「あの馬鹿っ! いったい何を考えているんだっ!?」
「……すまんの、誠一郎。儂にはどうしようもできぬことじゃから、兄のお主に任せてしまったのじゃが、裏目に出てしまったようじゃ……」
「どういうことですか、桜様っ。いや、それよりも今は早く弥生を探さなくてはっ!!」
「安心せい、誠一郎。いくら儂でもさすがにそこまでしくじってはおらぬ。弥生は儂の結界の中に留まっておる」
ひとまずは彼女の身の安全は保障されている事がわかり、誠一郎も少しは落ち着きを取り戻す。
今追いかけたところで、再び逃げられる可能性が否定できない以上、まずは桜姫からの会話に応じるべきと判断する。
「……桜様。弥生は、あいつは一体何をされたんですか?」
自らの意志で孕まされた妖怪を産もうとしているとさえ思える言動は、もはや彼女の正気を疑うレベルだ。
「どうやら弥生は、お主の姿をした奴に誑かされてしまったのじゃろう」
「俺の姿……? 幻術や幻惑の類といったところですか? 確かに身近な人間に化けられてしまえば多少はやりにくさを感じてはしまうと思いますが、だからと言ってあいつがそれくらいで不覚を取るとは……」
「左様。ちゃちな妖術で姿を模してる程度であれば、退魔士であればさして脅威とはならん」
桜姫の言葉を肯定する様に誠一郎も頷く。
いくら近しい人間の姿をしていたところで妖気を纏いながら襲い掛かってきたら、それはもはやただの倒すべき敵でしかない。
確かに動揺し、その隙を突かれる事はあるかもしれないが、それもせいぜい一度切り、ほんのわずかな時間だろう。
そのわずかな隙を突く更なる策を用意されていれば、最悪男であれば殺され、女は捕らえられてしまう事があるのもわかっているが、少なくとも弥生は捕らえられてはいない。
妖気によって穢れを受けたとは言え帰還を果たしているのだから、他に策を弄されたとは誠一郎には到底思えなかった。
「だがな、誠一郎よ。例え偽りの姿と分かっていたとしても、想い人に甘い言葉で言い寄られて、その誘惑に打ち勝つのは余程大変な事じゃぞ。ましてその想い人との恋が決して叶わぬものと理解しておればおる程にの……」
淡々と告げられた桜姫の言葉に誠一郎は背筋が凍りつくのを感じた。
「――なっ!? そんな、」
「お主からしたら、馬鹿げた事でしかないであろうな。所詮自分の偽物、紛い物でしかないのであるからな……じゃが、弥生にはそれで十分だった」
もしかしたら彼女にそう思わせてしまった事すらも敵の策だったのかもしれないがの。と続けられた桜姫の言葉に誠一郎は苦々しい表情を浮かべる事しかできなかった。
「だからと言って、あいつにあのまま妖怪を産ませるわけにはっ」
「落ち着かんかっ、誠一郎!! そうやってお主たち二人が争う事も敵の掌の上で転がされる事になるとわからんかっ」
桜姫は激情と焦りに我を忘れかけている誠一郎の様子に危惧を感じていた。
弥生の孕まされた妖気を浄化するために、最悪彼女を力づくで無理やり犯しかねないと。
一時しのぎの治療の代償で、自暴自棄になった弥生が誠一郎の元を去ってしまっては何の意味もないのだ。
いったい二人をどう宥めて、説得するべきかと桜姫は思いを馳せていたが、それを悠長に考えている時間はなかった。
桜姫は結界内の弥生の気配が変化して行くのを感知する。
「――っ!? いかん、誠一郎っ。弥生の中の妖気が活性化しだしておるっ。このままでは妖怪を産むどころではない。あやつ自身が妖怪と化してしまうっ。急ぐのじゃっ!!」
「弥生――」
桜姫の声が耳に届くや否や、誠一郎は彼女が示した方向へと駆け出していた。
その姿からは様々な葛藤もしがらみも一切感じられなかった。
育ての両親への恩義も、葛城家再興という兄妹が掲げている共通の目的も、退魔士としての誇りも建前すらも、今この瞬間だけは全てを捨て去り、かけがえのない大切な妹を失いたくない。そのたった一つの想いだけを胸に宿し、誠一郎は妹の元へと走り続けていた。
***
「はぁ……はぁ……。これで、これで良かったのかもしれませんね」
感情の昂ぶりが引き金となってしまったのだろう。弥生は、自身の中に宿っている妖気がどんどん高まり、再び身体を浸食し始めていくのを感じた。
頭の中では全てわかっている。偽りの存在に良いように言い包められ、どうしようもないくらい馬鹿で愚かな選択をしてしまっていると。
