タブラの家へ、売り上げを渡し終わってもアルベドの朝の日課は終わらない。
店で出しているツマミの漬物は全てアルベドが漬けたものなのだ。そのためアルベドは売り物にならないような、野菜を朝の市場で安い金額で売ってもらい、店に戻って野菜を丹念に洗い、下ごしらえをして自家製のぬか床に漬け込む。
市場でも最初は歓迎されなかった。混血児のため、サキュバスとしての翼はある程度出し入れ可能なのだが、耳の上から伸びた角がアルベドを異形の者であると知らしめてしまう。
仕事着として来ているドレスが、そもそも男に対して媚びているのだ。売春婦と間違われたことも一度や二度ではない。アルベドはその度に、相手に怒鳴り返したい気持ちをぐっと押さえつけて自らの名刺を手渡し、お店へと飲みに来ていただけるように丁寧にお願いするのだった。アルベドの丁寧な対応に対して、因縁をつけてきた者たちがそれ以上しつこく付きまとうこともできず、異形の者に対する悪感情をそれ以上出すこともできず、結局は矛を収めざるを得ない。
アルベドはアルベドで、タブラへの恩返しと考えている側面が強いので、これは一種の営業活動なのだと、自分にしかできない客引きなのだと割り切って好色の目を向けられることを容認している。
今の売上では、ニグレドが子供をちゃんと育てて行ける金額の収入にはまだ届かない。ルベドが自分の好きな事を全てするには足りなさすぎる。
タブラからは『三等分』と言われているが、売り上げはほぼニグレドとルベドで半分にして渡している。勿論、店を維持するためのお酒や野菜の仕入にかかる諸経費を引いた残りの金額を割ったものである。では、アルベドの給料とは……タブラの渡す小銭が全てだった。アルベドは常にギリギリで生きている。肉体的にも、精神的にも、何かの拍子に簡単に壊れてしまうような、そんな脆さを内包しながら必死に生きていた。何のために生きるのか、なぜそうまでして生きるのか。何度も問いかけたが結論などないまま、ただタブラに助けられたその想いだけで生きていた。
その日も、市場で色艶や形の良くないキュウリや茄子など夏野菜を買い取り一度店へと戻る。
鍵を開けて、店内へと入る。夏特有のむわっとした熱気が入り口の扉から外に向かって駆け抜ける。アルベドは、扉をあけ放ったままにしてオンボロの扇風機の電源を入れて空気の循環を促す。ゆっくりと店内の熱気を帯びて湿った空気が撹拌されてゆく。涼しくはならないが、不快でない程度になってくれれば御の字。雑居ビルの一階の一室に高望みなどしてはいけない。
室内の換気がそれなりに終わった後に、ようやくアルベドは夜の仕事着からラフな格好へと着替える。ある意味、仕事着よりも煽情的で健康的なホットパンツにタンクトップといういで立ち。油断をすればタンクトップの隙間から簡単に零れ落ちそうな乳房。あまりにも圧倒的なその胸囲に引っ張られるために、タンクトップの裾からはアルベドのへそが見え隠れする。化粧も落として、煙草に口紅がつかなくなるのは午前八時を回った頃。
タブラはアルベドにいろいろな人を紹介してくれた。人脈は大事だよとタブラは言うのだが、人間の男は結局アルベドがサキュバスだとわかると、必ず一度は好色の目で見てくる。また人間の女はサキュバスに対して侮蔑的な視線を向けてくる。その行為そのものを否定する気はないが、『異形の者』に対しての差別意識と『雄雌』の問題は別にあるような気がした。そんな中でタブラ家の隣に住むあけみちゃんは、アルベドと普通に会話してくれる数少ない人間女性だった。
『あけみちゃん……さん』と教えを乞う際に呼んでみたところ、ケラケラと高い声で笑い
「大丈夫、私も変わり者さね」
そういって気軽にあけみちゃんと呼んでくれと言われたのだった。あけみちゃんから、ぬか漬けの教えは何も難しくはない。ただ、毎日毎日行う。コツコツと積み重ねる。そう教えられたときに、アルベドは自分に向いていると思った。
アルベドは備え付けの小さなシンクで今日買ってきた野菜をよく水洗いする。人参の皮は剥いたほうが自身の好みだったので処理するようにしている。きゅうりは長すぎるものは半分に、茄子と人参については縦半分に切ってぬか床に漬ける。
