一
遠のいた意識が、波打つようにゆっくりと近くなる。眼を醒まし、北郷一刀は天井だけを見つめた。
立ち上がることはできそうにないが、指、あるいは腕くらいなら、どうにか動かせそうだった。だが、そのことになんの意味がある。今生はもはやこれまで。好きなようにやってきた人生が、走馬灯となって浮かんでは消える。
覚悟だけは、何日も前からできている。いや、もしかすると、幾年も昔から、自分は死ぬ瞬間のことを考えていたのかもしれない。
来る日も、剣の腕だけをひたすらに磨いてきた。なんのために、と問われても、それが自分の生きる意味なのだ、と答えるしかなかった。倒すべき相手がいるわけではない。斬り殺したいほど、憎んでいた誰かがいたわけではない。ただ磨き、ただ高める。食ったり寝たりするのと同様に、自分にとっては剣を振るうことが当たり前だっただけだ。
気づくと、国内では敵なしになっていた。多少はメディアで騒がれたこともあったが、それでなにかが変わるわけではなかった。普通なら、どこかで恋愛や遊びに興味がいくのだろうが、黙々と剣を振り続けた。そこにも、明確な答えがあるわけではない。ただ、そうしていたいと思ったからなのか。おのれの中にあるすべてを燃やしてでも、一緒にいたいと感じるような出会いを、得られなかったからなのか。
ふと、眠気に襲われた。
「叔父さん。なあ、一刀叔父さん」
すぐそばからの声に、意識を引き戻される。どうにか眼を開け、一刀は相手の顔を見ようとした。
なんだ。最後までやかましいやつだな、剣丞。言おうとして、声がうまくでないことに、苦笑するしかなかった。それも、ちょっと頬を引きつらせるのが限界で、情けなくなってくる。
新田剣丞。両親を早くに事故で失ってからは、わが子のように接してきた。妹の子で、剣の使い方を仕込んでもいる。祖父から受け継いだ道場は、この剣丞が繋いでくれることになっているのだ。だから、案じていることはなにもなかった。自然の摂理に融け込み、消えていくだけだ。むしろ、もうすぐその先を見られると思うと、愉しみにすらなってくる。
「叔父さま。どうか、無理だけはなさらないでください。われも剣丞も、ずっとここにいますから」
独り身でここまできた自分とは違い、剣丞には自慢の伴侶がいる。久遠。相応に年齢を重ねてはいるが、腰まで伸ばした黒髪が美しく、眼には異様なくらい力がある女だった。
剣聖などと世間から呼称されるようになった頃には、一刀は他者から脅威を感じることはなくなっていた。その中で、はじめて会った久遠に、一瞬とはいえ気圧されたのだから、これはなにかあると感じたものだ。
「剣丞。刀を、これに。最後まで、私は剣士でありたいのだ」
「わかった。わかったよ、叔父さん。少しだけ、待っていてもらえるか。久遠」
「心配はいらない。叔父さまの闘気は、まだ生きている。だから、大丈夫」
声を搾り出し、愛刀を持ってくるように剣丞に伝えた。
北郷家に代々継承されているひと振りで、いまは自分が所有しているものだった。久遠が、濡らした布で口もとを拭ってくれる。それで、気分が少しだけ楽になった。
その刀だが、一時期姿を消していたことがある。それも、高校生だった剣丞と同時にどこかへいってしまったのである。
期間としては、十日ほどだったのか。警察に届けようとしたが、どうしてか帰ってくる気がして、なにもしないでいたのだ。
剣丞と一緒に帰ってきたのは、刀だけではなかった。久遠が住み着くようになったのも、その時からである。正直、これだけの女と、どこで知り合ったのかと思った。それに再会してからの剣丞は、時折驚くくらいの気迫を発揮するようになっていた。自分が、ついに得られなかったもの。技や気構えでは圧倒できても、どうしても届かない一点がある。
現代の、相手を殺さないことが前提の闘いでは、得られないなにかがある。そんなものを追い求めること自体、この日本では間違いなのだろう。
