青くて綺麗なあなたの中に、紅いものがながれている 作:みども
―――初めては、気持ちよくなどなかった。ただ痛みだけを感じた。
本来受け入れる為のその場所はしかしまだ何も受け入れた事はなく、だから初めて入ってきた異物に、痛みの感覚を返した。
眉がひそまる。額に汗が浮き出る。正面に視線をやれば、そこには彼女の顔。眉を下げた笑み。同じように額に汗。
ああ、そうだ。あんたも、痛いのね。そうよね。そうに決まってる。だから、笑みを返した。
指が、『そこ』を触る感覚があった。同時に己の中にも、愛しい人の指が『そこ』につく痛みを感じる。
―――いいのね?
視線だけを酌み交わし、お互いの意思を確認する。互いに息が浅く、速くなる。
お互いの鼓動が同じ速さを刻んだ時が、合図だった。
「「っ……!」」
互いに一線を越える感覚。指が突き破る感触と、体の中が引き裂かれる痛み。痛い。痛い。体を引き裂かれる痛みなら、今までだって感じたことがあるのに、痛みと共に何か致命的なものを失う感覚は、あまりに初めての事で思わず涙が出る。
「ああ、これで」
痛いのはずに、その目端に浮かぶ涙が、わたしと同じく痛みを感じている証拠である筈なのに、あんたは、それでもほほ笑むのね。
蒼い髪がまるで海のように広がって、白い肌が水面に映る月のように輝く。
一旦、指を抜いた。そうすれば、あまりに美しい蒼と白に、一筋、赤いものが流れ出した。
なんてことだろう。こんな綺麗な人に、赤いものが流れている。わたしの髪の色、そして、命の色。
私とこの娘は、つまり同じ存在なんだわ。当たり前の事を思い起こす。視線を下に向ければ、彼女同じものが、己の股からも流れ出ていた。
こんなに白くて蒼くて、綺麗な子に、自分と朱いものが流れている。その事実を認識した途端、腰に震えが走り、それが電流となって脊髄を駆け巡り、脳へと達した瞬間、思考が白く染まった。
そうして、マルバスは人生で初めて、絶頂した。
「やっぱりハルマパイは最高ね!」
ご満悦、そういった風に桃色の豊かな髪を翻す美しい少女が、傍らに寄り添うように歩く青い髪を湛えたこれもまた美しい少女へと語り掛けた。マルバスとヴィネである。
ある日、ソロモンの指輪を持った少年が古都において混沌の炎と対峙し、母なる白き妖蛆に敵対者と認識されてから少し、アンチャータ―の本格的な捜索が行われるまでの僅かな平和な時。
かつての戦争よりハルマと縁深い国であるエンゲシュロスの王都にて、二人はいつもように、そのつかの間の平和を味わうかのように、お茶会を楽しんだ後の散歩であった。
「それは何よりですわ、マルバスさま。お城のシェフのタベナサさまも、有名な商家のお嬢様のお眼鏡に叶って光栄と申してました」
「当り前よ。折角カワイイわたしが食べてあげるんだもの。ハルマパイをハルマに振舞うなんて、それ以上に光栄な事なんてあるわけないわよね」
そう言って胸を張るマルバスに、ヴィネも微笑みで返す。
己の美しさを信じ、いつかハルマに転生する事を夢見る少女マルバスと、エンゲシュロスの王位継承権第一位を持つサミア姫であるところのヴィネ。
二人の付き合いは、ソロモン王一行が『ハルマに転生できる装置がある』と聞いたマルバスに連れられてこの国へとやってきて以来の事であった。
そこで二人仲良くなり、今もなおこうして定期的に二人だけのお茶会を開いていた。王都のシバ女王によるお茶会とはまた別の、二人だけのそれ。
今日もまた取り留めもない語らいとお茶菓子をを交えていたところに、ヴィネが提案してきたのだ。
―――実は、お会いして頂きたい方がいるのです、と。
(ヴィネがわたしに会ってもらいたい人……誰かしら)
マルバスとヴィネ、二人寄り添い街を歩く中、マルバスは考えを巡らせた。
そういえば初めて会った時、ヴィネが友達を紹介したい、と言っていた気がする。マルバスもまた友達になれる、とも。
「ねぇ、ヴィネ」
「はい、なんでしょうマルバスさま?」
問いにニコニコと応える彼女。エンゲシュロスのサミア姫。まじめで責任感が強く、国民からの評判も高いまさしく領主の娘の鑑といった風情の娘。だからだろう。こうして街を歩いていても常に人々からの優しい声がかかる。
それに伴い、その傍らにあるマルバスもまた、口々に綺麗、美しいとお褒めの言葉がかかる。それに対して、マルバスは悪い気がしていなかった。
「あんたが合わせたい人って、以前言っていた友達、かしら?」
「はい」
楽しそうに首肯。綺麗な蒼い髪がわずかに揺れた。
(綺麗ね……)
口には出さないけれどそう思う。その深く蒼い髪も、たおやかな雰囲気も、桃色の髪、高飛車な雰囲気の自分にはないものだ、とも。
控えめな微笑みに全てを包み込むようなおおらかさ。けれどヴィネを想う度、マルバスの胸の奥底に何かがチラつくのも事実だった。
「それで合わせたいその人って、どんな人なの?」
可愛いわたしの時間を使うんだもの。変なのだったら承知しないからね、といった風な意味合いも込めたその言葉にしかし、ヴィネは待ってましたとばかりに満面の笑みを浮かべた。
「ええ。ええ!立派な方ですわ!ご家族の為に一生懸命働いていらっしゃって、明るくて優しい方ですの」
「まぁ!優しいのね?」
(家族を養うって、それはつまり)
「男の人?」
「?いいえ、女性の方ですわ。とても美しい方です」
向けられるヴィネの笑み。普段であればその笑みが胸の奥のどこかをかき乱すはずなのに、今はしかし、同時に放たれた言葉の方がもっとマルバスの心をかき乱した。
美しい、それはかつて禁断の祭壇を探した最終局面で、ヴィネが己にかけてくれた言葉。その言葉が、見ず知らずの誰かに使われている。その事実が、どうしてかマルバスには多大な苛立ちを齎した。
「う、美しいですってぇ!?それは、つまりわたしよりって事かしら?……」
どうしても心の奥底がざわついて、マルバスは飛び出す言葉を抑える事が出来なかった。明らかに普段の自分ではない言葉。けれど、心の奥底にあったいやないやな気分は、それを口に出すことを良しとした。どうしてだろう。何が、自分は嫌なのだろう。
「?……マルバスさま?」
おかしい。ヴィネは首を傾げた。普段の美しさを追い求めるマルバスさまなら、『まぁ!美しい人ですって!やぁ~ん☆その人カワイイわたしを見て卒倒しないかしら!?』位言ってもよさそうなものだ。事実、ヴィネはマルバスが他者との同じような内容でそのような会話の流れになったのを覚えている。
それがどういう事だろう。疑問がヴィネの心を満たした。
けれども、同時に、その言葉はとても看過できないもので、ヒタリ、と赤い瞳でマルバスを見つめる。
「……っ!」
その瞳を前に、いやな気分から溢れ出た言葉を、マルバスは呑み込まざるを得なかった。
「マルバスさまにはマルバスさまの、そのお方にはそのお方の美しさがあるものです。そうやって貶めるような言葉は控えてくださいまし」
正論だった。納得のできる話。けれどどういう事だろう。今はそんな正論を聞きたくない。マルバスは、振り払うかのように反論の言葉を始める。
「でも!」
「マルバスさま」
今度は悲し気な瞳。やはり言葉が詰まった。しばしの沈黙。
「……美しいのね?」
「ええ、勿論」
再びの頷き。
「なら、いいわ。楽しみね。行きましょう?」
そして帰って来たいつものはずのマルバスの反応はしかし、普段に比べてとても刺々しかった。
「紹介しますわ。わたくしの友人の、リサさまですの」
「あ、はは。こりゃまた、お綺麗な方で……」
