それから少しして、青年は一人でひっそりと目を覚ました。
生きているのか……?
ゆっくりと体を起こすと突如頭痛が襲い掛かった。荒く呼吸する喉も痛い。手が着く地面から異様な熱を感じる。違う、全身濡れているから自分が異常に冷えているのか。
次々と見舞われる異常事態。しかしそれ以上に青年はここにいることに恐怖した。薄暗く周囲がよく見えないこともそうだが、何より何故こんなとこにいるのか記憶がないのが怖かった。
あの時も存外に怖かったが、それ以上に怖いことがあるとは。やっぱり生きるとは辛いことの連続だ。
少しずつ頭が回ってきて、薄暗いながらも自分が海に、そして野外の建物にいることを理解する。そこから海の家のようなものと言う結論まで辿り着く。
だが大事なのは〝何故そんなところにいるのか〟だ。考えつく答えは一つだが、動機が読めなかった。
そう悩んでいるうちに室内の明かりが点る。点るより先にチリチリと音が聞こえたものだから、男は咄嗟に構えようとするが強張った身体の痛みに声が出てしまった。
「いッ――――っ……」
頭痛からずいぶん長い間寝ていたことは察していたが、ここまでとは。
電気を点してくれたのはここに運んでくれた者だろう。しかし変わらず意図が読めない。だから未だ姿を現せない者を恩人というより得体も知れない者と捉えてしまい、感謝より恐怖の感情の方が強かった。
「えっ、もしかして起きられました?」
部屋の奥から女性の声が響く。悪い人の声ではない。そう確証付けるような少し幼さを残した礼儀正しい声は印象的だった。
コツコツとゆったりとした足音がこちらに近付いてくるのがわかる。
心を、奪われた。先ほどまでは怪訝としていたのに。今は少しだけ顔を合わせることを心待ちにしている。それが証拠。
「天使……?」
だから奥からひょっこりと現れた彼女を見て、こんなことを漏らしてしまった。
それでもその言葉は本心からの物だったからか。否定もせず、赤面することなく変わらず彼女を見つめる。
だって彼女には確かに羽があるのだから。それが灰混じった長く伸びる髪だと気付いても、彼女が美の象徴である天使であることに変わりなかった。
もっともたるは天使というより東煌の伝承に出て来そうな天女のような肩を出した上品な着こなし。対して幼い顔立ちと髪とクセ毛かトサカか判断戸惑う跳ねっ毛が愛嬌を誘う。
芸術以外の言葉で彼女を形容するなら天使しかないだろう。それほどまでに彼は海風に感服していた。
「え……?」
最初は疑問符。しかし次第に言葉を理解していき海風の顔は真っ赤になっていく。
「ちちちちち違います違います! 海風は海風で天使なんかじゃないですそんな畏れ多いですし滅相も無い畏れ多い!!」
手に持ったビールグラスから水をこぼすほどの動揺を見せる海風。
優美な装いとは裏腹に仰々しい反応を示す彼女に男は驚いた顔のまま、落胆の息を落とす。
いや、現実だと。目の前の彼女は天使ではないと安堵した。そうしてくれないとまともに会話なんて出来そうになかったから。
「アンタがここまで運んでくれたのか?」
顔を逸らし、青年は海風に問う。
落ち着いたトーンで、一人驚き慌てふためいた彼女すら冷静に引き戻す。
こほん、と軽く咳払いした後、海風は簡単に経緯を語る。
「はい。海岸に漂流されていて、そのままでは危険だと判断して、この店の持ち主の方には無断ですが運ばせていただきました」
「そっか」
短く答えが少しだけ室内を反響した後、再び静寂があたりを包む。
照れているわけではない。それ以上、彼女にする話がないのだ。
だんまりとする彼の態度に絶えれない海風は心の中で浮足立つ。何か、何か話さないと。ギュッとグラスを握り、自分がグラスを持っていることを思い出す。
「そうだ、お水をどうぞ。海水で喉が痛んでるかもしれませんし」
「どうも」
「いえ」
手渡されると男はすぐさまグラスに口をつける。
そして水が一筋喉に入ると、身体が感覚を思い出したのか、一気に飲み干す。
彼の横に腰を下ろしながら見つめていた海風は、その一部始終に思わず笑みを零してしまう。少し不遜な態度ではあるが根は素直であるようだと気付いたから。
飲み終わり少しして、海風は彼に質問を始めた。
「質問ばかりで畏れ多いのですが、お身体の方は大丈夫ですか? その、記憶とかも……」
まずは身体のこと。出血こそなかったものの、おそらく漂流してきたのだ。海水を飲んで体調がおかしい、もしくは漂流物に当たり怪我や記憶が混乱している可能性も少なくない。
しかし……。青年はその問いに答える前に微笑する。漂流して記憶喪失なんて、あまりにもベタな話すぎるから。
「大丈夫だ。擦り傷が痛むぐらいで他は特に支障はない」
「本当ですか? よかったです……」
本当に安堵したような表情を見せる彼女に青年は懐疑的になる。
なんというか、あまりにも単純すぎる。そのうち知人に騙されて借金を背負わされそうな。そんな危なさを感じてしまう。
目を細め、怪訝な視線に海風は戸惑う。しかしすぐに自己紹介がまだでどう呼べばわからないんだと気付く。
「あ、自己紹介がまだでしたね。海風は海風と申します」
「……苗字? 名前?」
青年は突然の自己紹介にそう言えばと思い出すが、彼女の自己紹介が理解できなかったので首を傾げる。
彼の反応は当然のものだった。あぁ、そうか。と海風は思い出す。
「名前です。畏れ多いですが海風は艦船ですので」
見開かれる青年の目を見て、海風は恥ずかしそうに笑う。
「艦船……対セイレーンの人型兵器? 本物は初めて見た」
彼が驚くのも無理も無かった。ニュースなどでは頻繁に取り上げられるが、一般の人間と艦船はあまり交流がなく、いわば芸能人に存在は近い。
しかしにわかに信じがたい。こんな可憐な少女が兵器……?
