アルベドが悟と出会ったその翌日だったか、翌々日だったか。本当に悟は、スナック『ナザリック』へと来店した。
ニグレドもルベドも、普段は脂ぎったオヤジ達の相手をしているためか、若々しい悟が来店するや否や、今接客しているテーブルを離れてでも悟をテーブル席へと誘うのだが、悟は丁寧にその申し出を固辞してカウンターに座り、アルベドの作る水割りを少しずつ飲み、漬物をかじってはアルベドの顔をじっと眺める。
一方のアルベドは、気恥ずかしさから終始下を向いて仕事をしているものの、ふとした瞬間に顔を上げる。そこには悟の優しい笑顔があり、悟とアルベドの視線が交差する。ほんの一秒、視線が合うだけでアルベドは耳まで赤くして下を向く。
「アルベド姉さんにもとうとう春が来たのかね?」
そんなアルベドの姿を見て、ルベドはお客に水割りを作りながらひそひそとニグレドと会話する。
「アルベドが幸せになれるならば、それはとってもいいことよ。温かく見守りましょう」
ニグレドは、男が絡まなければ、自分の恋愛に盲目にさえなっていなければとても姉らしい姉で、本当はいつも妹たちの事を気にかけている。ただ、すこしばかり自身の出産願望に歯止めが効かず、結果としてしわ寄せがアルベドへいくことで、アルベドから疎まれてしまうのである。ルベドは末っ子らしく、場の空気を感じ取り気配を消して頭の上を通り過ぎてゆくのを待って上手に回避する。
タブラに紹介されたこの仕事を始めるまでは、本当に地を這うような生活だった。
ニグレドとルベドは、サキュバスであるが故に通常の食事は必要としない。その代わりと言っては何だが『吸精』が必要となる。よって早々に街角に立って客を取っていた。しかしサキュバスの売春は、人間側からすれば『食事の幇助』であり、戦勝国というアドバンテージもあってか安く買い叩かれていた。ニグレドはオヤジを相手にすることで稼ぎ、ルベドは同年代の子供を相手にすることで食事を済ませていた。
そうなると困るのはアルベドである。何せ学はない、職もない、更には昼間のアルベドの動きは緩慢になる。アルベド自身は吸精をしなくてもよいがその場合は通常の人間と同じ食事が必要になる。だが食料を買う金は、ニグレドが稼いでくるわずかなお金だけ。でもそんななけなしのお金もニグレドは結婚や出産をちらつかせた男に簡単に巻き上げられ、やっぱり結局無一文となった。そして川の傍に三人で協力して建てた、かろうじて屋根があり三人が昼間に並んで寝ることができる程度の掘っ立て小屋で何年も暮らしていた。
自分でもよく死ななかったものだと、アルベドは今になって思う。
そんな重たい過去を背負った女を、目の前の純朴そうなこの悟青年は受け入れてくれるのだろうか。
――そんな私でも愛される資格があるのだろうか。
悟は、その日は本当にアルベドの顔を見るためだけに店へと立ち寄っていた。アルベドの事は確かに綺麗だと思った。こんな美人がいるものかと思った。だからこそもう一度見てみたいと思った。自分の得たこの感覚は果たして正しいものなのかと。
悟はスナック『ナザリック』の少し重い扉を開けて、店内に入った。
「いらっしゃい」
決して高い声ではないのだが、艶と落ち着きのあるアルベドの声で出迎えられた。まるで何年も前から知っているような安心感のある声。美しく広がる黒い翼。漆黒の長い髪と真っ白な角。自分の人生を憂い、これからの世を憂い、少し疲れた中にも強さのある眼。胸元をこれでもかと強調した安物のドレス、十二分に伝わるその重量感のある乳房の大きさと柔らかさ。
アルベドのすべてが男を惹き付ける。誘蛾灯の様に、その魅力に吸い寄せられる。悟は果たして蛾か蝶か。
