「いただきます」
湊友希那は食事開始の挨拶と共に茶碗を持ち上げた。
六畳間の室内にはちゃぶ台以外に家具がなかった。友希那は正座しており、その正面、つまり北側の壁には窓がひとつ設置されていた。透明な硝子を通過して陽光が差しており、ちゃぶ台の上の箸置きが光っていた。置きは十分に揉み潰した練り消しのような見ためだった。友希那は右手で箸を、左手で茶碗を持っていた。
茶碗の中身はお雑煮だった。
それは一月一日という今日の日に友希那が自作した餅入りのお雑煮だった。少量の小松菜と鶏肉、それから餅がひとつ入っているだけの簡素な汁物だった。
友希那は箸で餅を摘まみ上げ、口を開いて食べはじめた。餅の先端を少し齧るような感覚だった。餅は簡単に千切れてくれなかった。友希那がどれだけ引っ張っても薄く広がるだけだった。友希那は少し慌てた。餅はこのままどこまでも伸びてゆくのではないかと思った。思ったところで千切れはじめた。薄く伸びた、膜のようなその箇所に亀裂が入り、そこからどんどん分裂していった。友希那は咥え込んだほうの餅を口の中に回収し、もう一方、箸で摘まんだままの餅をお雑煮の中に戻した。一度茶碗をちゃぶ台の上に置き、口の中の餅をもっちゃもっちゃと咀嚼しはじめた。
次の瞬間友希那は目を見開いた。
「んぐっ……!」
茶碗を置き、箸を置こうとした友希那の喉に窒息感が巡った。自ら咀嚼した餅が喉に詰まり、呼吸ができなくなっていた。友希那は身体を震わせた。右手の箸がぽとぽとと落下し、ちゃぶ台の影った下の部分に消えていった。
「ごがっ……!」
友希那はそれからもがいた。喉元を力み、どうにか餅を吐き出そうとした。しかし餅は友希那の喉にねっとりと絡まって離れなかった。友希那は身体を強張らせ、胸元をドンドンと叩いた。そうすることで衝撃を生み、餅を強引に吐き出そうとしたが無理だった。粘ついた餅はその程度の衝撃では少しも動かず、ただ友希那の呼吸を阻害するだけだった。
「ごひゅっ、かっ……」
友希那の脳裡に焦燥感が溢れ出した。正座から膝立ちになり、項垂れながら瞼をカッと開いていた。両手で胸元を強く抑え、肩を上下に揺らして深呼吸していた。しかし喉から鳴る鋭い音はまるで喘息のように鋭かった。
今、友希那は生命としての危機にあった。もう二度とこのままなのではないかと思った。正常に呼吸することも、この窒息感がどこかに消えることもないのではないかと思った。また友希那は落胆していた。先ほどまで、通常通りいただきますと挨拶をして食事をしていたはずだった。それなのに今、一転して食事とは無関係そうな窒息感などに苦しめられていた。それは理不尽のように思えた。一月一日という祝福されるべき日に、どうして自分がこのような苦痛に遭わなければならないのかわからなかった。友希那は西側に倒れた。ドサッ、と体当たりするような転倒だった。どれだけ喉元を急かしても満足に空気が入ってこなかった。身体の中に酸素がなく、呼吸はより狭まって脳が萎む印象を受けた。パニックになった友希那はその場でもがくことしかできなかった。それは死にかけの虫と同じだった。縮こまった両足を畳の上で引きずっていた。膝がちゃぶ台の脚に激突し、上に置かれていた茶碗が音を立てて北方向にこぼれた。箸置きが弾け飛び、ちゃぶ台の位置が東方向に少しずれた。胸元から離れた腕は何か掴み取ろうとしているかのように遠くを引っ掻いていた。見開いた目から涙が流れ、鼻水は糸となって垂れた。口角から唾液が垂れ、友希那はヒューッ、ヒューッ、と最後にまた呻きながら、自身の脳が完全に冷えてゆくことだけを意識していた。
私室のベッドで目を開く友希那は薄暗い天井を眺めていた。
「……何よこれ」
