下級生の性教育係なTS娘ちゃんが受精するまでの1日 作:ゆきかお
後編は明日の0時に投稿します。
「────バスケ、辞めようと思ってさ」
郷愁を覚えさせる、冬場の夕焼けの澄んだ赤光が流れゆく、公園からの帰り道。
昔から深く、深く知っていた筈の、しかし今は知らない姿の少女が、知らない声でそう言った。
「…………なんで」
歩みが止まった。不意に吹いた北風が頬に染みる。
歩調を合わせていた彼女が先を行って、すぐに立ち止まって振り向く。
少女は、思い詰めて、悩み込んでいるのが分かる、真剣な表情をしていた。
「……前みたいに、体動かそうとしたら、色々変で。上手く、できないんだ。
まだ1か月だから、慣れてないだけ、なのかもしんないけど」
此方を伺うようにして、彼女は打ち明けていく。
頭の中で複雑に絡まっているのが伝わってくる理由を、どうにか言葉にしながら。
「それに、ちょっと……バスケしてる余裕が、今ないっていうか。
自分のことで、精いっぱいで、な……」
語れば語るほどに、その語気は弱くなっていって。
最後にはしぼんで、消えて、無くなった。
「……落ち着いたら、戻って、来るの」
「分かんない。……いや、多分、もう。
女体化症の特別枠でいるのも、浮いてるみたいで、やだなって思ったから」
「…………」
それっきり、会話は停滞した。
言わなきゃいけない。
選択したことへの励ましだとか、後押しだとかを、言わなくちゃいけないのに。
それを声に乗せようとも、考えが全然に纏まらず、声にならない声を喉元に抱え込む。
「ごめん、な」
何も言い出せないままに、謝らせてしまった。
どうしようもなかったことに対して、罪悪感を覚える必要なんてないのに。
しっかりとした理由があって、それに従って決めたのだから。
納得、しなきゃいけない。なのに。
なのにどうして、こんなにも、未練がましい?
「────コウキ」
前よりほんの少しだけ、高くなったように見える背を、軽く曲げて。
少女は目線を、視線を、自分に合わせる。合わせてくれる。
彼女の瞳の中にいる自分は、口を固く結んでいて。
泣き出すのをこらえているかのような、難しい顔をしていた。
「……バスケ辞めるからってさ。
オレとお前が、友達じゃなくなるわけ、ない」
そのこっちを宥めかす口調は、事務的でも、義務的でもない。
自分を想ってくれていると感じられる、温かい物。
いつだって、自分に向けてくれていたもの。
「色々、変わっちゃったけど。それだけは絶対に、変わんないから」
斜陽に照らされて、寂しげな笑顔がさやかになった、繊細で、儚げな少女。
どこまでも、どこまでも、目の前の少女は、あの人と似ている外見の部分が存在しないのに。
ちょっとぶっきらぼうな男口調、年上然とした仕草。
そうやってたまに、どこか遠くを見つめるように、哀愁を帯びて笑うところも。
あの人のことをずっと見てきたから、分かる。同じだ。一緒なんだ。
だけど、整理が、追い付かない。
頭がずっと、混乱している。
変わってしまったことを、戻れないことを、認められない。
「だから、……だからさ。
これからも、一緒に…………」
自分に歩み寄って、いつもの様に差し伸べてくれる、手。
その手が頭に触れようとした時、途端に膨れ上がった、判別できない激情。
堪えようとして、飲み込もうとして。
けれどそれは途端に、破裂した。
「────触ん、ないでっ!」
自分の喉から響かせた怒声。
気づけば、彼女が差し伸べてくれた手を、跳ねのけていて。
1歩後ろに引いて、距離を取っていた。
「あ……」
拒絶されて、宙をさまよったその手は、だらりと力なく下を向いて。
彼女は言葉を失ったまま、俯いてしまう。
そうやって生まれた、世界が自分達を取り残してしまったかのような、凍り付いた沈黙を。
自分の内のどろりと濁って、渦巻いている激情が溢れて、溶かし出そうとする。
「……置いて、行くんだ。おれのこと」
「え……?」
仕方がないことなのに。
対処や、解決なんか、出来るはずもないのに。
置いて行くなんて、そんなこと、するわけがないのに。