アルベドに好意を寄せる若者は今までも多数いた。しかしそれらの全てが、下種な男たちであったこと、アルベド自身が興味を持たなかったことからニグレドとルベドによって骨抜きにされていた。普段は色ボケしているが、両者とも純血種のサキュバスなのである。男を手玉に取ることは元々長けている。
しかし今回はスタート地点から異なる。まずアルベド自身が悟に好意を寄せている。それだけでニグレドとルベドはアルベドを応援する理由となるほど、サキュバスは色恋情事に積極的で寛容なのだ。
悟はアルベドに特に話しかけることもなく、熱心にアルベドの仕事をする姿を目で追う。アルベドはアルベドで、今は仕事中なのだと気合を入れなおして悟の姿などないかのように、いつものニタニタといやらしい視線をねっとりと向けてくる脂ぎったオヤジと同じように、悟に対してもドライに接する。
もともとカウンターは接客用に用意したものではない、そこを使用するのはタブラと、アルベドにどうしても声をかけたいという熱心な一部のお客だけなので、悟がカウンターに座った時点で、接客はほとんどないものとなる。唯一、水割りを作ることと灰皿を替えること。そしてアルベドは気怠そうに煙草を燻らせて、いつも通りに熱心に声をかけてくるお客の話に適当に相槌を打つのだ。
悟から話を振らないので、アルベドが悟に対して何かを応えることもない。逆にアルベドも悟に対しては仕事モードですと言わんばかりに、全く話を振らないのでそこに会話はない。
会話はないのに視線は交差する。そしてその時だけふっと一瞬アルベドの表情が和らぐ。ニグレドとルベドの立場からすると、まるで中学生同士の初々しい自分の思いを自覚したばかりの片思いだと思っている同士にしか見えず、見ているこちらが恥ずかしくなるようなそんな雰囲気がカウンター席には漂う。完全に酔って、顔を赤くしたオヤジだけがそんな場の空気を読むことなくアルベドに絡む。でも、そのオヤジというクッションがあるからこそ成り立つ甘酸っぱい空間がそこには確かに形成されていた。
二十四時を超えて少し過ぎた頃、ニグレドがアルベドに提案する。
「今日はそろそろお店閉めてしまいましょうか」
いつもならば午前二時から三時頃まで営業するのに対して、随分と早い閉店の提案だった。お客が少ない日ならともかく、今日はそれなりにお客も入っていた。
「姉さん、ちょっと時間的には早すぎじゃない?どうしたの?」
「それ、本気で聞いているの?早くお店を閉めたいのは、誰よりもアルベドだと思っていたのだけれど」
確かにアルベドは少し早めに店を閉めたいと思っていた。しかし店の売り上げ的な話もあって午前一時過ぎまでは閉店を言い出すのは憚られると考えていた。
「たまには……ね。姉も姉として、思うところはあるのよ」
そういってニグレドはマイクを三本手に取り、アルベドとルベドに渡す。
スナック『ナザリック』の閉店のしきたり。まずはアルベドが歌う。アルベドが歌っている最中はニグレドとルベドはお客とチークタイムをゆったりと楽しむ。次にニグレドが歌う。そこでアルベドとルベドがチークを踊る。最後にルベドが歌い、アルベドとニグレドのチークタイムとなる。お客が踊る相手を指定して踊る。踊りと言っても激しいものではなく、ただ身体をぴったりとくっつけて、左右にゆったりとしたステップを踏む。そして男性側が女性の耳元で愛の言葉を囁くのだ。その日に同じ相手と二度踊ることは禁止というのがスナック『ナザリック』の唯一のルール。この時だけは女性陣の腰に手を回して許されるのだ。
だからお客は基本的に閉店まで居座る。するとその分売り上げはあげられる。三姉妹が靡くか否かはお客の実力次第。そしてアルベドは今まで誰にも靡いたことがない。酷い時は翼をしまう事無く踊るので、周囲の邪魔となりチークを途中で終了させることすらある。