二人で散歩したのち、友人を紹介するとマルバスが導かれたのは、スラム街だった。スラムとはいえ、そこまで治安は悪くはない。先ごろの国からの支援物資横流しの件からこっち、スラムにおける兵士の巡回も強化されているためだ。
そして、ヴィネに『友人』として紹介された、どこかしら遠慮している風のヴィータの少女を目にして、マルバスは言葉を失った。
眉はあまり切りそろえる事が出来ないのだろう、太く濃い。困ったように笑う唇はカサカサで、化粧なんて全くしたことがないようだった。
着ている服だって、仕立てられた上等なものじゃない。簡素なシャツの上からもう一つ、ノースリーブの厚手のジャケットを布一枚で作って、胸のあたりで無理やり縫い留めて作っている。
スカートも腰蓑よりは上等、といった程度のものだ。
確かに意志の強い瞳には魅力があるだろうし、目鼻立ちは整っているかもしれないが、それだって『常人よりは上』という程度にしかマルバスは思えなかった。
それに指ぬきグローブから見える手にはあかぎれがあって、爪だってヴィネやマルバスのようにきれいに整えられていない。
何より、髪が致命的。手入れのされていないぼさぼさで脂っけのある髪を、邪魔だとばかりにバッサリと首元の上あたりで切っていた。
よく手入れされた豊かな髪を持つマルバスやヴィネに比べると、雲泥の差だった。
つまるところ、ヴィネの友人らしいリサという少女は、マルバスから見たら『よくいるスラムのちょっと他より可愛らしい少女』以上のなんでもない。
「これが、美しい子、なのね?」
知らず、声が震える。おかしい。どうしてだろう。ガラガラと足元が崩れる気分がした。
目の前の少女と自分自身が『美しい』と同列に語られる事が、なぜか、どうしても我慢ならない。
いやな、気分だ。目の前の相手にも、そう思う自分にも。マルバスは、自分が自分でなくなるような気がした。
「もう!マルバスさま!これ、ではありません!リサさまです!」
「おいおいヴィネ、あんた。あたしの事をこのお嬢様にどういう風に紹介したんだ?」
僅かに頬を膨らませて抗議するヴィネに、それに呆れたように声をかけるリサ。距離が、近い。そこには確かにマルバスの知らない関係性があって、それがどうしようもなく心をかき乱した。いやな、気持ち。
けれどそれ以上に、明らかにただのヴィータである少女が、発したその名前に、マルバスは衝撃を受けた。
「ヴぃ・・・・・・ね?」
声が震える。声の震えと心の震えが、一致する。
「なんで、なん……で?サミア、姫でしょ?なんで、なんでただのヴィータのあんたなんかが、ヴィネって名前を……」
それに対して、照れるような、どこか誇らしげな笑みで応えたのは、リサだった。
「これが本当の名前なんだろ?ヴィネから聞いたんだよ」
瞬間、心の奥底にあった何かが、爆発した。気付けば、マルバス自身、リサの頬に平手打ちをかましたと気付いたのは、行動に移し終えた後だった。
「マルバスさま!?」
同じ心に気高さを持った二人同士、きっと仲良くなれると思って引き合わせたヴィネは突然のマルバスの凶行にただ叫ぶ事しかできず、しかしそれが沸騰したマルバスの意識を瞬時に覚ました。
「……っ!」
見れば、眼前には張られた頬を抑え、何が起こったのか分からないという風に目を見開き尻もちを突くリサ、『小汚い、スラムの娘』。
「こ……の!」
もう、止まれなかった。
「この!小汚い娘がわたしと一緒ってどういう事よ!」
言葉の熱さとは裏腹に、マルバスの背筋には冷たい後悔が走った。ああ、言ってしまった。なんて愚か。外見から個々の違いをとやかく言う事なんて、愚かな行いであるはずなのに。どうしても、止める事が出来なかった。
「マルバスさま」
ヴィネがリサを遮るように立ち、厳しい目で見つめながら固い声でマルバスの名前を呼ぶ。けれどもう、どうしようもない。
「わ、わた!わたしは、ハルマ。ハルマよ!ハルマになるの!それくらい!強くて!かわいくて!美しいのに!それがどうしてそんなスラムの小汚い娘と……!」
「マルバスさま!!!!!」
言葉と共に、乾いた音が響いた。
「……へ?」
頬に熱さを感じて、マルバスは思わずそこを抑えて眼前を見やる。振り切った手を下ろし、赫赤の瞳でこちらを睨みつけるヴィネがそこにいた。
「謝って、ください、まし」
まるで海中火山が噴火する寸前のように、抑え込んだ何かが噴出さないように、言葉の端々がつまり気味になる。
それでも、ヴィネは己が言うべきと思ったことを言いきった。
ヴィネは、哀しかった。己の心に向き合い、目指すところを追い求める気高い少女が、己の知る例えスラムで生きていようとも、幼い子供たちを家族として養い、しかも悪道に堕ちていない気高い少女の事をあしざまに罵るなんて。
「リサさまは、ごりっぱな、方ですから」
ただただ、悲しかった。
「な、によ」
言葉が止まる。そして眼前に立ちふさがるヴィネを改めて見据え、衝撃が走った。怒りに燃える瞳の中に、確かな失望があった。不意にその失望に、マルバスはとてつもない悲しみを覚えた。もうここにはいられない。正体不明のそれに突き動かされて、マルバスは逃げるように走り去っていった。
「マルバスさま!」
追わなければ、そう思うも、今なお尻餅をついているリサの存在がヴィネを引き留めた。一瞬唇を噛んで、スラムの奥へと進んで行くマルバスでなく、リサの方へと向き直る。
マルバスは……大丈夫だろう。幸いスラムは兵士の巡回が強化されている。だからきっと見つけてくれる。お互いの誤解を解くのはそれからでいい。領主の娘としての冷静な部分が、運悪くヴィネを引き留めた。
「リサさま、大丈夫ですか!?」
尻餅をついたリサへと駆け寄る。
「ははは……いてっ」
苦笑い。どうやら頬を張られた以外に外傷はないらしい。
「申し訳ありませんリサさま。まさかこのようなことになるなんて」
「ははは、そういう意味じゃ、あたしは予想してたけどね。むしろ安心したよ。やっぱりあんたが変わってるだけだ、ってね。そりゃあんな身なりの良いお嬢様が、いきなり野良犬を紹介されたってびっくりするはずだよ」
その言葉に、リサからのある種の拒絶を感じ、それを否定したくてついついヴィネは声を荒げた。
「そんな事ありません!本当に、本当にマルバスさまは気高い方なのです!自分の心に嘘をついたことから目を背けず、日々美しくなろうと、ハルマになろうと努力なさっていて……普段はあんな、容姿の事でとやかくおっしゃる方ではない筈なのに」
だからこそ、失望もより深いものとなる。思わず俯く。
「あはは、ハルマになる?なんだいそりゃ」
悲しみに沈んで行こうとするヴィネの心を、リサが面白い事を聞いた、という風にケタケタと笑う声が引き上げた。
「もう!マルバスさまの決意を笑わないでくださいまし!」
不服だという風にヴィネが頬を膨らませた横で、リサが立ち上がる。
「いずれにせよ、ものが違えど同じ変わり者同士だから、好きになったわけだ」
「そ……それはっ」
リサの言葉に、ヴィネは一瞬で顔を赤くする。
「そりゃさ。ハルマになりたいだなんだってのは聞いてなかったけど、やれ綺麗な友人がいて、それとどこそこにいって、どこそこで話して、どういう仕草でドキっとしてなんて楽しそうに話すんだもの。あたしだってあんたが、その『ご友人』をどう思ってるかなんて、わかるさ。ここはスラム。アタシたちみたいに孤児もいれば、表で生き辛いものが流れてくる場所でもある。だから『ちょっと普通と違うもの愛してる』人だって居るには居るから、さ」
だからまぁ、いいんじゃない?とそういう風にリサは言葉を締めた。
「そう、なのでしょうか……」
