洞窟の奥へ進む程に、甘い匂いは強くなっていった。
息を吸い込むだけでクラクラと視界が揺れ始め、堪らず熱の籠もった吐息を吐くと、嫌でも自分の官能を自覚させられてしまう。
トレヤくんと繋いだ手が汗ばんでくる。
ただ手を繋いでいるだけなのに、そこにある異性が気になってしょうがない。
正直、あそこで踏みとどまれたのは奇跡みたいなものだった。
次はキスでもダメだろう。きっと僕は正気を無くして、トレヤくんをどうにかしてしまいそうだ。
そういう意味では、トレヤくんの我慢強さに救われたのかもしれない。
もし、押し倒されてしまっていたら僕には抵抗が出来ない。
もし、少しでも求められてしまったら僕には拒めない。
盗み見たトレヤくんの顔が赤く染まってる。
歩く度に腰が引け、刺激から逃れるような動きはどうにもぎこちなかった。
また、おちんちんが固くなり始めてるんだ。
また、僕とエッチな事したくなってるんだ。
もう、何がきっかけになるか分からない。
トレヤくんの心配をする振りをして、一秒でも長く彼の事を見ていたくなる。
匂いがした。
甘い匂いの中、彼のおちんちんから感じる精の匂いが強くなる。
ドキドキした。ソワソワと身体が落ち着か無い。
二人で慰めあって、少しは身体が楽になったと思っていたのに。
中途半端な行為が、快感への欲望を余計に強くしてしまっていた。
じっとりと、下腹部に生まれた熱が全身に広がっていく。
トレヤくんのおちんちんがココに入ってくるんだって、チラリとでも考えると、舞い上がった興奮が官能の音を響かせた。
「あ、ハナ。アレって…」
「え、あっ。なになに?」
トレヤくんの声に顔を上げ、慌ててピンクに染まった思考を振り払うと、努めていつもの声音を演じてみせた。
風に頬を撫でられる。
熱くなっていた肌を冷ましながら、流れ込んでくる空気の中に、草木の匂いが混ざり込んでいるのに気づく。
外の匂いだ。
嗅ぎ慣れた森の空気に鼻を鳴らすと、洞窟の出口を月明かりが照らしていた。
よかった。
僕が、しっかりしなきゃいけないのに。
出口を見つけた途端にどうしても気が抜けてしまう。
まだ、出られるのかも分からない。甘い匂いだって強くなる一方だ。
それでも、どうしたって浮かれる気持ちを抑えられず、出口へと急いだ僕は、その手前で慌てて足を止めていた。
「止まってっ」
「え、なに?」
いきなり足を止めた僕の背中に、トレヤくんが鼻の頭をぶつけていた。
ゾクリと、それだけの事に背中をくすぐるような性感が広がってくるが、今はそれに気を揉んでる程の余裕がない。
「なに…あれ?」
花だ。
一見すれば確かにそう。
穴の空いた天井。月明かりの下で咲き誇る白い花弁は確かに美しい。
けれど、それはあまりに大きすぎた。
お花のベッドでお昼寝をする。幼心に考えた空想をそれはきっと叶えてくれるだろう。
それだけならまだ良い。それだけなら僕もまだ、月明かりに照らされる巨大な花びらを、綺麗だと言えたのかも知れない。
勘っていうのかな。
今まで狩人なんてしてきたから、なんとなくでも気づいてしまう。
アレは、待ってるんだ。
獲物を捉えるために息を殺す、狼にも似た気配。
何よりも、甘い匂いで誤魔化されていた違和感の中に、死臭が漂っているのに気づいてしまった。
きっと皆、この匂いに誘われてしまったんだろう。
性欲に直接訴えかけてくるような甘い匂い。僕だって、トレヤくんの事がなければフラフラと近寄っていたかも知れない。
「トレヤくん。走れる?」
「走るって? ていうか、アレはなに? デカいけど、ただの花だろ?」
「分かんないけど。多分、動くよアレ」
「マジ…」
僕の後ろから、トレヤくんが顔を覗かせていた。
遠目に見れば確かに花だ。だけれど、白い花弁の中で揺れる雄しべは蜜でヌメリ、揺れる姿は風とは違う蠢き方をしていた。たとえばそう、僕にはそれが、獲物を前に舌なめずりでもしているみたいに映って見えた。
深い森の樹木のように、張り巡らされた根が足元にまで広がっている。
あと一歩か。すんでで止まれてよかった。
