大学生・湊友希那は歯科病院に訪れていた。親知らずの抜歯が目的だった。
高校時代、幼馴染のリサに誘われる形で、全てを抜歯したと思い込んでいたが実は右奥にまだ一本残っていた。一週間ほど前から微弱ながら痛みはじめ、両親やバンドメンバーに相談したところ『スグニ抜イタホウガイイ』と助言をもらい、歯科病院の予約を入れた。高校時代に抜歯した病院と同じ病院にしようと調べていたが、どうやらその病院は一年前になくなっていたらしく、結果として真新しい知らない病院に電話連絡、必要事項と最低限の状況を伝えると通院日はすんなり決定し、今日、わざわざバンド練習を遅らせて訪れていた。
病院の外装はなんの特徴もないモダンな装いだった。よくある白色の角張った造りで、『キノシタ歯科』という看板も最小限のものが設置されているだけだった。自動ドアではなく、友希那は右手で扉を押しながら入っていった。妙に重たい扉だった。
病院内部の空気感は少し冷たかった。どこか薬品じみた酸っぱいにおいも漂っており、異質だったがむしろ病院らしくて気持ちの部分は特にざわついていなかった。すぐ近くに受付カウンターがある。友希那はさっさと受付を済ませ、待合室にて待機した。
受付係の女子は薄桃色の女医服を着た若い人物だった。茶髪で頬や目元にも化粧じみた光沢があるが医療従事者としての最低限の清潔感も持ち合わせており、受付に関する処理についても手際がよかった。
待合室には少ないが人が居た。老人ばかり、というのが見渡した時の最初の印象だった。空間は広く、いくつかのソファーが点在していた。薄い黄色のソファーは触り心地がよく、背のあるものやないもの、四角いものから長方形のものまで多種多様だった。
友希那は室内隅のひと気のないソファーを選んだ。腰を下ろし、少しの間瞑想をしているみたいに静かに呼吸をしていたが、次第にどこからともなく湧き上がる違和感があった。それは脳の奥から噴き出る感覚であり、内側からくすぐられているような心地で落ち着かなかった。
落ち着かない理由はこの病院が自分にとってはじめての病院だからだと友希那は考察した。
(まさか、こんな大事になるなんて……)
友希那の脳裡に浮かぶのはリサの剣幕だった。
友希那が親知らずについてリサ、というよりバンドメンバーに相談した際、最も過敏に反応したのはリサだった。そもそもリサも、友希那同様に親知らずについては高校時代に全て抜歯済みだと思い込んでいたらしく、今になって発見された『生き残り』についてひどく驚愕し、その後は即刻抜歯を強く推奨した。そのまくし立てる勢いに紗夜も加勢し、後方支援に燐子、病院を素早く調べて提示してくるという救援物資的助言をあこが行い、あらゆる予定が決定したというわけだった。
別に友希那としても、親知らずを放置するなどという考えは少しもなかったのだが、それでも歯一本のことであれだけ騒ぐメンバーについては少し汗をかくこととなった。煩わしい、などと思わなかった。しかし自分の抜歯に関する認識と、リサたちの認識に差異があり、それ故の唖然とした心地は友希那の中に常にあった。だってこれは虫歯ではない。緊急ではない。必要な施術だって具体的には治療ではなく抜歯という作業なのだから、何か身を案じることなんて不要だと思っていた。
(親知らず程度で、大げさだわ……)
余裕、などと豪語して肩の力を完全に抜いてしまうことなんてありえなかった。しかし友希那としては、周囲の人間がよく語る抜歯に関するあらゆる疑念が杞憂のように思えて仕方がなかった。
(はやく終わらせてしまいましょう)
友希那は胸中で頷いていた。それは覚悟というよりは腹を据えたという具合だった。あらゆる事態や巡り合わせに納得し、ゆくべき場所に赴いてやるべきことをやるだけだった。それにやることはたくさんある。練習だってまだまだ足りていないし、新曲の構想をはやく練っておきたい。友希那は抜歯について少しも詳しくないが、だからこそ専門家に全てを任せて終わらせるべきだと思っていた。
「あ、すみませんっ」
聞いたことのある声に引き寄せられて友希那は額を持ち上げた。
前方に立っていたのはあの受付係の女医だった。受付をしている時はカウンターで視えなかったが長身で、腹や腰、足にかけての身体のラインを女医服が見事に周囲に知らせていた。
そんな相手が真正面に立ち、さらにこちらが座っているとなると友希那は何か圧迫感を感じた。グラマラス、などという慣れない単語が脳裡に浮かんだ。
「……何か?」
友希那は着席したまま訊ねた。
「ええ、すみません。初診の方はこちらの記入をお願いします。渡すのを忘れていました」
