降りしきる雨の中、傘をさしたスーツ姿の男性――“
(これで化子も人として真面な生活が出来るはず……)
貰ったパンフレットに目を通し、彼は思案する。
普通の小学校でも彼女なら上手くやっていけそうだが、仮にあの触手や腹の口を見られでもすれば大問題になり得る。そんな事になっては最悪の場合、どこかの研究所で解剖実験なんて話になってしまうだろう。――それは駄目だ。
だからこそ、特殊な事情を抱えた子どもたちを受け入れてくれる学校や、通信制で通える学校を探す必要があった。
(そう言えば、化子の戸籍も登録するべきだよな……。取り敢えず市役所あたりにでも行けば解決するかな)
赤信号で立ち止まって彼は気づいた。思えば、彼女には戸籍が無いのだ。そもそもとして人ならざる存在であるため当然なのだが、人として生きていくのに戸籍が無くては不都合極まりない。
彼女に人としての生活を与えてやるには、成すべき事が多かった。「ふぅ」と息を吐き出して優先順位を付けていく。
「……………………」
そもそも、彼はどうして彼女にそこまでしているのか。適当に難癖をつけて元々彼女が暮らしていたという山にでも帰せば、こんな面倒を引き受けなくても済むはずの話。
だが、もう既に彼は化子のことを人――否、それ以前に愛する娘として見ている。彼女を山に帰す選択肢など考える前から存在していない。
化子と初めてのデートをした、昨日の夜から彼の頭の中は彼女の未来について考える事でいっぱいだった。
「…………ん?」
ゆっくりと帰り道を歩いていた彼は立ててある看板を目にして立ち止まる。そこに書かれてあるのは、工事中を知らせる注意喚起だった。
封鎖された道の先を見てみると、確かに道路整備等でよく見る車や複数の作業員が慌ただしく働いている姿があった。
(……ここで工事するなんて珍しい、と言うかあまりにも急だな。今日までそんな話を聞いてなかったのになぁ……)
想定外の事態に迂回せざるを得なくなった継音。現在地から家まで遠回りをするならば、灯りが少ない山のすぐ近くを通ることになるため出来れば避けたいところだ。しかし、一所懸命に仕事している姿を見て作業の邪魔をする気にはなれなかった。
「まだもう少しだけ帰るのが遅くなりそうだなぁ…………」
大きく溜め息を吐いて、彼は進路を変えた。普段の道が使えなくてショックを受けているのか、
(そう言えば、化子を拾ったのもこんな雨の日だったな。懐かしい…………って言うほどではないけども、少し感慨深いなぁ)
この夜と同じ様に激しい雨が降り続けていた、一ヶ月前の日。彼は自宅のアパート近くで倒れている少女を、性処理目的で拾った。その時は、まさかその子が人外だったとは夢にも思わなかったわけだが。
それからの日々を思い出しながら彼は感傷に浸る。あんなにも憎たらしく思っていた雨の日が、彼女と出会えた切っ掛けと思えば悪い気がしない。寧ろ、記念日にすら感じられる程だ。
(……よし、早く帰らないと)
出会って一ヶ月が経った記念のプレゼントを持ち直し、彼は転ばないように気を付けながら前に進む足を速める。少し奮発して買った携帯ゲーム機と、綺麗なネックレス。彼女に手渡した時の反応が、今から楽しみだった。
――と、そこで彼は視界の端で馴染み深い後ろ姿を見た。
「っ! ……化子?」
長い白髪をたなびかせて歩く少女の背中。体格も見覚えのある姿に瓜二つだった影は、彼の声も聞こえていないようで山の方へ歩いて行く。
(こんな雨の中、傘もささずに…………?)
