影、影、影――。
視界に無数に揺れている黒い影は、ヒトを呑み込み、
無尽蔵に膨れ上がるヒトのような何か。
彼らは刃も持たず、牙も持たず、
言の葉だけを以ってヒトを食い殺す。
「そうですか」
目の前には神々しい程に光る白妙の背中。
まるで、あらゆる災厄を退ける聖盾のようにオレの前に立つ。
幾度となく、何度も
止めてくれ、もうたくさんだ。
「では――今から、この子が私の新しい翼です」
鮮血が舞い、影が凍りつく。
「――――」
鈍い音が響くと、影は蜘蛛の子を散らすように離れる。
その中心には、朱に染まった白妙の――。
「ハァァッッ! ハァッ……!」
胸が押し潰されそうな感覚に目が覚める。
また、
全身からは嫌な汗が噴き出している。
「よーやく起きました?」
その声に振り向くと、ティエルらしき姿があった。
まだ、寝起きのせいなのか、その輪郭はぼやけている。
「良く眠ってましたね、にーさん」
「あぁ……」
「それより見てくださいよ。にーさんのせいで
あーしの翼――」
「こ■なんになっちゃいまし■よ」
「――――」
靄がかった視界が明瞭になると、
そこには引き千切られた翼を抱え、
血に塗れた片翼となったティエルの――。
「ハアアァァッッッ……!!!」
目を覆うような光景にオレは目を覚ます。
眠っているのか、目を覚ましている状態なのか
酷く朧気で何も分からない。
胡蝶の園というのはこの事だろう。
「び、びっくりした……」
俺の胡座の上で丸まっていたティエルは、
驚いた表情でこちらを見上げていた。
どうやら、オレ自身も疲労が溜まっていたのか、
いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
ティエルは戦えないというのに、
唯一、戦う術を身に着けているオレが
寝てしまうとは、なんという失態だろうか。
何者かに襲われていれば、確実にやられていた。
オレのちょっとした気の緩みで全てが終わるのだ。
もっと、気を引き締めなければ――。
「うわ……! どうしたんすか!? その汗……!
って……ちょっとっ!?」
オレは強引にティエルの身体を掴むと、
指で翼を広げ、まじまじとその付け根を見つめる。
――――翼はある。
「はぁっ……良かった……」
「ちょ、ちょっとにーさん……! 何してるんすか!
そんな見られたら恥ずかしいっすよ……」
「す、すまない……」
ハッとすると、掴んでいたティエルを離す。
彼女は潤んだ瞳でこちらを睨みつけている。
気が動転したあまり、乱暴にしてしまっただろうか。
「いや、悪い……眠っている時に、
嫌な階層へ往ってしまっていたみたいで……」
「大丈夫っすか……? 凄いうなされてましたけど……」
「あぁ……大丈夫、大丈夫だ……」
そうは言っても説得力がない。
全身から汗を噴き出し、荒い呼吸を繰り返している。
そんな姿で大丈夫だと言っても、
虚勢を張っているようにしか見えないだろう。
「少し、頭を冷やしてくる」
「にーさん……」
ティエルは心配しながらこちらを見つめているが、
オレはそれを振り切るように、豪雨の中へと向かった。
雨粒が竜皮を打ち、弾いて霞が浮かぶ。
酷く冷たく、凍えるような感触だったが、今はそれが心地良い。
汗と共に嫌な記憶を洗い流してくれるようだ。
「…………」
ティエルの話が未だに脳裏に焼き付いている。
よく考えれば、オレは彼女以上に
我儘で分からず屋なのかもしれない。
「は、は……」
"さよなら"に耐えきれず、在りし日の幻想を追って
竜の国から飛び出したのだから。
そんな、オレの言葉が彼女に届く訳も無い。
悲しさを拒絶したオレが、また別の誰かに
それ以上の"さよなら"を与えようというのだ。
なんという皮肉なのだろうか。
「ダメだな。また余計な事ばかり考えて……
忘れろ、考えるな。今は彼女達と共に
ここを脱出する事だけを考えるんだ」
自分を鼓舞するように呟き、両の掌で頬を叩いて空を仰ぐ。
錆色の幕は空でうねり、雨と廃都を朱く映し続けた――。