ぐちゃぐちゃとした感傷に駆られたままの、冷静ではない思考野と言語野が。
心にもないことを、叫ぶ。
「かってに、…………勝手にっ!」
唐突に訪れた理不尽への、行き場のない感情。
それを、あろうことか、理不尽に晒された当人にぶつける。
なんて幼稚で、直情的で、醜いんだろう。
「…………あんた、なんかっ」
言っちゃ駄目だ。
それを口にしてしまえば、おかしくなってしまう。直せなくなる。引き戻せなくなる。
けれど、もう、言葉にすればするほど、焚き付けられたように、際限なく燃え上がっていて。
何もかもを灰塵に帰すまで、止まらなかった。
「────あんたなんか、先輩じゃないっ!」
そう叫んで。
最低な、身勝手に耐え切れなくなって。
呆然とする彼女の横を強引に抜けて、駆け出した。
意味のない遁走、現実逃避。帰路とは真逆の方向。
何に起因したのかも分からない涙で目を満たして、嗚咽して。
自分勝手に、大事なあの人を置き去りにした。
「くそっ、なんでっ!なんで…………っ!」
冷気が頬を切り裂いて、乾燥した空気が喉の粘膜を張り付かせる。
唱える自己嫌悪。責めて、悔いて、戒めて。
声が枯れるまで罵ったって、それでもまだ足りない。
吐きそうになったって、慰めなんて与えられようがない。
「う、ぐっ……はっ……う……!」
脳裏で思い起こされ続けるのは、彼女のこと。
言葉を失って、目を見開いて。
笑みを浮かべるはずだった表情を曇らせ、立ち尽くしていた、あの人の姿。
それは、ずっとこれからも、忘れない。忘れちゃいけない。
絶対に。
*
「こっちに入れて……よし……」
事後の余韻から抜け出してから、時限がもうすぐなことに焦って。
どうにかノアを送り出した後、彼の精液を受け止めた使用済みコンドームを、ミトはティッシュにくるんでダンボール箱に放り込む。
「はぁ……休憩……」
ミトは水筒を手に取ると、何気なく揺らす。がらがらと内びんから響く鳴動。
母親がたっぷりと詰めてくれた氷の健在を感じ取って、安心するミト。
そうして、ふたを開けた水筒を両手で掴んで口に傾けると、ごくごくと彼女は麦茶を嚥下した。
麦を炒った独特の香ばしい風味を味蕾に残して、喉を通り、胃に落ちるのを感じる。
歯に染みそうなぐらいに冷え切ったそれは、火照った体には、得も言えぬ甘露だった。
一息ついて、水筒を元の場所に戻したミトは、マットレスに倒れ込む。
疲労、興奮。そして、腰痛が故に。
「あー……いたい……」
基本的に、ミトは痛みに弱い。男の頃からずっとそうである。
2時間目から腰に生じていた痛みが強くなっているのが気になって。
少し動くのが億劫になっていた。
さっきまで忘れられていたものが、こうした空白の時間になるとぶり返しだす。
痛みの正体が不可思議が故に、未知が故に、ただただ怯んでいた。
(ほんとに、なんなのこれ……)
怠惰に寝転がったままの体勢で。
体操服が持ち上がったままで、ずっと露出していた己の胸部に目を向ける。
洗いに行くのは、面倒だ。水道ではどうやっても胸は洗いづらく、時間がかかる。
そもそも、向かう元気がない。
となれば、当座の解決方法は1つしかなく、地道なティッシュでの清掃と相成った。
「……うへぇ」
ミトの口から漏れる、面倒臭さを隠しきれない声。
分かり切っていたとはいえ、ローションの粘調はべとべとと、いつまでも残って。
拭っても拭っても、その粘り気が取れない。
使用するティッシュが間抜けにもこびりつかないようにするのも、無駄に手間がかかり。
胸の違和感を無くすまで、無駄にティッシュを使った。
「はー…………」
大量に消費し一塊に纏めたそれをゴミ箱に投げ捨てて、ようやく事後の始末を終えれば。
いつもの年長者としての、僅かばかりの体裁を保とうするのも、億劫になってきて。
楽になろうと、ミトは体を転がしてマットレスにうつ伏せになり、顔を埋めた。
マットレスに押し付ける形となった鼻腔に、今までの男の子達の、体臭。
そして、情事の残り香が、舞い込む。
(…………熱い)
どうしても、体の火照りが冷めない。
ずっと収まらない動悸が、彼女の胸を浅く上下させて。
いやに熱っぽい呼気を、口の端から零れさせる。