一瞬の光景を不審には思いつつも、彼女に対する心配が勝って彼は駆け出す。
――もしかすると、彼の帰りがあまりにも遅くなったから彼女も心配に思ってくれたのかもしれない。――
そう考え、彼はその後ろ姿を追った。
「おーい、化子ぉーっ。俺はここにいるぞーっ。早く家にかえ――」
◆◇◆◇◆◇
「…………うん、美味い」
継音の部屋で、化子はレシピ本を片手に頷いた。彼の味には遠く及ばないまでも、そこそこの再現が出来たと確信する。手作りの生姜焼きを前にして彼女は鼻を鳴らす。
いつもなら帰宅してもおかしくない時間になったが彼は帰って来ず、待ちきれなくなった彼女は部屋で料理をしていた。彼が帰って来たらすぐにご飯を食べられるようにする為だった。
文字を覚えても料理本の解読は難しく、一時間ほど悪戦苦闘してそれらしい物は出来上がった。外見は怪しい物体にしか見えないものの味自体はそこまで悪くない。
「言織もきっと喜ぶはず」
そう呟いて、彼女は時計に視線を向ける。時刻は午後十時半過ぎ。
ここまで遅くなったのは彼女の経験上、一日も無い。疲れた様子で帰って来てすぐ寝ようとした日でも、もう少し早い時間に帰って来ていた。
「…………」
豚肉をつまみ食いしながら、彼女は帰らない家主を心配する。
――どこかで何かしらの問題に巻き込まれたのかもしれない。――
そう思った彼女はコンロの火を止めて、部屋の灯りは点けたまま外へ飛び出した。一つしか無い傘は言織が持っている為、彼女は土砂降りの中で傘もささずに駆け出す。
デートでショッピングモールへ行く際に教えて貰った道を辿りながら、彼女は継音の姿を探し続ける。
「……………………」
見落としが無いように速度を抑えて走る彼女。しかし、目当ての人物はどこにもいない。それどころか、記憶の中に染み付いた匂いすら感じ取れない。
雨が降っているとは言え、彼女は正確に彼の匂いを察知できる程度の嗅覚を有しているのだが、それでも彼の痕跡を見つけることは叶わない。
「…………っ! あった」
人混みをかき分けて走り続けること数分、彼女は
継音の匂いはそこから山の方へ向かって続いている。
(どうして言織は別の道を……?)
違和感を胸に抱きながら、彼女は匂いを辿って再び走りだす。
二分ほどの間、殆ど人のいない道をひた走る化子。その足は、彼の匂いと混じって漂う生臭い鉄の香りによって止められた。
「っ、これは……血の匂い…………」
山に暮らしている時は食欲をそそられた、馴染みのある匂い。だが、今となっては不吉な予感をもたらす悪臭として彼女の鼻孔を刺激する。
嫌な想像が脳裏をちらつき、彼女は頭を振ってそれを消し飛ばす。
「とにかく急がないと」
そう口を開いて足を前に出す。すると、足先に何かがぶつかって蹴り飛ばされた。
少し重たい物体が先へ先へと転がり、やがて止まる。
夜目の効く彼女はそれが箱状の物であると認識し、追いかけた。彼の残した何かかもしれないと期待を膨らませ、歩を進める。
蹴り飛ばした箱を見下ろし、彼女はそれを両手で掴み上げる。泥塗れになって汚れてしまっている箱を触手で軽く拭き取り、書かれてある文字を読んだ。
「……、ニン○ンドー……3○S…?」
その文字に彼女は見覚えがあった。それは、継音とのデート中で立ち寄った店に置いてああった商品。
その箱に血液がベットリと付着しているのを目にして背筋が凍り、彼女はそれを落した。
「……………………」
何度も脳裏を
――そこで彼女の視界に映ってしまった。
「っ!? なに……これ…………」
足下へ目を向けると、彼女の周囲には
思わず目を背けたくなる惨状を前に、彼女の鼻孔は確かに嗅ぎ覚えのある匂いをキャッチした。その匂いに釣られてフラフラと歩き、そして
「…………そ、んな」
何者かに喰い千切られたかのような断面を持つ、人の頭部が半分。大きく目を見開いたその顔は、間違い無く“言織 継音”のものだった。中身も無惨に喰い散らかされている頭を手に取って、彼女は膝から崩れ落ちる。
悲惨な
◆ ◆ ◆
言いようのない後悔と悲壮を抱えたまま、赤く腫れた双眸を前に向ける。血の跡や匂いと共に彼の匂いが山へと続いている。恐らくは、この先に彼を――言織を惨殺した犯人がいるのだろう。