簡潔な説明と共に女医は板のようなものと、それからボールペンを友希那に差し出した。友希那はそれらを受け取り、額をまた持ち上げた。女医は友希那を目を合わせることなくくるりと振り返り、そのままスタスタ去っていった。友希那は少しだけその背をみつめた後、ふと思い出したかのように手元を視た。提示されているのは書類で、上部を視ると「初診用」と書かれている。
友希那はボールペンを右手に構え、まず最初の項目の部分に名前を記入した。次に『質問①』と書かれた空欄を眺め、それから眉を歪ませた。
「え……?」
指先がピタリと停止した。少し遅れて心臓がドクリと嫌味ったらしく大袈裟に唸った。鼻孔が強張り、背筋が内側に向かってきゅっと縮まった。額から冷たいような薄い汗が垂れ、ソファーに触れる尻が強張った。
友希那は誰にもばれないように強く唾液を嚥下した。何度も何度もその質問文を黙読した。質問内容は変わらないままそこにあった。
「なによこれ……」
今日のパンツは何色ですか。
友希那が近づくと女医は反応して顔を上げた。
「お願いします……」
「はい」
友希那が突き出した書類を女医は受け取った。すぐさま書類の内容に目を落とし、友希那はその様子をじっと眺めて待っていた。
数秒後、女医は自らの手元に書類を落としてボールペンを持ち出し、何か書類の下部に記入しはじめた。病院側の処理かしら……、と友希那は思った。思いながらその手つきを眺めているとふと女医が顔を上げ、鋭い目つきと友希那は触れ合った。
「あ、座ってお待ちください」
女医の何か慌てたような声色に急かされるように友希那はくるりとソファーに戻った。
(あれでよかったのかしら……)
ソファーに座る友希那の脳裡に浮かぶのはやはりあの最初の質問だった。
友希那は結局『あれ』について答えを記入することができず、空欄のまま提出してしまった。女医から何か咎められるかと思って身構えていたが、別にそういったこともなかった。
だってパンツ――下着の色なんて答えたくない。それは何か理性的な感覚ではなく精神的な躊躇のことだった。そういった情報は軽々しく他者へ共有すべきではないというのが友希那の価値観、というより倫理観であり、けれどここは病院だった。提示された質問に正確に解答すること、それを行うことでまず医者と患者の信頼関係が構築されると同時に、今後の施術についても滞りなく進むような気がした。
しかし友希那は歯科の施術において下着の色が関係してくるとはどうしても思えなかった。
(いえ……。今さら気にしたところで、それこそ仕方がないわ)
友希那はソファーに座ったまま身体を持ち直した。すでにあの女医に提出したことだけを思い出していた。
それから数分程度その場で待っていると女医が友希那の名前を呼んだ。最初に「湊さん」と呼び、次に「湊友希那さん」と呼ぶやり方だった。友希那は返事をしながら立ち上がり、女医の後に続いた。女医は何も説明せぬまま廊下を歩いた。廊下は薄暗かった。あの待合室と比較すると別の施設のように思えた。横幅は高校の廊下と変わらず、奥に長い一本道だった。どこまで続くのかしら……、と友希那は目元を引きつらせた。女医の妙に身体の輪郭がはっきり窺える薄桃色の衣服を眺めているとふと前進が止まり、女医は友希那に入室を促した。
そこは診察室だった。
呆然としていると女医が説明した。曰く、最初に抜歯に関する具体的な説明を主治医が行うようだった。説明を聞いて友希那は納得した。確かに、正確な手順などを知っておくに越したことはなかった。
「お願いします」
「はい」
女医が扉を開き、友希那は促されるままに入室した。脳裡にはすでによくある診察室が浮かんでいた。適当な椅子に座ることまで予想した友希那だったが、入室して一秒であらゆる想像は打ち砕かれた。
「え――」
女医が診察室出入り口扉を閉じ切る音を後ろに聞きながら、友希那は眼前の液晶画面について目を見開いていた。
アダルトビデオだった。
診察室西側に設置された机の上にテレビが設置されており、その液晶画面の中に卑猥な男女のやり取りが映し出されている。友希那はその様子を眺めていた。というより、ぼうっと立ち尽くす友希那の前でただ整然とそうした卑猥なやり取りが披露され続けていた。
「な、なによこれ……」
友希那はようやく声を上げることができた。それは細々としており、頼りがいのない小さな声だった。アダルトビデオは進行していた。友希那の感情の何に考慮することもなく続いていた。