友希那は頭上の目覚まし時計を視た。八時五十九分を指していた。友希那は身体を起こさずに室内窓を視た。左手側に備えられたそれには、カーテンがかかっており、向こう側から陽光が差していることが視えた。友希那はベッドから起き上がらずに脱力した。喉元に、あの餅の粘ついたしつこい質感がまだあった。窒息感で脳が萎んで冷えてゆく感触がまだあった。それらは不気味で窮屈な感触だった。また、妙に生々しい感触だった。夢の中で体験した、所詮幻想でしかない感触とは異なるもののように思えた。
友希那は再び眠ろうとした。今日は一月一日で、まだ眠っていてもいいはずだった。そうして目を閉じた瞬間、頭上からピピピピと音が鳴った。煩い電子音だった。目覚まし時計が九時ちょうどを指し、使用者を起こそうと奮起しているようだった。友希那はベッドから身体を起こし、目覚まし時計を停止させてまず着替えをはじめた。
薄紫色のワンピース型パジャマから友希那は私服に着替えた。シンプルな黒色のシャツに下は白のロングスカートだった。
湊家のリビングは広かった。派手ではなく、落ち着いた色合いで設備も最新のものだった。友希那はダイニングテーブルについた。そこには朝食と置手紙があった。
置手紙とは母からのものだった。明けましておめでとう、という新年の挨拶のほか、急用のため出かけること、朝食を造っておいたから食べてほしいこと、父は仕事部屋に籠っていることが書かれていた。友希那はダイニングテーブルの上を視た。置かれているものはまず茶碗がひとつと、その手前の位置に箸置きがあった。箸置きは十分に揉み潰した練り消しのような見ためだった。黒色の一般的な箸が置かれており、また茶碗の中は餅入りのお雑煮だった。
「また……」
着席した友希那は固唾を飲んだ。温かい茶碗の中に浮かぶ、白色の餅を視てあの『夢』の出来事を思い出さないわけがなかった。あの『夢』の中で友希那は餅によって死亡した。それは不運な死であり理不尽な死だった。餅ごとき、などとどこか餅に対し油断していた自分の慢心が生んだなさけない死だった。
友希那はあの『夢』の出来事を踏まえ、もう餅を喉に詰まらせないと誓った。『夢』の中の出来事とはつまり失敗したパターンだった。この『現実』ではその失敗のパターンから学び、成功させればいいだけのことだった。
「いただきます」
友希那は箸置きから箸を摘まみ上げた。茶碗を握り、汁の中に浮かぶ小松菜を避けて餅を摘まみ上げると開口し、餅を食べた。餅の先端を少し齧るような感覚だった。
ガリッ――。
などという不思議な感触が友希那の舌の上に触れた。
「んぐっ……?!」
激痛が走り、友希那は茶碗と箸を同時に落とした。箸はパラパラと音を立てながら床に落ち、茶碗は飛沫の音を立てながら落下した。ロングスカートの上にお雑煮の汁や小松菜、鶏肉が転がり、少し遅れて友希那の口元から赤い血がぽたぽた垂れた。舌先や頬部分の粘膜が傷付き、友希那の口の中には血液が充満していた。友希那は口を下向きに開けた。口の中の餅がロングスカートの上に垂れた。餅の中には画鋲が練り込まれていた。それは明らかな異物混入だった。餅の中に隠されていたようだった。友希那は額を持ち上げた。それでも口の中からヒリヒリと呻る痛みが続いた。舌の先端部分が熱を帯び、口腔粘膜が裂けていた。その痛みは癒えることがなく、またすでに腫れているような感覚を友希那は体験していた。口を動かすことができなかった。画鋲は餅と共に全て吐き出したかと思われたが、それでも無数の傷がどこにどのように刻まれているのかわからず、不用意に動かすことは避けたかった。あちこちから血が噴き出し、舌先に触れて鉄の味が充満していた。
友希那は母を疑った。このお雑煮を作成した人物とは母だった。しかし、母が娘に対し異物混入を許すなどありえなかった。偶然入ってしまった、という状況ならまだ可能性はあるが、画鋲がたまたま入ったなどそれこそ本当にありえなかった。つまり画鋲混入とは意図的であり、母が娘に対し画鋲混入などという明らかな嫌がらせを行うわけがなかった。