彼女は木の根元へ遺体の一部を静かに置いて、血痕を辿る。
触手を激しくうねらせながら、少女の黄色い瞳が闇の先を射抜く。
溢れ出る憎悪を露わにして、化子は血の道を
全長は十メートル以上あるであろう巨大なナメクジ状の泥が、高速で迫る外敵の存在を察知して飛び退く。瞬間、目にも留まらぬ速さで何かが地面に触れたかと思えば周囲の土や石などを抉り取った。
「お前だな。言織を喰ったのは…………」
少女の冷たい声が巨体の怪物に突き刺さる。
ゆっくりと歩いている姿からは只ならぬ殺気が漏れ出ており、複数の触手が辺りの樹々を瞬く間に薙ぎ払って吹き飛ばしている。
「……………………」
その光景を前にして、巨躯の怪物は何の反応も示さない。そもそも目という物が存在しているのかすら不明な容姿で、彼女が何をしているのか見えていない可能性も考えられるのだが。
ともかく、怯えているような様子がまるで見受けられないそれは強烈な殺気を向けられている中で、悠然と構えている。
対峙する化子は深く息を吐いた。怒りで血が上っている頭から、出来る限り落ち着きを取り戻して相手を見据える。
(…………やっぱり、間違い無い……。アイツだ…………)
巨躯の怪物から漂う血や言織の匂い、そして朧げな記憶からその姿を当てはめる。暫くして、彼女は目の前にいるそれが彼を殺した犯人である事と同時に、凡そ一ヶ月の縄張り争いで自身を負かした相手である事を確信した。
彼女にとって因縁の相手との再戦は、不幸にも彼女にとって大切な人の命を犠牲に執り行われることとなってしまった。
胸の内から沸き立つ憤りを抑えつつ、彼女の意識は怪物へと向けられる。
(アイツは本体を分厚い泥の層で覆っている。つまり、殺すには内部へ直接攻撃をすれば良い……)
縄張り争いの戦闘で得た情報を基に戦略を組み立てていく。
彼女が相対している怪物は、外敵や環境から身を守る為に自身の分泌物と土を混ぜ合わせた特殊な泥で身体を保護している。その泥は非常に高い粘度を有しており、並大抵の衝撃は吸収・緩和してしまう。またそれだけでなく、泥の一部を固めて弾丸のように撃ち出して攻撃することも可能であり、正に攻防一体の鎧として機能している。
そんな無敵のように思える能力を有している泥だが、実際には弱点も存在している。怪物と呼ばれていようとも所詮は生き物の分類であり、生命維持には空気――厳密には酸素を必須としている。しかし全身を常に泥で覆っていては呼吸することは叶わず命を落としてしまう為、一定のスパンで呼吸器に通じる部位を露出させる必要がある。
そのタイミングで攻撃を与えれば充分なダメージになり得るだろう。顔を出す瞬間さえ見逃さなければ、彼女にも勝機はある。
(……ただ、それだけではない…………)
しかし、脅威となるのは泥だけではない。本体が獲物を捕まえる際に放出する、幻覚作用を有した毒ガスも存在する。このガスを吸ってしまうと誤った現実を認識させられ、身体の内側から
化子は歯を食いしばって拳を握り締め、憎悪の籠った瞳で仇敵を射抜く。
――ガスは吸わなければ無害。そもそも本体が顔を出さないと、その毒ガスも吐き出しては来ない。――
懸念点を頭の片隅に置き、姿勢を低く構えた。
(…………、まずは疲弊させる)
怪物が空気を求める瞬間を誘発させるため、彼女は大地を蹴って勢いよく飛び出す。そして視界の先に生えている樹を目指しながら触手による攻撃も加える。人間ならば認識すら不可能の超スピードによる奇襲も、巨躯の怪物は難無く回避してみせた。
触手が空振った勢いで姿勢を反転させて樹皮に両足を着けると、彼女は再び怪物に狙いを定めて一直線に
右へ、左へ、上へ、下へ――。生い茂る樹々を利用して縦横無尽に駆け抜け、息も吐かせない連続攻撃を仕掛け続ける化子。踏み抜く衝撃で折られた幹が数を増し、その度に彼女の速度は上昇していく。
「――っ」
ぐんぐん速くなる彼女の攻撃速度に追いつけなくなったのか、遂に振りかぶった触手が巨体を捉えた。鞭のようにしなる触手が泥の層にめり込み、振り抜いた衝撃で一部分を削り取る。ダメージにはならないであろう一撃だが、それでも彼女が速さで勝った証明。
身体を半回転させて樹木に足を着けた彼女は再度攻撃を仕掛けようと両脚に力を籠める。すると泥の中から
(今だっ!)