画面のほとんどを肌色が占め、女と男が絡み合っている。友希那はこの女についてもちろん知らなかった。名前も年齢も利き手も性格も経歴も知らなかった。しかし今、女が時おり漏らす声は普段の女が絶対に口から漏らさない類の声であるとなぜか理解できた。男が乱雑に腰の部分を突き出すように動かし続け、その動作を起点として男女は複雑に反応し合っている。友希那はこの男が平常の人間だと思えなかった。完全に人としての理性の部分から逸脱し、野生の動物に成り果てた形相を男は呈していた。こういうもので世の中の男性は興奮するものなのかと信じられなかったし、男性とは性行為の際にこれほど過激に変貌するのかと疑心を得た。
「こんな……」
それが具体的にどのような行為で、なんの意味があるのか友希那にはわからなかった。ただ、本能が反応している。友希那の中の、友希那でさえ詳しくわからない部分がひどく熱を帯び、ただそれが猛烈に卑猥であることだけがよくわかった。
友希那は慌てていた。このビデオについてどのように反応し、どのように対処すればいいのか少しもわからなかった。何かこの場に立っていることそのものがいけないことのように思えた。身体が縮こまり、知らずうちに鼻息が荒くなった。時おり「その……」だとか「ええと……」という、何かいい訳をしているみたいに震えながらそれでも目は液晶画面に釘付けだった。
(こ、こんな、こんなものっ、破廉恥だわ……)
こうしたものがこの世に存在していることは知っていたが、これほど過激だとは思っていなかった。
それから数分ほど友希那はアダルトビデオを鑑賞することとなった。その激しいまぐわいを前に友希那は呆然と立ち尽くすばかりだった。間もなく男が「いきそう」と連呼し、女が「きて」と囁いたが、もちろん友希那にはなんのことかわからなかった。間もなく男が唐突に動きを止め、代わりのように吐息を含んだ低い声を漏らした。女がにやけ、男はそういう女に覆い被さってそれから二人は口付けをした。そこで友希那はまた頬にカアッ……、と熱を寄せることとなった。液晶画面の中、男女二人は唇だけではなく、互いの舌を相手に伸ばして絡み合っている。友希那は半開きにした口元に手を添えた。舌先を交えた口吻は単純な性行為より友希那にとって衝撃的だった。
「い、いけないわ、こんなもの……」
友希那はようやく目を逸らして呟いた。腹の底からひねり出したような声だった。次の瞬間に診察室の奥から白衣を着た男が飛び出してきた。男は友希那が何か反応するより先に机の上に手を伸ばし、その長方形の黒い物体を手に取った。それはテレビのリモコンで、男はかき消すみたいに高速でテレビの液晶画面を消した。
その瞬間に友希那はここが診察室であることを想い出し、内装について意識した。机以外に二つ椅子が設置されており、ひとつは背もたれがあるがひとつは丸椅子だった。
「……その、えっと」男はテレビのリモコンを机に置き、友希那のことを視た。「お座りください」
友希那は白衣の男のことを視界に入れぬまま丸椅子に着席した。頬がいつまでも熱かった。
白衣の男はキノシタと名乗った。この病院の歯科医で、友希那の抜歯を担当するようだった。
「じゃ、今日はね。ええと、親知らず抜くってことでね、いいかね?」
「ええ。お願いします」
「ちょっとタイヘンな作業だけどね、頑張れるかな?」
「はい。大丈夫です」
「うん、うん。そっか、そか……」
キノシタが訊ねると友希那は了承した。それは何か不思議なやり取りだった。どうにもこのキノシタのほうが、挙動不審で語尾にたるんだ頼りなさがある。対する友希那は比較的落ち着いていた。親知らずを抜くことについて、正直なところ友希那はなんの躊躇もなかった。はやく終わらせてバンドの練習に合流したかった。そのため友希那のほうが冷静で経験豊富な医者のような応答になっていた。
友希那はさらに詳しい抜歯の説明をキノシタから受けた。
説明というのは具体的な抜歯の手順と抜歯後の施術についてだった。口ぶりは冷静で内容は理路整然としており、最後に質問はあるかと訊ねられたが特に聞くことはなかった。
「あれ、友希那ちゃん?」
そうして全ての説明が終わった後、キノシタは唐突に明るい声を上げた。
「え?」
友希那は喉を突っ張らせた。丸椅子の上で、唐突に『名前+ちゃん付け』で呼ばれたことに不快感を得ていた。
「いやいや、あれ、友希那ちゃんだよね?」
「は、はい……?」
連続で友希那の名前を呼称するキノシタに対し友希那は眉を歪ませた。何か馴れ馴れしい態度だった。
「いやほら、前にここきてくれたよね? 小さい時……」
「え……」真面目な様子で呟くキノシタに対し友希那は素早く脳内記憶を探った。「い、いえ。はじめて、ですけど……」
「えー……。そうだっけ……?」
「はい」
友希那は即答した。どれだけ記憶を遡っても、詳しく調べてもこの病院を利用した経験はなかった。
しかしキノシタは何か自分の中で見落としがあるみたいに何度もウーンと唸り、友希那以外のあちこちに視線を配った。
(この人、何をいっているの……?)
