薄い橙色の照明が舞う静かな一室の、その中央に位置する大きなベッドにて、湊友希那は大の字だった。
全裸で、手足の拘束は無かった。しかし四肢はなぜか動かなかった。動かそうとしても力が働かなかった。今まで自由に動かせていたことのほうがおかしいような、そういう不動の心地で肌色が四本生えているだけだった。
友希那は天井を眺めながら喉をドクリと唸らせた。何も変わらなかった。肢体の輪郭だけが心地として在った。どうにも不安定で不気味だった。なんだかふわりと恐ろしかった。身体が自分から離れていくようなこの感覚は完全に未知の感覚だった。友希那は天井の中の橙色をみつめながら唾液を下した。何も変わらなかった。
すると視界の下の方から上がって来る何かが在った。友希那はそれが人であることを遅れて理解した。肩周りのがっしりとした質感や胸部の硬い雰囲気から男であることも理解した。
男は友希那と同様にベッドの上に居た。ちょうど、広げられた友希那の両足の間に膝立ちだった。巨体は全裸で肌は浅黒く、至る箇所に毛が生えていた。顔面は角張っており表情はほぼ無かったが、卵のような形の眼球の中で、瞳より目立っている白濁が痒いほど不快だった。眼光というか、圧のようなものだった。その得体の知れない俗物っぽさは友希那に鳥肌をもたらした。自分の身体の輪郭が内側にめり込んでいくような心地だった。
そんな男がムクリと動いた。友希那の心臓も、まるで共鳴するように激しく嘶いた。男がそのまま身体を倒した。友希那は露骨に震えている喉の奥から空気に混ざった悲鳴を漏らした。男の大儀な雰囲気の、そのちょっとした動きにすら神経がざわつく始末だった。男が友希那に馬乗りに成った。友希那の体躯に大きな影がもたらされた。心臓の共鳴がさらなる悲痛へと至った。まるで耳の裏側から鳴っているような硬い振動だった。圧迫感がのしかかり、呼吸がやりづらくなったが友希那は無視して懸命に肺を動かした。
男は友希那のその小ささを強調しながら、それでも潰してベッドに虐げていた。視線は常々顔面に留まっていた。友希那はそれがなんだか不思議だった。一人の清らかな女性として、他人に向けて易々と露出したくない部分が悉く、まるで差し出しているかのように暴かれているにもかかわらず、肉の巨人は一切を無視して、さっきから顔面だけだった。この男にとっては異性の胸も股間も、どこもかしこも卑猥ではないのだろうか。
男としてわざわざ注目するほどの価値は無いと突きつけられているような気がして、それがなぜか心外で、友希那の喉は不本意に尖っていた。
その肉達磨から丸太のような両手が伸びた。男の腕だった。友希那は反射的に顔を反らした。男から逃走する心地だったが何も変わらず、か細い友希那はベッドの白色シーツを感じながら首を適当に振るうだけだった。頭だけが動く状況がなんとも不自然だった。男の腕が友希那の顎を捕獲して持ち上げた。
男の指の分厚い熱が、友希那の神経を逆撫でした。強引に見下されているような心地で、抵抗するためにさらに首を振るってみると不快感は離れてくれたが、しかし何かを穢された感覚は消えてくれなかった。友希那は男を下から睨み続けた。少し乱れた長髪が、それでもさらさらとシーツに流れて落ち着いた。次の瞬間男が高速で獰猛に動いたように視えた。友希那の肢体は動かなかった。
「――ぶっ!?」
視界が真っ暗に成った。鼻の周囲にツンと痛みが走り、引いていくと、代わりのような情緒で熱が籠って膨張していった。反射的に顔を隠したくなったが腕は動かなかった。友希那はすっかり完結した事柄を後から必死に追うように、まだ真っ直ぐに硬い金色の瞳孔を絞った。