試しに一つ、拾い上げた小石を花に向かって放り投げれば案の定だ。
根本に落ちたそれに向かって、何処からともなく無数の触手が伸ばされていく。
けれど、それがただの小石だった事に気づいたのか、触手はただの根に戻り、白い花弁は素知らぬ顔でその身を揺らしていた。
「ね?」
「ね? じゃないよ…これ、もどろうよ。ヤバいって、絶対」
「戻りたいけど。僕たちが落ちてきた穴は今の装備じゃ登れないし、他の道も無かったよ」
「…か、肩車とか? 俺を踏み台にしてくれたって」
「僕に思いっきり蹴られて骨折しない自信ある? トレヤくんを放り投げたって同じだよ? お手玉してる間に君が死んじゃうって」
そもそも、後戻り出来る余裕も無い。きっと途中で我慢が出来なくなって、きっと二人でダメになる。それならもう、暗い穴に向かって手を伸ばすより、まだ分かりやすい出口の方がいい。
花の向こう側とは言え、幸いにも距離は離れてはいない。
根を踏まないように、は無理だけど。僕が囮になってる間になら、幾らか現実的に思う。
「いい? 僕が気を引いてる間に、トレヤくんは出口に走る。OK?」
「でも、それだとハナが」
「君が逃げてくんないと、僕も逃げられないんだって。ほら、毎日僕とかけっこしてたのは、こういう時のためなんだから。ちゃんと走る」
「う、うん…」
小石を拾い上げ、トレヤくんに視線を送る。
不安は残る。だけど、しっかりと反応を返してくれたのを確認した後、僕は握り込んだ小石を出口の反対側へと放り投げた。
転がった小石に向かって触手が伸びる。
気を抜けば次は自分がああなる番だ。背中に冷たいものを感じながらも、触手の気がそれた隙きに、僕はトレヤくんを抱えて地面を蹴った。
なるべく遠くに、壁を蹴って更に向こうへ。出来るだけ安全に距離を稼ぎ、一足も二足も飛ばして出口へ向かう。
着地の瞬間、地面が、足の裏がグニャリと歪んだ。
生肉を、生き物を踏みつけた様なその感触に足元が波を打つ。
小石に気づいた触手達は、すぐに狙いを変えると、僕に向かって一斉に伸びてきた。
「行ってっ!」
「うんっ!」
トレヤくんの背中を叩き、先に走らせる。
伸びてきた触手の先をナイフで切り裂き、不安定な根の上で転けないよう、一歩二歩と足を下がらせた。
「くっそっ、このっ…!!」
まるで下手なダンス様に、張り巡らされた根の上で踊らされてる。
ステップを踏み間違えたらそこでお終いのダンスを、失敗しないように踊るだけで精一杯だった。
甘い匂いに敏感になった肌は、服に擦れただけで性感を刺激してくる。
飛んだり跳ねたりと、触手を切り払っているだけでも、自分を愛撫しているのと何も変わらない。
つい、気が抜けしてまう。
つい、力が入らなくなる。
後少し。もう少しだけ。
出口に近づくトレヤくんを横目で確認して、その背中に伸びていく触手に肝を冷やされた。
「まずっ。トレヤくんっ!」
慌てて触手に追いすがった。
彼の背中を押しのけて、振り返りざまに触手を切り払う。
だけど、不安定な体勢のまま強引にナイフを振り抜いたせいで、足元にまで気が回らくなっていた。
踏みつけた根が蠢いた拍子に足が滑る。体勢を立て直そうとしても間に合わない。
吸い込んだ甘い匂いに身体がピクリと震え、一時の性感に動きが止まると、その一時が僕から時間を奪い取る。
横滑りに、花の根の中へ、触手の蠢く地面へと倒れ込んでしまった。
起き上がろうと掴んだ蔦が、触手の様に手首に絡みつく。後ろから襲ってくる触手を蹴り飛ばしたまでは良いが、伸び切った足首に巻き付かれ、ものすごい力で引き寄せられてしまう。
空いた手でナイフを握り、足首に巻き付いた触手を切り落とす。
だけど、そんな無防備な体勢を晒した僕に、触手は次々と伸びてきて、暴れる僕の身体は、蜘蛛の巣に絡み取られた羽虫みたいに、段々と身動きが取れなくなっていった。
手首を縛られ、足首を掴まれて。
お腹に、首元に、伸びてきた触手が次々と絡みついてくる。
「トレヤくん、逃げてっ!」
そう叫ぶのが精一杯、せめて彼だけでも逃したい。
その覚悟だけが、迫ってくる死の予感から僕を抗わせていた。