暗き森へと逃げ込んだユラン。
だが、古き狼爪はどこまでも執拗に
獲物を追い詰めようとしていた――。
「はぁ……はぁ……
もう……速度を落としても大丈夫っすか……?」
「駄目だッ! 死ぬ気で走れッ!!」
「ひえぇ……狼使いが荒いっすぅ……!」
オレ達は夜の帳の降りた黒き森を
脇目も振らずに奔走していた。
ティエルは軽口を叩いているが、
明らかに息が上がっており、疲弊している。
だが、ここで速度を緩める訳にはいかない。
森は鬱蒼とした草木のおかげで視界が悪く、
姿を眩ませるのには適しているが、逆もまた然り。
こちらも相手の事を上手く視認出来ないのだ。
相手の姿が見えないからと言って少しでも速度を落とせば、
気がつけば目と鼻の先――という事もありえる。
彼女には申し訳ないが、頑張って貰う他ない。
(リバーシュとオンドリッドは
上手く逃げ切れたのだろうか……)
森に入ってしばらくすると木々に遮られ、
いつの間にか彼らの姿は見えなくなってしまっていた。
オレの方を追ってきた数が多いとはいえ、
リバーシュはオンドリッドを守りながら
逃走を続けなければならない。
それは一人で逃げるよりも
ずっと困難だろう。
(頼む……無事で居てくれ……)
今はただ、祈る事しか出来ない。
その歯がゆさから手綱を掴む力は強まる。
しかし、こちらもこちらで彼らの事を
気にしている暇も無いかもしれない。
危険なのはオレだけではない。
こちらにはティエルもいるのだ。
もし、オレ達が霧から生還した事が原因で、
アシモフの爪に追い回されているなら、
彼女は半ばオレ達に巻き込まれた形であり、全く無関係なのだ。
なんとしてでも、ティエルの身の安全だけは
確保しなくては――。
「あぐ、ぅぅッ!?」
「くっ……矢が……!
大丈夫か!?」
「だ、大丈夫っす……さっきのバカでかい矢と違って
普通の矢みたいっすから……
ほんのかすり傷みたいなもんっす……!」
すぐさま後ろを見て状況を確認すると、
ティエルの左足の太腿辺りに
一本の矢が突き刺さっていた。
それは確かにティエルの言う通り、
大弓の凶悪な太さと強度を誇る矢とは違い、
一般的に狩りなどで使われる物と同等だ。
ガルガリオンは体躯も大きく、
毛皮も皮膚、筋肉も分厚くて言葉通り、
本当に大したことはないのかもしれないが、
刺さった矢と肉の隙間から滴る
赤黒い血がなんとも痛々しい。
「――――!!」
後ろを見れば、木々の隙間から
こちらを追ってきているアシモフの爪一党
である二人のガルガリオンと
それに騎乗したアシモフの姿が確認出来る。
どうやら先陣を切っている者であり、
俊敏なガルガリオンが螺旋状に動いて
木々を躱しながら的確に距離を詰めてくる。
あの動きはこちらの攻撃を絞らせないようにする為の
意図的なものだ。明らかに場慣れしている。
このままでは捕まってしまうのは時間の問題だろう。
「――ティエル。オレが指で合図したら
なるべく真っ直ぐ走ってくれ。
もし、どうしても無理な状況の場合は無視して構わん」
「わ、分かったっす……!」
ティエルはただただ走る事に心血を注いでいるのか、
オレの言葉の真意を問うことも無く
指示に従ってくれる。
彼女も余裕が無くなってきているのだろうが、
今はとにかく時間が惜しい。
不本意とはいえ、レスポンスが良いのは好都合だ。
「――――!!」
ティエルの背中を二回爪でとん、と叩くと、
彼女はスピードを増して一つの線と化し、
道なき暗き森を進んでいく。
オレは体勢を低くして重心を安定させながら、
オンドリッドから狩り用に受け取っていた
簡素な弓を素早く構え、矢尻を引き絞る。
かなり身体が揺さぶられて狙いがぶれるが、
この程度なら慣れている。
ゲイルズィーガーに騎乗して弓矢を使用した時と比べると、
突風や風のうねりも無く、翼の風圧で邪魔される事もない。
「…………ッ!!」
オレの放った矢は風を巻き込み、うめき声のような音を上げながら
