堕ちた村1(梓紗×ぬらりひょん 冒頭)
「ふふ~ん。おしごと、おしごと~」
九重梓紗は鼻歌交じりに軽い足取りで道中を進んでいた。
目的地は霊障の解決の依頼があった村だ。
退魔士の一族を取りまとめる九重家の直系として、所属する退魔機関の退魔士として――という気持ちも含まれているが、梓紗自身はそんな堅苦しい考えよりももっと純粋で単純に『助けを求める人がいて、自分にそれができるなら力になりたい』という想いの方が強いのだろう。
少しずつ自分に回される依頼も増えて来たことに誇らしさも感じているところだった。
厳しいけど強くて優しい自慢の姉や兄の様に慕っている男性と、その彼をめぐってライバル関係にある親友と学友達。
そんな人たちに顔向けできる様に、しっかりと勤めを果たす心積もりで臨んでいた。
「……っと。あの村、だよね?」
長い道のりの間、駄菓子やおむすびで腹を満たし終始笑顔を絶やすことなく歩き続けていた梓紗が不意に顔を顰める。
周囲から妖気が漂い始めて来たからだ。
妖気は村を覆うどころか村の中からも発生しているように感じられ、もはや一刻の猶予もないのではという危機感さえも抱かせた。
梓紗は警戒を強め、携えていた棒状の袋に包まれている得物を無意識に強く握り直すと、妖怪からの襲撃に備えながら、ゆっくりと村へと足を踏み入れて行くのだった。
「……ふぅ。良かった。まだちゃんと人がいた。……でも、急がないとだねっ」
鳥居を潜り、階段を上がり神社の境内へと入ったところで、梓紗は安堵のため息を吐きながら村の中の状況を頭の中で整理した。
ちょっとした小道や脇道、水場から多少の妖気を感じるも、実際に妖怪と遭遇する事がなかったのが幸いだった。
真昼間から妖怪が闊歩するような状況になってしまっていたら、もはや村を捨てるか、こちらも数を揃えての殲滅戦を仕掛け奪還する方法しかなかったからだ。
今ならまだ親玉を倒すだけで自然と瓦解し、村の解放も簡単だろう。
「よしっ! ……すぅ~、こんにちは~っ! 誰かいませんか~~~っ」
しんと静まりかえっていた境内に梓紗の元気な声が響き渡ると、どんよりしていた空気が僅かに晴れる。
梓紗が負けない様にと自信を奮い立たせるために、そして不安に怯えている村人を安心させるためにと発された声に気づいた人物がゆっくりと彼女の元に姿を表した。
パッと見、中年を過ぎ高齢期に入った様な男性だった。しかし酷くやつれ活気が失われた雰囲気から実際の年よりも老けてしまっているようにも見える。
「こんな村に若いお嬢ちゃんがどんな御用ですかな? 悪い事は言わん、早くこの村から…………いや、も、もしや…………?」
「うん。そうだよ。ボクが、え~っと、はけん? されてきた退魔士だよ。こんにちは、おじいちゃんっ」
「お、おお……しかし、まさかこんな若いお嬢ちゃんが……う、うぅむ」
「えへへ、大丈夫だよっ。ボクは今までいっぱい修行してきたし、色んなところでお仕事もしてきたんだからねっ。だからおじいちゃんも安心してボクに任せてよっ」
どこか訝し気な表情を浮かべながら唸り声を上げる老人の姿に、梓紗は気を悪くするどころか逆に相手を励ますように笑い飛ばしてみせた。
彼女からしたら、初対面時のこんな相手の反応はすでに慣れっこなのだろう。
自分に姉の様な貫録がないせいで、不安に感じてしまうのは仕方がないが、それでもお勤めをちゃんとこなせば最後にはちゃんと笑顔になってくれるのだから。
「ところでここの神社の神主さんは? 多分、その人からうちに依頼が来たんだと思うんだけど……?」
「っ……か、神主殿は先日亡くなりまして……依頼は儂が代わりに……」
「そうだったんだ……」
自分が到着する前に出てしまっていた犠牲者の存在に梓紗は胸を痛める。
「あれ? おじいちゃんはどうやって依頼の連絡をしてきたの?」
何気なく口にした疑問だった。