珍しく歯切れの悪いヴィネの様子に、リサは少し驚く。
「あん?なんだ。まだ言ってなかったのかい?あんたにしちゃ珍しい」
「だって、だって!いくらその気高さにわたくしの胸が高鳴ろうとも、マルバスさまが『そういうお方』でない限り、マルバスさまに迷惑をかける事になりますもの」
急に下を向いてもじもじし始めたヴィネを見て、リサは思わず笑った。優しいけれど変な子だと思ってたヴィネにも、まっとうに可愛らしい所があるじゃないか、と。
もしこのサミア姫の振る舞いを王宮の者が知ったら全力で止めただろう。けれどおあいにく様、リサはスラムの人間だった。
そしてモジモジしていたヴィネが、そのままで急に肩を落とした。
「それに、そうであるからこそ、わたくし……」
かぶりを振って、ポツリと。
「リサさまに対する言葉が許せません。こんなに、気高くて、綺麗な方に、あんな言葉を投げかけて。それに理由があったとはいえ、わたくし自身、手をあげてしまうなんて」
だからマルバスさまにこれからどういう接していけばいいのか。ヴィネは、分からなくなっていた。その様子を見て、ポリポリと一つ腫れていない方の頬を掻いて、リサが聞いた。
「えっと。いつもは、こんな風じゃないんだよな?」
コクリ。同意の頷き。
「本当に、容姿で人となりを判断する方ではありませんのに」
「でも、あんな風な事を言った、と」
スラムの子供たちを纏める少女は、それで大体得心が言った。ああ、なるほど。簡単な話だ。つまりはきっと、少女が見栄っ張りだったという話。
(ま、いいさ。ヴィネは友達だ。ちょっとくらい、骨を折ってやるとするかね)
苦笑と共に息を吐いて、リサは顔を下げたヴィネに言葉をかけた。
「ともかく、マルバスが居ない事には始まらない。あたしがあいつを追っかけて連れ戻すから、ヴィネ。あんたは騎士様達を呼んで来てくれ」
「?どうしてですか?」
兵士が巡回を強化しているはずだ。きっと彼らがマルバスを保護してくれるはず。なのになぜ。
「あんたがとっちめた物資を横流ししてた連中いるだろ?そいつらの下っ端で捕まらなかった連中ががほとぼりが冷めたって事で、またスラムにやって来たみたいなんだ」
それはヴィネにとってあまりにも予想外だった。
「そんな!?主要な人物は全員捕えてしかるべき処罰を与えましたわ!それに最近はスラムへの支援も行き届いて横流しなんてされていない筈……どういうことですか?」
「そりゃ主要な面子は捕えられただろけど、末端までは手が回らないなんてよくある事だろ?スラムの巡回だって同じだ。全部を全部、見回れるわけじゃない。幸いアタシたちは、兵士が巡回している辺りで活動してるから問題ないけど……噂になってるんだ。どうやら、マフィアの残党の連中が戻ってきてよからぬことを企んでるらしいって。そこにマフィアを壊滅させたサミア姫のご友人が迷い込んできたら……」
「!マルバスさま!」
どうすればいいのか分からない。一瞬前まで立ち止まっていた筈のヴィネの体は、マルバスの危機に、すぐさま駆けだそうとしていた。
「はは、あんた、やっぱりマルバスの事が大好きなんだな」
そう言ってスラムの奥、マルバスが消えていった先へと進もうとするヴィネを、リサが留めた。
「っ!」
顔が赤くなる。そうだ。たとえ先ほどの振る舞いに失望があろうとも、やっぱりヴィネはマルバスが、あの気高き少女の事が、大好きなのだ。
「だから心配すんなあたしが連れ戻してくる。スラムの道には、詳しいからな……そしたら二人でゆっくり、話すといいさ」
「……ええ!ですがリサさまにそこまでしてもらう訳には……」
「あーもう!真面目だね!いいかい?あんたは私の家族だ。家族が大事なのものはわたしにとっても大事なの!だから、あたしだってマルバスには無事でいて欲しいんだ。たとえ張り手をくらおうがね!だから行くの!けれど、兵士に声をかける方は頼んだ。そっちは、あんたじゃないとダメなんだから」
その言葉を聞いて、ヴィネはリサを引き留めようとはしなかった。そのまま少女がスラムの奥へと走りさっていくと同時、ヴィネは近くの兵士の方へと、向かっていった。
「なんなのよこいつらは!」
リサの懸念の通り、マルバスはマフィアの残党に、追い立てられている最中だった。
「ひゃははははは!よく逃げるなガキがよぉ!さっさとこのホバーク様に捕まれってんだよ!」
男、ホバークは、先ごろまでスラムを牛耳っていたマフィアの中堅どころだった。たまたまエンゲシュロスを離れており、たまたま難を逃れただけの男。
けれど、たまたま転がって来た運が男を、ちりじりになっていたマフィアの下っ端連中を纏める旗頭にした。
そして今もまた、『たまたまスラムの奥にまで迷い込んできたサミア姫のご友人』を捕える機会に、ホバークは恵まれたのだ。
しかもそれが美しいとなれば最高だった。見たところ商家の娘。親から、王宮から金を脅し取るもよし、慰み者にするもよし、売って良し。最高だった。
「ああ!くそ!」
……捕まえる事が出来たの、なら。
思わず悪態をつく。ホバークには、一つ。誤算があった。明らかに良い所のお嬢様とった風情の獲物が、予想外に強かったのだ。
次々に追いすがる手下たちを各個撃破してゆく。このままでは獲物が逃げ去るのも時間の問題かと思われた。
「だがな!甘いんだよ!」
相手は初めてこのスラム街に来たのに対し、こちらはスラム街など勝手知ったる場所。だから獲物は周囲をマフィアの残党に囲まれ、本人はその包囲が開いている場所から逃げているつもりだろうが、その実スラムの奥の奥へと誘引されていた。
さらには所詮は女の体力。襲い掛かった当初よりも動きに明らかに精細を欠き始めていた。
だからだろう、道に転がっていたつまらない木の破片に足を取られ、獲物が転んだ。
「ひゃっはぁぁあ!!!!いまだ!包囲しろ!」
ホバークが手下達に声をかける。
マフィアの魔の手が、マルバスに迫ろうとしていた。
(やだ……わたしが、ヴィータ如きに)
マフィアの残党たちが迫りくる中、マルバスは応戦するために再び立ち上がろうとした。そう。立ち上がらなければならない。こんなところで負ける訳にはいかない。ハルマの名折れだ。
「カワイイアタシに、あんたたち如きが触れる事が出来るなんて思わないでよね!」
そう啖呵を切りながらも、マルバスの胸中には疑問が渦巻いていた。
(そう、そうよ。美しい、美しいのよわたしは。だってハルマになるんだもの!けど、)
「ヴィネ……」
迫りくる男たちを前に、思わず声が漏れる。
ヴィネ。己の心の美しさを肯定してくれた、これもまた大層綺麗な少女。最近、胸をざわつかせる彼女。彼女が自分を見つめる瞳に浮かんだ、失望を想う。
理由は明白だ。リサの事をあんなにあしざまに言ったのだ。ましてや、容姿をあんなにこき下ろして。
(愚かよね。ヴィネの事だもの。美しい、って言ったのはきっと、心の、内面の話だったのに)
戦闘行為が、マルバスの冷静さを取り戻していた。よく考えなくても分かる事だった。ヴィネはきっと、スラムで家族を養うリサのそのふるまいこそが美しい、と言ったのだ。それを良くも考えずに、あんなに罵って。
(ああ、ヴィネ)
こんな愚かな自分を、ヴィネはどう思うだろう。もう、美しいなんて言ってくれないんじゃないだろうか。もしそうなら悲しい。とても、とても悲しい。カソグサの事を思い出して、その行く末を想った時と同じくらい、いやもしかしたらもっと、悲しい事だった。
(ふん!けれど、それが何よ!わたしはハルマになるのよ!強く、かわいく、美しくあるの!これくらいでへこたれてなるものですか!)