「なあ、久遠」
「はい。なんでしょうか、叔父さま」
頭を動かし、久遠の顔を視界にとらえた。
深い色をした瞳。北郷の家に来たばかりのことは、もっと激しい色をしていたように思えてくる。
「年寄りの旅路に、土産を持たせてはくれないか。あの時、剣丞はどこへいっていたのだ。ン……、そうではないな。おまえはどこから来た、久遠。私がもっとも気になっているのは、たぶんそこなのだろう」
「織田。織田久遠。久遠というのは、実は通称にすぎないのです。面倒になるといけないから、と剣丞から諱は隠すように言いつけられておりましたので」
新田を名乗るようになって久しいが、織田というのが久遠の姓だった。
自身がそもそもかつての武家の生まれだから、特に織田姓について気にしたことはなかった。そこに、秘密があったのか。一番の肉親といえる自分すら欺いていたのだとすると、剣丞もあれでなかなか度胸がある。
「信長。われの名を、信長と申します、叔父さま。生まれは天文、尾張にて育ちました。これまで隠していたこと、平にご容赦を。それから、どうか剣丞を叱らないでやってください」
「わかっている。わかっているよ、久遠。それにしても、織田信長とはな。冗談のような話だが、それならば納得がいく。いや、今だからこそ、すんなりと受け入れることができているのだろうな。だから、これまで秘めていたのは正しかった」
織田信長。歴史上の英傑。これ以上に下手くそな嘘など、ありはしないと一刀は思った。だからこそ、久遠の言葉には真実味がある。
あったことを、根掘り葉掘り聞くつもりはなかった。ただ、ずっと気になっていた違和感の正体を、死に際になって知ることができた。気持ちとしてはそれで満足であり、あとは細事でしかない。女である久遠が信長だったとしても、やわらかになった思考がそういうこともある、と自然に享受してくれている。
刀を持って、剣丞が部屋にもどってくる。秘密を共有したことは黙っているつもりなのだろう。久遠はほほえみを返し、居ずまいを正した。
「ほら、叔父さん。刀に触れていれば、あなたは敵無しだ。身体だって、すぐに元気に」
「気休めなら、いい。私は、十分に生きたと思っている」
腕の中に、冷たさを感じる。剣丞が抱かせてくれた刀は、重いと思わなかった。身体の一部であり、いかようにも振るえる。いや、振るえたというべきなのか。
全身にあった痺れのようなものが、抜けていく感覚がある。最期まで愛刀といられることに、精神が安堵しているのか。それともこの殺しの道具が、かすかに残った命のかけらを、吸い尽くそうとしているのか。
どちらでもいいと思った。気分は安らかで、どこへでも行けるという軽やかさがある。消えゆく前に、面白い話も聞くことができた。
小さな頃に、夢中になって読んだ三國志の英雄たち。その人物たちが、実は女性だったなんて空想を、こんな時になってすることになるとは。
白い地平が拡がる。一歩踏み出すと、なにもかもが泡沫となり消えていった。
†
黄巾賊による反乱。そして、董卓による朝廷の専横。乱世の気運は、消えることなくどこまでも大きくなっていくように思えた。
もう少し、生まれた時代が早ければ。そんな空虚な考えが浮かんでしまうほど、朱里は悩みに悩んでいた。
統治に乱れがあるのは、自分が暮らしている荊州も同じだった。一応、州牧として劉表がいる。漢室の血統であるし、為政者としてもそれなりの仕事をしているから、それでなんとなく国がまとまっている節がある。
だが、この地には安寧を望まない猛獣が跋扈している。孫堅。江東の虎。董卓との闘いでも、人一倍気を吐いていたのが孫堅だった。今は長沙太守に収まっているが、その野心はいつか間違いなく荊州を焼く。武人としての器量は明確に劉表よりも上で、民衆からの人気もある。武一辺倒であるようでいて、細かな根回しもできる人物というのが、朱里が世話になっている私塾での孫堅評だった。
