メキっ…。
聞こえてくる音だけでもイヤになる。
深い森の中。生い茂る樹木の影を のっしのっしと我が物顔で歩く巨体は、まさに森の主と言っても申し分ないものだった。
「クマ…だね。いや、言うほどクマかな、あれは…」
後を追うのに問題は無かった。なにせ目立つ。
その後姿は、狩人を生業とするコハナには見慣れた存在ではあったけど、あんまりな大きさに2度見せずにいられない。
痕跡を辿りながら覚悟はしていた。デカいデカいと想像はしていても、まさか自分の身長の倍はあろうクマを見かけるなんて思っても見なかった。
このまま成長を続ければ、獣から魔獣の領域に手が届くのもすぐだろう。
育ちすぎた体は、クマ本来の臆病さを飲み込ませ、強すぎる力は外敵なんて寄せ付けない。
ココまでくれば、後はもう育つに任せるばっかりだ。
冬のために備えるエネルギーは体の維持と成長に回され、彼が生きていく為には最早食べ続ける以外の選択肢が無くなっている。
食べて食べて、成長を続けて、また食べて…。
森の中の食料だけでは足りなくなっているんだろう。その痕跡は既に人里の近くにまで来ていた。
少しだけ、終わりのない飢餓に苦しむ彼の姿が可哀想に思う。
「よし…やるか」
世の為、人の為。なによりも、自然から不自然へ、足を踏み外そうとしている彼の為に。
コハナが特別強いというわけでもない。上から数えれば下の方、下から数えるよりは全然マシ。取り柄と言えば獣人由来の身体能力くらいのものだ。
それでも、村の男達が束になっても負けない程度には強い。
今から男手を集めても怪我人が増えるだけ。まして、今日明日にもあのクマが人里に降りてくることを考えれば、外から人を呼んでくるのも間に合わない。
自分一人。無事じゃ済まない可能性を考えつつも、お世話になってきた村の人達を見捨てることも考えられず、ぐっと腹を決めるしか無かった。
ハタっと、耳を動かして風を読む。空気を吸い込んで匂いを辿る。
クマの、土の、草の、木の、風の、気配を読み取り、自身をその中に紛れ込ませていく。
感がいい…。
殺気を読んだとでも言うんだろうか?
気配は完全に断ったつもりだったのに。弓を構えたその途端、傍若無人と歩いていたクマは足を止め、周囲を伺う素振りを見せた。
まずは足を狙う。
狙いやすいのもそうだし、あの巨体を支えるのに3本足じゃ辛いはず。
一発射抜いて、こっちに走ってくるまでに もう2・3発…。それで、倒れてくれれば良いんだけど。
すぅ…はぁ…。
風を撚り合わせるように息を吸い、弓を引き絞る。
細く、糸の様に、吸い込んだ空気を紡いでいく。そのイメージを風に乗せ、それがクマの足に絡みついた瞬間に引き絞った弓を解き放った。
ビュンっと、甲高く風を切る音が木々の合間を抜けていく。
その音にクマの耳が跳ね、視線は確かにコハナを捕らえていた。
だけど、それでも遅い。
音よりも早く駆けたコハナの矢は、クマの前足を貫き、絶叫を森へと響かせた。
痛みと、混乱と、何よりも怒りに染まった雄叫びが上がる。
雑多な枝葉を吹き飛ばしながら、巨体頼みの突進は、転がる大岩の様な勢いでコハナに向かっていく。
「っ…速いな」
2射目を肩口へ、それでも止まらず3射目と構える頃には、クマはコハナの目の前に迫り、矢の突き刺さったままの巨腕を振り上げていた。
力比べなんてゴメンだ。だからって、逃げるのにも遅すぎる。
手元のナイフを押し付けた所で、ナイフごと僕の身体が弾き飛ばされるだけだろう。
それならと、覚悟を決めたその瞬間。時間が遅くなった気がした。
集中に集中を重ねたコハナの意識は引き伸ばされ、クマの動きがコマ送りになる。引き絞った弦を更に引き上げ、限界を叫んだ弓からギリと音が鳴った。
「そこっ…」
ゆらり、ゆらりと。振り子のように揺れていた矢じりの先が、クマの目線と重なると同時。放たれた弓は、その眼窩へと吸い込まれるように飛び込んでいった。
