東京の街を昼間は人間が行き交い、夜になればサキュバス・インキュバスが人間たちを接待する、東京歌舞伎町化計画。亜細亜諸国は日本軍による救援で自国の領土と誇りを取り戻し、復興に向けて国力を高めている最中である……と、いえば聞こえはいいが元々生活インフラがきちんと整えられた高度経済を維持する国々ではなかったため、サキュバス・インキュバスたちは自分たちの能力が存分に発揮できる日本に集まった。
戦後のインフラ整備目標として掲げられ、ようやく動き始めた鉄道網。東京の中心街からは少し外れた駅。そこから更に少し離れた場所にある小さなスナック『ナザリック』は三姉妹が接客する、お世辞にも高級店とは言えない店構えをしており、事実その通りで出される酒は質の悪い、ただ酔うためだけの液体と野菜の漬物をツマミとして提供する店だった。
本来であれば性的なサービスのないサキュバスの店など誰も来ない。しかしこの店にはある一定数の需要があり、今ではそれなりの客足を確保している。
三姉妹の長女はニグレドといい、両親ともにサキュバスとインキュバスの純血種である。端正な顔立ちをしているのだが、自分の容姿に自信がなく顔のほとんどを長い髪で隠して生活している。三人の中で一番の子供好きで、出産願望が強すぎるため、次々とお客とねんごろになるのだが、男の目的は結局肉体関係のみで、遊ばれて捨てられる。その度にさめざめと泣くのだが、翌日にはまた次のお客とねんごろになり、捨てられるまでひと時の夢を見続ける。
次女のアルベドはニグレドとは種違いの姉妹で、父親は人間のためサキュバスの混血児というコンプレックスを抱えている。しかし三姉妹の中で一番母親に似ており、薄幸そうな儚げな顔立ちと、男好きする豊満な肉体をもつ。また、姉のニグレドとは一線を画し、どんな男にもなびかない鉄の女としてのスタンスが逆に男心をくすぐるのである。
三女のルベドはニグレドとは種がまた違うものの純血種で元気娘。明るく元気を絵にかいたような健康的な娘で、スナックでの仕事は遊ぶ金欲しさと言い切る。イケメンホストの彼氏に貢ぐために、店では親父たちから金を巻き上げる。
こんな美人三人姉妹が揃う店に、お客が来ないわけがない。繁盛とはいかないながらも、生かさず殺さず一定の収益を上げる事が出来るようになっている。
店はだいたい午前二時から午前三時には閉めてしまう。その日も例外なく、午前三時頃にはすべてのお客を見送り、店を閉める。ニグレドはお客と一緒に腕を組んで店を出てゆき、ルベドはお客の数が少なくなってきた時点で勝手に自分の業務を終了させてホストクラブへ意気揚々と向かう。そうなると結局、閉店作業はすべてアルベドの仕事となる。売り上げを集計して、空いた酒瓶をまとめて店の鍵を閉める。たったそれだけの作業なのだが、気付いた時には薄っすらと空が明るくなりはじめる。
混血児故、姉や妹のように太陽の光に弱いわけではない。ただほんの少し、頭にもやがかかったような何ともハッキリとしない夢うつつの様な状態になるだけで生命に危険は全く及ばない。そしてその症状もサングラスをすることで、かなり軽減することが可能であるため、店舗運営の一切合切の雑事がアルベドの仕事となっていた。
アルベドは今日の売上を小さな鞄にしまうと、オーナーの家へと向かって歩き出す。オーナーの家は店からは十五分も歩けば到着するが、高台に位置しており、家と家の間にある曲がりくねった狭い階段を、毎朝登るのである。
アルベドは店で少しでも映えるようにと、ヒールを履き短いスカートで、出来るだけ胸元を強調した服装で接客をしている。ニグレドのように身体を使う覚悟も持てず、ルベドのように仕事と割り切ることもできない中途半端な混血。それがアルベドによる自分自身の評価だった。
きっと家計を助けるためなのだろう、新聞配達をしている年端もいかない男の子が階段をすれ違った後、舐めるようにスカートの中をこっそりと毎朝覗き込んでいることも知っている。最初のうちはムッとしてもいたのだが、見られるうちが華なのかもしれないと、最近では諦めている。
店のオーナーであるタブラ・スマラグディナはインキュバスではなく脳食い(ブレインイーター)という珍しい異形の者だった。また、小説家をしており人間との折り合いをそれなりにつけて、ヒット作も世に出している。一方で、異形の者であるが故に行き場のなさそうな者達を拾っては、金にならないスナックを運営させている。
アルベドがタブラと出会ったのは五年前、些細な事からニグレドと喧嘩をして家を飛び出した雨の夜。ガード下で雨を凌いでいると、声をかけてくる人間の男はたくさんいた。みすぼらしい恰好であっても、アルベドの端正な顔立ちと、その肉体は容赦なく男達を惹き寄せた。その幾数多の中で声をかけてきたたった一人の異形の者。それがタブラだった。
最初は脳を食べられるのだと思った。混血だから。異形の者にも、人間にもなり切れない半端者だから。だからいらない子なのだと。そう覚悟した時に言われた言葉は全くの予想外だった。
「友達とか、仲間はいないのかい?一人は危ないよ」
アルベドはタブラの姿を見て完全に臆してしまっており、首筋を冷たい汗が流れていくのが感じられる中、ただ首を左右に振ってタブラの問いに対して答える。
「ふむ……困ったな。食事に誘っても断られそうな雰囲気だし」
アルベドは必死に左右に首を振る。
