私の庭園よ?」
周りを見てみれば、そこは霧の大陸ではなく、
どこまでも続く美しい雪原で、その一角にある庭園に
オレ達は立ち尽くしており、遠くには純白の屋敷のようなものが建っていた。
「オレ達が移動してしまったというのか?」
「領域の境が曖昧になっている……?
想起するか因果が無ければ、
ここには来られないはずなのだけれど」
霧氷の乙女も完全には事態を把握してないのか、
思案するように口元に手を当てている。
「ふふ、それとも、そんなに焦がれるほど
私が恋しくなったのかしら」
儚そうな少女の雰囲気から一変し、
淫猥な笑みを浮かべ、だらりと真っ赤な舌を
見せつける霧氷の乙女。
一瞬にして天使が堕天し、淫魔になってしまったかのようで、
その落差と淫気に戸惑ってしまいそうだ。
「からかうのはよせ。虚構のサヴァトが目覚めたのはお前も知っているだろう。
オレはなんとしてでも奴を打ち倒し、
リュメイヌに向かうのを止めなければならないんだ」
「彼は事象よ。誰にも止められない。
貴方は嵐を止めろと言われて止められるのかしら」
「出鱈目な事を言っているのは分かっているが、
このままではリュメイヌが滅んでしまう」
「私達に出来る事はもう何もないの。
この世界と豊穣の大陸リュメイヌ。
二つの世界を滅ぼした魔王竜さん」
「……フロストヘルムから話は聞いた。
こうなったのもオレ達が原因だ」
こう、面と向かって言われると心苦しい。
この世界からの脱出を志し、旅を続けた結果、
ここに眠っている界獣サヴァトの片割れ――
虚構のサヴァトを刺激してしまったが為に目覚めてしまったのだ。
「少しいじわるだったかしら。貴方が気に病む必要はないわ。
それが数年後、数百年後かはわからないけれど、
遅かれ早かれ、虚構のサヴァトが目覚める時はやってくる。
ヒトの死と同じように、リュメイヌも終末を迎える運命だったのよ」
「それで分かったと滅びを受け入れる者がどこにいる。
だから、貴女もこの世界に踏み入れた者を
排除しようとしていたんじゃないのか?」
「それももう終わりよ」
「オレは終わったとは思っていない」
「アシモフですら倒せなかった界獣を
一体、どうやって止めるというの?」
「――想造の力だ」
それは、霧氷の乙女達が行使していた、空間の移動や
巨大化と言った
世界を創造するような荒唐無稽な物。
「…………」
「オレは最初、この世界は貴女が創ったもので、
創造主だから現実離れした力を
行使出来るものだとばかり思っていた。
だが、それは間違いだった。
本当は貴女やフロストヘルムだけではなく、
この世界にいるヒトであればだれでも行使出来る。違うか?」
「その通りよ。イメージが揺るぎない強いものとなれば、
数多もの領域を創った私のように、同じ事――なんだって出来る。
その証拠に、既に形になったものがあるでしょう?」
「…………」
自分自身でも忘れかけていた物を取り出した。
――鎖の絡まった羽根。
オレ自身の何かが形になった物。
一体、どういう物なのかは分からないが、
想造の力がもたらしたのだろう。
本当は誰の中にも眠っている力なのかもしれない。
それが、精神が重きを置く世界――
視覚化された物なのか。
「でも、それが分かった所でどうなると言うの?
界獣という異次元の生物に、矮小なヒトである
貴方の力が届くとでも思っているのかしら」
「開祖アシモフは届く、届かないなどと、そういう理屈を並べて
界獣サヴァトに挑んだのか?」
違う。そんな想いでヒトは戦わない。
「今なら分かる。きっと、何かを――誰かを守りたかった。
だから、立ち向かったんだ。勝機があるから戦うのではない。
奪われない為に戦うんだ。理屈じゃないんだ」
「…………」
霧氷の乙女は何も語らない。
透き通るような眼差しで、ただただこちらを見つめていた。
「考えを改める気は無さそうね」
「ああ。どれだけ無謀だろうが、見苦しかろうが最後まで抗ってやる。
何もせずに滅びを迎えるよりマシだ。
オレが世話になったヒト達の居場所を失う訳にはいかない」
霧氷の乙女はどこまでも広がる、白い庭園を歩くと
静かに腰を下ろし、抱いていた時間の兎を離した。
兎は首をかしげながら彼女を一瞥すると群れへと戻っていき、
他の兎と混じり合い、波のようにどこかへと去っていった。
彼らを見届けた霧氷の乙女は
ゆっくりとこちらに振り返り、言葉を紡いだ。
「――いいわ、ドラゴンさん。貴方を英雄にしてあげる」