絶好のチャンスを前に、間髪入れず彼女は飛び出す。脅威となるガスを吸わないよう、息を止めて握った拳を振り
「――っ、まず……」
冷静さを失っていた彼女に、それが罠であると気づけたのは怪物の開いた口から何かが吐き出された直後だった。
予め口内へ含ませていたと思われる泥の塊が真っ直ぐに彼女へ向かって飛来していく。銃弾と同程度の速度で飛ぶ物体を、自身もまたそれに並ぶ速度で駆けていた彼女に回避する術は無い。
危険を察知して口を開いた瞬間には大きな重量の泥が腹部に直撃し、彼女の身体がくの字に曲げられる。そして進行方向を真逆に変えて、駆け出した時の倍近い速度で吹き飛ばされた。
「がはぁっっっ。っ、げほっげほっ」
並び立つ樹々をへし折りながら少女の身体は転げ飛び、百メートル近く離れた岩に衝突して止まった。衣服は破れ、全身に擦り傷や打撲痕が出来ており、特に攻撃が直撃した腹部は衝撃で布地が消し飛んでしまい、露わになった口が泥の塊を受け止めている。
ぐったりと倒れ伏していた彼女はよろめきながら立ち上がり、受け止めた飛来物を吐き捨てた。固まった泥は一部が欠けており、そこから粘性を有した物質がゆっくりと流れ出ている。
「はぁっ…、はぁっ…、っ………、はぁ…」
彼女は息を整えながら全身に力を集中させる。すると身体に出来た傷が全て完治し、土汚れの一つすら無い綺麗な肌が破れた衣服から覗き見える。
ある程度まで呼吸を元通りにさせて一息吐いて、彼女は吹き飛ばされてきた方向へ視線を向けた。その先には引き摺るようにのそのそと移動してきた怪物の姿があった。
(……作戦、練り直さないと…………)
相手を疲弊させるつもりだったが、結果として自身の体力を消耗させることになってしまった化子。今から同じ策を再挑戦しても効果は期待出来ないだろうし、そもそも通じる筈が無いだろう。
自己修復に力の殆どを割いてしまった彼女には、先程と同等の力を発揮することが難しい状態にあり、その上で無敵の要塞を攻略しなければならない。たった一度の反撃を受けただけで、彼女はかなり絶望的な状況に陥ってしまった。
形勢を逆転させる何かを思案する。――が、
「痛ぅっっ!?」
僅かに怪物から意識を逸らしてしまった瞬間に左脚から激痛が走り、力が抜けて膝を付いた。負傷箇所に目をやると、刃物か何かで足首を斬られたような痕があった。
近くの岩には薄い円盤状の物体が突き刺さっており、彼女のものと思われる血液が表面に付着している。
(そんな飛ばし方が出来るなんて…………)
化子はそれを見て
怪物の攻撃手段は、何も泥を丸く固めて飛ばすだけではない。固める形状を変えれば対象物を切断させることも可能だったのだ。
彼女は急いで負傷した箇所の治療に集中しようとする。だが、相手がそれを黙って見過ごすはずもない。
「くっ、うぐぅっっ。痛ぅっ、がふっっ、ぐあっっっ……」
巨躯の怪物は次から次へと自身の泥を固めては、彼女を目掛けて吐き出す。球形の物や円盤状の物、大小様々な形状で飛来する凶器。
跪いた姿勢で自分の身体を守るように両腕と複数の触手で防ぐ少女。しかし圧倒的な物量と破壊力には、彼女の防御もあまり意味を成さなかった。円盤が飛来すれば触手や腕ごと身体を切り刻まれ、砲丸が飛来すれば全身を酷く打ち付けられる。
怪物が固めた泥を吐き出す度に彼女の身体中へ裂傷や打撲が生じ、鮮血が周囲に飛び散った。腹部の口で受け止めながら、多少は被害を減らそうとするものの焼石に水。それどころか口内へ飛来物を含ませていく程、彼女のお腹は膨張していき相手の攻撃がより当たりやすくなってしまう。
それでも身体中に傷が付けられる度に自己修復を行うが、治るよりも先に新たな負傷が彼女を苛んでいく。ジリ貧などという言葉では表現できない程に、彼女の勝機は絶望的に潰えていた。
「あぅ゛っ――」
懸命に守っていた頭部へ一際大きな泥が衝突し、彼女は呻き声を漏らして倒れる。全身から血を流しながら仰向けに倒れた彼女はピクリとも動いておらず、気を失ったか死んでしまったようだ。
生気を感じられなくなった彼女への攻撃を止め、巨躯の怪物はゆっくりと近づいていく。そして念のために数発だけ泥を打ち込み、それでも反応を示さない少女を安全と判断して本体が泥の鎧から姿を現す。
「……………………」
細く小さな腕が数本伸び、彼女の身体を掴み上げるとそのまま大きく開けた口の中へ放り込んでしまった。
◆ ◆ ◆
月明りが照らす大地。少しずつ溶けていく泥に覆われて倒れ伏す巨大な怪物の口をこじ開けて、唾液に
「……はぁっ、……はぁっ、……はぁ」
