「はぁ…バカか、俺は」
呟くと同時に、トレヤの足は止まっていた。
気が抜けたと言えばそう。執拗なまでに追いかけて来ていた狼たちの気配が薄れ、ようやくと目先の危険がなくなれば誰だってそうなる。
洞窟の壁に背を預け、崩れるように腰を下ろすと、思い返すのは今朝の出来事だった。
「それじゃ、留守番はお願いね?」
そういって、いつものように柔らかい笑顔を浮かべ、森の中へ入っていくコハナを見送った。
いつも通りといえばそう。狩人が生業のコハナが森に入るのは当たり前で、俺だって相手が狼とかなら、別に心配なんてしなかった。
デカいクマが出た。
村の大人が森から逃げ帰ってきたのはその前日。
「じゃあ、僕がちょっと見てくるよ」って、あんまりに軽い調子で言うもんだから、皆コハナに任せっきりにしてしまったんだ。
一人で行かせたくなんかなかった。
コハナ一人に無茶をさせようとする大人たちが信じられなかった。
「一緒に行く」と、せめて俺だけでもコハナの力になりたくて、堪らず口にした言葉は、当然コハナに窘められてしまう。
「僕が留守の間は、トレヤくんがお姉さんを守らないと」
そんな風に言われてしまったら、流石に何も言い返せない。
渋々と頷いた振りをしたまではいいものの。
居ても立っても居られなくなった俺は、結局 家から抜け出し、コハナの後を追って森の中へと入ってしまった。
「くそっ…」
ぽんっと、肩に乗せられた手の平の感触を思い出す。
柔らかくて、温かくて、それを追いかけた結果がこれだ。
森に入って少しもしない内に、出くわした狼たちに追いかけ回された。
なんでこんな村の近くにって、中途半端な知識が仇になる。
森は危険な所だからって、散々教えられていたのも忘れて吐いた悪態は、なによりも迂闊な自分に向けられたものだった。
命からがら洞窟に飛び込んで、それでも追いかけてくる狼たちを振り切って…。
まぁ、なんとか生きているだけでも儲けものかも知れないが、生きて家に帰れるかは分からない。残った問題の重たさに、どうしても気が滅入りそうだった。
まずは少しでも体を休めよう。それからだ、来た道を辿るか、先に進むのかを考えるのかは。
落ち着いて。コハナに教えてもらった事全部を思い出しながら、なんとか自力で帰り着かないと、どんな顔して会ったら良いのか分からない。
それ以前に、もう一度会えるかな…。
「っ! ダメだろ俺。しっかりしろよっ…」
弱気を叱りつけるため、後頭部を洞窟の壁へと打ち付けた。
ガンっと、瞼の裏に火花が散り、思わぬ痛みに目が覚める。
「いってぇっ…」
加減を間違えた。
つぅっと、血の流れる嫌な熱が首筋を流れていく。
心が曇る。込み上げてきた何かが涙に代わり、今にも溢れそうだった。
泣いたらダメだ。泣いたらダメだ。今泣いてしまったら、立ち上がれなくなる。
そんな、弱気が聞かせた幻聴だったんだろうか?
「トレヤくんっ!」
洞窟に響く優しい声。
いつもいつもそうやって、名前を呼ばれて嬉しいはずなのに、俺のことを子供扱いしてくるような声音が、いつからか嫌になっていた。
でも、その声を聞いてしまった途端に、自分がまだ子供だった事を思い知らされる。
「へ…。ハナ、お姉ちゃん…」
助けになんて来て欲しくなかった。
余計な心配を掛けたくなかった。
こんな格好悪い自分の姿を見られたくもなかった。
なのに…。
薄暗い洞窟の奥から駆け寄ってくる見慣れた姿。
何か言おうとして何も言えなくなり、安心に胸を満たされると、目元が緩んでいくのを抑えられなくなる。
「あ、ぅ…ひぐっ。俺、おれ…ごめ、ごめんなさい…っ」
「良かったっ。無事で…っ」
抱きしめられて、背中に手を回される。コハナの温もりに全身を包まれた瞬間、必死で耐えていたものが途切れると、そのまま声を上げて泣いていた。
一通り、一頻り。
コハナの服が自分の涙で濡れるほど泣き腫らしてしまった。
それも、ようやく落ち着いてくると、今の自分の状態が、急に恥ずかしくなってくる。
好きな人の胸の中で、どうしようもなく泣いてしまった。
格好がつかない。今更つけられるものもないけれど、どうしたってバツは悪い。
「あの、ハナ。もう、大丈夫だから…ごめん」
名残惜しさを振り切って、なんとか体を離そうとすると、逆に、強い力で引き留められてしまう。
「別に照れなくたって。もう少し休んでよ?」
「照れてなんか。俺は、もう平気だし。ハナが来なくたって…別に」
「そう? 僕はちょっと疲れたよ。君の事、散々探し回ったし」
「うっ…。それは、ごめん…」
「いいよ。トレヤくんが無事ならさ」
罪悪感からか、そう言われてしまうと何も言い返せない。
ただ、されるがままに抱きしめられていると、コハナの胸の内から甘い匂いがする事に気づいた。
なんだろう?