男は右手をぐぐっと力んでいた。握り拳だった。内側から肉肉しい硬さが盛り上がり、不気味にぼこぼこと変形していた。友希那は口を開こうとした。男の強い拳が右頬にめり込んだ。
「ぐえっ」
友希那は短く呻いた。蛙の真似をする家鴨のような声が飛び出していた。わけがわからなかった。何もわからなかったがとにかく顔の表面が痛かった。痛みは薄い皮膚の全域に染みて、ただの息継ぎをとても難解な一つの技に陥れた。友希那は緊迫した心地で身体を動かそうとした。とにかく逃げなくてはと思ったが、肢体はやはり動いてくれなかった。顔面の感覚が干上がって不確かだった。その弱った友希那は再び男の拳に破壊された。
「ぶっ」
ゴツンと震えていた。目眩によって頭蓋が震えた。前のめりになった男の拳がもう一度勢い良く迫った。
「まっ――」
視界がぐわりと動いてひしゃげた。友希那は正面を視ようとした。同時に頬に硬いものがめり込んで弾かれた。熱湯のような質感と共に頬が腫れた。男の拳が停止していた。なんとも余裕そうに友希那を捕捉していた。友希那はそれを見上げながら足りない酸素を必死に取り込んだ。歪んだ喉がゼーゼーと鳴っていた。汗でぬるついた貧弱な胸部が、男のたるんだ腰の下にて、やる気に満ちた起伏を造っていた。
「……どうして殴るの」
おぼつかない声だった。数年ぶりに声を出したような感覚だった。
「何も、するな」
「どうして」
友希那が叫ぶと男が拳を振り上げて落とすふりをした。友希那の喉から悲鳴が飛び出した。
「やめて、お願い……」
友希那は拳をみつめながら哀願した。眼球の下の辺りから滲んだ痺れが垂れ出た。
「もういや……」
友希那はさらに縋った。鼻の周囲が粘粘で埋まっていた。とにかくもう殴らないでほしかった。痛いのは嫌だった。
「何もするな」
「ご、ごめんなさい」男の右の肩がもっこりと起伏した。友希那は喉を引きつらせた。「もうやめてっ、お願いっ!」
友希那は戦慄していた。痛みの中でひやりと怯えていた。胸中に存在していた抵抗心なんてもう粉々で、どこにも見出すことができなかった。
「歯向かうな」
男がぽつりと呟いた。友希那は自分の胸の内部が裂けていくのを感じた。自分を形作る全てが劣等に満ち満ちていた。意志そのものが特別素直に弛緩していた。
「なにもするな」
男が固く囁いた。友希那の背中はその低い一音一音に吊り上げられるように反っていたが、それでも明確な動作をえがくことはできなかった。
「なにもするな」
それでも男は友希那に顔面を接近させる勢いだった。
のしかかる腰の重さが過激に成っていた。無かったはずの眼光が生物っぽく緩んで友希那を舐めてた。内部には蛇のような鋭さが在った。巨体そのもので友希那に迫る勢いだった。
「なにもするな」
この男から漂う『生死問わず』の進撃を、友希那は察知してすぐに理解した。同時に友希那は自分の無力についに気付き、それまで保っていた威厳を一気に失くしていた。それはつまり挫折だった。
「なにも、するな」
「わかったっ、わかったわ……」
端的に活動するこの男には、加減というものが無いようだった。友希那を生かす意識が希薄で、徹底して硬く、素早い闘志だけのようだった。
「もう、なにもしないからっ」
友希那は男の何も無い目をみつめて何度も小さく首肯した。男から拳が勢い良く下ろされた。
「ぶべっ?!」
バチンと鳴って顔面が震えた。熱と痛みだけが友希那に残った。これまでの常識が一気に崩れて無意味に至った。友希那は息継ぎをしようとした。男がその情緒を差し押さえるように拳を落とした。