つまり、この状況で考えられることとはひとつしかなかった。母が作成したお雑煮を母がダイニングテーブルに置いた後に誰かがすり替えただけだった。そのお雑煮に入れられた餅とは画鋲混入の餅であり、友希那は実の母が造ったお雑煮なのか、他人が造ったお雑煮なのか判断できずまんまと虐げられてしまったということだった。
妙に冷静に推理しているとガチャリという音がした。
それは扉が開く音だった。友希那は椅子の上で額を上げた。次にリビングの出入り口扉が開かれ、父が入室してきた。
「お父さん……」
突然の父の登場に友希那は驚いた。しかしすぐに気を持ち直し、自分の口の中が傷付いていることさえ忘れて椅子から立った。
「お父さん、お雑煮がすり替えられているわ!」
友希那は父に駆け寄った。そこで父が手ぶらではないことに気付いた。
「お父さん……?」
両手で御盆を持つ父は友希那を無視してダイニングテーブルに向かった。御盆を置き、友希那が使用していた椅子の横に設置されている椅子に座った。
「友希那、座りなさい」
父が友希那を視ずに呟いた。抑揚がなく、耳によく残る粘ついた声だった。
「お父さん……?」
友希那は立ち尽くした。父の態度は異質だった。意思があるように思えなかった。誰か別の存在に操られているかのような態度だった。
「友希那、座りなさい」
父がまた呟いた。友希那のことは視ておらず、御盆に手を寄せていた。御盆の上には茶碗がひとつ、それから箸置きがあった。箸置きは十分に揉み潰した練り消しのような見ためだった。箸は一膳で、父はそれらを無言でダイニングテーブルに置いていった。
「友希那、座りなさい」
父が三度呟いた。やはりその声色に父本人の発音したいという意思の力は感じられなかった。ロボットのようだ、と友希那は思った。友希那は父に従うというより、父の身を案じるために隣に着席した。そこで異質な部分に気付いた。父は自分の眼前に茶碗を置いていなかった。そうではなく横、つまり友希那の手元の部分に茶碗を置いていた。箸が乗せられており、茶碗の中はお雑煮だった。
「食べなさい」
父が無機質な声で呟いた。友希那は困惑した。なぜ父がお雑煮を食べることをすすめてくるのかわからなかった。また父は友希那の言葉を全面的に無視していた。仕事終わりで疲れているとはいえ、娘の言葉を無視するなど父らしくなかった。
「友希那、お雑煮を食べなさい」
父は前方を眺めながら呟いた。しかしそれは前を視ているというものではなかった。顎先の方向をその前の位置に置いているだけで、父は別に前方を視ていなかった。着席した。したまま背筋を伸ばし、両手は膝の上にあった。
「友希那、お雑煮を食べなさい」
父はまた呟いた。
友希那は今日の日付を思い出した。
今日は一月一日だった。日本でいえば一月一日とは正月だった。三が日の最初の日であり、新年の最初の日だった。そして新年一発目とは必ず餅を食べるものだった。単純に焼いただけの餅や、餡子と混ぜた餅、きな粉と混ぜた餅などたくさん種類があるが、汁物にしたしょっぱいお雑煮も餅料理のひとつだった。父は餅を食えといっていた。それは一見すると友希那の意思を無視した『餅の押し付け』のように思えるが、一月一日という今日の日付のことを考慮すれば『当たり前』のことだった。むしろ、一月一日という一年最初の日であるのに餅に手を出さず済ませようとしている友希那のほうが異質だった。
つまり、この場で正しい意見を発しているのは父のほうであり、友希那は娘としてそれに従うだけだった。
「わかったわ。お父さん」
友希那は赤黒い歯列をちらつかせながら父について了承した。先ほど餅を咀嚼した際の流血は止まっていたが、口の中にはまだ少量の血が垂れていた。友希那は着席しながら自分の手元に出された茶碗を手に取った。右手で箸を正しく持ち、茶碗の中に突き入れて餅を挟んだ。餅は白色だったが十分に焼けており、表面のところどころがほんのり茶色に焦げていた。友希那は餅を箸で掴んだまま開口した。餅の先端を少し齧るような感覚だった。