キノシタの様子を睨みながら友希那はトゲのある思考に至った。何か理由もなく決め付けるキノシタのことが不可解だったし、認知していないだけでじつは本当にこの病院を利用したことがあるのではないか、などとわけのわからない疑念が浮かび上がってきて不快だった。
「まァ、いっか……」
間もなくキノシタは突き飛ばすように呟いてからこの話題を終え、友希那に施術室に向かうように指示した。施術室は診察室のすぐ横にあるようだった。友希那は礼を述べて立ち上がり、会釈をして診察室から退室した。扉を閉める寸前、友希那はキノシタから目を逸らして机の上のテレビを視ていた。
黒い液晶画面はもう何も映していなかった。
無影灯、という装置のことをどこかで知った。
どこか、というのがどこなのかは忘れた。テレビ番組で観たのか小説で読んだのかわからなかった。
とにかく、医療的な場面でよく登場する影を造らない不思議な照明器具だった。今、友希那は椅子ともベッドとも呼べない装置の上に仰向けで寝転んでいた。装置のすぐ横に無影灯が設置されており、その花のような照明器具部分が上から友希那を睨んでいる。友希那は比較的脱力していた。というのも、装置の中で友希那の身体が実際に触れる箇所には柔らかい素材が採用されているらしく、どれだけ仰向けに寝転んでいても負担にならなかった。装置とはつまり歯科的な施術を行うための手術台のようなものであり、今、友希那は施術室の中の三つある装置のうち、奥から二番目の装置に寝転んでいた。
(いよいよ抜歯ね……)
無影灯には、まだなんの光も灯っていなかった。銀色の外見は瞳を複数個持つ異形の存在の頭部のようにも思え、そういったものから睨まれているのだと友希那は密かに妄想していた。
(少し、緊張するわね……)
そうした妄想も、きっと脳裡に浮かぶ電流のような緊張感からくるものなのだと友希那はさらに勝手に想像していた。
「お待たせしました」
やがて低い声と共に男が一人、友希那の視界に入ってきた。
キノシタだった。
「いや、お待たせしました。いやいやハハハ」
キノシタはそうした声色を揺らすような喋り方を続けてあちこちを視た。何か不備があり、ひっきりなしに確認しているように友希那には視えた。そのうちキノシタは友希那のすぐ近く、装置の横に設置した医療用ワゴンをいくらか視線で確認した後、また友希那の顔を覗いて「こんにちは」とニッコリ笑った。
「よろしくお願いします」
友希那は理路整然とした様子で応答した。脳裡にはつい先ほどのあの不可解なやり取りだったり、アダルトビデオに関する記憶が巡っていた。あれらについて不快ではないといえば嘘だったが友希那はなるべくそのテの意識を顔に出さないようにしていた。病院として成り立っている以上、仕事はしっかりと行ってくれるとある意味で信頼しているため、知らないふりをして施術を受けるつもりだった。
「ええ、ええ。よろしくね。ええ」
友希那は改めてキノシタのことを観察した。
ワイシャツは第一ボタンまで閉じられており、ネクタイはない。白衣を着衣し、胸元のポケットに名札を差し込んでいる。名札には『キノシタ』とカタカナで書かれており、漢字はわからなかった。
「うん。じゃあね、準備してくからね……」
キノシタはまたつるりとした語気で呟いた後に友希那の視界から消えた。すぐ隣でカチャカチャと音がする。それは装置の隣に設置された医療用ワゴンの上の、複数ある器具をキノシタが整えている音だった。
友希那はその音を聞いていた。他に何かすることもないため音を聞いていた。やがて「これがこうで……」とキノシタの声がした。「あ違うわ……」と声が震えた。「えっと……」と茫然とし、すぐに「あ、こっちか」と声色は明るくなった。しかし次の瞬間甲高い音がした。友希那は唐突に不安になった。何か自分の脳内で、医者といえば準備を怠らず完璧な体勢で患者を相手にする存在だった。そしてこのキノシタは、そういった友希那の医者に対する印象と対極に位置する存在だった。
(大丈夫なのかしら……)
友希那は胸中で独り言ち、それからキノシタに聞かれぬよう慎重にハァと肩を下ろした。肺の奥から漏れ出るため息だった。説明を受けたとはいえ、少しずつこのキノシタに対する信頼感が薄れていることを友希那は意識していた。無影灯の中に顔が反射している。その中の表情は、友希那が自分で驚くほど気だるげで呆れているような困った顔つきだった。
それから数秒後に友希那は自分の近くでガシャンという甲高い金属音を聞いた。