そう自分に発破をかけて『ヴィネを失望させてしまった』という後悔と悲しみをどうにか追い出そうとする。
けれどどうしてもあの瞳が脳裏にチラつく。力が入りきらない。おかしい。
『ハルマになるため』と発破をかけてすら、ヴィネへの想いが抑えきれない。それはつまり、マルバス自身にとって、『ハルマ』と『ヴィネ』が拮抗しているという事であり、その事実そのものに、少女は天地がひっくり返りそうな程の衝撃を受けた。
本当だったら膝を抱えて顔を伏せて震えたい程の衝撃。けれど状況が許してくれない。
「ハハハ、お嬢さん、そうはいってももう息も上がってきてるじゃないか。それにこれだけの数だ。逃げるのは難しいんじゃないかな?」
目の前、リーダー格の男が下卑た笑みを浮かべて近寄ってくる。さらにその周囲から配下の男たちも迫ってきていた。
「ふ・・・・・・ふん!」
立ち上がって杖を構える。大分距離が縮まった。今までみたいに各個撃破はできない。
(やれるかしら……)
もはや己が常のような強さを発揮できていない事は自覚ある。マルバス自身、可憐な見た目から想像できない程度には腕っぷしがある。一人で街を襲撃しようとした盗賊団を〆る程度には。
しかし今は十全に発揮できてはいない。グルグルグルル、『ハルマ』と『ヴィネ』がマルバスの頭の中をめぐっていた。
「やれ!」
その言葉を皮切りに、マフィアの手下たちが襲い掛かって来た。
「うっとおしいわね!この!」
更に奥へと逃げればいい。それはマルバスも分かっている。しかし一度仕切り直した事でマルバス自身も『自分が今スラムのどこに居るのかわからない』事を自覚していた。このまま逃げたっていずれは完全に体力を使い切って捕まるだけだ。ならば、今、この場でこいつらを対処しきる。そちらの方が確実に逃げる事が出来る。
けれど今の、動揺を隠しきれない自分で対処しきれるだろうか。焦りを胸に、マルバスが襲い来る男たちへ対峙しようとすれば……
「見つけた!こっちだ!」
「きゃ!?」
路地の横から突然飛び出した手に腕を掴まれ引かれた。そうしてスラムの路地の、横の小さい道へと消えてゆくマルバスの姿。介入者を想定していなかった。
「!?な、なんだぁ!?追え!追えー!!!!」
ホバークの声が響く。
「だ、れよあんた!?」
引かれた手から目線を追い、己の手を引くものを見る。
「こっちだ。一旦撒くよ!」
「あんた、スラムの!?」
それは、先ほど己が張り手をかました相手、スラムの少女、リサだった。
腕を握りしめる手。有無を言わさずこちらを引っ張ってゆく強い力。
(ああ……)
どうしてだろう。その後ろ姿に、このエンゲシュロスに初めて来たときの事を思い出した。あの時もまた、そう。
少女に、手を引かれたのだ。蒼い髪を湛えた、白くて美しい少女に。
「はぁ……はぁ……と、とりあえず、撒いたな。一旦休もう」
スラムの一角、追いすがるものの気配がしなくなった辺りで、物陰に隠れてリサは倒れ込んだ。どうにかこうにか撒くことができた。けれどまだおそらく自分とマルバスを探しているであろう、兵士たちとは合流できていない。
とはいえ少女の手を引いて走り続けるのも限界だった。一旦休む必要がある。
「あんた……」
美しい少女の声がかかる。リサに対してマルバスの方は、まだまだ余裕があった。確かに息は上がっているが、リサ程ではない。
「おいおい、あんた、お嬢様なんだろ?なんでそんなに元気なんだよ」
「カワイイってことは強いって事よ?知らなかったのかしら?」
「ははは、そりゃ今知ったよ」
ひとしきりリサが笑った後、会話が途切れた。沈黙が降り立つ。リサの荒い息遣いだけが聞こえた。
「ねぇ」
その沈黙の中、先に口火を切ったのはマルバスだった。
「さっきは、ごめんなさい」
謝罪は、驚くほど簡単に口から出た。自分でも愚かな真似をしたと思っている。そのけじめは、つけるべきだった。
「はは、いいよいいよ。そりゃスラムの野良犬なんざお嬢様にとっちゃ小汚い小娘だろうしね」
そしてその謝意を、リサは笑いと共に受け入れた。
「そう。そこよ。どうして、わたしを助けたのよ」
「ん?」
少し俯いて、バツが悪そうにマルバスは続ける。
「あんたにはわたしを助ける理由なんてないじゃない。その……あんたの、あんたの頬をひっぱたいたカワイイ女の子を助ける理由なんて」
「しかもやれ小汚い娘だのなんだのも言ったな」
「っ!そ、そうよ。悪口だって言ったわ!なのになんで……」
自分で言っていて、マルバスはみじめになった。ヴィネが紹介してくれた友人を、小汚いなんて罵って、あまつさえ頬を張るなんて、
(やっぱり、これじゃあヴィネに)
嫌われる。あの品行方正、公明正大なお姫様は、自分の愚かな真似を決して許しはしないだろう。不安と恐怖が心に沁み込んで、目端から涙として溢れて来た。
「ちょっと泣くのは待ちなよ!」
「な、ないでなんがないわよ”!」
鼻声で反論する。嘘だ。どうにかなりそうだった。こりゃ不味いと、リサは即座に言葉を続ける。
「あー。なんで助けたかって、そりゃ。アンタがヴィネの大事な人だからだよ」
「うぇ!?」」
ヴィネが、自分の大切な人?まったく埒外だった言葉に驚き、マルバスは変な声を上げた。
「あ、あたしがヴィネの、大事な人!?!?!?」
「しー!デカい!声がでかい!見つかるぞ!……そうそう、いつも自慢してたよ。『とても綺麗で気高くて、尊敬できる大切なお方です』ってさ」
「ふ、ふーん……それってあんたより、かしら?」
胸の奥がざわつく。大切な人。ヴィネが。自分の。名付けられていない想いが、それが一番であることを望んだがゆえに、また愚かな言葉を紡ぎ出す。
その顔の必死さにある種の納得を得たリサは、どこかしら納得を得たような面白味を感じているかのような笑みを浮かべて言葉を続ける。
「おいおい、それをあたしに聞くかい?まぁいいさ。答えてやると特にどっちが上かなんて聞いてないさ。そもそもヴィネは、誰かと誰かを比べて話すような性格じゃないだろ」
「そ、そうよね。でも、でも……」
でも、なんなのだろう。自分は、何を求めているのだろう。先ほど『ハルマ』と『ヴィネ』が脳内をグルグルと回りだしたように、今もまた思考の袋小路に陥ろうとしていた。
「おいおい、大丈夫か?」
リサが心ここにあらずといった様子のマルバスの肩を抑えて、彼女の眼を正面から見た。透き通った、瞳だった。その瞳の中に、自分の姿が映る。いつもは『なんて素敵でカワイイ女の子☆』という感想がわくはずのその姿は、しかし、不安に揺れていて。