だけど、それでも決して叶わない恋の想い人に託されてしまったのだから、応えないわけにはいかなかった。
この身に『お兄様』との子を宿すことができるのは、この一度切りだけしかないのだから。
「……いいわけあるかっ。この、馬鹿がっ!!」
「っ、お兄様……」
無意識に自嘲気味に呟かれた言葉に背後から思わぬ返事が返って来た事に弥生は思わず振り返ると、そこには誠一郎が立っていた。
悲痛な表情を浮かべながら、自分と対峙している彼の姿に一瞬驚いた様な表情を浮かべたが、すぐに申し訳なさそうな諦観の表情へと変わっていた。
妖怪化が進み身体から妖気を発し始めているのだから、もはや一刻の猶予もないのはわかっていても、治療を受けようとは思えなかった。
治療を受け妖怪化を防げたとしても、互いの想いに明確な違いがあることがはっきりしてしまったのだ。
せっかく宿した子を失い、誠一郎に兄妹の関係に戻る事を望まれても、その願い自体が弥生には酷な事だった。
「やっぱりお兄様は許しては下さらないのですね」
「当たり前だっ! 俺はお前を失うわけにはいかないんだっ!!」
「それは私たちの両親の、葛城家のためですよね?」
「ちがうっ!! 俺はお前を……もうこれ以上家族を失いたくないんだっ!! だから、頼む、弥生っ。俺の傍から居なくならないでくれっ!!」
「……ですが、こんな事になってしまった以上、もう…………」
葛城家の再興。そのために今まで自分たちが頑張って来た事はわかっている。
そして、誠一郎は自分以上に強く固執している事も弥生は知っている。
育てられ、大規模な戦闘があった際に自分の身代わりとなって死亡したというのに、仇を討つ力すらも失ってしまったのだから。
絶望感と無力に苛まれながらも、自身ができるせめてもの責任を果たすために、弥生を一流の退魔士へと育て上げ断絶寸前の葛城家を再び盛り上げる事が、彼ができる唯一の贖罪なのだろう。
弥生もまた当初はその兄の想いに真摯に向き合い、自身もその目的に賛同を示していた。
そして、真摯に向き合い続け、憧れや尊敬の念が少しずつ恋慕へと変わりつつある自身の感情に戸惑ながらも、兄の意志を知っているからこそ、その想いを胸に秘め抑え込むことしかできなかった。
そこを妖怪に付け込まれてしまったというのが今回の顛末だった。
自分の身勝手な行いが自分たちの目標であり、兄の贖罪を台無しにしてしまった代償はあまりにも大きすぎた。
「そうじゃの。さすがに儂も弥生をこのままにしておくわけにはいかん」
「え?」
誠一郎の背後から桜姫が現れると、彼女から放出された霊力が弥生の全身を柔らかく包み込むと、発されていた妖気の勢いが幾分か和らいでいく。
「桜様っ!? お願いしますっ、どうか弥生を助けてくださいっ」
「やっぱり桜姫様も反対なんですよね」
縋る様に懇願する誠一郎と悲し気な表情を浮かべる弥生。
桜姫は弥生の体内に宿る妖気を完全に抑え込むと、対極的な反応を向ける二人の兄妹に向かって淡々と告げる。
「残念じゃがのう、誠一郎よ。これは一時しのぎにすぎん。儂には弥生の妖気を完全に浄化してやる事はできん。せいぜいこうして霊力を放って妖気の浸食を抑える事くらいしかのう……」
「なら、桜様が抑えてくれている今の内に――っ。……弥生、桜様の手を煩わせてしまっているんだ、これ以上は許さんぞ」
「……はい。申し訳、ありません……でした……っ」
一時の感情と衝動でしかない事はわかってはいる。
納得する事は無理だが、それでも逆らう事はできなかった。
孕んだ子を失う恐怖はあったが、必死に自分を繋ぎ止めようとしてくれている二人の姿に弥生は涙を流しながら頭を下げる。
「して、すまぬがお主らには酷な選択を強いらねばならぬ」
「選択、ですか?」
小さく嗚咽を漏らしている弥生に代わり誠一郎が尋ねる。
「弥生は二つの妖気に蝕まれてしまっておる。自身を妖怪へと変じさせていく類の物と、胎内に宿ってしまった仔という形でじゃ。残念だが、どちらかを浄化する時間しか残されておらぬ」
「そんなっ!? なんとか、なんとかならないんですかっ! 桜様っ!」
「すまぬな。恨むなら儂の力不足を恨め。桜杜神社の祭神だの御守様などと言われておっても、妖気に穢された娘一人救えん不甲斐ない儂をな」
避けられない選択を迫られ誠一郎は呆然と立ち尽くす。
