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――次に彼女が覚醒した時、何故目覚めたのか分からないほど、大きな疲労を感じた。
頭は何か異物を埋め込まれたように痛く。関節は動かす気が起こらないほど固い。全身は床に引かれるように重いのだが、未だ磔にされており、寝転ぶことも出来ない。
(私は……仮面を被せられて……)
記憶を引き出したが、その仮面は今ない。
しかも先ほどと風景が違う。汚泥が濁り混じるように、黒と灰色が天地で混沌とした渦を巻いている。実は自分の目はまだ閉じたままなのではないか、という考え方も出来そうだった。
そんな風景に変化が訪れた。
虫が湧くように、黒い泥が床から盛り上がり、やがて3体の人形になった。その手には、一本ずつ鞭が。やはり粘つくような黒色をしている。
「あぁ……。なるほど」
キサラは来るであろう一撃に身構えた。
次の瞬間、鞭一本がキサラの肩を打ち据える。痛みに加え、鞭に塗られていたらしい漆黒が彼女の白い肌を染める。
「ぐっ……!」
しかし、その程度で彼女は屈しない。第二打、第三打も同じことだった。
「この程度……!」
迫害される身だった頃に、いくらでも耐えてきた。瞳に宿る青き炎で、敵を睨む余裕すらある。
そんなキサラの強さを知ってか知らずか、黒の人形の1体が姿を変えた。甲冑を纏った漆黒の騎士。変化はそこで終わらず、さらに金の短髪や白銀の鎧などの色を持ったそれは――。
「……父、さん……?」
五千年前、キサラがエジプトに流れ着く前に暮らしていた故郷で、自分を育て、多くを教えてくれた。そして戦火から自分を逃がすために――その命を捨てた父の姿だった。
その目は、自分を正しく導く、あの澄んだ瞳とは違った。
復讐に燃える、憎悪の眼……。その眼は、娘を標的に定めていた……。
「きゃあっ!?」
その一撃で、明らかに動揺が見られた。無論本人も自覚している。すぐに立て直しを図る。
「こんな……偽者など……!」
父の姿をしたそれを、必死に敵なのだと自分に言い聞かせる。しかし……同質の敵が複数現れてはどうか。
「えっ――――?」
黒の人形の2体目が変化する。魅力的な女性のシルエットへと……。
キサラと同じ白い肌、流れるような髪。
似ていて当然である。彼女がキサラを産み……育てたのだから。
「……母、さん……?」
父を、自分を、笑顔で包んでくれた母。髪の色以外は瓜二つの母。だがその笑顔はもう失われたものだ。父の機転で、自分と共にエジプトまで流浪の旅をしていた母は、盗賊から自分を庇って死んだ。
そして、いまの母は……嫉妬を抱いた眼で、自分を見下していた。
「うっ……ああああ!!」
肉親2人による拷問。それはキサラの心の鎧を、ゴリゴリと削っていった。
「偽者め! やめろ! やめてぇ!!」
口では抵抗を続け、拷問の事実を偽りとして切り捨てる。しかし、明らかに彼女から余裕が消えていた。いまだに敵を睨むことをやめないのも、雫を落とすまいという理由のほうが大きくなっている。
そして……3体目の人形が、彼女を終焉へと導く使徒となる。
父と母が現れた時点で、予想はしていた。しかし、絶対に現実となってほしくなかった。 その全身は、人の上に立つ者としての、逞しさと知性に満ちている。あらゆることに全力で臨む、真っ直ぐな青い眼と、その愛しい顔は、どれだけ成長しても、何度転生しても、彼女が忘れることなどありえない……。
「セト、様……」
瞳が絶望で濁っている他は、紛れもなく、キサラが愛するセト、その人だった。
やること自体は他の人形と変わらない。黒く塗られた鞭をゆっくり振り上げる。
「いっ……。いやっ……やめて……!」
それだけで、死神を前にした幼子のように、キサラは怯え、唯一自由な首を振って恐れをなす。
否、いっそ死神のほうがマシだった。死ねば終わる。しかも一度きりなのだから。
いかに強靭・無敵・最強を誇る『白き龍』『青眼の白龍』といえど、その心は1人の男を恋い慕う乙女。たとえ叶わずとも、彼の隣にいる自分を夢想していた。だからこそ……たとえ幻想でも……。
その一撃に、彼女の心は耐えられなかった。
「うっ――ああああああ――!!」
一際大きな悲鳴が空気を裂く。絶望の一滴が地に墜ちた。間髪入れずに、彼女の父と母と愛しき男が、キサラを責め立てる。
「やめて! やめて下さい! もうダメなの! もう無理ぃ! 無理ぃ! もう壊れる! こわえるうう――!!」
ついに拒絶も、敵への命令ではなく嘆願の域に入っていく。どうすればこの地獄が終わるのか……その答えの一端を、とうとう彼女は口にした。
「ごめんなさい! 許して下さいいいい!!」
滝のような涙を流してそう叫ぶと、不意に父と母とセトは止まった。
「ぐすっ……ぐすっ……えっ……?」
本当に終わるとは期待していなかったので、キサラは呆然とした。呆然としていた彼女の意識を呼び戻したのは、残念なことに鋭い鞭と粘つく汚泥だった。
「うぁっ……! くぅっ……!」