どうしてか、落ち着かなくなる。
コハナに抱きしめられて、恥ずかしい事は恥ずかしい。
ドキドキするし、モヤモヤともさせられるその感覚が、急に何倍にも膨れ上がり、どうして良いか分からなくなる。
目の前にコハナの身体がある。その腕に抱きしめられている。
細い首、白い肌。
緩んでいた胸元から続く胸の膨らみに、視線が吸い寄せられてしまう。
触れてみたいと思った。
子供の、悪戯心とはまた違う衝動が俺の胸を逸らせる。
抱きしめられているのを良いことに。その肌が目の前に晒されているのを良いことに。浮かんだ汗の一滴に誘われるように、知らず知らず、俺はコハナの首筋に唇を寄せていってしまう。
「んっ…」はにかんだ声が甘く響き、肩が寄る。
くすぐったさから逃げる様な、いじらしい仕草にドキドキが強くなった。
「もう…。くすぐったいよ、トレヤくん。変な悪戯して、どうしたの?」
コハナの問いかけに、ぼやけていた意識がハッと戻る。
気づけば何をしていたのかもさえ曖昧で、唇に残った温もりがイヤに熱く感じてしまう。
「え、あ、俺…今、何やって…」
責められる事もなかった。
そもそもこんな悪戯で怒るような奴でもないけど、むしろそっちの方が気が楽だったかもしれない。
いつもとは違う反応だった。笑うでも、からかわれるでもない。
ただ、照れたように頬を染め、隠すように胸元を正された。
胸がドキドキとした。
コハナの見せる女の子の仕草に、堪らないものが込み上げてくる。
そんなんじゃまるで、俺のことを男として見ているみたいじゃないか。
子供扱いするでもない。まして、じゃれつく子犬を嗜める風でもなかった。
肌を見られて、触れられて。異性の前でするような当然の照れ隠しは、俺に期待の感情を抱かせる。
「ねぇ、もしかして…さ? なんか、甘い匂いしてる?」
「え? あ、うん…ハナからするのかなって、おもったけど…」
言われて気づく。
さっきまで必死だったから気づかなかったんだろう。
洞窟を満たす甘い匂い。
お菓子の焼けるような匂いじゃなくて、花の香りの様な、もっと生々しい匂い。
息を吸い込み、それが胸を満たすほどに、モヤモヤとした感情が強くなる。
目の前の女の子が、いつも可愛いコハナが、いつにも増して魅力的に見えてきて、視線は吸い寄せられるのに、その顔を直視できなかった。
「あははっ。そっか、そうなんだ。まぁ、トレヤくんでも分かるくらいって相当きつい匂いなんだね、これ。僕なんかもう、鼻が効かなくてさ…」
しどろもどろに答えを返すと、困ったようにコハナが笑う。
隠すように胸元を押さえながらも、コハナの首筋からは、1つ2つと、珠の汗が滲んでいた。「はぁ…」と熱っぽい吐息が甘く響き、伺うように俺を盗み見る視線が、どうしてか、くすぐったく感じてしまう。
なんか変だ。頭がクラクラしてくる。
コハナの声に、その仕草に甘いものを感じて、狼たちから逃げ惑っていた時以上に心臓が暴れだす。
もどかしい。
不安を感じるほどの焦燥感が胸を打つ。
いっそ、暴れてみれば楽になれるんじゃないかって、ざわついた胸の内に乱暴な感情さえ灯っていた。
「ハナ。この匂いって…なに? なんか、おれ…」
「分かんないけど。これ、エッチな気分になるやつみたいで…さ」
「えっ…ちって。なんだよ、それ…そんなの」
「したことない? 一人でさ? こう…なんか、するでしょ?」
「しないよっ、そんなっ…だって、それは…」
好きな人とする事だって…言えたら良かった。
けど、そうじゃない。ただ、出来なかっただけ。
コハナに対する感情を、そういう目で見たくなかった。
一度でもそう見てしまうと我慢が効かなくなりそうで、現に今だってどうしようもなくなっている自分に気づいてしまう。
小さい頃から好きだったんだ。
だけど、このドキドキがそうじゃないと気づいたのはいつからだったのか。
顔を会わせただけで嬉しくなり、そのくせ視線が会うだけで恥ずかしくなる。それに気づいた時にはもう、素直な言葉を向けられなくなっていた。
コハナお姉ちゃんって、甘えていた頃の自分をぶん殴りたい。
気を引きたくて無茶をして、怒られてるのに構って貰えるのが嬉しくて。
挙げ句、狼に追いかけ回されて、こんな洞窟の奥にまで転がり込んで。
それでも懲りないものなのか。
コハナが探しに来てくれた事、二人っきりなれた事が嬉しくて、どうしても心が浮ついてしまう。
もしかしたら、今なら、良いんじゃないか?