いつかは落ち着くと、楽観視していたそれは。
身体の芯からの、茹るような発熱によって、今や常態化していた。
結局の所、体を冷やしてくれると期待した麦茶は、何の慰めにもならず。
だらしなくシャツの裾をズボンからまろび出させ、大きくめくることで。
空調から放たれる冷気を取り込んでも、焼け石に水。
涼しくあるこの部屋の中でも、しっとりと彼女の肌は、汗ばんでいた。
(どうして、こんなに、なんだろ……)
ミトは、今の自身の状態について、何となく、察していた。
ただ、形にすれば、言葉にすれば。
その事実と否が応でも向き合うことになる故に。
ミトは、思考の余白に逃げて、曖昧で、憶測のままにする。
それがあまりにか弱い抵抗なのが、明白だったとしても。
(…………長い、なぁ)
普段ならば、解放の時間である、10分の休み時間。
しかし、何かをするほどの元気が有り余っているわけではなく。
次の時間に向けて悠然と構える余裕もない現状では、そのたった数分が、ひどく堪える。
どうしようもない孤独が、いたたまれない。
ミトは縋るような心持ちで時計を見上げた。
短針と長針は11時32分を指している。
あと数分で、授業開始の鐘の音が鳴ろうとする経過の途中だ。
彼が来る気配は、一向にない。
「……来ない」
誰かと触れ合いたい。嬉々として話したい。関わりたい。
痛みも、自分のことも、一瞬でいいから、忘れたい。
そんな靄がかった、ぼやけた思考の海にミトは漂う。
それは、まどろみとは程遠い、無軌道的な放心だった。
(まだ、かな。…………大丈夫、かな……)
鈍化した主観時間の中で、ただ彼のことを思い続け数分。
いよいよ時限の鐘が、鳴ろうとする、その時。
不意に、扉の前で足を踏みしめる音がした。
「はあ、はあ……くっ」
荒れた呼吸音が、扉越しにでもはっきりと伝わってくる。
聞き馴染みのある声と一緒に発せられるそれは、誰何するまでもない彼の存在証明。
がちゃがちゃと、焦燥が募っている鍵の開錠音がして。
ミトの意識が、思考の海の水面から、顔を出していく。
「────っは、ふぅ……失礼、します……っ!」
「……良かっ、た。どうぞ」
ガン、と勢いよく扉が開かれて。
室内に踏み込む、制服ではなく、体操服を身に着けた少年が1人。
クリームがかった髪色の、さっぱりとしたショートヘア。
日に焼けつつある、小麦色の肌。
少し吊り目の、三白眼。
それらを纏めて、健康優良児のスポーツ少年といった男の子。
4年生のコウキが、汗だくの状態で、肩で息をしながら。
チャイムの鐘が鳴ると同時に、入室した。
「はぁ、はぁぁ……まにあった、って……。
先輩っ!どう、したの?」
「へ?何が……」
疲弊のあまり、後ろ手に閉じた扉に背を預けて、床に崩れ落ちようとするコウキ。
しかし突っ伏しているミトを認めた途端、強引に膝に力を入れ、立ち上がって駆け寄る。
ミトはその様子に困惑するが、コウキも戸惑いを見せていた。
「いや、だって……顔真っ赤だし、何か、辛そうだし。
いつも座ってんのに、寝てるし。……熱でも、あるの?」
「あー……」
今の自分の状態が彼にどう写るかを失念していたことを、今更ながらに実感するミト。
ノアの時と同じ過ちを犯したことへの、呆れと反省が蘇る。
一瞬の逡巡の後に、彼女は、深刻にならない調子で答える。
ただ、前回有耶無耶にした体調については、誤魔化しきれない状況にある為に、正直に語ることにした。
「……えっと、熱はないよ。
ただ、……腰が、ちょっとだけ、ズキズキって痛くて」
「えっ……何、したの。いや、されたの?」
ランタはわんぱくだが、無茶をしない分別はある。
サキこそ、1番に彼女のことを考えるだろう。
ノアも、絶対にそうすることはない。
じゃあ、一体、と。
コウキの頭の中で開始していた原因探しは、続く彼女の返事であっさりと打ち切られる。
「いやいや。してないし、されてないんだよ。急に、こうなって。
よいしょっ……」
「待って待ってっ!座んなくていいよ!」
「え?あ、ちょっ……」
上体を起こそうとしたミトを、コウキは制止させて、寝るように促す。