だが、彼女は法則を見いだした。条件反射に足をかけた。その足を止めるだけの強さは、もう彼女に残っていなかった。
「ごっ……ごめんなさい! ごめんなさいっ!」
するとやはり、自らの罪を認める言葉によって、責め苦は止む。条件反射が完成した。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんな……うっ……ああああ!!」
だが、そう単純なものでもなかった。同じ台詞を吐き続ける大根役者に、慈悲は与えられなかった。台詞一回の効力は段々減っていき、最後には『ごめんなさい』など通用しなくなった。
ならばと、『申し訳ありません』を試してみる。やっと止まってくれた。しかし、繰り返す内にやはり『ごめんなさい』の二の舞になった。
そして、キサラはとうとう悟ってしまった。
「ごめん、なさい……」
黒い鞭の嵐に呑まれながら、彼女は言葉を紡いでいく。
「私なんかの為に戦わせてしまってごめんなさい。
私なんかを守るために死なせてしまってごめんなさい……。
私なんかが、あなたと出会ってしまってごめんなさい……。
私なんかが……生まれてきて、ごめんなさい……!」
彼女は、その生涯と存在を罪深きものと認めた。
断罪の鞭は止まった。
……もっとも、それは一時の慈悲に過ぎないだろうと、彼女は分かっていたが。
「ああ……」
再び償いの時間がやってくる。そしてそれは永遠に終わらないのだろう。
物を壊した罪は、修繕によって償える。物を盗んだ罪は、返還によって償える。
しかし、生まれてきた罪は、生きてきた罪は、死んでも償えない。償っても償い切れない罪を背負い、永遠に罰を受け続けること。いま下されたその審判により、キサラの心は絶望の奈落に墜ちた。
(だれか…………たす、けて…………)
かつて彼女を救った者は、断罪者になっている。故に、キサラを救う者など、もういなかった。
――ただ1人を除いて。
『キサラよ、あらためて問おう。己が罪を清算したいか? その為なら、命と魂を私に捧げる覚悟はあるか?』
姿こそ見えないが……この声の主は、この状況を作った張本人、パラドックスだった。もっとも、キサラにとってそんなことはどうでもよかった。
「――…………げます」
『んっ? なんと言ったかね?』
蜘蛛の糸が垂れてきたのだ。たとえ登った先で蜘蛛に喰われようと、道具として使い捨てられようと――この地獄からの逃げ道という甘味料の、幸福の前には、あまりに些細な問題だった。
「ささげますっ! 身も心も誇りも命も強さも魂も未来もぉ!全部全部全部全部全部ささげますっ! だからお救いください! 無意味で無価値で罪深くて愚かで醜い私をぉ! 償いの道に導いてくださいいいいいいいい!!」
絶望の底の底まで叩き落とされ、其処で希望の釣り針を見せられた。その大きすぎる落差により、キサラは完全に狂い、壊れてしまった。もはやそれは最強の龍にあらず、犬畜生である。餌を前にした犬のように、浅ましい嘆願を繰り返す。
その様に満足したパラドックスは、新たなる下僕に褒美を与えた。
『くくく……。よかろう。では出始めに、お前の身と心を作り替える。抵抗するなよ?』
「は、はい……!」
歓喜に震える声。それを確かめた後、彼女にへばりついていた汚泥が動き出した。
汚泥が、黒が、闇が……鞭によって傷ついた肌から、彼女の中へと染み込んでいく。血管の何本かが黒く脈打ちながら浮かび上がった。
常人ならおぞましさを感じるであろう光景。しかし、狂人と化してしまった彼女が感じていたのは――。
「んっ……くぅ……。きもちいい……。きもちいいですぅ……。あはぁ……。しわわせぇ……」
――快楽だった。湯船に浸かったように恍惚とした表情を浮かべながら、身体と精神が侵食される感触に酔いしれる。
(あぁ……終わっちゃうぅ……。変わっちゃうぅ……。狂っちゃうぅ……わたしぃ……)
最後に残った一欠片の理性がそんなことに気づくが、もう遅い。同時に、かつて本当に夢見ていた幸福が頭に浮かぶが、それも遅すぎた。
セトと共に国を守る白き龍となった自分――。若きファラオを支える妃となった自分――。
瀬人を勝利に導く最強の龍となった自分――。若き社長の右腕として活躍する妻となった自分――。
(なんて……きれいなの……)
この幻想が現実になれば、2人にはきっと幸せすぎる日々が訪れるだろう。一瞬、彼女の心が揺れる。しかし、所詮幻想は幻想。絵に描かれた食卓は、目の前の餌に勝てなかった。
(ごめんなさい……セト様……。こんな夢を見た私が馬鹿だったんです……。罪深い私には、こんな夢を見る資格はない……。叶いもしない夢を追うよりも、私は、自分の罪を清算したいんです。償いを果たしたいんです……。)
彼女はもう――身も心も誇りも命も強さも魂も未来も……全てを捨てたのだ。
(あぁ……それでも……)
それでもなお、彼女に残されたもの。それが、彼女の、キサラとしての、最後の言葉となった。
「あ、い……して……います…………。セ、ト……さ……まぁ…………。」
彼女の全てが、黒く塗りつぶされて終わった――。