しかし、その雲行きは怪しくなり――。
「…………?」
まさか、聞き返されるとは思わず胸元のティエルを見下ろした。
すると、彼女は少し恥ずかしそうにしながら目を背ける。
なんなんだ、この気まずい空気は。
「分からん。体型や戦闘力の類では無いのは分かるが……
もっと分かりやすく言ってくれ」
「あーしが、ねーさんの事を答えた時と同じような感じっすよ」
「別に、ティエルの事は怪しんだりはしていないぞ?
確かに、姿形はガルガリオンのものとは変わっているが、
話してみれば、紛れもなくティエルだと断定出来る」
「そーゆー事じゃないっす!」
一体、何なんだ。
ティエルがソレイユの事を話した時と、
同じように答えたつもりだったが――。
(だとすると、後者の方か……?)
ようやく合点がいった。
彼女は好意を抱いているかどうかを問うているのだ。
我ながら、察しが悪すぎる。
「オレは好きだぞ? 先ほども言ったと思うが、
ティエルに乗って駆けるのは実に心地が良い」
「もういいっす……」
「…………?」
ティエルは激しく落胆したように、長い首を下ろした。
オレは何か、機嫌を損ねるような事を言ってしまったのだろうか。
むしろ、彼女を褒めたつもりだったのだが――。
もしかしたら、これまでの出来事や疲労で
少し不安定になっているのかもしれない。
無理もない。今も彼女自身は動いていないとはいえ、
身体を揺さぶられるだけでも、実はかなり疲弊している筈だ。
馬車や船に揺られているだけでも相当疲労が溜まるのだ。
それより激しく動き回ったのだから、疲れは相当なものだろう。
「あーしはそういう事じゃなくて、に――」
「…………雨?」
ティエルが何かを語ろうとした瞬間、
ぽつりと冷たい何かが振ってきた。
上空は錆色のオーロラが常時揺らめいていて、
晴れているか曇っているのか、朝なのか夜なのかさえ定かではないが、
頬の上を滴る冷たい水は、紛れもない雨だった。
「うあ……これは凄い雨っすね……
全然、前が見えないっす……」
雨は瞬く間に豪雨へと変わり、
まるで、オレ達の行く手を阻むかのように
全身を穿つように降り注ぐ。
石畳や廃墟も豪雨に打たれ、刎ねた水飛沫は
霞を帯びて霧のように真っ白に染まり、
どこを走っているのかさえ分からない。
「参ったな……」
急いでいる時に限って、こういった事は起こるものだ。
片腕でティエルを覆うようにして雨を遮るが、
それでも限界はある。
それにこの真っ白な視界――今までのように
速度が出せないのに加え、こんな状態で
物陰から奇襲を受ければ成すすべもないだろう。
仕方がないが、どこかで雨が収まるのを待つしか無い。
「――やむを得ん。あそこで雨宿りしよう」
「わ、分かったっす……」
オレ達は咽び泣く廃都から逃げるように、
近くの荒れ果てた建物へと潜り込んだ――。
――――
「ひええ、びしょ濡れっす……」
ティエルがまるで水遊びをした後の犬のように
全身を身震いさせて、身体に付着した水分を振り落とす。
オレもすっかりずぶ濡れになってしまった為、
装備や衣類を脱いで、たっぷりと水分を吸った衣類を搾っていた。
上半身が裸のせいで、少し肌寒い。
「こんな豪雨になってしまうとはな……
それにしても、ヴェラクトーレと
ソレイユは無事だろうか」
「うーん……どうっすかね……
おっさんもいるし、大丈夫だとは思うっすけど……」
「早く帰ってやりたいが、焦っても仕方がないな……
いい機会だと思って身体を休めよう。
ティエルも色々あって疲れただろう」
「そうっすね……」
ちょこん、と廃屋の暖炉の前に座るティエル。
そうはいっても殆ど朽ちかけのものであり、
天井も大きく割れて少し後ろでは大粒の雨が
石畳を強く叩きつける音が響いている。
かき集めた火種も湿っていたり、腐っていたりで
使い物にならないものが多く、いつ消えてもおかしくない、
そんなか細い炎だった。
「来い、ティエル」
「…………?」
「拭いてやる。身体を震わせた程度では不十分だ」
「あ、ホントっすか? わふー!!」
胡座の上でタオルを広げてそう言った途端、
子供のように飛び込んでくるティエル。
いくら竜皮は水を弾くとは言っても、
そのままにしていては身体が冷えてしまう。
今の彼女は小さく、自分を乱雑に拭くのと同じでは
良くないと思い、まるで赤子の身体を拭くように
丁寧に拭いてやる。
「へへ、あったかいっすね」
「ティエルの身体もな。ガルガリオンの姿だった時は
もっと暖かかったが」
「別に……筋肉質で大柄で毛むくじゃらなだけっすよ」
「いや、その……本当に済まない」
結構根に持つタイプらしい。
もしくは、その言葉は彼女にとっては
地雷だったのかもしれない。
