下級生の性教育係なTS娘ちゃんが受精するまでの1日 作:ゆきかお
とりあえずは前編が完成したので投稿させていただきます。
「────サキくん、もう行くの?早いね」
「うん、初めて、だし。早めに行って、準備しとこうと思って」
「まじめさんだぁ、がんばってねぇ」
「じゃあなー、サキ!また遊ぼうぜー!」
「クラスの中で1番乗り。がんば、サッキ―」
「あはは……頑張るよ、じゃあね」
給食の時間が終わり、清掃を挟めば、昼休みが告げる鐘が鳴る。
鐘の音を聞くや否や、掃除を終えた大半の生徒たちが、我先にと駆け出していく。
「────待ってた?コウ」
「別に、そんなに。……行こ。サキ」
「ああ。行こう」
茹だって仕方のない暑気と熱気は、最盛となっている。
しかしそれが、彼ら彼女らの実直な行動を鈍らせる道理にはならない。
「ばいばーい、ノアくん!」
「うん、また来週、ね。……あっ、コウキくん。サキくん」
「……クラスでも、馴染めてるみたいで、よかった」
「ほんとに、……よかった。ノア。一緒に行こう?」
「……うんっ」
背を焦がし、肌を焼く暑さ。
それもまた、幼き彼らにとっては、活力の炉にくべる燃料の1つになる。
「…………あれ。前にいるのって、ランタ?」
「え?……ほんとだ。こんな早く行ってるなんて、珍しい」
「おーい、ランタくーんっ」
「……あ、みんな」
長いようで短い、昼休み。
誰もがこのありふれた日々の一瞬を輝かせる為に、全力だ。
そしてそれは、ランタにサキ、ノアとコウキも、同じだった。
「……先輩、大丈夫かな」
「えっ、何か、兄ちゃんにあった?」
「腰が痛いらしくて、だるそうにしてた。問題ないとは、言ってたけど……うん。
……というか、サキの時は、そうじゃなかった?」
進めば進むほど、背後の賑やかさが遠ざかっていく廊下を、4人は抜け行く。
まだ幼い彼らの背中に背負われたそのランドセルは、早退の意か、または下校までの時間を全て使っての、性教育の対象であることを指し示している。
昼休みが始まるなり、いそいそと荷物を持って教室を抜けて、最短経路で朝に通った別棟の教室へと向かった為に、示し合わせたわけでもないのに4人は合流し、普段通りの集団となった。
「……2時間目の兄ちゃんは、元気そうだった。普通に、会話してた」
「ボクが今日最初にあった時は、ちょっとぼーっとしてた」
「3時間目から、なのかな。1時間目は、ランタ?」
「え、……うん、いつも通りな、感じ、だった……よ」
「……?そう」
がやがやと、4人は心中を大きく占める何かを紛らわすように、会話しあって。
コップと歯ブラシが置かれた、トイレの前の手洗い場を横目に、通り過ぎようとしたときだった。
「────っあ、えっと!みんな、ちょっと……」
「へっ?」
突然に、女子トイレの奥から少女の声がした。
聞き馴染みがあり、親しみ深い声。今日、聞いたばかりの声。
4人の内の誰が零したかもわからない、気の抜けた相槌がそれに続く。
思わず歩みを止めて、想定外の状況で話しかけられたことに心臓が跳ねつつも、ミトの呼びかけに、いの一番に答えたのはサキだった。
「に、兄ちゃん?どうしたの」
「……その、さ。まだちょっと、トイレに、時間かかるから。
教室の中で、待っててくれる……?」
ごめんね、と彼女は最後に呟く。
顔を見合わせる4人。突然の出来事に困惑はあれど、そう言われば、そうする他はない。
わざわざ伝えてくれたのだから。
ただ、ここまで廊下で語り合っていた話題が脳裏を過る。
ミトへの心配が、胸中で澱んで、渦巻く。
少しの葛藤の間を置いて、コウキがそれを、口にした。
「先輩、その、大丈夫?」
「……あ、腰の痛み?……えと、ね、それもうなくなってるから、へいき。