「だ、大丈夫じゃないわよ。わ、わたし。ヴィネに嫌われちゃう……」
不安な心が、素直な言葉を口にさせた。言葉に出して、身震いが起こった。まるで、『もうお前は一生ハルマになれない』と言われたかのような感覚。
その様を見て、リサが苦笑と共に、少女の悩みに答えを一つ、投げかけた。
「そんなにヴィネの事が好きなんだなぁ」
「しゅき!?」
好き、好きという事。好意。大好きという感情。
「わたしが、ヴィネを、好き?」
「だってそうだろ?そんなに嫌われるのを怖がるって事は、それはそれだけ嫌われたくない、って想いがあるって事じゃないか」
「そ、そそ……そうなのかしら」
そうなのだろうか、自分の胸に手を当てて考える。すき……好き。繰り返す。ふわふわと胸の奥にあった何かが、少し形を持ったような気がした。
「だから、さ。正直あんたにああやって言われた事自体、あたしは特になんとも思ってないよ」
流石に張り手喰らったのには言いたいこともあったけど、それは今謝って貰ったしチャラにしてやろう、リサはそう続けた。
「どうしてよ?」
「あんた、普段は容姿をどうこう言う訳じゃ人だろ?」
「当り前よ!ヴィータはどいつもこいつも似たようなもんだけれど、マナー位は嗜んでるわ」
自分で言って、その事実に疑問が沸き起こる。そうなのだ。そのはずなのだ。なのになんで……
少女の疑問に、ニカリとリサは、スラムの子供達の母親は、笑って答えを返した。
「そりゃ簡単な話さ。アンタは、きっと大好きなヴィネに、自分の事を一番綺麗だ、カワイイって思って欲しかったのさ。それで、野良犬みたいなアタシを紹介されて同じくらい美しいなんて言ったもんだから、動揺しちまったんだろう」
つまるところ、そういう事だった。少女が、大好きな少女に一番かわいく見てもらいたい。そういう見栄っ張りな心が、ついつい顔を出しただけの話だ。
それを聞いて、マルバスは自分の心がストンと胸に落ちた。それに合わせて地面にペタン、と座り込む。
「そうね。そうよ……そうだわ。わたし、ヴィネに、ヴィネの一番カワイイ子でいたい」
ヴィネ。かつて禁断の祭壇の一幕で、マルバスの心をこそ美しいと尊んでくれた少女。それはマルバスの存在そのものを肯定してくる事に等しく。だからなのだろう。その時から、ハルマになる事とは別の軸で、少女がマルバスの中で大切な位置を占めていたのだ。
「なら、会いに行かなくちゃな」
一つ、頷いて杖を握る。恐怖は、あった。もしまたヴィネと会った時、失望を孕んだ瞳で見つめられたらどうしよう。けれど、それでも、『好き』という言葉で形を作り始めた胸の奥にあった想いを、伝えようとせずにはいられなかった。
目を逸らさない事、自分の心に嘘をつかない事こそが、ヴィネが美しいと言ってくれたものだから。
「あんた、いいやつね」
リタにそう声をかける。
「そういうアンタは変わってるな。ヴィネもだが。正直こういうスラムの人間だからさ、裕福な人間には良い印象がなかったよ。けれど知ってるか?ヴィネがさ。初めて会った時どうしたと思う?うちの子の一人が盗みを働いた時、あいつは『盗みは人の尊厳を損なう行為です!食べ物がなくったってその気になれば!道に生えた草でも!』って言ってさ、本当に道草を食べ始めたんだ」
その時の事を思い出したのだろう、笑いたいような、けれど今となってはお姫様という事を知っているからこそその行為に引いてるような、複雑な表情を浮かべながら、リサは語る。
「まぁ!そんなのお腹壊すわよ!?」
主たるソロモン王がそんなことしてたら吐き出すまでお腹を殴る所だ。
「だろ?そもそも人の尊厳を語る奴が道草を食うなんてな。それで盗みを反省して、盗ったものを返すと言ったうちの子を見て、『自分の行いで反省したのなら、誇らしいです』っていうもんだ。突き抜けてるというか達観してるというか、ともかく、見かけによらず良い根性してるって、そう思ったよ」
「そうね、良い根性してるわ」
絶対に自分を曲げない生き方。その生き方で、自分を肯定してくれた事でどれだけ救われた事か。
マルバスとリサ。救われた者同士、どちらともなく笑みが浮かんだ。
「そうと決まれば、さっさとここを出るわよ!リサ。かわいいわたしの道案内をさせてあげる☆光栄に思いなさい!あとわたしの事、マルバスって呼ぶことを許してあげるわ!ハルマの本名を呼ぶ事なんて、ヴィータには滅多にない栄誉なんだから!!」
「ばっ!そんな大声だしたら……」
力強いマルバスの宣言がスラム街に響き渡る。それを聞いて、二人を探していたギャングの残党たちがすぐに現れた。
「ひゃははははは!!!ここにいたのか子猫ちゃん!」
小道から染み出るように現れるマフィアの下っ端たち。その中央には、ホバーク。
「お前らにはサミア姫に対する人質になってもらう……こんなスラムにまで来たことを、後悔するんだな!」
「どうするんだよ!マルバス」
焦りと共に逃げ出そうとするリサを手で制して、ギャングたちからかばう様にマルバスが前に立った
「大丈夫よ。見てなさい」
ぎゅっと杖を握りしめる。何をおいても、ヴィネに会いたかった。
「私は、強くて、可愛くて、綺麗で、いつかハルマになるんだから!!!」
ヴィネと彼女が連れた兵士たちがマルバス達を見つけたのは、結局総てが終わった後だった。乱闘の音を聞きつけ、すぐにそこに向かってみれば、
「っ!!マルバスさま!お怪我は、お怪我はありませんか!?」
辺り一面に転がる気絶したホバーク含めたマフィアの残党たちに、その中央に、リサに肩で支えられながら立つマルバスであった。
近寄れば、激戦の跡が見えた。服がそこかしこ敗れ、埃塗れの体。どのように接したらいいのかという迷いはすぐさま吹き飛んだ。マルバスの体の各部を手で傷がない事を確かめ、ヴィネは安堵のため息を吐いた。
「よかったですわ。本当に心配しましたのよ」
「こんなのなんて事ないわ!ギャラリーもいた事だしね☆リサ、ハルマの美しさ、目に焼き付けたかしら?」
「はいはい。目に焼き付けたよ。それにしても、本当に強いんだな、マルバス。あたしはびっくりしちまった」
その仲が良さげなマルバスとリサのやり取りを見て、ヴィネは安心した笑みを浮かべた。
どうやらスラムの奥で二人してギャングから逃走した事で確かな仲を作り上げたようだ。
「そう、そうですか!では、リサさまともお話して頂けたのですね?」
「ええ。謝ったわ。それにその、リサって、いいやつ、ね」
言葉がドモリがちになる。その様子に、ヴィネはどこかしらよそよそしさを感じて怪訝な顔をした。対してその意味を察したリサが、支えているマルバスに笑いかけた。うるさいわね。しょうがないじゃないの。