「ぶぶぅっ!」
拳は友希那の頬の肉を潰した。鼻から空気のような、粘液のようなものがぶちゅりと垂れた。男がさらに拳を友希那へ激突させた。
「ぶべっ……」
色白の美顔の中で歪みが咲いた。じりじりと膨れていく頬を意識していた。口腔にて何かが擦り切れた。友希那はそのぬるついた温かさを舌で探った。鉄の風味だった。
「なにっ、なんでっ――」
口を開いた途端に男が動いた。
「ぶうっ……!」
美顔がドチリと鳴りながら、胴体が少しだけ跳ねてくたびれた。顔面の外装が剥がれていく錯覚だった。鼻がどこかに飛んでいく感覚だった。友希那は息切れの中で男を見上げた。
「ちょっど、ねぇっ」
男は少しも乱れていなかった。ただ友希那に座って友希那を見下ろしているだけだった。
「なんでっ、いうごど――」
「黙れ」
「ごめんなざいっ――」
男の拳が頬に激突した。
「ぶっ!」
友希那は呻いた。鼻の辺りから鉄の風が流れ込んできた。
「黙れ」男が拳を振るった。
「ぶっ!」
口の中がさらに裂けたのを感じた。奥の方がぬちゃりと砕けた。
「ごめんなざいっ、ごめんなざ――」
「黙れ」
「黙りますっ、だま――」
「黙れ」呼吸を取り戻す前に男が拳をねじ込んだ。
「ぶっ!」
男は拳を連続で友希那に押し付けた。
「黙れ」
ぶっ!
「黙れ」
ぶっ!
「黙れ」
ぶっ!
「黙れ」
ぶうっ……。
男の拳が停止した。
「いぐ。ぎゅうぅ」
ゆっくりと上がって離れていく焦げ茶の肉弾には、赤色や透明の糸が何本何本も付着して引いていた。男はそれを友希那の肩に擦り付けた。
「げぇ、ええっ、うげ」
友希那はようやくまともに空気を吸った。赤赤と栄えた頬は何かを蓄えているようにぷっくりと膨張し、小さな瞼や口の開閉を邪魔していた。両方の鼻孔から温かい赤色が垂れてシーツを染めていた。口腔は鉄の味で粘ついており、空気を取り込むだけで粘膜がひっくり返るような重たい蠕動を感じた。
友希那は細々とした意識で男を視認していた。額の上に薄紫の前髪がへばりついていた。てかっている胸部は大きく動いていた。しかし男に身体を締め付けられているため満足のいく呼吸はできなかった。唐突に拳が上がって友希那に降った。
「ぶびっ」
ドチンと衝撃を受けた。濁点がついた悲鳴だった。顔面が内側から破裂して飛沫が散るような心地だった。男が拳を下ろした。友希那の鼻から垂れている赤色がさらにだらだらと四方に流れて染みていった。
「うへっ」
男の拳は止まらなかった。友希那は消えかかっている意識を握りしめて保っていた。
「ぶえぇっ」
妙な声を吐いていた。喉を不正に使用した時の声だった。男の拳が友希那の休憩を消し飛ばした。
「ううぶ……」
友希那は肩を起伏させて必死に呼吸していた。胸部や周辺に垂れている長髪が、そういう命の過激に同調して控えめに震えていた。口元がとにかく窮屈で、内側の血管や他の組織そのものが大きく損傷しているような気がした。友希那は停止している男を見上げた。自分の顔面の上のいくつものこぶをかき分けて、ようやく視線を投げるような心地だった。男の拳が上から何もかもを耕して揺らした。
「ぶふうっ!」
友希那は腹から悲鳴を上げた。潰れて空気だけが漏れるような、そういうなさけない音だった。男がその友希那の肉感を覗き込んで口を緩ませた。
「きもちいい」
男の拳が一撃を友希那に与えた。それを合図にするように、男は何か制御のようなものをすっかり忘れて、たった強打だけで、友希那の肉を柔らかく躾け続けた。