オレが女っぽいだのメスだの言われるのが
嫌で嫌で仕方がないのと同じだろう。
「いいっす。あーしも自分の姿は好きでもないですし、
むしろ嫌いっす。可愛くもなんともないし、
にーさんの言う通りで大柄で筋肉質で、走る事しか脳が無いっす」
「そこまでは言ってないが……」
ティエルはぼそりとそう呟き、
瞳の中に暖炉の炎を揺らめかせる。
「大体、運び屋の仕事も嫌いですし、
それしか出来ないからやってるだけ。
ただの惰性っす」
「そうなのか?」
そう考えていたとは思わなかった。
オレは彼女の背に跨っている時、
リュメイヌに吹く風と一体となったような感覚があり、
とても心地よく感じていたのだが、彼女はそうではなかったらしい。
てっきり、同じ気持ちを共有していたと
思っていたので、少し寂しさを感じてしまった。
「だって、"さよなら"を運ぶ仕事っすから」
「…………?」
本質が見えず、疑問符しか出てこない。
"さよなら"を運ぶとは一体どういう事なのだろうか。
彼女にしては、えらく情緒的で抽象的な言葉だ。
「だって、乗せたヒトとはいつか必ず別れるっすよね?」
「それはそうだろう。もし、ヒトと別れる事が"さよなら"だと言うのなら、
その分、新しい出会いも経験してきたはずだ」
「……そうっすね。にーさんの言う事は正論で
あーしもそう思います。でも――」
律動が乱れ、静寂が訪れるが、
その寂寥感を激しい雨音がかき消し、
全てを洗い流していく。
その音に隠れるように、互いの鼓動は静かに時を刻んでいた。
「例えば、一日後に死んじゃうヒトと出会ったとして、
そのヒトとの出会いを、にーさんは心から喜べますか?」
「…………」
オレは言葉を返せなかった。
綺麗事を並べるならば、出会いもあれば別れもある。
それが明日だっただけの事――。
だが、その言葉で一蹴出来る程、単純な事なのだろうか。
ティエルが言った言葉で納得し、
その出会いに祝福を――などと
口が避けても言えない。
そのヒトとの出会いが良いものであればあるほど、
別れは苦痛なものとなる。
それこそ、出会わなければ良かったと思う程に――。
「あーしは、それが凄く寂しい事だって思っちゃうっす」
「そう、だな……オレも出来る事なら、
いい出会いだったのであれば、
それが一日でも長く続けばと――そう思う」
「ですよね。でも、運び屋の仕事はそれを許してくれないっす。
気のいい傭兵のねーさん。びくびくしながらも冒険に胸を踊らせていた新米さん。
あーしの背中の上で、どこまでも澄み渡る声で歌ってくれた吟遊詩人のにーさん」
「また会おうって手を振って。今も、きっとどこかで元気にしている筈なのに、
あーしと皆の中では、お互いにもう死んでるんです。
だって、もう二度と出会わないし、きっと、これからも」
「…………」
ようやく、オレは"さよなら"を理解した。
それは、どちらかと言えば死に近いものだ。
リュメイヌは豊穣の国と呼ばれる反面、
旅人や冒険者は確固たる目的が無いと中々訪れない。
その関係もあって、どうしても一期一会の
関係になってしまう事が多いのだろう。
「……もう二度と会うことがないなら、
それって死んでる事と同じっすよね?」
きっと、彼らの中には思い出として胸に強く刻まれている。
ティエルとリュメイヌで過ごした日々は、一生忘れる事は無いだろう。
などと、彫刻のような精巧で美しい正論を言うだけなら
いくらでも、誰でも出来る。だが、それでは彼女の奥底には届かない。
彼女の寂寥感は強く残ったままだ。
口の中で溶けてしまった甘美なる飴をもう一度舐めてみたい、
もっと長く舐めていたいという、悪い言い方をすれば、
駄々をこねる子供のような想いだ。
しかし、そう咎める事が出来る者がどこにいるだろうか。
きっと、背中に乗せた者一人一人を大事に想ってきたのだろう。
その想いが強ければ強いほど、ただの"さよなら"ではなく、
"死"にも等しい爪痕を心に残す。
一体、彼女はどれだけの"さよなら"を迎えてきたのだろうか。
「…………」
ティエルの心に塗る言葉を、今のオレは持ち合わせていなかった。
何故なら、オレもこれから彼女に"さよなら"を贈る、
残酷な旅人の中の一人なのだから。
「へへ、ごめんなさい。ちょっと変な事言っちゃいましたね。忘れて下さいっす。
何が言いたいかっていうと、割と今の姿が気に入ってるってこと!
小さくて可愛いですし、空も飛べるから快適快適っす」
「――本当にそうか?」
ティエルは胡座の上でびくりと身体を震わせる。
オレには確かに彼女の声が聴こえた。
本当の彼女は、ガルガリオンの姿にも
ゲイルズィーガーの姿にも成りきれず、揺らいだ姿のまま、
誰も還らない黄金海の中で、ただ、泣いていた。