梓紗自身も思わず口に出してしまったが、よくよく考えれば目の前の老人が亡くなった神主とそれなりの間柄であったのならば知っていたとしてもおかしくはないと気づく。
たった一言『神主から告げられていた』とでも言えば片付く話だったのだが、目の前の老人は苦々しい表情を浮かべると、言い淀みながら自身の過ちを梓紗に語り始めた。
「……神主殿からも相談を受けておった。これでも儂はこの村の長だったからのぅ。最初はただ不幸が続いてるくらいにしか思っておらんかったのじゃが、あやつからいきなり妖怪の仕業などと言われても、そんな荒唐無稽な話、到底信じられんかった」
その時の村長の反応は至極当然だろうと感じながら、梓紗は彼の言葉に相槌を打つ。
神事にも様々な物がある。お祓い。祈祷。祀り事等など。
だが基本的に退魔機関という存在は一般には秘匿された組織だ。
秘匿する理由の一つが知らない方が安全だからだ。
悪霊や怨霊、動植物や人間の成れの果ての異形化などを総称して妖怪と呼ばれているが、その存在は本来酷く曖昧で不明瞭でしかない。
多くの人間に認識されてしまう事によって、現世により存在が定着し強力な個体が生まれてしまう事を防ぐ目的もあった。
もちろん全てが全てと言うわけではないが、病は気からという言葉があるように、その存在を知り意識してしまうことにより、向こうの方から忍び寄ってくることの方が多いのだ。
そして、望まずとも発症した病を治すのに医者がいるように、発生してしまった霊障を祓うために退魔士がいる。それだけの話だ。
「……儂が、儂が間違っておったんじゃ! このままではこの村が完全に妖怪の手に落ちてしまうと必死に訴えていた神主殿を抑えている最中、突然化け物が現れ……儂の目の前で……っ」
語っている内に当時の記憶が戻って来たのだろう。老人は恐怖と無念に俯きながら硬く目を閉じ、身を震わせ自責の念に駆られているように見えた。
「あ……ごめんなさい。嫌なこと思い出させちゃったよね」
考えなしの言葉が村長の心の傷を深く抉ってしまったことを梓紗は詫びる。
「いや……儂自身、この世にあのような化け物がおるなど……この目で直接見るまでは、神主殿の言葉などまるで信じようともせずに……儂がもっと真剣に話を聞いておれば、あんな事には……くっ」
「大丈夫だよ。……ボクが、ボクが絶対にそいつを退治してやるからっ」
自分の半分も生きていない年若い少女の前で目から涙を溢れさせ、力なく項垂れながらも、手は悔しさに固く握られていた。
その姿に梓紗は彼の代わりに必ず敵を討つと決意する。
「それでどんな妖怪だったの?」
「は、はい……儂も見ての通りの歳じゃが、儂よりももっと年を取った老人の姿をしておった」
「老人の姿……」
その情報だけでも思い当たる妖怪は何体かいる。
梓紗は頭の中で自分の記憶と知識を総動員して正体を探るべく考えながら、彼から告げられる言葉を聞き逃さない様に耳を傾けている。
「最初は薄暗くてよく見えなかったのじゃが、次第に奴の身体が影から浮き上がってくると、体中からまるで蛸の足の様な物を何本も生やしておって……それが、あまりにも不気味で……」
「……『ぬらりひょん』……」
梓紗が老人からの情報で探り当てた妖怪の正体を呟く。
狡猾な策略を用いてくることがあるかなり厄介な相手だった。
「……神主さんは残念だったけど……それでも、おじいちゃんが無事で良かったよ」
「――っ!? もっ、申し訳ありませんっ! わ、儂はただ、あやつが恐ろしくて……それで……」
梓紗は心から彼の無事を喜んでの言葉だったのだが、掛けられた本人はまるで神主を見捨ててのうのうと生き延びた自分を責められていると思っているのではと感じる程に激しく動揺し、必死に頭を下げ始めてしまった。
「妖怪相手じゃ仕方ないよ。きっと神主さんだって、おじいちゃんのこと守ろうとしてくれてたんでしょ」
「あ、う、うぅ……ぐ、くぅ…………お、お嬢ちゃ……あ、いえ、退魔士様……」