そんなアルベドが、今日はきちんと翼を収納し、最初はいつも通りにカウンターのオヤジ相手に全く靡くことなくチークを踊り終わり、チークタイム最後の曲をルベドが歌う前に、自らカウンターに座る悟のもとへと歩み寄る。
「一緒に……いかがですか?」
耳まで赤く染めたアルベドがうつむきがちに悟を誘う。悟はにっこりと微笑むとアルベドの手を取り、表情とは裏腹に少し震えた指先でアルベドの腰へと手を回す。
ルベドが歌い上げるしっとりとしてしなやかなバラードに合わせて、身体を密着させた悟とアルベドがゆっくりとステップを踏む。
「今日は、今日はこれで閉店なのです」
「そう……ですか。また、飲みに来てもいいですか?」
「いえ、もし御迷惑でなければ閉店してから、ゆっくり飲みなおしませんか?」
「いいのですか?」
「大丈夫です。姉さんたちの許可も、もらっていますから。お店を出たら三十分くらいで戻ってきていただければ」
「わかりました。必ず戻ります」
「お待ちしております。姉さんたちはいませんので」
曲が終わり、アルベドは身体を密着させている状態から離れるのが初めて惜しいと思った。ニグレドがチークを踊りながら口説かれてうれしそうにしている理由がようやく少しだけアルベドにも理解できた。ルベドが『チークはエロい』といってはばからなかった理由がわかった気がする。
自分の心音が相手に聞こえてしまうのではないかと思うほど、チークダンスが終わった今でも胸が高鳴っているのがわかった。
会計を済ませて各々のタイミングでお客が帰路へとつく。「ありがとうございました」「またおこしください」「おやすみなさい」「またくるよ」そんな言葉を、会計処理しながらお客と交わす。悟とは視線を交わしてアルベドははにかむ。アルベドは会計処理があるので最後まで店内にいるが、ニグレドとルベドは店外までお客を御見送りする。そして御見送りから戻ってきたルベドがアルベドに伝える。
「あのお兄さん、戻ってくるの?」
「そう……お願いしているわ」
アルベドが髪を耳に掛け、照れながら答える。ルベドはアルベドの照れよりも気になることがあるようだ。
「今、外は結構な雨なの、飲んでいるうちに降ってきちゃったのだねって」
「えっ?」
「傘貸しますよって言って、常連のお客さんには貸したのだけれど、お兄さんは大丈夫ですって走って行っちゃって……」
アルベドは慌てて、傘を持って店のドアを開いて周囲を見回す。雨の日は街灯の頼りない明りと、かろうじて営業している店々のネオンしかない。サキュバスは夜目が効くので暗所であればあるほど視認は効くのだが、逆に明かりがあるとそれが阻害されてしまう。なんとも不便で使い勝手が悪い。アルベドは傘を持って店の近くをぐるっと一周してみたがどこにも悟の姿を見つけることはできなかった。
仕方なく、店に戻ったアルベドは閉店作業を進める。約束の三十分になろうとしている。どこかで雨宿りをしながら時間をつぶしていてくれればいいのだが……。
ニグレドとルベドはさっさと着替えて、帰路に就く。正確に言えば帰路ではないのだが……ニグレドからは「思うままに、好きにやりなさい」といわれ、ルベドからは「大丈夫、全然平気だから」と謎の励ましをもらう。先日助けた時と、今日の来店。接点はそれしかない。交わした言葉も数少なく。果たしてそんな状態で私が抱かれることなどあるのだろうかとアルベドは不安を覚える。アルベドは自分自身を純血種の姉や妹と比べ、混血児なので劣っていると自己否定を繰り返し、一人でコンプレックスを拗らせていた。
約束の三十分の少し前、外の看板のネオンも既に消し、カウンターで自分のためだけに仕入れたスコッチに氷を入れて煙草を燻らせながらカウンターに座って心を落ち着かせる。
ガチャリと背後でドアの開く音がする。来てくれたと思って笑顔で振り向いたアルベドが見たものは……ずぶ濡れの悟の姿だった。