「ヴィネ様、マフィア残党の捕縛、完了しました」
そうやって少女たちが話している間に、兵士たちが己の職分を完遂していた。
その言葉を聞いて、朗らかに笑う少女の顔から一瞬、ヴィネは王女の顔に戻った。
「そうですか……わかりました。以前の裁きを逃れた者たちです。厳しく追及なさってください」
「はっ!」
短い言葉と共に、兵士たちが気絶したマフィアの残党達をひっとらえていった。
その顛末を見届けて、ヴィネは改めてマルバス達へと向き直った。そして、
「手を上げてしまい申し訳ありませんでした、マルバスさま!」
まだ残っていた周囲の兵がざわつく。姫がそうそう謝るものではない。けれどそれがサミア姫であると皆も理解してたから 誰も止めるような事はしなかった。
「あっ……と。その」
頭を下げるヴィネを前に、マルバスはそっぽを向いた。ずるい。どうしよう。わたしの方が言いたいことがあるのに。『嫌われてないかしら?』『失望されてないかしら』そんな不安をよそに、少女が頭を下げてくるのだ。
でかかった言葉にすべて栓をされたような気分。何を言うべきかしら……
(マルバスさま?)
そしてそのそっぽを向く動きの気配は、頭を下げるヴィネにも感じ取る事が出来た。そうしたなら、どうしてだろう。途端に不安になる。そもそもが、ヴィネには分からなかった。なんで今は謝ったとはいえあんなにマルバスさまがリサさまの事を悪し様に罵ったのか。
ヴィネとて、総てを識る等と言ったおこがましい思いは抱いていない。けれども、マルバスという少女について、自分の胸を高鳴らせる気高い少女について、知らない事がある、というのがどうしても我慢できなかった。
互いに不安が募る中、とりあえずは分からないなりに、マルバスが無難に謝意を受け止めた。
「いい、わよ。いいわ。許すから頭を上げて頂戴。もとはと言えば、わたしのせいなんだし」
「ありがとうございます、マルバスさま」
そうしてヴィネが顔を上げれば、今度はマルバスが俯いた。
そして、沈黙が二人の間に降り立つ。マルバスは、いざとなればやっぱり聞くのが不安だった。ヴィネは、謝罪というやるべきことを終えた事で、やっぱりこれからどのような言葉を掛ければいいのか、分からなかった。
二人だけならばこのまま永遠に決まづい沈黙が続いただろう。
「あー。うん、ほら。マルバスがさ、あたしを守って一人で戦ってくれたんだ。だから今日はその、泊めてやったらどうなんだい?」
それを破るように助け船をだしたのは、リサだった。
「あ!……ええ。勿論。お召し物だって汚れていますし、今日は是非ともお城にお泊りになって頂ければと思っておりましたわ。けれどマルバスさまも、その。よろしいですか?」
「え!?…‥・ええ!もちろん、いいわよ」
ぎこちない会話。その間も、マルバスは結局顔を上げる事が出来なかった。
俯くその姿に疑問を覚え、首をかしげるヴィネを前に、答えを知っているリサが、笑いながら『頑張れ』と小さくつぶやいた。
夜、天蓋付の豪奢なベットに、湯あみを済ませ、それぞれが下着の上に薄いネグリジェを羽織った二人の少女の間に、やはり気まずい沈黙が降り立っていた。
「マルバスさま?」
その言葉に、びくりと目を合わせずにマルバスは肩をはねさせた。
顔を視線に入れなくても、月明かりに照らされる深い海のような蒼い髪と、抜けるような白い肌は目に入る。
(綺麗だわ……)
ただ、そう思う。しばし、マルバスはその美しさに放心した。
「マルバスさま!」
肩を掴んで揺さぶられる。
たまらず、視線が合った。
「うぃ!」
言葉が詰まる。そこには、静かな知性を湛えた瞳が、疑念の光を放っていた。
(何をやってるのよわたし……!)
垂れ下がった腕の先の、拳を握る。そう、ここは禁断の祭壇だ。不安と向き合え。わたしは、今不安なんだ。『ヴィネに失望されていないかどうか』が不安で不安でたまらない。
心を不安の霧が覆ってるのを自覚する。だから、それを『好き』で焼き払う事にした。
「どうしてリサさまにあのような……」
「ヴィネ」
言葉を遮ってマルバスもまた、肩を掴み返した。
「はい」
その何か決意を秘めたマルバスの瞳に、ヴィネも己の追及を取りやめた。
「わたしは、カワイくて素敵な女の子よ。いつかハルマになるの」
「ええ。存じてます」
「でもね、やっぱり今はきっと醜い化け物。メギドよ。だから、挫けそうなときもある」
「それでもなお、ハルマを目指すその心は、気高く美しいものですわ」
「ええ。そう、そうよ。あんたはそう言ってくれた。その言葉が、わたしを助けてくれた。だからかしらね」
「わたし、好きになっちゃったの。そう言ってくれた女の子の事が。どうしようもなく。こころのそこから」
言った。言う事で、好きという感情が確固としたものとなる。知らず、微笑みが浮かぶ。
「……っ!」
息をのむ音が聞こえる。知らない。言葉を続けた。
「それでね、わたしはどうやら。ハルマになるだけじゃなくって、その子の一番カワイイ女の子にもなりたくなっちゃったみたいなの。だからその……リサを、美しいって言われて、不安になっちゃって、それで。リサに酷い事言っちゃたの。ねぇ、そんなわたしを、どう思う」
そうして、マルバスの静かな瞳がヴィネを見据えた。
心臓が早鐘を打つ。『好き』と言われた。気高い心を持つ人から。お慕いしていた人から。
「わた、わたくしは……」
声が震える。
「それで、リサさまに、酷い事を言ったのは、罪だと、思います。リサさまには何の咎も、在りはしないのですから」
「そうよね。わたしもそう思う。愚かな事をした」
「けれど、その……」
ああ、悪い子だ。ヴィネは、事ここに至って自分の心の中のどこかが、昏い喜びを感じているのを自覚した。
好きな人が、自分に好かれてるか不安になってそんな愚かな真似をするなんて、
「わたくしも、愚かです」
へにゃりと、眉を下げた笑み。
「好きな人が、そのような行いをするほどに、わたくしの事を思って頂けている事に、歓びを感じているのですから」
マルバスが、目を見開いた。肩を抱きしめる力が緩む。だから、
「嬉しい、ですわ」
ヴィネは、そのまま眼前の少女を抱きしめた。
ふわり、少女の、透き通った匂いが濃くなる。
少女の体の柔らかさをマルバスは感じた。同時に、その早鐘を打つ心臓の鼓動も。背に回されるヴィネの腕。しばしの逡巡の後、マルバスもまたヴィネの背に腕を回した。
しばしの時間。息遣いと、お互いの心臓の鼓動の速さだけを感じる。
それから、お互いの腕の拘束を少し緩めて、見つめ合う。