「あはは。呼びやすい呼び方でいいよ。ボクも様づけで呼ばれるのって慣れないし、なんか照れちゃうからさっ」
今も強い罪悪感に苛まれている老人が苦渋の表情で歪んだ顔を上げると、嗚咽交じりに絞り出された声に梓紗は笑顔で応えた。
「それじゃあ、もうすぐ陽も暮れちゃうから、神社のお部屋を一つお借りして、明日から調査していくね」
「……はい。どうか、よろしくお願い致します……」
梓紗が事態の解決に向けて動く事を約束する姿を見て、老人も幾分か心に落ち着きを取り戻し始めて行く。
彼女の滞在の準備の手伝いを申し出るも、やんわりと辞退されると、再び深々と頭を下げて自宅へと戻っていた。
村長の背中が見えなくなったところで、梓紗は改めて気合を入れ直しながら、社務所の入口へと向かって行く。
幸いまだ神社内は神聖な霊気が流れている。
ここを活動拠点にして、まずは街中の霊脈の流れを浄化しながら少しずつ調査範囲を広げていこう。
そう考えながら梓紗は頭の中で今後の計画を練っていく。
「……ちょっとの間だけお借りするね。神主さんの無念、ボクが絶対に晴らしてあげるから」
ドア前で両手を合わせ、神主を想い黙祷を捧げると中へと入って行く。
――その後ろ姿を境内から離れた場所で伺っていた一つの影が、怪しく蠢きゆっくりと周囲の妖気に溶け込んで消えて行った。、
『わかっておるな』
不意に耳元で囁かれた声に『無力な者』は、黙って頷く事しかできなかった。
***
「わぁ~っ! すっごいご馳走~。ほんとにいいのっ!?」
梓紗は食卓の前に広げられた数々の料理に感嘆の声を上げた。
ひとまず長旅の汗を流そうと湯浴みを済ませ、その後夕餉をどうしようかと考えていたタイミングで、再び村長が神社に訪れていた。
そして梓紗が当初想定していた物を大幅に上回る豪勢な夕餉を用意してくれたのだった。
「えぇ、この村唯一の宿の女将に拵えてもらいましたので、ここまでの道中お疲れでしょうし、しっかり召し上がってどうか英気を養ってくだされ」
「ありがとうっ。おじいちゃん……じゃなくて村長さんっ」
屈託ない笑顔を浮かべながら礼を言う梓紗に、村長は思わず表情を綻ばせてしまうと慌てて頭を下げてしまった。
「では、儂はこれで」
「え? 村長さんは食べないの? こんなにいっぱいあるのに」
「お気持ちは嬉しいですが、すでに枯れた老人とはいえ、年頃の娘の所に男があまり長居しては不安でしょう。早々に引き取りますので、あとはゆっくりお寛ぎくだされ」
自分に向けられた言葉にまるで今思い出した様に梓紗は赤面し、あわあわと慌てふためいた。
日頃から活発で女という自覚も薄い彼女からすれば、女性扱いされること自体が慣れておらず、いざ不意にそんな扱いを受けると、どうしたらいいかわからず恥ずかしくなってしまうのだろう。
そして、そんな彼女が「明日またお伺いします」と言って踵を返した村長を引き止める事ができないのは必然だった。
玄関までの見送りを終えると、再び食卓に着き、気持ちを切り替える。
「それじゃっ、いっただきまーすーーっ♪」
両手を合わせて感謝を告げると、さっそく箸を伸ばし、次々と料理を口の中へと運んでいく。
おそらく周辺の山で採れのであろう山菜や川魚に畑の野菜が、煮物に天ぷらにお浸しにと、姿を変えたそれらの鮮やかな見た目も味もどれもこれも申し分なかった。
「ん~♪ すっごく美味しい~」
一品一品しっかりと味わい堪能しながら、長旅ですっかり空腹だった腹を満たしていく。
「……村も大変だっていう時に、わざわざこんなに用意してくれたんだもん。ちゃんとがんばらないとね」
旅の疲れを癒し、明日からの活動のためにもしっかりと食事を摂ろうと箸を進め、
「はぁ~。美味しかった~。あはは、さすがにちょっと多いかなって思ったんだけど……美味しすぎて全部食べれちゃったな」
それなりの量ではあったのだが、味の良さもありあっさりと完食する。
