その路地裏には夜が詰まっていた。
世界そのものからすっぱり切り離されていた。無視をされているような心地で、肌が固まった。鋭く寒々しく在ったが、しかし、それでよかった。人の目から隠れたい今の状況において、この隙間は、むしろ救済だった。
「大丈夫、じゃあないよね……」
僕は、路地裏の奥まで進んでから後ろを振り返り、連れている湊友希那の顔を窺った。
「頭が、少し……」
「痛い?」
「いえ、なんだか、ぐるぐるするわ……」
友希那は瞼を力んで怯えていた。ひどく小さく、震えた語気だった。
「ここらへんで一旦、落ち着こうか」
「ええ。お願い……」
重たい声が続いた。何か、明確な驚異に追い込まれているような、引きつった雰囲気に満ちていた。
友希那は、その両手で僕の右手に、ちょこんと引っ付いているだけだった。長く美しい薄紫が、小さい表情を上から塞ぐように隠していたが、そこから漏れ出る低い声や息の気配は薄っぺらく、いつものあの気丈な態度からは、まったくもって想像ができないほど、細々としていた。
「ここなら人も来ないと思うよ。大丈夫」
「ありがたいわ……」
僕ができるだけ安全を確認しても、友希那は顔を下側にぼんやりと向けたままで、数秒遅れてようやく、糸が切れた人形のような、角張った動作で微小に震えるだけだった。
「ちょっと休憩したらさ、すぐに家に帰ろう」
「ええ。お願い……」
本当に、普段とは違う態度だった。声も雰囲気も、何もかもが異なっていた。じいっと視ているともどかしかった。なんだか痒かった。むしろこちらが不安に成ってしまう始末だった。
僕は友希那の向こう側を睨んだ。子を守る親のライオンの心地で遠くを確認すると、人々が行き交う街の風景が少しだけ視えた。
彼ら彼女ら民衆は、僕らのことなど少しも気にかけていなかった。
そうやって素通りを覗いていると、胸部の辺りにポスンと熱を感じた。
正体は当然、友希那だった。
「ごめんなさい」
友希那は僕の胸の中で声を漏らした。艶やかな長髪が乱れていた。僕のシャツの上で雑に廻って、いかにも落ち着かない態度で揺れていた。
「ごめんなさい……」
友希那の震えが僕に伝播した。
「大丈夫だよ」
それでも僕は友希那を声で包容し、背中を優しく抱きしめた。友希那の目立っている両肩がひくひくと呻いた。僕は友希那を摩った。彼女の中の珍しい弱さを、直接ほどくように撫でて廻して温めた。
「本当に、大丈夫。ほら、こういうのってさ、お互い様だと思うんだよ。ね、だから大丈夫」
友希那は何も答えなかった。ただ僕の中のほうで頭を動かすだけだった。額の硬さがぐいぐいぐいと突入してきた。僕は友希那を抱えるような意識でその背中を摩り続けた。友希那の両手は僕の腕を掴んで離さなかった。むしろその重心を、僕に対して前のめりに預けてくる調子だった。
「ごめんなさい……」
身体の内部でのたうち廻る苦しさを、どうにか必死に誤魔化しているような勢いだった。
「いいって。……ふふ」
僕は、歌を紡ぐような心地で友希那の頭部に触れた。友希那の鼻がズズっと鳴った。シャツの胸板の位置が濡れていった。本当に、何かが限界を迎えているようだった。
「……きそう」
友希那が自分の口の中で声を溶かした。
「え? どしたの」
「はきそうっ」
友希那が明確な声で叫んだ。とにかく状況だけを伝えたがっていることが理解できた。僕は何か反応するより前にポケットに手を入れた。しかしエチケット袋なんてものは無かった。代わりに出てきたものはただのビニール袋だった。
「じゃあ、ひとまずこれに――」僕が袋を広げると、友希那は何も言わずに中に顔面を落とした。