走り込んできた勢いのまま、怒りで見開かれた眼球に飛び込んでいく矢じり。クマの瞳には、自身を貫く弓の先端がしかと見えただろう。
その瞬間に視界が潰れ、反射的に落ちた瞼は閉じることも許されない。
突き刺さり、貫かれ、痛みの内に体の自由を失くしたクマは、木々の間を転がると、大木の根本に強かと体を打ちつけた。
「すぅぅぅ…はぁぁぁ…っと」
大きく息を吸い込んだ後、コハナは体から力を抜いていった。
間延びした時間が元に戻る。むしろ、急に時間が加速したような気さえして、立ち眩みの様な感覚にも襲われた。
どさり…。
その場で尻もちを付き、倒れ伏したクマの方へと視線を放る。
上手いこと勢いに乗った矢は、内側から頭蓋にまで届き、クマの頭を貫いていた。むしろ、そんな状況で、まだ息をしているクマの生命力が恐ろしく、これ以上成長する前で本当に良かったと思う。
「はぁ、怖かったぁ…」
気が抜けると指先が震え出す。
命を天秤に乗せる感覚は、何度やっても馴れるものじゃない。
奪ったし、奪われそうだったし。生きる為と、割り切っていても、そこに抵抗を覚える自分に安堵もしてもいた。
「ごめんね。貴方を放って置くと、皆ダメになっちゃってたから…お休み」
放って置いても死ぬんだろう。だけど、これは僕の仕事に思う。
息も絶え絶えと、抵抗する気力もなく、ほとんど死んだ目をしたクマが僕を見つめて喉を鳴らした。
命乞いかな? それとも恨み節なのか。称賛を、健闘を称えてくれてる風には思えないけど。森の中での切った張ったは、お互いに納得してる所だと思いたい。
ナイフを抜き、力を蓄えて、クマの急所へと全力で振り落とす。
せめて少しでも早く楽になれるように。
深々と、生々しく突き刺さる感触を押し切るようにして、僕は手ずから彼に引導を渡していた。
ー
「よっこいしょっと…。それじゃ、後お願いね?」
証拠の代わりに運んできたクマの一部を預けると、村の大人達は歓声を上げて森へと突撃していった。
昨日まではあんなに怖がっていたのに。
現金なものだと苦笑しながらも、きっと今日はご馳走にありつけるだろう事を思えば、僕も人のことは言えなかった。
感謝されて鼻高々と、調子に乗ってしまったのもある。
自然と頬が緩み、鼻歌交じりに帰路についていると、僕に気づいたお姉さんが慌てて駆け寄ってきた。
「ハナちゃんっ! あのっ、ウチの子っ、見なかった?」
「ウチの子って、トレヤくん? いや、僕は知らないけれど?」
「そんな…」
焦燥と混乱。それが見て取れるほどに狼狽えているのは、隣に住んでいるお姉さんだった。家族ぐるみな関係。というのも照れくさいけど、一人暮らしな僕の事をよく気にかけてくれていて、手が空いた時なんかはトレヤくんの、彼女の弟の面倒を見ているような関係だった。
「森に行くって、てっきりハナちゃんと一緒なものとばかり…」
「あの子はもう…。今はクマが出るからダメっていったのに」
トレヤくんが一緒に狩りに連れていけって、ゴネだしたのは最近になってからだ。それまでは、年下の男の子という感じで、素直で可愛らしくもあったのに。
反抗期というか、男の子というか。
それが微笑ましいだけに、無碍にもしづらく。「私に勝てない内はだめでーす」なんて、訓練という名のじゃれ合いで誤魔化してはいたつもりだった。
「筋が良いかもね」なんて中途半端な称賛と、その場限りのご機嫌取り。
まったくの嘘でもなかったけれど、それが逆に変な自信を作ってしまったのか。
一人で森に入るなんて今の彼には勇み足も良い所だ。
「僕、ちょっと探してくるよ。お姉さんは家にいて? もどかしいだろうけど、ひょっこり帰ってくるかもだし?」
「ええ、そう…ね。分かった、ハナちゃんも、気をつけて」
「任せてよ。これでも強いんだよ、僕」
「ふふっ。しってる…」
無駄におちゃらけて、力こぶを作って見せる。
少しは気も紛れたんだろうか。苦笑するお姉さんに笑顔を向けると、僕は急いで来た道を引き返していた。