そして満腹状態になれば自然と睡魔が近寄ってくるのは必然だろう。
「ふわぁ~~……。う~……食べてすぐ寝ると牛になるって言うけど……うぅ~眠いよ~」
旅疲れもあるせいか、不意に強い眠気を感じると、大きな欠伸をしながら寝床の準備を始める。
調査をするのも明日からなのだから早く寝てその分早く起きてからでいいやと、敷いた布団の中に入るとそのまま深い眠りへと意識が沈んでいくのだった。
***
「――っ!?」
深い眠りに入っていたはずの梓紗が、突如近くで発生した妖気を察知すると同時に飛び起きる。
もはや条件反射の域に達している反応で素早くその場で立ち上がると……すぐに崩れ落ちるように膝をついてしまっていた。
「うぅ~……頭がくらくらするぅ~……」
いきなり飛び起きてしまったせいだろうか、強い目眩と倦怠感が梓紗を襲っていた。
自分の意志に逆らって身体が再び意識を手放そうとするのを必死にこらえる。
ふらつく身体で妖気の出どころを探り、行動を起こそうとしても強い眠気が精神を蝕み思考がまとめられない。
「う、うぅ……」
梓紗はその場で屈み込んでしまう。
俯いた頭から倒れこまない様にと額に手を当てると、そのままの姿勢で彼女の目がゆっくりと目が閉じられていく。
「…………………………」
そして、完全に梓紗の動きが止まると、
「すぅ…………えいっ!!」
裂帛の気合を込めながら発せられた声と共に全身から霊気を放出させた。
霊力を解放し臨戦態勢になることで強引に意識を覚醒させ、ようやく梓紗は体勢を整える事ができたのだった。
とはいえ一時しのぎでしかない事も梓紗自身も理解していた。
気合を入れ直したにも関わらず、未だにまるでこびりつくような眠気と倦怠感が、隙あらば精神を蝕もうとしてくる。
――そんな彼女の覚悟と行動を目の当たりにし、賞賛の声をあげる者がいた。
『ほぉ……薬を盛られ、なお立ち上がれるとは……。さすがは退魔士と言ったところじゃな』
「――っ!?」
突然背後から掛けられた声に反応すると、梓紗はその場から大きく飛び退く。
畳の上を転がると素早く起き上がり、自分に声を掛けて来た『妖気の発生源』の姿を視認した。
『ホッホッホッ。そんなに慌てて逃げなくとも良かろうに、元気の良い嬢ちゃんじゃのぅ』
「やっぱり……『ぬらりひょん』みたいだね。寝込みを襲ってくるなんてヒキョーだよっ!!」
狡猾な相手だとは梓紗自身も理解をしていたが、この不意打ちは完全に予想外のものだった。
まさか神聖な霊気が流れているこの神社なの中にまで妖怪が入ってくるとは考えもしなかったのだろう。
それだけ周辺の霊脈の汚染も進んでしまっているということだった。
『ホッホッホッ。そのまま儂の気配に気づかずに眠りこけてくれておれば良かったのにのう。久方ぶりの生娘の香りに思わず出てきてしもうたわい。せっかくじゃ、ちぃとばかし味見くらいさせてくれんかのう?』
厭らしさを全く隠すことなく全身を舐め回す様な下卑た視線を向けられ、梓紗は少しでもその視線から自身の身体を庇う様に両腕で抱きしめる。
寝込みに襲撃を受け、今の彼女は寝間着の襦袢しか纏っていない。
霊的な防御力が高い退魔巫女装束と比較する以前に衣服としても、あまりに心許ない恰好だった。
そして、そんな彼女の恥じらう仕草すらも『ぬらりひょん』にとっては興奮材料の一つに過ぎない。なおも更なる彼女の反応を求め、挑発するように厭らしい言葉を投げかける。
『う~む。腕で隠そうとしても隠しきれない程に立派に育った果実、じつにいいのう。その薄布一枚を剥ぎ取られ霰もない姿を晒された時に、お嬢ちゃんがどんな反応を見せてくれるかとても楽しみだわい』
「絶対嫌だもんっ!!ボクは妖怪の仔なんて絶対に生みたくないんだからねっ!!」
『おぉ、そうかそうか。お嬢ちゃんみたいな、はねっかり娘が儂のイチモツを受け、よがり狂っていく様……ホッホッホッ。今から想像するだけで股ぐらが猛ってしまいそうだわい』