三つの小さな瓶を使い分け、今日店出す分のぬか床から、漬かった野菜を取り出しておく。夏場は一日漬ければ十分美味しい。そしてぬか床を丹念にかき混ぜて状態を見る。野菜から出る水分でぬか床が柔らかくなってきた場合は、水を切ったりぬかを追加したりする。
結局、そんな事をしているうちに午前中はほとんど店で過ごす。アルベドは店のソファーに横になり、軽く目を閉じて少しだけ眠る。アルベドの眠りは浅い。安心して深い眠りに入ったのはいつだったのかもう自分でも覚えていない。幼い頃は、人間に怯え、戦争に怯え、母親の連れ込む男に怯えた。大人になっても、世間に怯え、迫害に怯え、差別に怯え、男に怯えている。男に媚びて、男から金を巻き上げ、男で生活をしていてもアルベドの根底にあるのは怯えである。
小一時間ほどウトウトしただろうか。日が高く、外に出るのは辛いが、今の時間のうちにニグレドとルベドの分も含めて、仕事着の洗濯をしておかなくてはならない。更には混血児であるが故に、普通の食事を必要としていた。特にアルベドはまだ処女であり、サキュバスとしての本来の食事である『吸精』の味を知らない。
インキュバスからも、人間からも、はたまた別の異形種から誘われることはあったものの、興が乗らず丁寧なお断りをし続けてきた。素直に引き下がってくれる人もいれば、何度も交際を申し込んでくる者もおり、心無い言葉を投げ付けてくる者すらいた。
私達、姉妹を育てるためだったのか、はたまた自分の食事だったのかはわからないが、最後に病で痩せこけて亡くなるまで男に抱かれることを願っていた。
そんな男に抱かれる母親の姿を覚えているからだろうか。だから結局ニグレド姉さんの様に、子供が欲しいという感情も自分にはまだ持ち合わせてはいない。かといってルベドの様に遊びと割り切って愉しむ事もまた、混血児であるが故なのか人間の理性なのかは知らないが踏み切れず今に至る。時を待つと言えば聞こえはいいが、待っているのは時ではなく人なのだ。妥協点と納得点の折り合いを自分の中でつけるだけなのだ。
そんなことを考えながら、アルベドは仕事着をまとめて大きめの袋に放り込みサングラスをして外に出る。サングラスをしていても尚眩しい、忌々しい太陽の光。薄暗い店内からでは目が慣れるまで少しの時間がかかる。気温は高く、肌は既にじっとりと汗ばむ。
ようやく昼の世界に目が慣れてきたところで、扉を閉めて施錠しようとした時にふと視界に入る。人が……倒れている。酔っ払いとすればずいぶんと昼間から飲んだものだ。捨ておいてもそれほど問題にはならないだろう。死んでいるのだとすれば迷惑な話だ。警察を呼び事情聴取が行われるのだろう。どうか他のサキュバスに殺されているようなことがありませんように。
熱中症ならば……助けるしかないのだろうか。考えうる想定の中では最もましだ。
一瞬のうちにアルベドの脳内を思考が駆け巡る。まずは生存確認。上半身だけを引き起こして、壁に背中をつけるようにして座らせる。脈はある。生きている。起こしあげた時に酒の匂いもしないことから、酔っ払いの線も消える。つまりは熱中症である可能性が一番高い。
「大丈夫?どうしたの?」
アルベドはその人物に声をかけるにあたり、はじめて顔を見る。線は細く、若い。額に手を置くと熱くなっているのがわかる。
「すみ…ませ…ん…み、水を……」
かすれる声で水を求める。アルベドは今日の不運を呪う一言を押し込めて、ふうと一息吐き出して男の腕をとって肩に担ぐ。店内へと戻り男をソファーに腰掛けさせる。
氷水を作って、おしぼりを浸して軽く絞る。男の首の両側面と両脇にそれぞれ冷たくなったおしぼりを入れて、男には少しぬるいくらいの水を与える。
一時間、二時間と時はゆっくりと流れてゆく。アルベドにとっては貴重な睡眠時間であり、昼間のうちにこなすべき仕事があったことを思い出す。アルベドが時間をおいて水を与えるたびに男はゴクゴクと喉を鳴らして、水を一気に飲み干す。アルベドはお客に出す予定だった漬物のきゅうりを切り分け、爪楊枝を刺して水を飲む合間に食べさせてやる。