大切な家族が妖怪へと変じて行く様を見届けるか、妖怪の仔を産み落とさせるか。退魔士である誠一郎にとってはどちらを選んでも耐え難い苦痛を強いられる事になるのだから。
そんな中、弥生がゆっくりと口を開いた。
「お兄様が悩むことなど何もありません。全て私の失態が原因なんですから……」
「弥生……?」
儚げに微笑む弥生の姿に誠一郎は言いようのない恐怖に襲われる。
彼女が何か取り返しのつかない選択をしてしまうのではないかという不安に。
「桜様。せっかくのご厚意ですが……申し訳ありません。やっぱり、辞退させて頂きます。元はと言えば私の不心得の行動が齎した結果ですので、甘んじて受けようと思います。……何より、妖怪の仔を産もうとしている私の心は、すでに妖怪へと堕ちてしまっているのでしょうから……」
「……それでよいのか?」
弥生がそう答える可能性を薄々と察していた桜姫が聞き返すが、彼女は小さく頷くだけだった。
そして「今までお世話になりました」と告げ、ゆっくりと踵を返しその場から去ろうと背を向ける。
「ふざけるなっ!!」
そんな彼女を背後から力強く抱き締め、引き止める存在がいた。
「お、お兄様っ!?」
「言ったはずだぞ、弥生。俺の傍からいなくなるな」
「残念じゃったの、弥生よ。どうやらシスコンの兄は何が何でもお前を手放したくはないようじゃぞ」
「桜様っ!!」
誠一郎は弥生が隙を突いて逃げない様に抱きしめたまま、からかう様に含み笑いをする桜姫を窘めると、桜姫もすぐに表情を引き締め彼に尋ねる。
「して、誠一郎よ。お主の答えは決まったのか?」
「その前にわかる範囲で構わないので、一つお聞かせください。仮に今の弥生が孕んだ仔を産んだとしても、それで妖怪化してしまう事は絶対にありませんか?」
「絶対とは断言できんが、限りなく低いと儂は思っておる。出産時に妖気の大部分はその仔に受け渡されるじゃろうから、体内にはほぼ残らんじゃろう」
逆に孕んだ仔の浄化を優先すれば、今の弥生の不安定な精神状態では治療で体力と霊力を消耗している間に妖気の浸食が一気に進んでしまうだろうと桜姫は続けた。
「……わかりました。なら、そこから先はその時にならないとわからないという事ですね」
「こればっかりは願うしかあるまいな。せめて相手の正体に少しでも確信があれば良かったのじゃが……」
妙な含みを感じる二人の言葉に弥生は言いようのない焦燥感と恐れの感情を抱き始める。
「あの……いったい何の話を……」
弥生は心のどこかで聞くべきではないと警鐘が鳴らされているのを感じつつも、妙な胸騒ぎと押し寄せて来る様な不安に耐えきれず二人に尋ねてしまった。
「弥生……妖怪がお前を犯した時は俺の姿だったのかもしれないが、本来の姿は物の怪の類なのかも知れないんだ……」
「相手を謀る事ができる程の知性を有しておるのじゃから人型であるか、あるいは実体を持たない類とは思うが断言はできんからのぅ」
「――っ!? あ、あぁ……う、ぁ……っ」
告げられた答えに弥生は自身の浅はかさと残酷な可能性に気づき言葉を失う。
無意識に視線を自身の下腹部へと下ろすと託されたと思い込み、必死に護り育ててしまった自身の腹の中の存在が途端におぞましい物に思えてしまっていた。
腕の中で怯え震えている弥生を誠一郎と桜姫は宥め落ち着かせながら、校舎内へと戻り彼女の治療を行うのだった。
彼女の妖怪化を進行させていた妖気の浄化を行った後に、改めてもう一つの胎内に宿る妖気の状態を探ったが、もはや出産を避けられない状態まで進行しているのを確認するだけでしかなかった。
強引に浄化する事も可能ではあったが、すでにある程度の大きさまで育ち肉体を有してしまっているため、それが例え生きていようが死んでいようが出産という形で排出する以外に方法がない以上、少しでも母体である弥生の身体への負担を避けるためにも迂闊な事はできなくなってしまっていた。
すっかり心身共に疲弊し切ってしまった弥生を休ませた後も、誠一郎と桜姫は今後を話し合う。
「……誠一郎よ。弥生の出産には何が何でも立ち会わせてもらうぞ。お主に勝手な真似は絶対にさせぬからの」
言外にもし弥生が異形の存在を産み落としてしまった際の処分を引き受けると言うことだろう。
そして、桜姫はその役目が必要となった時は、決して誠一郎にはさせない事を固く決意していた。