「うぅ……ぜ、ぜったい。絶対におじいちゃんみたいな妖怪になんか負けないからねっ!!」
あまりにも露骨なまでに自身の貞操を狙ってきている『ぬらりひょん』の言動に梓紗も否応なく負けた後の自分の行く末を想像してしまう。
だからこそ負けられないと、生理的嫌悪感から尻込みしそうな自分を振るい立たせ、目の前の妖怪と対峙するのだった。
『……して、探し物は見つかったかのう?』
「――えっ!? もしかしてバレてたの?」
『ホッホッホッ。儂から視線を外さない様にしていたのは、さすがといったところじゃが、時々注意が散漫になっておったぞ? まだまだ未熟よのう』
「くっ……」
梓紗が苦々しく呻き声をあげた。
彼女からすれば、今まで以上に負けられないと意識させられている戦いだというのに、未だに妖怪相手に丸腰で対峙させられているのだ。
いくら部屋を探しても薙刀どころか、荷物すら見つからない。
術は得意な方ではないが、せめて護符が一枚でもあれば目の前の妖怪の虚を突いて、その隙にこの場から逃げるという選択も取れただろう。
少しでも神聖な霊気の濃度が濃い場所に隠れ潜み、夜明けまで凌ぐことができれば……。
今はまだ『ぬらりひょん』は己の絶対的有利に悠々とした態度で油断し切っている。
その間に何か打開策を考えなければと梓紗は必死に頭を働かせる。
そんな彼女のを苦悩を分かり切った上で、『ぬらりひょん』は、更なる策を弄し彼女を弄ぶつもりだった。
『お嬢ちゃんの探し物は、これじゃろ?』
自分の背後にある襖をタコ足の様な触手で開くと、
「――ボクの薙刀っ!! ……え?」
開かれた襖から最初に現れた自分の愛用の武器の姿に梓紗は反射的に叫ぶ。
しかし、何故かそれを誰かが掴んでいたが、襖の後ろに隠れてしまっているせいでその人物の姿までは確認できない。
『ほれ、早ぅでてこいて』
なかなか姿を見せようとしない背後の人物に『ぬらりひょん』が命令すると、薙刀を持っていた人物がゆっくりと姿を現した。
「……え? そ、村長、さん……?」
梓紗にとって意外過ぎる人物の登場は、彼女の戸惑いと動揺に拍車を掛けた。
呆然とした態度で呟かれた声に、『ぬらりひょんの協力者』である村長は、びくりと全身を震わせながらも、彼女の薙刀を握る手には更に強く力が籠められる。
まるで絶対に薙刀から手を離さないと言わんばかりに。
「――っ!! 話はあとっ。村長さん、お願いボクの武器を返してっ!!」
一瞬呆然自失になってしまった梓紗だったが、ほくそ笑む『ぬらりひょん』の存在を思い出すと、素早く村長の元へと飛ぶように駆け出した。
色々と聞きたいことがあるけれど、今は唯一現れた勝機へと必死に手を伸ばし――
「たっ退魔士様っ。こ、来ないで下されっ!! お願いしますっ。どうか、どうか後生ですからっ!!」
梓紗が伸ばした手は、彼女が救おうと決意した者から拒絶されてしまうのだった。
「お、お願いだから返してよぅ。ボク、それがないと戦えないんだからっ」
その気になれば力づくで奪い返す事も可能だろう。
村長は今も自分の指が折れても構わないと言わんばかりに薙刀を握りしめ、必死の形相で睨むのではなく、ただただ彼女に懇願し続けていた。
そのあまりの剣幕に梓紗も動きを止めざるを得なかった。
『ホッホッホッ。ざぁんねぇんじゃったのぅ~』
嘲笑う声と共に伸ばされた一本の触手が梓紗の右腕に絡みつく。
奇襲を受け、咄嗟に梓紗が振り返ると、すでに更にもう一本の触手が伸びてきており、左腕も拘束されてしまった。
『そんな棒切れより、儂の自慢のタコ足の方が、ほぉれ。太くて握り心地も良かろう。ホッホッホッ』
「うぅ……ヌルヌルして気持ち悪い……」
梓紗の両腕を粘液に覆われヌメり粘つく触手が絡みつき、至る所に付いている吸盤が吸い付いてくるあまりの不快感に顔を顰める。