友希那は思わず装置の上で身体を起こした。「あ、ヤベッ」というキノシタの引きつった声が聞こえた。友希那は長髪を垂らしながらすぐ隣を凝視した。床の上に何か細長い銀色の棒のようなものが散乱し、傍らでキノシタがしゃがみこんでいた。
ワゴンから器具を落としたようだった。
「あの、大丈夫ですか……」
友希那は思わず訊ねた。強張っていたが敬語は崩さず、慎重に訊ねていた。声に反応するようにキノシタが顔を上げた。その顔はつい先ほど、仰向けの体勢のまま見上げた時と変わらず大らかだった。
「あ、ゴメンネ。だいじょぶだから、ね、ね……」
キノシタは立ち上がりながらワゴンの中に拾った器具を乗せていった。友希那はそのワゴンの中をちらりと視た。乗せられる器具はどれも銀色で光をよく反射していた。細くて短い。鼻先で飛ばせてしまいそうな規模の道具たちは、エノキタケを連想させるような様相だった。
全ての道具をワゴンに収集し終えたキノシタは次に友希那の肩に右手を伸ばして少し強く押し込んだ。
「寝ててね」
友希那は何か強制的に連れ戻されるように装置に再び仰向けになった。
「パンツ……」
という震えた声がすぐにまた頭上で聞こえた。キノシタの声だったが極度に小さく、湿り気を帯びた語尾だった。
「ね、友希那ちゃん……」キノシタは何か友人のような調子で友希那のことをちゃん付けで呼び、少しして視界に入っていった。「パンツ、あの質問、どうして答えてくれなかったの?」
「……答えるべき、だったかしら」
友希那はあえて厳しい口ぶりを突き出した。もう遠慮は必要ないと判断していた。
視界の中にせり出てくるキノシタを退かすような勢いで友希那は睨んでいた。キノシタは友希那を上からみつめたまま、今にも泣き出してしまいそうな潰れた表情をみせた。
「答えてほしかった……。だってだって友希那ちゃんのパンツ事情、知りたい」
「それはっ……」友希那は仰向けのまま喉元を強張らせた。ただ、ここで何か譲歩するべきではないことだけを察知していた。「答える必要があったかしら、あんな質問」
友希那はまた厳しく突き刺すように声を尖らせた。もはやいつもの口ぶりになっており、鋭い眼光でキノシタを視た。
そんな転換に驚いたのかキノシタは目元を細めて友希那から少し離れた後、「それじゃあ、まずは親知らずの状況を詳しく診ていきますね」とよそよそしい『ですます調』で説明した。
「あでもこれ、もう汚れたから使えないね、うん。こっちのを使うからね。うんうん」
キノシタは床から拾った器具を乗せたワゴンを少し押し、代わりに別のワゴンを引っ張ってきた。それは友希那が仰向けに寝る装置の横に設置された、別の施術用装置の横に置かれた医療用ワゴンだった。
ワゴンの中には整列をしているみたいに綺麗に器具が並べられていた。
キノシタはまずマスクを装着した。白色の清潔そうなものだった。そして次に無影灯へ手を伸ばした。パチン、という音がし、あの無数の眼球のような部分に光が灯った。それは熱を帯びた閃光だった。何か白色というより黄ばんでいるような分厚い光は友希那の全身を映し出し、額や頬に薄らと汗が浮かんだ。キノシタはワゴンの中から一本の器具を手に取り、友希那に向かっていった。友希那は開口した。それは何か自然な所作で、キノシタはゆっくりと友希那の口の中に器具の先端を差し込んだ。すぐに歯列の適当な位置が押されるような感覚を友希那は得た。その感覚は歯列の上を這いずるように歯列に従ってあちこちに移動し、時おり気に入った歯を友希那に知らせるみたいにコツコツと押し込んだ。
「うんうん、ねるへそね、うん。あ、うん。そっかそっか、わかったよ、うん」
キノシタは明らかに独り言といった様子で緩んだ声を漏らした。友希那は間近の位置にキノシタの顔を意識していた。その表情にはほとんど何も浮かんでいなかった。ただ友希那から視てキノシタが何か巨大になったように思え、さらにそんなキノシタが、何かの拍子にこちらに落下してくるのではないかというありえない疑念まで胸中にふと感じていた。
友希那から視てキノシタとは異性だった。キノシタから視て友希那もまた異性だった。
であるのなら、何か普通ではない意識を巡らせてしまいそうなもので、実際に友希那は少し警戒しているところもあった。対するキノシタはただ友希那の口の中に並ぶ無数の白色の歯列をじろじろと、それこそ若い女性の下着を観察するみたいに眺め続け、時おり「うんうん」と呻った。
友希那はキノシタが歯列についてひと通り観察し終えるまで、事実上キノシタに口を明け渡すこととなった。