蒼い髪を湛えた少女が、マルバスに向けて微笑む。マルバスの為だけに。マルバスの全てを受け入れてくれるかのように。
幸せな時間だ。けれど、幸せだからこそ、醜いアヒルの子の心に不安がよぎった。
「どうして、いいの?わたしで」
心細く揺れる声に返ってくるは、海のように豊かで、そして深い同意だった。
「ええ。マルバスさまが、いいのです。気高い心を持つ、あなたが」
その言葉に、心が白鳥となって飛び立った。
涙があふれて止まらない。
―――泣かないで、くださいまし
言葉は放たれず、動きとなって放たれた。
唇が、唇で塞がれる。甘い匂いと味がした。
(ああ、そう。わたし、受け入れられてるんだわ。愛されてる……)
それは、存在の肯定。家族から受ける、ヴィータとしての血のつながりに基づいた、『家族だからこそ』の愛とは違う、他者が他者に向けるそれ。
マルバスは、その生を受けて初めて、心より満たされていた。
だからこそ、戸惑いもあった。
(でも、どうしよう……これだけ満たされた、わたし、生きている意味があるのかしら)
『ハルマになる』という望みも忘我の中、置き去りにして、愛しい少女との交歓の中、そう思う。
唇が離された。
「「あっ……」」
お互いの唇が離れ、どちらともなく『まだ足りない』というような声が出る。
僅かな不満の中、先ほどと同じように、向き合う。
蒼い少女の白い肌が、僅かに上気して、微笑みを浮かべる。美しい。どこまでも、愛しい少女の美しい姿が、マルバスには嬉しかった。
「綺麗……」
忘我の境地でそうつぶやく。
「マルバスさまだって、綺麗ですわ」
その一言で、満たされ過ぎて忘我の境地に至り、生きる意味すら見失いかけていたマルバスの精神が復帰した。
「ふん!当り前じゃない!そうよ!わたしはいつかハルマになるんだもの。綺麗なのは当り前よ!」
いつもの調子に戻る。そうだ。自分を愛してくれる少女に愛される自分でいたい。自然と、そう思えた。
「……マルバスさま」
ヴィネが、静かに語り掛けた。けれどどこか固さのある呼びかけ。再び瞳を見れば、その中にある意思が、手に取るようにわかった。
「いいの?」
コクリ。頷き、顔に朱が差す。さすがに恥ずかしいらしい。
「あんたは、お姫様でしょう?」
「ですが、あなたともっと深く交わりたい。それが、王女の肩書を取り払った、わたくし自身の本心ですもの」
それにわたくし、本当は悪い子ですもの、とお茶目に舌をだして王女は続けた。サミア姫としての彼女は確かに真面目で責任感が強い人物像だ。それはたしかにヴィネというメギドの一つの側面である。
それと同時に、『己の本心にどこまでも忠実』、というのもまた、ヴィネというメギドの持つ側面の一つでもあった。
「後の事は、あとでどうにでもなりますわ。だからマルバスさま、さぁ……」
抱きしめたまま、ヴィネが倒れ込む。そしてそのままマルバスも倒れ込んで、両手をついて、下にヴィネを見下ろす形になった。
ヴィネもマルバスも、上流階級の人間だ。ましてや子女ともなれば、自分たち自身で実践することはなくとも、伽の作法をある程度は心得ていた。
しかしそれは、あくまで『殿方を気持ちよくさせるためのもの』。『女の子同士』なんて、手探りだった。
互いに着ているものを脱いで、生まれた姿になったまま、首筋に触れる。体に触れる。それだけで、幸せな気分になったし、体の昂りを感じた。
昂りは熱さとなった。そのままお互い脚を絡ませて、
「「あ……」」
互いに湿り気と熱と腰に走る何かを感じる。分かっていた。ここまで来たのなら、『そこ』が終着点で、避けて通る事は出来ない、と。
だから、
「ヴィネ……触るわね」
「マルバスさまも……その、それ、も」
お互いに顔を赤くして見つめ合い、そして
「いっ!?」
「きゃ!いったーい!!!」
互いの『そこ』に触れた途端、痛みが走った。お互いに、それぞれに伸ばしていた片手を戻す。
そうして二人、笑いあった。
「そうよね。もう!どうして気付かなかったの?」
「やっぱりわたくし達、緊張しておりましたのね」
そう、爪が、痛かったのだ。お互い貴人同士、爪は綺麗に整えられてて、けれど長かった。それがお互いに痛みを与えたのだ。
「爪、切りましょうね。どこかしら、爪切り?」
「そちらの化粧台の中にありますわ」
覆いかぶさる形になっていたマルバスが、いったんベットを離れて爪切りを取って戻ってくる。
その間に、ヴィネがペタンとお姫様座りをしていた。
「先に使うわね」
そう言って己の爪を切ろうとするマルバスに、
「お待ちくださいませ」
とヴィネが待ったをかけた。
「?どうかしたかしら?」
「お貸しくださいませ」
「?どうぞ」
左手に持った爪切りへとヴィネへと手渡す。
「ありがとうございます」
微笑みのまま、爪切りを手渡され、そのままヴィネが、マルバスの手を取った。
そして、薬指の爪に、爪切りを宛がう。
「ここだけ、切りましょう?」
静かな提案。はじめ、マルバスはその意図を図りかねた。
「?いいけれど、どうして?」
それに応えは返さず、愛おしそうに少女が少女の手の甲へと口づけをする。体に不快ではない震えが走った。
そしてそのまま、ヴィネが静かに言葉を紡ぐ。
「今はやめる時も健やかなる時も、とはいきませんが、何時かは、必ず」
その言葉と共に左手の薬指の爪へと宛がわれる爪切りに、マルバスも、意味を察した。
「あっ……それは、それはだめ!」
口から思ってもみない言葉が出る。ただでさえ早鐘を打っていた心臓が、さらに早くなる。興奮のあまりに目尻に涙が浮かんで、視界がにじんだ。
左手の薬指、それはヴィータの少女がいつかはと夢見るもの。愛しい人との誓約の証を嵌める為の、指。
「だめ、ですか?」
上目使いに見つめてくる彼女に全力で首を横に振る。
「ちがう、ちがうの。でも」
……こわい、と少女は呟いた。それはつまり、少女と少女の関係性を決定的なものとすることで、今この状況で何を、と言われかねない思考であったがしかし、それでもなお少女にとっては重要な事であった。
いつかは、そうなるであろうと、メギドであるがゆえに実感の薄かった出来事が、突然目の前に現れたのだ。いうなればそれはマリッジブルーで。
「大丈夫ですわ」
その不安すらも、蒼い少女は受け入れた。一旦爪を切ろうとするのをやめて、少女の頭を掻き抱いて、髪を撫でる。
鼓動の音。トクントクンという音を感じて、マルバスは、瞳を閉じた。
「落ち着きましたか……?」
しばしの後、ヴィネがマルバスに声をかける。コクリ。頷いて、抱かれた頭を離した。