半分ほど起こしていた中途半端な体勢から、体をまたマットレスに沈めさせられたミト。
だが、自分の都合で無為に時間を消費する必要などなく。
そもそも性教育の時間はもう始まっている為、後輩の心配を解くことに彼女は努める。
「大丈夫だって。そんな、大したことないから」
「……大したことなかったら、横になってないんじゃないの」
「ん、いや、……それは」
「……腰痛いの、どこら辺?」
「え?……んーと、ここの辺り……」
ミトが後ろ手に回した人差し指で指し示したのは、右側の腸骨付近の腰部。
把握したコウキは、彼女の傍に足を折りたたんで座り込むと。
徐に、右の手の平を、優しく包むかのような力加減で彼女の腰に当てた。
「っ……あ……」
突然触れられたことで、びくりと、ミトの体が一瞬硬直するが。
程無くコウキの意図を理解して、体の緊張を解くミト。
彼女が察した意図の通り、コウキはそこを緩慢なペースで、円を描くようにさすっていく。
「……こうしたら、楽になる?」
「……んん、はぁ……」
細い針で突き刺されるような、脳に負担をかける痛みが、ほんのりと和らいでいく。
痛みのせいで無意識の内に入っていた力が抜けていき。
ミトはたまらず、安堵の息を吐いた。
「……ちょっと、楽になってきた。ありがとう、コウキ」
「別に、こんぐらい」
丁寧な按摩も、確かに効果がある。
けれど、労わられていることが、1番効いているのかもしれないと。
ミトは擦られながら、一人ごちる。
(…………あったかい、な)
もう充分だと遮るのは、難しくもないことだけれど。
コウキの手から体操服越しに伝わってくる、男児特有のほかほかとした体温に安らぎを覚えて。
ミトはずるずると、彼に甘えてしまっていた。
(……ん、あれ)
未だコウキの額に残る汗の粒と、体操服をミトは後ろに向けた目で一瞥して。
今更ながらに、彼女はそれが気になった。
「なあ、コウキ。制服に着替えてこなかったの?」
「時間なかった。体育外だったし、終わるの無駄に遅かったしで。
着替えてる暇なかったから、こっちで、着替えさせてもらおうと思ってたんだけど……」
口ごもったコウキ。
ミトが不思議そうに彼に頭を向けると、その傍には荷物はなく、手ぶらだった。
「忘れちゃった、感じ?」
「そんな、感じ。超急いでて……」
「あー、ドンマイ。昼休みに、ここ使ってよ」
「うん、そうする…………うぁ」
思い立ったように、擦る手とは別の空いた手で、自分の体操服の胸元を鼻まで引っ張って、すんすんと嗅いでみるコウキ。
漂うのは、内のシャツ1枚をもってしても、汗が染みついた予想通りの臭い。
コウキは落胆するように肩を落とした。
「……先輩、おれ、汗臭くない?」
「そう?別に、気になんないよ。
それに、昔からコウキの汗の臭いには慣れてるし」
「…………そういう問題じゃ、ないんだけど」
ミトとコウキには、担当している男子たちの中で、サキに次ぐ長い付き合いがある。
それは、男子ミニバスケットボールクラブの、チームメイトになったことから始まっている物だ。
コウキがこの学校に入学して、数か月経った頃。
彼はバスケをしたいという、欲求を抱えていた。
詳しく言えば、親しい友人と何か熱中できるスポーツをしたいという、深い友人関係と、青春活動に憧れる、少年としてありふれた欲求だ。
それに従い、コウキはこの地域のミニバスケットボールクラブに入部しようとしていた。
ただ、コウキ自身が人見知りなのと、施設暮らしではないことも災いして。
クラブチームに所属している知人はおろか、そもそもの友人自体が少なく。
対人関係の構築が上手くないことで、全くの未知の世界に飛び込むことに、二の足を踏みだし始め、怖くなっていった。
そういった、参加するハードルの高さを覚えてしまえば、進む勇気は徐々に出せなくなり。
自分がクラブの皆々と和気藹々とプレーに励む様子を妄想し。
羨望に耽る日々をコウキは送っていた。
そんなコウキを誘ったのが、彼と一切の面識のなかった、当時2年生。
ミニバスクラブに所属していた、ミトだった。