鼻呼吸を落ち着かせて、キノシタの手元に息が当たらないようにしていた。それは歯科医の集中力を削がないようにという気遣いではなく、成人済みの男性歯科医に鼻息を当てることへの妙な女性的な嫌悪感からくる処置だった。
間もなくしてキノシタは器具を持ち上げた。それは単純な歯から歯への移動ではなく撤退だった。どうやら一分もかからない時間の中でキノシタは器具を駆使して口腔内部を調べ尽くし、友希那の口腔内の事情について理解し尽くしたようだった。
器具の先端と友希那の適当な口腔粘膜をつなぐ唾液の透明な糸が少し光って、すぐにプツンと途切れるとキノシタはワゴンの上に器具を置いた。
「じゃあ、抜いていくからねー」
キノシタが取り出した器具を目にして、友希那はその眉を持ち上げることとなった。
「なっ――」
顔面がグワッ……、広がって、目元に驚愕という感情が浮かび上がっていた。点のように細まった瞳が凝視するのはキノシタが握るペンチだった。
いいや、抜歯をするのだから相応の道具を用意するなんて当たり前のことだった。
けれどこれは友希那にとって予想外だった。キノシタが今まさに使おうとしているペンチはとても、ただ抜歯をするためだけの規格に思えない。ペンチとはそれほどに巨大だった。先ほど目にした、あのエノキタケのような小ぢんまりとした器具たちとは核が違うと直感した。色だって銀色ではなく黒色で、室内天井の照明を受けて重たく光っている。持ち手部分も十分に太いが、その先端に付属する物体を挟み込む部分、ペンチをペンチたらしめているその箇所はこんもりと存在感を放ち、ただ視ているだけで臓器がひやりと冷たくなった。
「あの、その……」
友希那は狼狽えた。装置の上、仰向けのまま視線をペンチから反らした。無影灯にやはり顔が反射している。バツの悪そうな、曇った表情をしていた。
「あれ、何か?」
キノシタはこんな時だけ簡潔で聞き取りやすい声色だった。
友希那はまごまごと震えながら口を開くこととなった。
「そんな、巨大なものを使わなくても、いいんじゃないかしら……」
「いや、駄目です」キノシタは即答した。「これじゃないと。だって親知らずだから」
「そ、そうなの? 絶対に、本当にそれじゃないといけないのかしら」
「はい」キノシタは冷静に即答した。「これじゃないと。だって親知らずだから」
「そう……」
友希那は溶けるような声を漏らしていた。やはりペンチからは目を逸らしていた。視認することなどできなかった。キノシタは友希那の心情などまるでひとつも理解していないといった様子で淡々と準備を進めていた。ペンチをいくつかカチカチと動作確認をして、消毒だとか、無影灯の角度だとかを順次していた。唐突に医者としての気概を取り戻したというか、すでにそういう『モード』に突入しているようだった。
少しの準備の時間さえ、友希那にとっては絶妙に長いように感じられた。不本意な罪を被せられ、そのままなんの弁明もなく処刑台へ上げられた罪人の心情だと勝手に共感していた。
友希那の脳内でペンチはすでにただの医療道具ではなかった。ウソツキの舌を引っこ抜く巨大なペンチ、あのテの、何か常軌を逸した『武器』をそのまま連想させるほどの禍々しさをペンチは放っている。故にキノシタについても、何か頼りない医者から地獄の閻魔大王その人に思えてくる。
「じゃあ今から――」
「ま、待って!」
友希那は思わず声を上げた。爆ぜるように唐突に喉を震わせていた。
「その、ちょっと……」
と思わず口を開いたが、それからどんな言葉を出せばいいのか友希那にはわからなかった。
「え、ええと……」
いつもより、ひどく高い震えた声だった。
眼前にペンチが迫り、その黒色の鉄の塊のことがより巨大に思えていた。今からこれで殴り殺されてしまうのではないか、などと思考が奇妙な不安げな部分に取り込まれていた。装置に触れる背が一気にじわりと尖った熱を帯び、脈拍が堅苦しく上昇していった。呼吸が狭まり、心臓の形がよくわかるほど激しく鼓動が続いていた。つい先ほどまで、あの待合室で意識していた「さっさと終わらせる」だとか「はやく練習に合流」みたいな考えは全て粉砕されていた。木端微塵に吹き飛んでいた。むしろ抜歯とは、そのように蔑ろにすべきではなかった。
今、友希那は何か理性の部分で説明ができる類の恐怖に陥っていなかった。
肌感覚で理解できる。そのような、本能が警告する鋭角な危機的状況に陥っており正直なところ逃げ出したかった。退散したかった。何か理由をつけて施術を中断したかった。しかしそんなこと許されていなかったし、もしそれを実行したところで事態を先送りにするだけだった。
「大丈夫ですか?」