手元でウネウネ蠢く先端部分の動きがあまりに気持ち悪く、握り締めようと力を込めると絞り出されたようにそこから大量の粘液を溢れさせ彼女の手を粘液に塗れさせ穢していく。
もはや一刻の猶予もない状況に、梓紗の余裕もなくなりつつあった。
まともに戦う事すら敵わず敵の手に落ちてしまうことだけは避けたかった。
せめて退魔の力が込められている武器を手にすることさえできれば、自身の霊力と共鳴させてこの状況を打開できるというのに。
肝心の薙刀を持つ村長は俯き、ぶつぶつと呟きながら自らの意志で現実から目を背けているように見えた。
「う~。こんなの卑怯だよっ!!」
『ほう。儂が卑怯かい、お嬢ちゃん』
もはや喚くことしかできない梓紗の言葉に『ぬらりひょん』は、にたにたと厭らしい笑みを浮かべながら応じる。
「どうせ村長さんに何か言ったんでしょっ! じゃなきゃ、こんなのおかしいよっ!!」
『ホッホッ。ご名答。さすが退魔士様じゃのう。こやつにはお嬢ちゃんと同じくらいの年頃の孫娘がおるようでな。大切な孫娘が儂らの慰み者にされたくなくば協力せよ。とよぉ~く言い聞かせておる』
その言葉に村長の身体が全身を強張らせたが、梓紗にはもはや彼に声を掛けられるだけの余裕は失われてしまっていた。
くつくつと嘲笑いながら村長が逆らえない理由を答える『ぬらりひょん』の姿に梓紗はただただ怒りを募らせる。
『して、思うに。お嬢ちゃんは仮にその物騒な物を手にすることができたとしたら、儂に迷いなく襲い掛かってくるのであろう?』
「当たり前だよっ。お前みたいな悪い妖怪は退治しなくちゃダメだよっ!」
『なるほどなるほど。丸腰の儂相手に武器を持って襲い掛かってくるつもりじゃったと。それはお嬢ちゃんにとっては卑怯でもなんでもないということかのう?』
「え……? うぅ、だ、だってボクは素手じゃ戦えないんだもん。それに妖怪だから強いんでしょ?」
相手が老人の姿と言うのもあり、『ぬらりひょん』から指摘された言葉に耳を傾けてしまった結果、梓紗は惑わされ躊躇し、迷いが生まれてしまっていた。
『まぁただの人間よりかは強いかもしれんがのう。さすがに武器を持った退魔士ともなると、とてもとても……策の一つや二つ弄せねば到底敵うまいて』
助けを求めてきたはずの相手がまさか妖怪と共謀し退魔士に騙し討ちを仕掛けること自体、本来あり得ないあってはならない事だった。
退魔機関と各地域に点在する神社には絶対的な信頼関係が必然であり必須。
なくてはそもそも人に仇なす妖怪や魑魅魍魎の類が跋扈し、とっくに現世で溢れかえってしまっていることだろう。
しかし、何も知らない村長からすれば、そんなことよりも大切な身内の安全の方を重要視してしまうのは仕方のない事だ。
たとえ孫娘と似た年頃の女性がその身代わりになろうとも……。
他人を犠牲にするという圧し潰されそうな罪悪感を薄めるために『ぬらりひょん』は、彼に一縷の希望を与えていた。
退魔士に武器を渡さなければ、決着が付いたのちに人質を解放する事を約束していた。
それどころか、もし現れた退魔士が得物を手にすることなく素手で自分を滅するほどの実力がある者ならば、村は完全に開放されるだろうと。
本来ならば全く応じる必要性のない取引だったが、目の前に現れた畏怖の存在に冷静さを失い恐怖のままに頷くことしかできなかった。
仮に奪った武器を目の前の少女に返してしまい、それで万が一彼女が負けてしまえば自分は全てを失ってしまう。
目の前の化け物に大切な孫娘が凌辱されるなど絶対にあってはならないことだと、心を頑なに閉ざしてしまったのだった。
『さて、そろそろ万策尽きたのを理解したじゃろ。では、覚悟はよいな。なぁ~に、儂の手に掛かればすぐに良い声で鳴かせてやるわい』
「ひっ!? ……い、いやああぁぁぁぁあああっぁぁぁぁ~~~っ!?」
両腕を拘束された梓紗の元へさらに多くの触手が殺到する。
結局ろくな抵抗すらできずにただ悲鳴を上げながら、梓紗は妖怪に捕らえられてしまった。