コウキが擦ってくれた、おかげ」
「……っ、そう」
4時間目の声色に滲んでいた、鈍い痛みへの堪えは、なくなっているように感じられる。
本人の姿を見て、安心したい欲求にコウキは駆られる。
だが、ミトがいる場に踏み込むわけにもいかない。
疼く心を抑えて、それ以上の言及を控えた。
「ほんとに、大丈夫?……お姉ちゃん」
「大丈夫だよ、本当に。……ランタ。予習したら、教室で遊んで構わないからね」
「…………うん」
サキも、彼女の容態を尋ねようと思い立つ。
しかし、皆がそれぞれ聞いたのだから、更に自分が詮索するのは余計だ、と口を挟まなかった。
代わりに、去り際の約束を交わす。それが彼女への信頼の形として。
「────じゃあ、……後でね、兄ちゃん」
「ありがと。また、後で」
「…………行こう、みんな」
再会を誓って、後ろ髪を引かれる思いがありつつも、トイレから離れた4人。
どことなく急いた気持ちにつられてか、早まった歩調で。
長くもない終着点までの距離をすぐに埋めて。
午前の内に、1度訪れた場所。大事な機会を迎える、5-3の教室へとたどり着いた。
サキが1歩前に出ると、握りこんでいた鍵を、鍵穴に差し込み捻る。
くるり、と抵抗なく錠は回って、重たい開錠音と共に扉が開いた。
ランタとノアは教室へと入室して、荷物を置いていく。
最後に入り、扉の鍵を閉めたコウキはいそいそと体操服から制服へと着替え終えると、その輪に加わる。
そうして、荷物を片付け終えた4人は、各々好きな姿勢で、マットレスに座り込む。
サキの両隣にノアとコウキが腰を落ち着け、そしてランタはあぐらをかいたサキの足の間に、折り曲げた膝を両手で抱えて、すっぽりと収まった。
「…………」
座した4人の間に広がったのは、昼休みに似つかわしくない気まずい沈黙。
誰も彼もが手持無沙汰で、落ち着きがなく、会話が発生しない。
普段ならば、他愛ない歓談を、授業の時間を食いつぶしてしまう程に、続けられるだろう。
または、予習として、年長2人の誘導による、何度も繰り返したそれが始まっていただろう。
特に何の変化もない、一般的な教室。
けれどそこには、ミトが溢れさせていた、雌のフェロモンの残滓が残っていた。
それが少年たちの鼻先を撫でて、無意識の内に、彼らの心臓の音が早まらせ、血の流れを加速させ。
胸の内をきゅうと痛くさせ、頭の中を霞ませ、ぼんやりとさせる。
無垢な興奮。そして、これからの一大事を前にした、緊張も重なっていることでの、状態。
「っ、……ん……」
そしてそれと共に、サキの思考を大きく埋めていたのは、己の胡坐の内にいる、ランタのことだ。
頗る元気でわんぱく。かっかとしている、昼の太陽みたいな明るい子。
それが普段の彼を表す評であり、体の内の活気を持て余して、落ち着きがない普段の調子と様子が常だった。
陰っているところなど、ついぞ見たことがない。
もし彼が平常の調子ならば、この場の重圧などものともせず、予習を済ませるや否やすぐに暴れ散らかしただろう。
だが、そうした普段の様子はしんと鳴りを潜めていて、顔を俯かせたまま、黙り込んでいる。
ここまでの道中も、いつもの饒舌っぷりが無かった。ミトとの会話にも混ざることをしなかった。
場の緊張が伝わってしまって、それに飲まれるような性格ではないのを重々に知っている。
それが為に、今の彼の様子は明らかにおかしい。
サキは、見かねて声をかけようとして、それより先にコウキがランタに尋ねた。
「────さっきから、大丈夫?ランタ。緊張、してる?」
「えっ、…………うん、と……」
「……何か、あったの、ランタくん」
座ったままの姿勢で上体を乗り出して、ノアが伺う。