「孫堅さんか、曹操さんか、そのどちらかにお仕えして、いち早く乱世を終熄させる。それしか、やっぱり道はないのかな」
孫堅とは別に、中原で頭角を現しつつあるのが曹操だった。そちらには袁紹も勢力を築いているが、名門の威光をかざすばかりでどうにも力にかけるというのが実情なのである。それは袁術についても同じで、孫堅が版図を拡大すればいずれ飲み込まれる運命にあるとしか思えなかった。
視線の向こう。流れるようなものがあり、朱里は意識を奪われた。
「はわっ……。え、この光って、まさか……?」
丘を越えた先から、まばゆい光が見えていた。真っ昼間だというのに、ほんとうに星が落ちたのかと見紛うような眩しさだったのだ。
世の中が乱れると、おかしな噂話が出回るものなのかもしれなかった。つい先日、旅の占い師から、天の御遣いが流星を伴い出現するとの噂を聞かされていたのだ。
乱世を正し、混乱を終熄に導く。そんな怪しげな存在に、あやかっていいものなのか。
わけもわからず、朱里は駆け出していた。光の正体を確かめるだけ。それでなにもなければ、別に構わない。水鏡先生や友達に、あとは笑い話として紹介すればいいだけだった。
「お、男の人。意識を、失っているのかな。光と一緒に、この場所に。ほんとうにそうだとしたら、この方が、天の御遣いさまなの」
光を放ったと思われる場所に、男がひとり倒れ込んでいた。まさかとは思ったが、この眼で見てしまったのだから信じる以外の選択肢がない。胸の鼓動。踏み出すごとに大きくなっていて、少し気分が悪くなりそうなくらいだった。
仰向けで、剣のようなものを抱いている。恐る恐る近づき、朱里は顔を覗き込んだ。
「ど、どうしよう。息、とまっているのかも。このままだと、天の御遣いさまが……」
無意識に、天の御遣いという言葉を口にしていた。
若い男で、陽光を受けてきらめく上着を身につけている。実は意識があって、いきなり斬りつけられたらどうしよう、なんて不安がないわけではなかった。
水鏡先生から、迂闊な真似は避けるようにたしなめられている。乱世は無情で、小さな子を売り買いするような商人が、各地にいたりする。幸い、自分はこれまでそういう類の人間とは関わらずに済んでいる。ただ、ここで一歩を踏み出さなければ、世界はなにも変わらないと思った。
「凛々しいお顔立ち。身体も、すごく鍛えられていて」
命脈をつなぐには、これしかないと覚悟を決めていた。
微動だにしない男の上に跨り、顔をじっと見つめる。やはり、息がない。なんらかの衝撃のせいなのか。それとも、肉体が生を諦めかけているからなのか。
友達が溺れてしまった時に、こうしなさいと教わったことがある。
つばを飲み、顔をさらに寄せた。唇。触れるか触れないかのところで、最後に自分の意思を問うた。
「やろう。この人を、死なせたくない。動機なんて、それで十分なはずだもの」
最悪、この男が天の御遣いでなかったとして、見殺しにしていいはずがなかった。
出会うべくして出会った縁。自分が光があらわれた瞬間に居合わせたのも、なにかの偶然ではないと思えていた。
作法もなにもあったものではないが、息を含んで唇をくっつけた。そのまま必死に流し込み、心の臓がある部分を両手で押し込む。これを何度か繰り返し、なんの反応もなければ、もう諦めるしかなかった。
「生きて。お願いだから、生きてください」
願いを込めて、男の蘇生を続けた。
体温はある。だから、完全に死んでいるわけではないと思っていた。きっかけがあれば、この人は生き返る。そうやって、汗だくになるまで何度も繰り返した。
「はあ、はあっ……。え、あれっ……」
男からの反応は、まだなにもない。そして、朱里はあることに気がついていた。
三人組の影が、少しづつ大きくなっている。嫌な感じの汗が、背中を伝って落ちていく。こうした予感は、往々にして当たるものだ。逃げれば、間に合うかもしれない。だけど、そうなったらこの人はどうなってしまうのか。懸命に息を流し込む動作を、朱里はやめなかった。