ガルガリオンの顔面付近へと凄まじい勢いで飛んでいく。
「ぐお……っ!?」
すると、まるで馬が威嚇でもするように
巨大狼は反射的に後ろ足で立ち上がり、
その場に留まり、当然騎乗しているアシモフも大きく揺らぐ。
そこを狙い撃つかのように別の指で抑えていたもう一本の矢を
流れるような動作で放つ。
「が、あぁぁぁッ!!!!!」
ガルガリオンに騎乗したアシモフの腕に鋭矢が突き刺さり、
激痛で悶絶しながら地面へと落下していく。
相手からしてみれば、息をつく暇もない
二連撃の矢を受けたようなものだ。
「フゥゥッ……!」
基本的に馬による騎乗戦ならば、狙いは至極簡単だ。
どの部位でもいい。馬に矢さえ当てれば、
その痛みで大きく体勢を崩して
倒れるか、制御が効かなくなる。
――だが、ガルガリオンはそうもいかない。
今のティエルの様子を見るに、
足に矢を受けても殆ど速度を
落とす事無く走っているのだ。
これでは攻撃するだけ無駄だ。
となれば、足を止めるには騎乗者を
狙わなければならないが、このガルガリオンの速度――
とても的を絞れたものではない。
そこで、巨大狼でも唯一急所と思われる部分――鼻と目。
その中心を狙って矢を射ち、なんらかのアクションを起こして
足が止まったその時――騎乗者を狙う。
ぶっつけ本番だったが、想定通りに事は運んだようだ。
「――――ッ」
だが、辛うじて二人の
もう一人のアシモフの爪の一党は、
転げ落ちた仲間に目をくれる事もなく、
こちらへと肉薄してくる。
月夜に照らされて刃の刀身が揺らめく。
その姿は猛々しく牙を向く狼そのものだ。
「フッッ!!」
引き絞った弦を放つと、相手の刀身と同じように
輝く月矢が鷹のように飛翔する。
――無論、狙いは相手の目と鼻の中心点だ。
「…………!!!」
一瞬、何が起こったのか理解出来なかった。
オレの放った矢は揺らめくように現れた、
巨大な光によって遮断され、
森の中では不釣り合いな金属音を奏でた。
そして、木々の少し開けた所に出ると
月明かりに照らされてその正体が明らかになる。
疾走するガルガリオンの口には巨大な刃が咥えられており、
どうやら、それを振るってオレの矢を受け止めたようだった。
(ガルガリオンはあんな戦い方も出来るのか……!?)
嫌な汗が頬を伝う。
あの巨大な刃はオレの斬竜刀程に大きい。
あんな暴虐の塊と白兵戦を行おうものなら、
オレの身体は疎か、ガルガリオンのティエルの身体も
まるで熱したナイフでバターを切るが如く、
一瞬で上半身と下半身が永遠の別れを告げるだろう。
アシモフの爪一党のガルガリオンは
類まれなる脚力だけでなく、
恐ろしい牙刃も兼ね備えていた。
(追いつかれる前になんとしてでも
処理しなければならない……!)
必死に思考を加速させる。
自身と共に在る者の生命の危機――
生存本能が脳内麻薬を分泌し、全身に
煮え滾るような血が駆け巡っているのを如実に感じる。
(いや……奇をてらうな……
基本に忠実に……)
「ティエル! 木々の密集している所を通れるか!?
出来れば幹が太い樹のある所がいい!」
「はぁ……は、ぁ……ホント狼使い荒いっす……にーさん……
追加料金……取りますからね……!」
「あぁ…………! 無事に逃げられたら……
望むままの額を言え……!」
「その言葉……絶対覚えてて下さい、ね……!」
ティエルは強く地面を踏みしめると、
太い木の枝に飛び乗り、そのまま樹冠の中へと突撃する。
内部の枝や葉が身体に擦れ、堪らず腕で顔を覆うが、
すぐにそれは終わりを迎え、星を散りばめた夜の帳へと一気に突き抜ける。
肺の中まで冷たくなるような、冷涼な空気が迎えるが、
今の高揚した身体には心地良い。
「あれが……ティエルやオンドリッドの言っていた
こんな所まで来てしまっていたのか……」
オレ達の目の前にはいつの間にか、
白濁とした濃い霧が渦を撒くように迫っていた――。