彼の眉は下がり、1つ下の友人の様子を一身に気に掛けていた。
固まった緊張感の中で、ゆっくりと、ランタが語り出す。
「……今日の1じかんめ、お兄ちゃんといつもみたいにあそんで、ハグしあってたら。
なんかね、ちんちんが、きもちよくなって……」
年齢と比例している拙い言の葉に、必死に思いを込める。
「そのあと、きょーしつにかえっても、すごい、どきどきするって、いうか。
お兄ちゃんのことばっかり、気になって。
ずっと、むねがドキドキして、むずむずして、へんで……」
赤らみが増していく頬。サキの服越しにでも伝わる、体温の上昇。
「それ、でっ……がまんできなくて、4じかんめに、トイレ、行ったの。
……さっきの、きもちよかったこと、またすれば、もどるかなって、思って……」
親しい友人の鮮明な性の目覚めの体験談。
親身に聞いていた3人は、息を呑まざるを得ない、どぎまぎとした心持ちだった。
「それ、で……?」
コウキのその問いに対して、いくばくかの間があった。
言い出すには、覚えた快楽に対して後ろめたさがあったのだろうと、察せられた。
3人は、待った。そして、ランタが小さな口から、その答えが零れ出した。
「……トイレに入って、ごしごしって、してたら、どんどん、さっきみたいになって。
気づい、たら……せーえき……?が、出て、きて……」
少しの沈黙が流れて、その間に1番の年上2人が、互いに目配せをした。
サキが頷く。コウタがランタを見つめる。
2人の目配せを見たノアは、その意図を理解したようで、ランタを注視したまま、成り行きを見守ることにした。
「────っ、ん……」
自分の内で静まり返っている弟分の頭に、柔らかく手を乗せた。
ランタの小さな口から、緊張の熱が籠った吐息が漏れ出る。
髪に馴染ませて、それからあやしつけるように、撫で付ける。
すりすり、と髪に皮膚が擦れあう、穏やかな音を立てながら。
その慣れ親しんだ所作に、ランタの体のこわばりがゆっくりと溶けていく。
それには励ましと、称賛の意が、確かに宿っていた。
「おめでとう、ラン。大人に、なったね」
「……おめでとう。頑張った」
「おめでとう、ランタくん……っ」
3人から送られた、飾らない実直な祝福。
それを受けて、不安が覆っていたランタの顔が少し晴れる。
ランタは両手を膝から離し、折り曲げていた膝を伸ばすと、後ろのサキの胸へと背を預け、顔を上目で見上げた。
「…………お兄ちゃんも、よろこんでくれる?」
「うん。絶対、喜んでくれるよ」
小さく握られて、投げ出されていたランタの手を、サキは包むようにして握る。
その手は微かに震えていて、しかし、しかと芯が通った思いで、励ます。
落ち着かない心音を響かせるサキに答えるべく、ランタもまた手を絡め、握り返した。
「ねえ、ラン」
「……?」
「……言いたい?」
抽象的な投げかけを放つサキ。
一拍置いて、その意味を理解して、ほんのりと赤味が引いていたランタの頬が、また真っ赤に熟す。
2人の視線が繋がり合う。互いの目から、言葉に出来ない感情を知る。
密着した体から伝わる鼓動は、同調したかのように2人とも高まっていた。
「……うん。いっぱい、言いたい。
お兄ちゃんに、いっぱい……」
サキは、握っていたランタの手を掬って、それごと彼の体を抱き締めた。
最大の友愛の表現で、彼を誉めてあげたかった。
ただ、それだけだった。
「────分かった」
ランタが漏らした、安堵の息。
それをもって、張り詰めていた空気が、微かに和らいでいく。
2人の行く末を見届けたコウキは、もう1人の気にかけるべき存在へと意識を向ける。
「……ノアは、平気?」
尋ねられて、ノアは周囲に集う友人たちを見渡す。