そうすれば、眼前には愛しい少女が、ヴィネが居る。
「ねぇ、ひとつお願いがあるの」
愛しい少女を見上げてマルバスは一つ、おねだりをした。
「マルバスさまが望む事なら、是非とも」
「マルバスって呼んで。さま、なんて付けないで。わたしを、特別にして」
「それは……」
意外な要求だった。品行方正な少女は、思わず言葉に詰まる。誰にでも敬意を以て対応する少女にとって、相手に敬称を付ける事は当たり前の事で、それを用いないなんて想像の埒外だった。
「ええ、と……」
目が泳ぐ。じっと、愛しい少女が見つめてくる。それを望む理由は分かり切っていた。
けれど実際に言葉にするとなると、予想以上に恥ずかしくて、
「その、マルバス。これで、いいですか?」
へにゃり。恥ずかしさをごまかすように眉の下がった笑みが赤らんだ頬に浮かんだ。
「ええ!そうよ!わたしはマルバス。ヴィネの、マルバスだわ!」
愛おしさが爆発して、今度はマルバスがヴィネの頭を掻き抱く番だった。
それから少しして、満足したマルバスが、ヴィネの頭を離して、告げる。
「貸して。わたしから、するわ」
手を伸ばした。
そうすれば眼前の少女は満面の笑みを浮かべる。
「ありがとうございます。嬉しいですわ」
そうして差し出された左手の甲へと、先ほどヴィネがしてくれたように口づけをする。そのまま、薬指をまるで宝石を扱うかのように大切に持って、その爪へと爪切りを宛がう。
「ヴィネ」
「マルバス」
視線が交錯した。
「愛してるわ」
パチン、乾いた音が一度響き、しばらくしてからもう一度乾いた音が鳴った。
―――初めては、愛しい人の体を受け入れたそこは、ただ痛みだけ返してきた。
本来受け入れる為のその場所はしかしまだ何も受け入れた事はなかったからとはいえ、愛しい人の体を受け入れるのに、自分の体が痛みを返してきたことそのものが、悲しかった。
眉がひそまる。額に汗が浮き出る。正面に視線をやれば、そこには彼女の顔。眉を下げた笑み。同じように額に汗。
ああ、そうだ。あんたも、痛いのね。そうよね。そうに決まってる。だったら、幸せだ。同じ事をして、同じように感じる。一人一種族であったメギドであるがゆえになお一層味わう事の出来るその尊さをかみしめて、少女は笑い返した。
そうして指が、相手の『そこ』にたどり着いた感覚があった。同時に己の中にも、愛しい人の指が『そこ』を触る痛みを感じる。
―――いいのね?
視線だけを酌み交わし、お互いの意思を確認する。この夜に何度も交わされた視線のやり取りは、それでもなお新鮮な感動を与えてくれる。そして互いの息が浅く、速くなる。
互いの鼓動なんて、当たり前のように初めから一緒だった。だから、本当は合図なんて必要なかった。
「「っ……!」」
互いに一線を越える感覚。指が突き破る感触と、体の中が引き裂かれる痛み。痛い。痛い。体を引き裂かれる痛みなら、今までだって感じたことがあるのに、痛みと共に何か致命的なものを失う感覚は、あまりに初めての事で思わず涙が出る。
けれど、同時に充実感も胸の中にわき出した。奪われたのではない。愛しい人の、捧げたのだから。
「ああ、これで」
痛いのはずに、その目端に浮かぶ涙が、わたしと同じく痛みを感じている証拠である筈なのに、あんたは、それでもほほ笑むのね。
ならばきっと自分も微笑んでいる。その確信があった。
蒼い髪がまるで海のように広がって、白い肌が水面に映る月のように輝く。そして、その輝く白い肌に、一房、桃色の髪が降り注いでいた。あまりに美しい蒼と白に、一房、赤いものが混じっていた。
一旦、指を抜く。そうすれば、手には、赤い雫、命の証。
ああ、なんてことだろう。こんな綺麗な人に、赤いものが流れている。わたしの髪の色、そして、命の色。
私とこの娘は、つまり同じ存在なんだわ。当たり前の事を思い起こす。視線を足のに向ければ、彼女と流れ出たものと同じものが、己の股からも彼女へと、髪と同じく流れ出ていた。
こんなに白くて蒼くて、綺麗な子に、自分と朱いものが流れている。その事実を認識した途端、腰に震えが走り、それが電流となって脊髄を駆け巡り、脳へと達した瞬間、思考が白く染まった。
そうして、マルバスは人生で初めて、絶頂した。
―――それからしばらくして、ソロモン王のアジトにて、ヴィネとマルバスが楽し気にお茶を飲んでいた。
いつもと変わらず、マルバスが自慢げにして、それをヴィネが楽しそうに見つめる。いつものやり取り。
けれど、そこに通りがかって一つ、違和感を感じる少年がいた。そう、メギドをその指輪にて従える王、アルス・ノヴァの血統、ソロモン王だ。
「ん?どうしたんだ、マルバスにヴィネ?」
「なによ?」
「どうかなさいましたか?ソロモンさま」
どこかつっけんどんな雰囲気のマルバスに、いつもながら柔らかい微笑みを浮かべるヴィネ。普段通りの雰囲気にもかかわらず、よくよく見てみれば、
「いやほら、爪。二人とも左手の薬指だけ切ってるじゃないか。そういう、流行りなのかな……って」
「「ちょっとした約束ですわ(よ)」」
二人して重なった言葉に、近くにいたがゆえに会話が聞こえており、一瞬で意味を察して珈琲を楽しんでいたバルバトスが咽た。
「うわぁ!?どうしたんだバルバトス!?」
ソロモン自体の興味が咽るバルバトスの方に移って、彼へと歩み寄っていく。
「いやぁ、気にしないでくれ、ちょっと咽ただけだから。うん、そうさ。だから気にしないでくれたまえ」
「そ……そうか?」
「そうさ。ところでその二人のだけれどね」
そう言いながらバルバトスがこちらを見やってくる。
「……」
無言でマルバスがヴィネを抱き寄せて、ヴィネはニコニコとしたままでされるがまま。
「いわば、おまじないさ。二人共、幸せになろうって」
そういう事だろう?とウィンクをこちらに向ける優男に、
「うざいわね」
「ははは。酷いなぁ。僕としては祝福されるべきものだと思うけれどね」
「それは、その時が来たらでいいわ」
「そうかい。ならその時は、盛大に奏でさせてくれ。それもまた、吟遊詩人の醍醐味さ」
「ふん!せいぜい綺麗なわたしに見劣りしない曲にすることね」
「ありがとうございますわ、バルバトスさま」
「ど、どういうことなんだ皆?」
何やら皆が納得した雰囲気のなか、一人、鈍感な少年だけが意味も分からず狼狽えていた。
「ふ……ふふ」
意外にも、初めに笑いをこぼしたのはヴィネだった。そうして少年の狼狽を肴に、ヴィネとマルバス。そしてバルバトスに、朗らかな笑いが広がっていく。
アジトは、今日も平和だった。少なくとも、この時は。