「そうだよねぇ……じゃあこうしよう。僕の名刺とお金を少しあげよう。仕事に困っているなら仲間と一緒に電話をしてください。人間よりかは、良い労働環境を提供できると思うから」
タブラの表情は全く変わらないのに、少し笑ったような印象をアルベドは受けた。差し出された名刺には『小説家 タブラ・スマラグディナ』という名前と共に住所と電話番号が記載されていた。
今でこそ公衆電話が立ち並び社会インフラとしての地位を確立したが、当時は発達途中であった電話を持っていることが一種のステータスであり、それは一定以上の地位と収入を持つエリートであることを示していた。
「温かいものを食べて、気持ちが落ち着いたら家に帰りなさい。そして仕事がしたいなら直接でも、電話でも構わないので連絡をください」
そういってタブラは少しだけ触手を動かすと、足早にその場を離れ、アルベドは一人取り残される。アルベドはタブラに貰ったお金で、数日ぶりの食事として温かい蕎麦を食べながら一人で泣いた。蕎麦屋の店主が人間なのにも関わらず、心配してかき揚げをおまけしてくれるほど蕎麦の温かさに泣いた。タブラの温かさに泣いた。蕎麦屋の主人の困った顔が面白くて、また少し泣いた。
結局、その温かさを信じてみようと決心したアルベドは、タブラに仕事の紹介をお願いし、今の仕事を任された。紹介ではなく雇い入れ。雇用主はタブラ。そこに嘘偽りがなかったことから、アルベドはニグレドとルベドをタブラに紹介し、二人は今の店のスタッフとなった。
基本的にタブラは店に来ることはなく、偶に来たとしてもカウンターで一杯ひっかけてすぐに帰る。仕事ぶりの監視ではなく、三人が働きやすい環境かを確認しに来る。
アルベドにとって、タブラは恩人であり、救ってくれた大事な人である。そんな人に毎日会えることは喜びであり、急な階段を登ることの苦労も厭わないのである。
タブラの邸宅は日本家屋で、元々お偉いさんのお妾さんが囲われていた家を購入したのだという。広すぎず、狭すぎず。毎日の事なので、勝手知ったるアルベドは、戸口で家主を呼ぶこともなくそっと家の中へと入りこむ。
一つの部屋の前で、アルベドは跪座をして居住まいを正す。
「失礼いたします」
そう声をかけて引き手を使い、少しだけ襖を開ける。次には襖の立縁を押して半分くらいまで開ける。最後に身体が入る程度まで襖をあけ、会釈をしてから身体をにじって中に入る。
襖の手がかりを掴んで建て付けの手前まで引く。正座をして、最後に引き手を使って閉める。
「相変わらず、アルベドの所作は見事だね。教えがいがあるよ」
そういってタブラは機嫌よくアルベドを迎え入れる。アルベドはタブラに向かって正座をして、鞄の中から封筒に入れた本日の売上を出す。
「本日の売上でございます。お納めください」
「硬いなぁ……そんなに畏まらなくてもよいのだけれどもね」
そういってタブラは中身も見ることなく、手提げ金庫を机の下から取り出すと、その中にアルベドから受け取った封筒をしまう。
同じく手提げ金庫から、昨日アルベドが渡した売り上げの封筒を取り出す。タブラは封筒を軽く振ると、小銭の音がチャリチャリと鳴る。するとタブラは小銭だけを袋から取り出し、ポチ袋へと入れる。アルベドの前には札のみが入った封筒と、小銭が入ったポチ袋が出される。
「じゃあ三人分のお給料は、このお札の束です。そしてアルベドは売上管理のお手伝いをしてくれたので、このポチ袋がお小遣いです。今日も一日ご苦労様でした」
「ありがとうございます。タブラ様」
アルベドはタブラへの感謝の念を込めて、深々と頭を下げる。
これがタブラ式給与分配。お店の賃貸料等の固定費が発生している筈なのだが、タブラは一切店の売上には手を付けない。タブラは道楽で人助けをしていると本気で考えている。自分の食う分には全く困らない。ただ、自分の目の届く範囲で異形の者がこの世界と折り合いをつけて生きて行ってくれるならば……その手助けができるならばいいのではないかと思ってこの道楽を始めた。何度も騙され、何度も逃げられた。売上はそのまま渡すのだから、一度必ず持ってきなさいという説得に誰も応じなかった。唯一、アルベドだけがタブラとの取り決めを守り、店を守り、運営してくれている。それこそが信頼であるとタブラは考えているし、仮に店の人気がなくなり、彼女たちが生活できないような売上しか出なかったとしても、タブラは支えるために店に飲みに行ってお金を落とそうと考えていた。
「じゃあ、アルベド。僕はそろそろ眠る時間だから。君も家に帰って眠るのだよ」
そういってタブラはアルベドが下げた頭を優しく数度撫でる。撫で終わると、アルベドはゆっくりと頭をあげてにっこりと微笑む。
「はい、おやすみなさいませ。タブラ様」
アルベドはタブラの家を後にすると、タブラの家よりもう一段高い位置まで階段を登る。そこには街を一望できる、小さな児童公園がある。砂場と、鉄棒、木造のブランコがあるだけ。
アルベドは鞄から煙草を取り出して、火をつける。煙草に火をつける瞬間の、チリチリと煙草の葉が燃えていく音が聞こえる。紫煙と共にため息が漏れる。朝日を浴びながら、夏の風に吹かれて長い黒髪がなびく。前髪をかき上げて目を細めて忌々しい太陽と、街並みを眺める。
美味しいとも思わないが、今の仕事を始めて、煙草を吸い始めた。強くならなくてはならないと思った。タブラ様へのご恩返しをしなければならないと心に決めた。
――アルベドは煙草と共に、生きることを決めた。