胸に当てた手のひらで自身の呼吸を覚えて、微かに、はにかんだ。
「こわい、けど……平気。
……コウキくんは……?」
しばし顔を見合わせて、コウキは面を下へ向ける。
どこでもない一点を見つめるその眼差しに滲んでいるのは、怯え。
太腿の上で握りしめた拳に力が籠る。
長く、深い息を吐いた。再び、ノアを見つめた。
「おれは、……大丈夫。言わなきゃ、いけないから」
「……うん」
それをもって、2人は乗り出していた体を戻して、マットレスへと腰を預け直す。
こうして、意図せぬ形で始まった、4人の意思の表明が終わりを迎えた。
彼らの不安と心配と杞憂に苛まれていた心は、一度落ち着きを見せる。
とはいえ、ここにいる誰もが持て余している時間を埋めるべく、何かしらの行動を起こす気にはなれないようで。
共に傍にいるだけの、授業開始までの短く長い時間を、ただただ消費する。
「…………」
サキはふと、思い返す。
静まり返って、彼女の到着を願うばかりの空白を埋めるように。
届かないと思い、覚えた痛みと、果たすと信じて、結んだ約束。
とりわけ、それらについての感傷に浸った。
*
7月2日。性教育の日取りが発表された週の、金曜日の放課後。
夕焼けが垂れ込んだ校庭の一角に、間延びした女教師の声が響いた。
「────うん、綺麗に植えかえ出来たね。お疲れ様。
用具片づけたら解散していいよー、みんな」
サキは美化委員会の仕事の一環として、美化委員会の所属する生徒たちと共に、学校内の花壇へと、プランターで育てた花の苗の植えかえを行っていた。
汗を拭い終えて、サキは花壇の前にて自分たちの功績を確認する。
そこあるのは丹念に植えられたニチニチソウ、マリーゴールド。
それらは巡る四季の一節を、確かに彩る。
学校の美化という仕事に、達成感と奉仕精神を見出して入った彼にとって、この光景は十二分の見返りになっていた。
「ふぅ、よし、終わったーっ……。みんな、お疲れさま」
未来に想いを馳せるのもほどほどに、今を顧みる。
用具を別棟の近くの倉庫に片づけると、ぐうっと背中を反らして体を伸びに伸ばす。
後は帰るばかりだ。
サキは倉庫の側に、他の美化委員の物と一緒に纏めて置かれていたランドセルを拾って背負い、手提げを持った。
必要な荷物を抱えたことで、帰ることを認識した彼の身体の内に、奉仕の達成感と共に、休日に差し掛かる週末への期待が、満ち満ちていく。
いつもの面々と、何をする。何をしよう。
いくらでも選択肢があって、茫漠とした未来しか浮かばないのは、楽しいばかりに。
ただ1つだけ、週末に関して残念なこともある。しかしそれは、仕方のないことであると、受け入れて。
そうした心持ちで、帰路への1歩に、付こうとするサキ。
「────よっ、サキ。お疲れ」
そんな彼の背に、思いがけない声がかかった。
「……え、兄ちゃん?」
それは、年頃の少女だというのに、ぶっきらぼうで、けれど温かくあって。
もうすっかりと、耳に、記憶に馴染んだ彼女の声。
咄嗟に声の方へと振り返れば、ミトが、小さく手を振っていた。
眼前の、風景の色が増えていく。口角が、自然と上がっていく。
喉から溢れようとする声色も、弾んだ調子になってしまうのが、分かっていた。
「っ、どうしたの? この時間までいるの、珍しいね。てっきりもう帰ってるのかと」
「ちょっと、な。お母さん待ってるんだよ。今日は学校に迎えに来てくれるから」
「あ、そうなんだ」
「そのまま車で、叔母さんのところまで行くみたいだからさ」
校門の外を指すミト。
しかし、指した指は力なくしなだれる。
帰りゆく小学生はいくら見えども、ミトの母親らしき人影は見当たらない。
「で、その通りに、待ってるんだけど……」