「ええ。ごめんなさい」友希那は冷静に呼吸をし、身体の内側を沈めると天井を適当に視た。「続けて、お願いします……」
「はい」
キノシタは冷静に短く呟いた。すぐにペンチが迫る。無影灯の光の中から飛来するように迫るそれは、隕石のようにも視えた。
「あの、クチ」
「へ、な、なにかしらっ」
「いや、クチを、クチを開けてください……」
「あ、ああ……」友希那はゴクリと喉元を揺るがした。「ごめんなさい、開けるわ……」
弱弱しい謝罪と共に友希那は上向きに開口した。唇を開くというよりは口の中を差し出すような様相で、ついにキノシタが握るペンチが入ってくる。
その瞬間、友希那は「ングッ……!?」と大きな声を上げることとなった。
自分でも何がどのように進行しているのかよくわからなかった。ただ息苦しい。微妙だった開口が強引に切り拓かれ、喉に迫る勢いでペンチが差し込まれている。口を開け閉めする自由が完全に奪われている。
「んぐ、ご……」
「はい、じっとしててくださいね」
動揺が混ざる友希那の声に反してキノシタは冷静だった。上から友希那の様子を覗き込み、口に詰め込まれたペンチが少し蠢いている。何か探り当てようとしているような慎重な様相だったが、友希那としてはそんなものでも苦しかった。堅苦しい物体がそのままの形、そのままの大きさで口の中を闊歩している。口腔内部は完全にペンチの独壇場となり、友希那は何か仰け反るほどの窮屈さを感じていた。
「あ、あった……」
間もなくキノシタが呟いた。友希那は口角から唾液を垂らしてそれを聞いていた。確かに、何か歯列の奥まった一か所をペンチで摘ままれている。(親知らずだわっ……!)と友希那は思い出した。キノシタが挿入したペンチの先端がようやく問題の歯を把握し、これから引き抜くところにあるようだった。
「じゃあ、いきますね」
キノシタが冷静に呟いた。それは友希那に聞かせるつもりがるとは思えないほど小さな声だった。キノシタがペンチを握る素手を引き締めた。友希那はそれを音として認識していた。ペンチの表面とペンチが挟んだ歯が強くこすれる際の音、石と石とが激突し、表面を削り合いながら放つざらついた音によく似た音、友希那はそういうものを耳の奥の部分で聞いていた。これから抜歯される、と友希那は思うと同時に、ふと思い出していた。
(そういえば、麻酔……)
普通、医療的な施術の際に必ず打つはずの工程が今回はなかったことを友希那ははっきり思い出した。
そんな思考をごちゃ混ぜにすり潰す刺激的な音が友希那の奥から友希那に向かって響いていった。
「んぐうっ……?!」
友希那は悲鳴を上げた。緊急事態だった。歯を挟んだペンチがぐりぐりと猛烈に動き、激痛が瞬時に口腔内部に迸った。それは何か熱された鉄の塊でもねじ込まれているような感覚だったが、今の友希那にはそのような具体的ない意識さえ正常に働いていなかった。ただ痛い、ありえない激痛が口元から全身を揺るがし、友希那は特別な意味もなく今日この瞬間に自分の命が潰されるのだと危惧した。口を閉じることができない。それはねじ込まれたペンチが規格外の大きさにあるからで、強引に歯を引き抜こうとしている。だがその動きに関しても、よくある歯を挟んで引っ張るというよりは、掴んだ歯を歯茎にあるまま強引にねじ込んで、無理やり引き千切ろうとするようなものだった。
歯茎が急速に膨れ上がるような感覚を友希那は意識した。ざらついた音が耳の裏側で大きくなっている。親知らずというか、もはや歯列、顎の骨さえ砕けて散り散りになっているような気がした。知らずうちに大粒の涙が溢れ、鼻孔が開いて粘ついた汗がとろとろ垂れた。大型のペンチは生きているみたいに友希那の口の中で自由に動き、間もなくヌチャアッ……、という粘性の高い音が鳴ってペンチが離れていった。
とはいえ友希那の口の中の激痛は治まらなかった。
強引にペンチを使用したことで歯茎は腫れ上がり、ぽっかり開いた箇所から流血も続いていた。口を強制的に開いたままにする違和感が消えたものの、ひりつく激痛は続いたままで、友希那は涙で濡れた顔面を天井に向けていた。
ほとんど放心状態だった。呼吸がたどたどしく、鼻で酸素を吸い込むとズズッ、という鼻水を啜る音が邪魔をした。
「はい、じゃあ一旦口の中濯いでくださいね」
キタノシタの冷静な声がした。次に機械的な音がし、装置そのものが動いた。友希那は寝転んだままだったが、座っているような体勢に装置ごと起き上った。右手側に紙コップが用意されており、中には冷水が入っていた。友希那は右手でゆっくりとそれを掴み、唇に触れさせて上向いた。冷水はなんの抵抗もなく口に入り、今まさに腫れ上がっている歯茎にも触れたのだが、別に熱気が癒えることはなかった。友希那は冷水を十分に口に含んだ後、紙コップと共に備えられたあの小さい洗面台みたいな場所に吐き捨てた。