「手、触らせてくれないか?」
「手、ですか? はい、構いませんが……」
海風は躊躇なく手を差し出す。
触れられる手。恥ずかしい。そう思いはするも彼の触れ方は異性の手に触れ方ではなく、まるで未知なる物に触れているようで。海風は震える身体をぐっとこらえる。
やっぱり兵器であることを信じることが出来ない。触れる手は柔らかく、赤らむ彼女の顔を見るとそれは人の反応そのまま。
だからより一層、あの噂の信ぴょう性が深まる。
セイレーンとは元々半人半鳥の女性の姿をした伝説の怪物のことだ。綺麗な歌声で船乗りを魅了して船を沈没させると言い伝えられている。
彼らの知るセイレーンは人類の敵と周知されているが、艦船との類似点が多く、艦船が討伐した話は聞くが実物を人々が見ることは極めて少ない。各国の全海軍を巻き込んだ自演を疑う一方で、更に艦船はもっぱら女性型ばかりの点にも着目される。
以上の情報から人々の間ではセイレーンとは、実は艦船のことを示している言葉ではないかと疑う声が出ていた。
もっとも青年からはどうでもいい話だった。ただ一目惚れした理由が欲しかっただけ。ただのまやかしだったと。
そうでないと――――。
「本当に人間と変わらず柔らかいんだな。この手で砲台持ったりするんだろ? 重くないのか?」
飛び出してきたひょんな質問に目を丸くする。
しかし、ああそうか。理論がわかっていない一般の人からすると異様に見えるのか。
「普段はこんな感じですが、艤装を着装したら出力が上がるようになってますので、そのあたりは大丈夫ですよ」
海風の説明に男はわかったのか、わかっていないのか定かではないが「なるほど」と答えを返し、ゆっくり手を離す。
それでも憂いを帯びた視線は相変わらず手に向けられている。
「理屈は今ひとつわからないけど、俺たちはこんな小さな手に守られていたんだな……」
「それが使命ですから」
「使命か……。凄いな。死ぬかもしれないのに、そんなにすんなり受け入れられるなんて」
一般の人間と艦船はあまり交流がない。逆を返せば艦船も一般の人間とあまり交流がない。
だからかそんなことを言う人を海風は始めて見た。人とはみんなこんなことを思うのだろうか。いや、きっとこの人は優しい方だから。改めて確信する。
「それでも、例えアンタが艦船だろうと少し警戒した方がいい。もしこのまま手を引かれて襲われていたらどうするつもりだったんだ」
「それは……無いと思ってましたから……。畏れ多いですが、これでもそこそこ人を見る目はあるんですよ?」
露出している彼女の胸ふくらみの上部から目を逸らしながら忠告する。それは忠告と同時に自分への警告のつもりだった。
なのに彼女は信頼を口にする。ついさっき初めて顔を合わせた男に。しかもちょっとだけ胸を張って。
青年は呆れるしかなかった。断言してしまうところに特に。
「ところで畏れ多いのですが、今度は貴方のお名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
「俺は――――」
名乗るつもりは無く、このまま流してしまうつもりだった。なのに名乗ってしまうのはせめてもの感謝の印か。青年は名乗ってしまった。
これで最後と思うと胸が空くような、少し名残惜しいような不思議な気分に見舞われる。
「自殺しようとしたんだ」
だからか、ついでに言わなくていいことを独白する。
彼女には話しておかないといけない。
心の中でそう建前を作る。本当は慟哭する捌け口が欲しいだけなのに。
「首を吊るより、薬を飲むより、包丁で胸を刺すより、嵐の海に身を投げた方が楽に。そして透明に死ねると思った」
少女は目を大きく見開き驚愕したまま表情を変えない。
初対面の人間にこんなことを告白されているのだ。当たり前の反応だろう。
「でも俺は生きてる」
静かに呟いているが後悔が滲み出ている。
「死のうかな」。彼を助ける直前、海風も何気なく思った。
きっとその重さは比較できないのだろう。海風は軽率に死を口にした自分を恥じる。
「死んだら駄目です。残された人は一生後悔します」
そして逆側の立場の話を始めた。
説教する気はない。ただ理解してほしかった。誰かの死は誰かの不幸の呼び水となってしまうことを。