「まだ来てない?」
「ああ。お母さん、何してるんだか。
……でさ、お前が良ければ、話でもしないかって」
疲れてるところ悪いけど、と付け加えて、申し訳なさそうに尋ねるミト。
その小さな頼みはサキにとって、なんら逡巡するような物ではなかった。
僅かに覚えていた疲労と帰宅の切望はすぐに彼方に消えて、もはや反射的に、彼女への返事が飛び出した。
「いいよっ。それぐらい、全然」
「そっか、ありがと。じゃ、校門の方、行こう」
「うんっ」
温かな陽だまりの中にいるかのような、心地の良い充足感と、伸びをしたくなるような安心感が、サキの背中を押す。
同じ美化委員の友人たちに、サキはすれ違いざまに軽く別れを告げながら、校門まで2人は歩いていく。
落ちていく西日に染められていく初夏の空。漂う幾重もの雲も、その色に染まる。
その下ではっきりとした影を落として、映り上がる場所。
校門の脇へと、彼女らはたどり着いた。
「ん、ここで」
ランドセル越しに校門の壁に遠慮なく寄りかかったミトの右隣に、サキは腕がぶつからない程度の距離を持って、寄り添った。
気の置けない、確かな友人としての距離に、彼と彼女はいる。
ふと、サキの鼻先に薫ったのは、夏風に乗った彼女の匂い。
ミトの家特有の、昔から知っている温かな匂いと、少女特有の甘い体臭が混ざり合ったそれ。
どきり、と鼓動が少し早まった自身の心臓を、敏感だと彼は内心で叱った。
「しっかし、頑張ってたなぁ、花壇植え。綺麗だった」
傍らの弟分を見やって、ミトが語らいの口火を切る。
それにサキは、落ち着かせている内面を悟らせない、普段の気軽な態度で、答えた。
「でしょ。これからいっぱい見てよ、兄ちゃん」
「もちろん。……あ、そういえば何植えてたんだあれ?」
「ニチニチソウとね、マリーゴールドで────」
そうやって、他愛のない会話は始まった。
「────今日、コウのクラスと一緒に体育でバスケしてたんだけど」
「へえ、あいつの本領発揮だな」
「うん。それですごい活躍してたんだけど、その分滅茶苦茶注目浴びて恥ずかしそうにしてたのが面白かった」
「……そういうところ、あんまり変わんないなぁ、コウキ」
生まれては途絶えて、時折意味もなく広げて続く、友愛の紡ぎ合い。
「────今週、遊びに行けなくてごめんな」
「ううん、しょうがないよ。大事なことなんだからさ」
「まあ、な。だから、その分、来週いっぱい遊べたら、いいな」
「……うん」
いつもと何も変わらぬ歓談は、何物にも代えがたい快い時間を、生み出していた。
「────ね、早いよね。……ノアが来て、みんなで遊ぶようになって、気づいたら、もう夏が来て」
「……ほんとだな」
「兄ちゃんとランタで、ワルガキ2人って言われてたのが、なんか、懐かしい」
「言うなよ……ふふっ」
サキの懐古に、ミトは肩を竦め、桃色が差した唇を緩めて含み笑いをした。
それは何でもないはずの所作だった。表情の遷移だった。
けれどサキは、それを目で追ってしまう。
一見してなくなっているように見えて、けれど確かに残っている、かつての面影が混じり合った、今の女としての整った相貌と容姿。
盛夏の鮮烈な陽を受けて、彼女の繊細な輪郭に光の粒が煌めいて伝って。
真っ赤な夕焼けの色が、艶やかな黒髪を染めて、溶け合う。
薄っすらとした青い血管を晒す、くすみ1つない肌は、水晶のように透き通っていた。
それらを、きれい、と一言で形容してしまうには、もったいなくて。
けれど、どれだけの言葉を使っても、台無しにしてしまいそうで。
「……」
様々な事柄が浮かんでいた筈のサキの頭の中が、彼女の全てで飽和していく。
羨望と、それ以上の深く熱を帯びたものを持った眼差しで、ミトを見上げた。