「お主は弥生の兄であろう。ならば、兄として弥生をしっかりと支えて力になってやるのじゃ。その後の身の振り方なぞ、後でいくらでも考えればよい」
誠一郎が感じている不安と責任を理解した上で、そんな事よりも彼に自分が何を優先すべきかを気づかせる。
「……よもやここまで大事になるとは思わなんだ。弥生があそこまで思い詰めておったとはのぅ」
「俺がもっと真面目にあいつと向き合っていたら……」
「こうなった以上もはや後の祭りじゃが……やはり弥生を女として抱く事はできぬか?」
「えぇ。あの後もずっと何度も考え続けましたが、そこだけは俺の何があっても変えちゃいけない信念みたいなものになっていますので……」
「左様か。ならばこれ以上は何も言うまい」
二人にとっても弥生自身にとってもやれる手は尽くした。
誠一郎からすれば大切な妹の胎内に宿った存在に対して殺意にも等しい程の怒りや憎しみを抱いている事だろう。
しかし、今その感情をぶつける事が出来ない以上、せめてこのまま何事もなく彼女が穏やかに出産の時を迎えらえるよう願うことしかできないのだった。
そして、やがてその時を迎える。
不安と恐怖の中にわずかに残された期待の感情が自身の中で渦巻く中、弥生は誠一郎に強く手を握り締められながらイキみ自らの胎内で育てた生命を産み落とす。
直後、桜姫は二人の視界を遮りながら、誰よりも早く弥生の腹の中から誕生した生物を確認した。
「ふぅ。これを儂が勝手に処分するわけにはいかんな」
桜姫は生まれた赤子の姿と上げる産声に困り顔を浮かべつつ、安堵の溜め息交じりに二人に判断を委ねる事にした。
目立った異形の証となる物は見つからなかったが、生まれながらにして妖気を持つその体質は紛れもなく半妖と呼ばれる存在だろう。
今後成長していく過程で角や尾など異形の証となる部分が突然生えてくる可能性も否定できないが、少なくとも生まれた直後の姿は弱々しい人の子と大差ない存在だった。
誠一郎は桜姫から抱き上げた半妖の赤子を渡されれると、その赤子を弥生へと抱かせた。
「がんばったな、弥生。お前の子だ。しっかり抱いてやるんだ」
「あ、あぁ……。赤ちゃん。私の、赤、ちゃん……よ、良かった……ぐすっ」
弥生は生まれたばかりのわが子に乳を与えながら、慈しむ様に抱きしめる。
「良かったのか、誠一郎よ」
「はぁ……。さすがにあれに憎悪は向けられませんよ。弥生の面影がありすぎる」
孕ませた妖怪本人ならばともかく、あの赤子に手を出す事はさすがに躊躇われると、誠一郎は人の形だった事に安堵と諦観の溜め息をつく。
その後、誠一郎は弥生と赤子の容態が安定したのを機に総本家である九重家と桜杜神社から出奔する。
幸いというべきか皮肉にもと言うべきか、元よりお家断絶寸前で、九重家との婚姻の話も流れてしまっている今の葛城家に興味を示す者はほとんどいなかった。
彼らの身を案じる極一部の者達にのみ桜姫自身の口から、彼女が二人の出奔の手筈を用意した事と彼らの凡その現状を伝えられていた。
***
「まさか本当にこんな場所があるとはな」
「はい。なんだかすごく不思議な感じですね」
桜姫自身もわずかに流れて来た噂程度の情報でしか知り得ず、正確な場所を把握していない、人間だけでなく妖怪からもその存在を秘匿されている云わば隠れ里。
そんな場所へと辿り着いたのはつい先日の事だった。
人間同士の男女に半妖の子という奇妙な組み合わせに何人かは首を傾げる村人もいたが、自分達と同じ訳ありと察しているのだろう。
誠一郎達が自ら事情を明かした村長以外には踏み込んだ話を求めてくる様な無粋な者もおらず、ようやく三人は平穏の生活を取り戻す事ができたのだった。
そして、弥生は早々に退魔士として復帰し、誠一郎は彼女の補佐を務め、この村を脅かす脅威を払うべく尽力するのだった。
「……今までは人の生活のためだけに妖怪と戦っていましたが、妖怪のためにも妖怪と戦うというのも不思議な感じですね」
「まぁな。だが、悪い気はしない。というより、今の俺達にはちょうどいいかもしれんな」
退魔士という共存する種族の内の片方を一方的に滅する存在であった自分達を疑うことなく受け入れてくれた村の住人と子供の平穏のために力を振るえるのならば、これ以上の事はなかった。
やがて遠い未来にこの地は人と妖怪の共存と調停を担う葛城の一族が誕生した地として語り継がれる事になるのだった。