餅に噛みつくと友希那は箸を動かした。口と箸の間で餅は薄く伸びた。友希那は歯を食いしばった。歯茎や頬の粘膜は釘によって刻み込まれていたが友希那は無視した。それより餅だった。
やがて友希那の口の中に、親指と同じくらいの大きさの餅が投入された。友希那はそれを勢いよく咀嚼した。それは臼の中のもち米を杵でつくような動作だった。餅はしっかり噛まなければならなかった。
「んっ……?!」
歯列から歯茎に染み渡る異質な感触によって友希那は餅を噛む動きを止めた。
ガリッ……、という音が響いていた。友希那は茶碗をダイニングテーブルに置き、箸をコツンと落とした。項垂れていた。視界の中にロングスカートの白色が映り、間もなく、布の上にポタポタと赤色のものが垂れた。
流血だった。
「うぐっ……」
餅の中に混入していた画鋲が友希那の歯茎や頬の粘膜を傷付けた。細い傷がまた無数に刻まれ、そこから血が溢れていた。友希那は項垂れたまま開口した。咀嚼途中の餅が吐き出され、赤色の斑点模様と化したスカートの上に転がった。
「友希那……」
隣で声がした。父の声だった。父は友希那に寄り添い、丸まった背を撫でていた。友希那は額を上げた。父の何か阿るような表情が映った。父は友希那が落とした箸を持ち、友希那の右手に強引に握るよう誘導した。
「友希那、餅を食べなさい」
「どうして……」
父の素手が友希那の右手からするりと抜けていった。父は友希那の背を持ち、瞳の中から友希那に命じていた。
「いいから、餅を食べなさい」
「い、いやよ。だって、このお餅、何か変なものが入っているわ」
「駄目だ」
父は友希那の声を否定するように強く呟き、再び友希那の右手を握った。先ほど、父は友希那の手を温めるようにしていたが今度は違った。今の乳は友希那の右手をガッシリと掴み、強引に箸を動かした。
「食べるんだ」
「嫌っ……」友希那は短く叫んだ。しかし父の腕力は友希那のそれより強く、右手の箸は、勝手に動いた。「やめて……」
「友希那、友希那、餅を食べるんだ。友希那……」
父は呪文を唱えるかのように連呼し、友希那の右手を動かした。友希那の右手の中の箸の先は、茶碗に入って中の餅を摘まんだ。次に父の左手が動いた。友希那の頭部を持ち強引に突き出した。友希那は恐怖していた。父の圧倒的な腕力に逆らうことなどできなかった。腕は動き、やがて茶碗から餅を持ち上げた。友希那が先ほど、自主的に齧ったあの餅だった。
「ほら、食べるんだ」
「嫌……」
「ほら」
父は箸を使って友希那に餅を突っ込んだ。餅は友希那の小さな口という隙間を埋めるようにめり込んできた。友希那は嗚咽を漏らしていた。それは排水溝のような音だった。よく噛むだとか小さく齧るだとかそういった余裕はなかった。ただねっとりとした質感が舌や頬の粘膜にへばり付いていた。喉元まで圧迫され、友希那は涙と鼻水を垂らしながらモウヤメテと叫んだ。しかし喉元は餅で塞がれているためそれは発音になっていなかった。
死ぬかもしれない、と友希那は思った。餅を食べて死ぬ、と友希那は確信した。全身が粟立っていた。皮膚が硬く反り上がり、臓物が下側から冷えていった。それは圧倒的な恐怖だった。そして恐怖は尿意に変わった。友希那は椅子に座ったまま放尿した。股間から染み渡る黄色い尿はまずショーツをぐしょ濡れにした。次にロングスカートの白色を湿らせ、椅子から滴り落ちた。頭上からピピピピと音が鳴った。煩い電子音だった。目覚まし時計が九時ちょうどを指し、使用者を起こそうと奮起しているようだった。友希那は勢い良くベッドから身体を起こした。目覚まし時計を停止させて日付を確認した。一月三日だった。
「……何よこれ」
毛布を開けると香ばしい尿のにおいが煙のように顔面を覆った。