赤色だった。
それから施術は淡々と進んだ。
抜歯の際に麻酔を使用しなかったことを友希那はすぐに指摘した。キノシタの返答はスミマセンのひと言だけだった。それも別に重大な案件に関する謝罪というよりは、ちょっとした手違いに関する平然とした謝罪でしかなかった。頭を下げることはなく、というより作業中についでに口を揺らす程度のものだった。
友希那はさっさと帰宅したかった。すでにこの施術のための空間が、友希那からすると恐ろしい拷問部屋の類に視えていた。しかし、歯を一本引き抜いただけでは何も終わらず、その後の処理をしっかり行わなければいけない。そのため友希那は、まさかあれほど強烈で強引な抜歯を行ったこのキノシタという歯科医に、まだ自分の口の中の様子を預け、さっさと専門的な処置をしてもらう必要にあった。
またいつあのような、人の所業とは思えない抜歯に似た仕打ちを受けるのか友希那にはわからなかった。
視界に鋭利な器具が映る度、キノシタが新しい施術に取り掛かる度、友希那はいちいち怯えながら警戒し、何か不審な動きがあれば追求して逃げるつもりだった。とはいえ友希那に歯科的な専門の知見があるわけではないので、それが自分にとって危険なのかさえわからず、基本的には受け身のままだった。
そうした事後処理がようやく終わり、友希那は装置から身体を起こした。キノシタには何も会釈をせずすたすたと歩き、出入り口扉に向かった。
扉を自分で開いて出ていく時、友希那はふと振り返った。背後から何か音がしていたため気になった。
「んふ、んんんっ、友希那……」
友希那が長い時間寝転んでいた装置の柔らかいクッションの箇所にキノシタは顔面をこすり落とし、激しく肩が揺れるほど呼吸していた。
友希那はもう何も意識せず退室した。全てが終わった後ではあるが、利用する病院を間違えた、と友希那は真剣に思った。
「え、紗夜も親知らず?」
音楽家・今井リサは同じく音楽家・氷川紗夜に訊ねた。
「はい。数日前から違和感があったので、まさかと思ったのですが……」
「た、大変だね……」
「ええ。けれどこういう時こそ、しっかり対処しなければいけません。今日はこの後も予定があるので、明日か、明後日にでも……」
「駄目よ」
二人の会話に強引に入り込んだのは友希那だった。
「え、友希那……?」
リサと紗夜は友希那のバンドメンバーで、それぞれベーシストにギタリストだった。
ボーカルの友希那に加えてそれから二人、キーボードの白金燐子とドラムの宇田川あこの五人組こそが、友希那が率いるガールズバンドだった。
「駄目、なの………」
友希那は復唱した。それは紗夜にもリサにも呟いたものではなく、自らの、まだ腫れている右頬に対する憂いのような心地だった。
今は練習を開始する前の時間で、友希那とリサと紗夜の三人はライブハウス前で待ち合わせをしているところだった。
「紗夜、親知らずを安易に考えては駄目よ。抜歯する予定があるのなら、今日抜歯しなさい」
「え、ですが」
「……いけないわ」
ポツリと呟くとリサが友希那に少し近づいた。その瞳は真面目な様子だった。友希那のことをただ覗いていた。
「友希那、もしかして自分が抜歯した時、なんかあった?」
「い、いえ」リサの声を跳ね退けるように友希那は喉を引き締めた。「別にそういうわけでは……」
「まぁ、湊さんの意見もわかります。善は急げという言葉もありますし、今日この後、病院に向かおうと思います」
「ええ。そうするといいわ」冷静に判断した紗夜について友希那は自分のことのように胸が温かくなることを意識した。「それと紗夜、病院なのだけれど」
「ええ、はい」
「慎重に選んだほうがいいわ。……本当に」
「ゆ、友希那……」リサのぎこちない声色がまた友希那に向かった。「ホントに、何があったの?」
「いえ。別に何もないわ。ただ……」
友希那はリサでもない、紗夜でもない遠い位置に視線を投げた。すると脳裡に、あの日に経験した壮絶な激痛を伴う抜歯の経験が流れ込んだ。ただ自分は鈍く、予想立てることができず、実はすっかり油断していたということを友希那はあの日に一斉に思い知った。
「抜歯は、みくびってはいけないのよ……」
友希那はまるで動じていないという素振りだった。それは自らの経験による助言だった。口の中、右の奥まった部分からまだ薄い鉄の味が流れていた。