衣服は既にボロボロの布切れと化しており、辛うじて触手の生え際辺りを隠している格好の彼女は虫の息も同然だった。それもそのはず、呼吸を許されない環境下で五分以上も囚われていたのだから。
「…………どうにか、倒せた……みたい…………」
静寂の包む夜の山で、小さく呟いた化子。
彼女と巨躯の怪物が繰り広げた戦闘の結末はこうだった。気を失った振りをしていた彼女は、怪物が丸吞みしてきた時点で触手を細い腕に巻き付けて脱出経路を確保した後に腹部の口へ含ませていた泥の塊を全て砕き割った。唾液で固めた泥も硬化しているのは外側だけであり、中身は高い粘度を有したまま。それを本人の意思と関係無く大量に口内へ含ませれば、分泌物による硬化も間に合わず気管を塞いでしまう。気道を潰された怪物は毒ガスを放出しながら藻掻き苦しみ、やがて死に至った。
もしも、含ませておいた泥を吐き出させられていたら――。もしも、丸吞みにはされずに身体を嚙み砕かれていたら――。
不確定要素が多い中、運を味方につけてどうにか勝利を手にした彼女だが満身創痍となっており、もはや歩く事すらままならない状態。
(…………力を、使い過ぎた……。何か…………食べ、ないと……)
やはり自己修復に力を集中させ過ぎたのが悪手だった。少しでも多くの飛来物を溜め込むために取った手段は、彼女を疲弊させる原因の一助となってしまったようだ。
腕も、脚も、触手さえも。満足に動かすことの叶わない彼女は、それでも力を取り戻す為の食料を探す。
「っ、…………」
そんな中で彼女が目に付けたのは窒息した怪物の死骸。サイズは充分、完食すれば全回復も見込めるだろう。
眼前で横たわる肉の山。飢えを堪えられない彼女は這いずって近寄り、自身の腹部を硬い皮膚へ押し当てた。一度で、より多くの肉を摂取するにはその方が速い。
「……いただき、ます…………」
残る力を振り絞って牙を立てて死肉を齧り――、
「~~っっ!」
目を見開いた彼女は思わず吐き出した。
以前は特に何も思う事無く食していた獣臭い生肉。咀嚼しなくても分かる硬さと血の匂いを、身体が生理的に拒絶する。慣れ親しんでいたはずのそれは、今の彼女には食料として認識し得ない物となっていた。
恐らくは継音と暮らしていく中で口にした料理の数々が彼女の味覚を発達させ、何の処理もされていない血肉を受け付けられなくなってしまったのだろう。
「おいしく……ない…………」
だが、それでも生きる為には必要な物。彼女は込み上げる吐き気を我慢しつつ、怪物の骸を少しずつ貪っていく。とても完食出来るものではないが、多少でも喰らえば歩く事くらいにまでは回復できるはずである。
今は亡き男の提供してくれていた料理を思い出しながら、少女は涙を流して血肉を嚙み千切って嚥下する。
数十分かけて骸の一部を食し、どうにか暫く歩ける程の体力を取り戻した化子はゆっくりと山を下りて行く。あれ以上の量を胃袋へ流し込むのは、彼女の精神的に限界だった。
(言織の部屋に……、私が作った料理がある…………。それを食べれ、ば……)
彼の味には遠く及ばないでも、あの生肉よりは美味しい自分の手料理。
それを求めて彼女はよろめきながらも一歩一歩、前に歩を進める。自己修復が出来ずに流血の止まらない裂傷を手で押さえながら、疲労が蓄積した身体に鞭を打つ。
「こと、おり……」
怒りの対象を自らの手で殺害した彼女の胸中に残ったのは、深い深い後悔だった。どうしようもない負の感情が、彼女の思考を埋め尽くしていく。
――もっと早くに部屋を出れば。
――常に護衛をしていれば。
(……いや、そもそも出会わなければ――)
そう考えた瞬間、大きな音が鳴るほどに強く自身の頬を引っ叩いた。弱気な感情に支配されたからとは言え、大切な人との思い出を否定するような思考をしてしまった自分が許せない。痛みと共に自身への怒りが滲む。
彼女の意識はもう、濁り淀んだ渦の底へと引き込まれていた。
段々と重たくなっていく脚を引きずるように歩き続け、化子は漸く山から下りた。だが、その頃には精神的にも肉体的にも限界を迎えてしまっていた。
血を流し過ぎた彼女の身体が、整備されたアスファルトの上で崩れ落ちる。もう一歩も動くことは出来ない。
(こと…おり…………。いやだ、死にたくない……)
少しずつ失われていく自身の体温から、歩み寄る死を実感して恐れ
(怖いよ…………、助けて……)
涙で滲む視界が端から徐々に闇で覆われていく。それに伴い、段々と意識も深く
やがて少女は豪雨の降りしきる夜空の下、弱まっていく鼓動を感じながら気を失った。