三時間もすると男は幾分回復したようでのろのろと立ち上がる。適度な塩分と、水分。そして直射日光を避けて日陰となる店内。全てアルベドの適切な処置の賜物である。
「どなたかは存じ上げませんが、大変助かりました。ありがとうございます」
男は少しかすれた声で、アルベドに対して礼を言う。本調子ではないだろうが、多少動けるまでは回復できたようだ。
アルベドはカウンターの中で煙草に火をつけて、ため息と共に紫煙をふうと吐き出す。
「落ち着いたならさっさと出て行ってくださいな。もう一時間もすれば店を開けてお客を入れなきゃいけないから……。子供が来る場所じゃない事くらい理解してください」
アルベドは、自身が今日予定していた日中の仕事が半分も終わっていない。更に予定していた睡眠時間も男の面倒を見ながらの微睡のみである。すべては結果論だが、疲労が蓄積し身体が怠く、重くなっていくのがわかる。ズキズキと頭の左側が痛む。今日はもう会話をするのも億劫だ。ニグレド姉さんとルベドに接客は任せて私はカウンターの中での仕事にさせてもらおう。それでも私目当てのお客は、きっとカウンターに座ってあれこれと話しかけてくるのであろう。あの手、この手、その手で私の機嫌を取り、私を持ち上げて口説こうとする。後も先もなく、今夜のセックス相手としてワンチャンスを夢見てぐいぐいと押してくる。それをあしらうのが私の仕事。それを受け入れるのは種族としての本能。だから今夜もその見えない戦いを自分自身の中で行う事こそが、私の社会との折り合い。
若者はソファーからゆっくりと立ち上がり、少しふらつきながらも自分自身の足取りでアルベドのいるカウンターへと近づいてくる。開け放たれたドアから夕暮れの陽射が室内へと差し込み、若者とアルベドの顔をはっきりと照らす。アルベドはそこでまじまじと若者の顔を見る。
若者とアルベドの視線が交差する。その瞬間、雷で打たれたかのようなビリビリとした衝撃が後頭部から背中に駆け抜ける。
アルベドがかろうじて指で挟んでいる煙草は、変わることなくゆっくりと燃えて紫煙を昇らせる。ぽとりと床に落ちる煙草の灰。アルベドは何が起こったのかわからずに目をぱちぱちと瞬く。一瞬であったような気もするし、もっと長くお互いに見つめ合っていたような気もする。
若者もアルベドの美しさに見惚れていたのか、慌てて自己紹介をする。
「名乗り遅れました。鈴木……鈴木悟といいます。画家を目指しています」
そういってはにかむように若者、鈴木悟は名乗る。
「私は……私の名はアルベド。サキュバスなので姓はないわ。この店の店員」
営業スマイルは今まで何度もしてきた。どんなに下等な下種であっても笑顔を絶やさず名乗ってきた。それなのにアルベドはぶっきらぼうな、お世辞にもかわいげのある名乗りもできず、ただ端的に答えるので精いっぱいだった。
「あのっ、これっ……今日手持ちがこれしかなくて……」
悟はカウンターに千円札一枚とポケットに入っていた小銭を出してくる。
「べ、別にいらないわよ。お金なんて……水と漬物しか出してないのだから」
「そう…ですか。いや、ありがとうございました」
そういって、頭を下げてお金をポケットへと乱雑に戻し、悟は店を出ようとする。
「あっ…いや、もし……」
悟は振り返り、はにかむような笑顔でアルベドに向かって返す。
「はい、飲みに来ます。直近に、必ず」
「そう…じゃあこれをどうぞ」
そういってアルベドは店の住所が書かれた名刺を差し出す。
「高額は勘弁してもらえると助かります。また……来ます。必ず」
そういって悟は名刺を受け取ると、爽やかな笑顔と共に店を後にしていった。
アルベドは悟の後姿を多々呆然と見送るしかなく、がちゃりと音をたててドアが閉まるとへなへなと床へ座り込む。身体が熱い。下腹部が熱を持ち、下着が濡れているのがわかる。
――これが恋?愛?
今日の刺すような日中の陽射は間違いなくアルベドと悟に変化をもたらした。