コハナの身体に触ってみたい。
ドキドキする。エッチな気分にさせられるこの甘い匂いのせいにして、抱きしめられるよりも、抱きしめてみたい。
「ねぇ、トレヤくん。僕のこと…好き?」
「っ…」
告白じみた問いかけは、それ以上の誘惑をもって俺の頭を揺らしていた。
これからエッチな事をする。しても良いよって。
遠回しに許された様な気がして、勝手な想像が頭の中を駆け巡る。
コハナの頬が赤い。
瞳が熱っぽく潤んでいる。
それは、洞窟に漂う匂いのせいなのか。
それとも、これが女の子の匂いっていうんだろうか。
気づけば、体温を感じる程の距離で見つめ合っていた。
お互いの吐息が頬にかかり、それは何とも甘い匂いを運んでくる。
「ぼ、僕もさ…はぁっ。キツイ、んだよね。トレヤくんの事みつけた、やった、よかったって…安心して、抱きしめてたらさぁ。なんか、すっごい、男の子の匂いするし。分かる? 僕、今…ずっとさ? 頭の中ぽやってしててさ。僕だって、君のことで一杯なんだよ? 我慢してたんだ…トレヤくん見つけなきゃって。だって、ハナってさ…最近はカッコつけて呼ぶけど、トレヤくん、いつもコハナ姉ちゃんって甘えてくれてたし。んっ、はぁ…あ、嫌いなんかじゃないないよね? 僕のこと…さ? 恥ずかしいのは分かるんだけど。とは、おもうんだけど…。僕の事助けるっておもってさ…。こんなお姉ちゃんで、悪いんだけど、ね?」
興奮で上気した頬。羞恥に染まる視線で見つめられるともうだめだった。
喋りながらも、熱い吐息が繰り返し頬に掛かる。
言い訳を口にしながらも、俺の様子を伺ってくる。
罪悪感を口にしながらも、興奮が抑えられていない。
いつも明るくて、いつも優しくて、でもいつもの柔らかい笑顔はそこにはなくて。
熱っぽい吐息、潤んだ瞳。風邪を引いた時みたいに顔は赤く、俺を抱きしめる指先からは、寂しさと、期待のような感情が伝わってくる。
「嫌いなわけっ!」
それを跳ね除けるなんて出来なかった。
思わず大きな声を出したことも気づかない。
「だって、俺…今日はっ、ハナのこと助けてやろうって、こっそり後を着けて、なのに、結局…ごめん。俺が馬鹿だったから、ハナまで」
驚いて、ビクッと小さくなるコハナの肩を掴まえると「だって、だって」と、まとまりのない言葉ばかりが口をつく。
こんな事言いたいんじゃないのに。
もっと、こう、なにかコハナを安心させてやれる言葉があるはずなのに。
それでも「いいよ、いいんだよ」と、俺を抱き返してくれたコハナの手からは、さっきまであった不安の色が無くなっていた。
「いいよ。怒ってないから。僕が心配だったんだよね? 頑張ろうって、ちょっと失敗しちゃったけどさ。嬉しかったよ。だから、ほら、おいで…」
招かれるままに抱きしめられて、再び胸の内に収められる。
触れ合う肌。自分にはない柔らかさに包まれると、安心とは違う別の熱が、体の奥から生まれるのを感じていた。