友希那の喉がありえない下品で震えた。僕はかまわず袋を整えた。友希那は大きなものを数回にわけて吐き出していた。崩れていくような、掠れているような、消耗している声だった。小さい背中が何度も脈打ち、袋の底が貴重に濡れて、重く温かく成っていった。
やがて友希那は静まった。袋から顔が上がっていった。半開きになっている口の周囲は、水分補給をし終えた犬のようにぬめめっていた。
「ごめんなさい、あの、その」
友希那は素早く目を逸らし、その先で息切れを吹いた。肩の周囲の妖しい溝が、さらに卑猥に変動していった。
「とりあえず口を――」僕がティッシュを取り出そうとした瞬間、友希那が再び袋に避難した。毛髪が垂れて、僕の袋を取り囲むような見ために成った。
僕はなぜか腰をより力んで構えた。直ぐに友希那の首周りが内側にへこんで、濁りの音が響いた。
「いいよ、吐いちゃいな」
不純物を強引にひり出しているような具合だった。貴重な喉か、あるいは胃そのものが擦り減っているような、そういう濁点だけだった。垂れ出る物たちは水っぽく、どちゃどちゃと暴れながら、それでも最後はしっかりと、底の部分に溜まっていった。
僕は不安の中に在った。友希那は僕の両腕を掴んでおり、袋の周囲を揺蕩う薄紫はむしろ袋から溢れ出ているような見ために成って、揺れていた。その友希那から飛び出る声はあまりにも悲痛で、とてつもなく人から離れていた。おそらく僕しか聴いていない友希那の下品だった。その汚れはこの路地裏の中に響いて消えていた。
「ああ、なんか……」
僕は、一方で友希那のことを熱烈に傍観していた。この薄暗さの中で、劈く濁っていく友希那のことが、なんだか鮮明に視えて、なんだか綺麗に思えて、頭の中の、全く別の不思議な部分が、素っ頓狂に盛り上がっていた。
それから少し経ってから、友希那の胃と喉が平穏を取り戻した。友希那は念押しのように五秒ほど静止していたが、その口から新しい吐瀉物が出てくることはなく、ようやく安全に慎重に起き上った。
「大丈夫?」
僕は俯いている友希那に訊ねた。
「ええ。もう、何も無いと思うわ……」友希那は濡れた口を不器用に動かしながら目を逸らした。「あの、本当にごめんなさい」
「いいって。それより、落ち着いたのならよかったよ」
僕は身体を揺らして破顔した。
何気なく鼻をひくつかせると、下の方から異質な臭いを意識していた。
それを合図にするように、僕の中の少し倒錯的な感覚が袋に向かっていった。
袋の重心はすっかり下側に定住していた。全て友希那の吐瀉物だった。袋がこんもり栄えていた。正真、正銘、友希那だけのゲロだった。ゲロの重さは全て僕の両手にのしかかっていて、たとえば軽く揺さぶってみると、袋そのものが下方向に引っ張られるような愉快を得た。
友希那の吐瀉のその存在が、僕の中で、より鮮明に香っていた。
「へへ……」
僕は恍惚と浮いていた。僕は、友希那の吐瀉物の煙たい臭いを、総て顔面で受けていた。友希那の中に在る生きものっぽさに、じかに触れている心地だった。それはまるで自慰のような胸の高鳴りで、僕は、友希那にとにかく跳んでいた。
「ねぇ、あのっ、何か拭くものをもらえるかしら」
「え、あ、ごめんっ」
僕は慌てながらティッシュを取り出して友希那に差し出した。
震える素手で受け取る友希那の頬が熟れているように視えたが、濃厚な夜の闇のせいで正確に視認することはできなかった。
「……たくさん、出したねぇ」
「え?」
口元を拭いている友希那の、その胃の内部を恋慕しながら、僕は再び、友希那のゲロを観察しはじめた。