ある日、コウキが1人でバスケで遊ぼうと、近くのバスケットコートのある公園に向かった時、偶然にもミトが、そのコートで自主練習をしている所に出くわした。
邪魔をするわけにはいかない、と退散しようとしたコウキを引き留めたミトは、一緒に練習しよう、と彼に投げかけた。
1度声をかけられてしまった以上、逃げるわけにもいかず。
おずおずと、コウキはミトの誘いに乗ることにした。
そうして始まった1on1での練習。
殆ど手探りでしかやっていないことによる、コウキのズブの素人っぷりにミトは驚いたが。
すぐに、彼へのレッスンじみた練習に切り替えることで、順応した。
その後、設けた休憩の中で、コウキの身の上話を聞いたミトが、彼を自身が所属しているクラブに誘った。
多少なりとも共にプレーすることで、連帯感と友誼が育まれた、クラブに所属してる人間からの勧誘という、またとないチャンスが訪れて。
それでもなお、人とのかかわりに躊躇していたコウキに。
自分が絶対傍にいる、とミトは宣言した。
その無鉄砲であるけれど、力強い説得に退路を断たれ。
コウキはミニバスのクラブチームに入部することを決めた。
入部当初は、赤の他人ばかりの環境に、怯みに怯んでいたが。
自分が絶対傍にいるという、その言葉通りにミトが確かに面倒を見てくれて。
ゆっくりとだが、ミニバスという形で確実に友好の輪を広げていったことで。
友人も増え、共にバスケをプレーすることの楽しさは増し。
コウキの生活は充実したものになっていた。
そうして、新しい居場所を作ってくれたミトに、感謝と尊敬の念を覚えたコウキは、ミトを強く慕うようになった。
そういった経緯をもって、コウキはミトを「先輩」と呼ぶようになる。
それは、まだコウキの年齢では意識されないような、年上の学生たちが持つ先輩・後輩関係に。
彼が憧れを持っていたが故の敬称だ。
ミトはそういう上下関係に興味はなく、当初はむず痒いことこの上なかったが。
呼ばれる内に気に入って、そう呼ばれることに、すっかりと慣れ親しんで、今に至る。
「────コウキ」
「なに?」
中天に輝きつつある、燦燦とした陽の元での、忙しない空気とは隔絶された。
空調の風で緩やかに揺れた遮光カーテン同士の間から、一筋の陽光が零れる、静穏な空間。
温和になりつつある雰囲気の中で聞こえるのは、優しい衣擦れの音と、ミトの呼吸音だけ。
そんな中で不意にミトが、自身の声を響かせた。
「ごめん、ね」
コウキの擦っていた手が、ぴたりと止まる。
けれどすぐに、何でもないように按摩を再開した。
「……何で、謝んの。謝る必要、ないから」
絞り出したような声で、コウキはミトの真意を伺う。
気遅れた声で、細々と彼女は続けた。
「……だって、こんなこと、させちゃってるしさ。時間、だって」
「いいってばっ。……それに、いざとなったら、1人で、その。
……出せば、いいだけだし」
「1人で?……ふふっ、あっ」
零れ出た、ミトの素の小さな笑声に、笑わないでよ、といじけた調子で呟くコウキ。
彼のその不貞腐れた声色とは裏腹に、彼女を労わるその手は、動かし続けたまま。
ごめんごめん、とミトは即座に謝った。
「……というか、先輩。保健室、行かなくていいの?薬、は貰えるか分かんないけど。
湿布とか、もらえるかも」
「いいよ。さっきも言ったけど、ほんとに大したことない奴だから。
それに、湿布の臭いさせながらするのは、イヤじゃない?」
「……それは、まあ。いや、でも」
生々しいデメリットを提示しても尚、食い下がるコウキに。
ミトは困ったように笑う。
「コウキ、心配しすぎ。嬉しいけどさ。
……今日は、皆の大事な日なんだから、オレのこと、気にしなくていいんだよ」
「…………それ、さ。他の皆にも、言ったでしょ」
「んっ……」
誤魔化そうとして、虚を突かれる形になったミト。
思わず言葉を失って、それ以上に言い出すことが出来ない。
彼女の反応を受けて、コウキの表情に、暗い影が差す。
見た目同様に溌溂としてた声風が、低くなる。
「……ねえ、先輩。
おれが、……おれが言える立場じゃないけど、言わせて」
真に迫った語勢で、コウキはミトに縋った。