言葉を忘れ、声を忘れて。
瞬間さえも、忘失の向こう側。
「────でな、それで……って、サキ、どうかした?」
その言葉をかけられて、はっと、現実に引き戻されるサキ。
気付けば、ミトと視線を交わしていた。
彼女の瞳の中に、呆けた自分がいた。
頬袋を、夕暮れよりも赤い色に染めている、自分が。
「っあ、え、と……ぅ……」
「ん?」
耳が熱をもっていた。
ばくり、ばくり、と呼吸の度に僅かに跳ね上がる上体。
今のサキの心臓を盛んに収縮させるのは、恥ずかしさと焦りだった。
追及されても、答えることなどできない。
さりとて口ごもり、不明瞭に濁すのにも、限界があった。
どうしよう、とひどく焦って、必死に考えて、首より上を熱くさせている緊張が、決して悟られないように、サキはミトへと伝えた。
伝えても大丈夫だと思える部分だけを。
「っ、その、……兄ちゃんと、話せて、嬉しいな、って」
サキの思いがけない打ち明けに、瞠目するミト。
それの意味を飲み込むまでに、数度瞬きを繰り返す。
ミトは、サキから顔を逸らした。彼女の指が、彼女の頬を掻く。
面食らったことを、隠しきれない様子だった。
「どうしたんだよ、急に」
「……なんとなく言いたくなった、だけ。……ほんとに、それだけで」
そう発したっきり、サキは言葉が出てこなくなる。
はっきりと説明することも出来ず、沈黙したばかりに、互いの意を掴み合えない、ぎくしゃくとした空気が生まれてしまっていた。
このままでは、会話が停滞してしまって、気まずい雰囲気の中にて別れてしまう。
次に会うまで、ミトが引きずってしまうことを、危惧した半ば。
ふと、彼は自身の二の腕に感触を覚える。
軽い反発のある、柔らかくなめらかで、熱を覚える感触。
咄嗟に、サキは視線をそれへと移す。そこには、ほんの少し、肩を寄せたミトがいた。
半袖の制服で剥き出しになっている、互いの腕が、触れ合う程の、彼我の距離。
「サキ」
名を呼ばれた。そちらへ横向く。息が、詰まる。
彼女の唇が、弱く、柔く、開かれた。
「……オレも、話せて嬉しいよ」
ミトの言に、サキは目を彷徨わせた後、小さく頷いて、そのまま顔を伏せてしまった。
もう見られてしまっている、と理解していても。
自身がどんな表情を浮かべているのか、知られたくなかった為に。
まっすぐな好情に、喜んで。
けれど、彼女の情味に甘えてしまったことを、悔いて。
そんな、相反する思いが混ざり合って、境界線を失ってあやふやになった、複雑な面持ちのままで。
何でもない時間が過ぎゆく。
親愛を噛み締めているのかのように、2人は黙して語らわないまま。
気づけば、夏風が凪いでいた。
周囲もまた、その雄弁さを失っていた。
「……オレも、さ。言いたくなったこと、言うんだけど」
ぽつりと、その静寂に染み入るように、ミトは囁く。
「……うん」
応えるも、面を上げることが出来ず、サキは訳もなく地面を見つめたままだった。
それでも、自身の不可解な告白に、真摯に答えてくれた彼女に報いたくて。
聞き逃すことだけはないようにと、耳を澄ました。
「その、……ずっと、ありがとな」
ミトの思いがけぬ打ち明けに、先程の彼女と同じように面食らい、数度瞬きを繰り返すサキ。
脳内での反芻を繰り返して、その告白をようやく飲み込む。
嚥下された言葉が、彼の胸の中に落ち込んだ。理解されたそれに、心が反応を起こす。
そうやって彼の内で生まれた感情は、彼女へのどうしようもない、慕情。
そして、微かな、憂慮。
「……どうして?」
勝手に口より零れていた、返事。
ミトは、彼への好意を再確認するかのように、ゆっくりと、語りだす。
「だって、さ。女になってからも、友達でいてくれて。