「愉しそうなことしてるねえ、お嬢ちゃん。おじさんたちも倒れたふりしてみるから、おんなじようにやってみてよ」
「ふへっ、へっ……。そ、それがいいんだな。へっ、ふへへっ」
下卑た声。腹の突き出た男が、兄貴分の提案によろこんで賛意を示している。
男が三人。それぞれが帯剣していて、異様な雰囲気になっている。逃げれば死。逃げなくても、死に近しいなにかが待っているとしか思えなかった。
奴隷商人なのかは知らないが、ひどく濁った眼をしている。気味が悪く、全身に怖気が走る。蘇生の手は、さすがにとまっていた。
「へへへっ。品のいい下着だねえ、小さいのに。こういう趣味の大人がいるって、わかっているのかな」
「や、やめてくださいっ。うっ、くうっ……」
冷たい鞘が臀部に触れている。着物はめくり上げられていて、後ろから下着を覗かれているようだった。
別に、こんな男のために着用しているのではない。早く水鏡先生のように、立派な女性になりたいと思って選んだものだった。
痛い。鞘の先端で、股の間を無遠慮に刺激されている。腹の突き出た男の顔は歪みに歪んでいて、立っているのがつらいのか姿勢が前かがみになっている。
「おじさんたちと来てくれたら、いいことしてあげるよ。もちろん、お金もアレもたっぷりとね、へへへ」
「んっ、やっ……。い、嫌です。あなたたちとなんて、私はどこにも行きません」
「ふうん。いいのかな。そういう態度をとるんだったら、おじさん知らないからね?」
男たちが剣を抜く。痛めつけ、それで言うことを聞くしかない状況に追い込んでから、好き放題にする。
外道の好みそうなやり方だと思った。気持ちだけは、こんなやつらに絶対に負けてたまるものか。必死に睨み返し、朱里は眠ったままの男の手を握っていた。
「まあまあ、とりあえずそいつを始末させてもらうよ。案外、変わったものを着ているじゃないか。それに、武器のほうも金になりそうだ」
「だ、だめ。それだけは、させません」
「いやいや。抵抗しても、だめだって。ほら、ちょっとだけ痛くしちゃうよ」
頭をつかまれ、そのまま投げ飛ばされた。砂の味がする。その間にも、三人の凶刃が男に迫っていた。
もう、どうすることもできない。眼を瞑り、祈ることしかできなかった。
ほんとうに天の御遣いだったら、こんな危機くらい簡単に切り抜けてみせてくれ。
なにかを裂くような音がする。ひしゃげた声。恐怖に後ずさる足音。
「え、これって……」
おかしいと思い、朱里は眼を見開いた。
地面に、三つの血溜まりができている。息を呑むような光景。三人は見事なまでに身体を断ち割られていて、瞬間的に絶命させられていたのだ。
その中心に立っているのは、あの男。白い衣服を身にまとい、片刃の得物を右手にぶら下げている。静かな佇まい。それが一端動き出すと、どうなってしまうのか。ちょっとおそろしくなり、朱里は軽く身をふるわせていた。
「平気か、そこの君。眼が醒めるとおかしな連中がいて、身体が勝手に動いていた。正当防衛、になるといいのだが」
「あ、ああ、あのっ……! あうっ、んっ、くっ、くふぅ……」
短時間で、いろいろなことが起こりすぎている。頭も、そして肉体も、状況についていけていないことが明白だった。
理由が理由だったとはいえ、見ず知らずの男にはじめての接吻を捧げた。そして、最後にはこの有様なのである。
股の間に熱が生じている。あの三人になにかされたからではない。男が生きていてくれたこと。そして、窮地を脱したことによる安心感。その二つが相まって、身体の一部に緩みを発生させたのではないか。
とまらない。自分の意思では、とめようがない。
顔を真っ赤にして、朱里は腹のあたりを押さえている。地面に染みが拡がっていく。男はほとんど興味がないのか、あたりの景色ばかり見渡していた。