彼女は顔を伏せたまま、彼は面を沈めたまま。
「……もっと、頼ってよ。……心配、させてよ。
辛かったら、辛いって言って。誤魔化そうと、しないで」
身を切るような悔恨に満ち溢れた、一言一言。
それは、ミトにも痛いほどに、伝わってきて。
遮ろうとすることも、止めようとすることもできない。
「頼る相手、……おれじゃなくても、サキがいるし。
それにノアだって、頼られたら絶対嬉しいだろうし。
ランタも、何だかんだ喜ぶと思う」
一息に言い切ってから、コウキは深く、息を次いで。
彼女に、1番に言いたいこと。
伝わってほしいことを、彼は吐露した。
「……だから、そうやって、自分のことはいいよって言ってさ。
…………距離を取ろうと、しないで……」
「…………」
彼がここまでに、自分を慮ってくれる訳を、ミトは知っている。
それは、ミトが自分を、男にも戻れず女にもなり切れない、中途半端で。
ひどく進歩がない存在だと強く意識するようになった、ある日の諍いの顛末に起因するものだ。
その諍いというのは、ミトが女体化を理由に。
長く所属していたバスケクラブを辞めることを、コウキに伝えた時に生じたものである。
諍いの原因となったのは、コウキと最初に出会った公園で、これが最後になるだろうとミトが内心考えていたのを隠して、いつもの2人での自主練習を行った後。
引き延ばしても、互いに苦しむだけだからと。
ミトは彼に、単刀直入にバスケクラブを辞める旨を告げてしまったこと。
そうミトは、認識している。
普段通りに行われた練習の後で、女になったミトとの関係に多少の不安はあれど。
これからもこの時間が続くんだと思っていたであろう、コウキの心情。
それをもっと、考慮してあげるべきだったと考えても、後の祭りで。
だからこそ、あんなにもコウキは激発して。
あんたなんか先輩じゃない、と思いの丈を叫び。
ミトの目の前から、逃げるように走り去ったのだった。
そうして、暗澹たる結末を迎えた、次の日の放課後。
コウキはミトの元に憔悴した様子でやって来て、頭を下げた。
彼がぽつりぽつり、とその場の感情に振り回されたことへの改悛の情と。
ミトを傷つけてしまったことの後悔を打ち明けていく内に。
コウキは、脇目も降らずに泣き出した。
ミトは半ば絶縁を覚悟していた故に、彼とまた会えて、話せることにひどく安堵していて。
自分こそ悪かったと、直に謝罪するつもりだった。
しかし、尋常ならぬコウキの様子に慌てふためいて。
自分も謝りつつ彼を宥めるのに、時間がかかったが。
それを持ってこの件は、互いの謝意を持って、円満的な和解となり。
元の通りの友人関係を取り戻した。
けれど問題はその一件以降、コウキはミトに気を使いすぎている節があることだ。
前よりも少なくなった互いの時間を共有する中で。
大体の物事で自分よりもミトを優先して、気にかけてくれることが殆どになった。
心配性か、親切心と言えば、それで済む。昔から確かに、その気は少しあった。
だが、あの諍いで生まれた自分への罪悪感で。
彼を縛って、そうさせてしまっているのではないか。
そんな確信に近い懸念が、ミトの中にはあって。
そして、見知っている方が手を抜きやすく、やりやすいだろうと。
コウキがわざわざ、自らミトの性教育係の担当に志願した時に、完全に懸念は確信に傾いた。
(しょうがなかった、ことなんだから。
そんなに、優しくしなくても、いいのにさ……)
そう脳裏で呟きながらも。
都度気にかけてくれることへの、嬉しさがある以上。
卑しくそれを、享受してしまっているミトには。
拒絶するかのように、強く言い出すことなんて、できていなかった。
(でも、これからも、一緒に、なんて。
……もう、言えない)
いつかは、彼を突き放すなんてことを、言い出せるのか。
それともその前に、彼が自分の元から離れていくのか。
どちらにせよそれは、初体験という性教育の一つの到達点であり区切りであり。
皆が大きな成長を迎える今日が、切っ掛けになる。
ミトは、そう信じようとしていた。
そう信じて、いたかった。
誤字報告、感想をいただけると嬉しいです。
よろしくお願いします。