……性教育係の担当にも、なってくれて……」
彼女が息を吐く。
消え入りそうな、呼気だった。
「今もこうして、付き合ってもらっちゃってさ。
サキの優しさに、すっごく、甘えちゃってる。
甘えてばっかりじゃ、駄目なのに」
痛みが、サキの胸を刺す。それは、知っている痛みだった。
ちくちく、と針の先端を押し当てられたような、鋭いそれ。
自己の価値を貶める彼女への、やり切れない思いが転じたもの。
「……その優しさの分、オレがお前に返せてるかどうか、分かんない。
こんなことじゃ、まだ全然、足りないと思う」
そんなことないよ、と伝えようとした。
甘えてるのは自分だよ、と伝えようとした。
だが、その熱の籠った情動の言は、喉の奥で絡まって、形にならなかった。
彼女はそれを、単純な気遣いとして、受け取ってしまうかもしれないから。
「でも、それでも……いっぱい感謝してるってことを、サキに伝えたかった」
「……」
「……なあ、サキ。やっぱり、もう1回、言わせて」
サキはたまらず、俯いてた視界を、彼女へと向け直した。
ミトは、変わらず自分を見つめていた。
「────ありがとう、サキ。
……お前も、好きな女の子見つけてさ、仲良くして、赤ちゃん作って。
…………俺に向けてくれた優しさの分、幸せになってくれれば、いいな」
そう言って、彼女はサキに微笑みかけた。
サキには、どうしてそんなに何かを堪えたように、寂しく物憂げに笑うのか、分からなかった。
その笑みを見れば、見る程に、いつかの彼女の涙に暮れていた顔が、何故か、過って。
「────…………っ」
サキの喉元まで、募りに募った想いがせり上げる。
だが、それを言葉にしたところで、言い出したところで。
本気で受け取ってくれるわけはない。
当然の帰結だ。心が軋む。
自分は、弟分で、年下で。
かつては、同性だったのだから。
「……ねえ、兄ちゃん」
何でもない呼びかけぐらいしか、言えなくとも、声を絞り出して。
添い合っている右手で彼女のシャツの裾を握った。昔のように。
ただ、何の思惟もなく甘えられていた、あの頃のように。
明白な繋がりが、たまらなく欲しくて。
分かってよ、と身勝手な思いが伝われば、おかしくなってしまうことを分かっていて。
それでも、都合がよく進むことを望んで。
「ん……なあに、サキ」
しっとりとしていて、どきりとする、女の色。
不思議気に、見つめ返すその表情には、それが浮かんでいるように、見えて────。
「…………ううん、なんでもない」
────サキは、裾を握っていた指の力を抜いて。
縮こまろうとしていた表情筋を無理に動かし、ぎこちなく、はにかんだ。
「……そっか」
彼の笑顔をじっと見つめて、しばらくしてからミトは、正面へと頭を向け直す。
また、しんと、その場は静まり返った。
「…………」
ミトの母親が訪れる。
または、会話が生まれ、暇を埋めるなにかのきっかけが現れる。
この沈黙を打ち破る、そうした機会が訪れるのは、すぐのことだった。
しかし今のサキには、それを期待して待つこの瞬間が、永遠のようだった。
思い募りされど叶わない、引き延ばされた主観時間の真ん中。
訳もなく、サキは頭上を見上げる。
暑気が色を深めている、夏の夕焼け。変わらずそれは、朱鷺色だった。
けれど、夜の暗い青が、それを塗り替えようと、天頂から僅かに垂れていた。
夜が、降りようとしている。今が、終わろうとしている。
それは、どこまでもありふれた、日常の一片だというのに。
少年は、黄昏に憂愁を、抱いてた。
誤字報告、感想をいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。