日が落ちるまで、まだかなり時間がある。
当たり前の日常。ゆったりとした時間の流れる街。その中を、一刀は特に目的もなく歩いていた。
朱里は思春と調査兼買いだしに出かけると言っていたから、珍しくひとりでの行動になる。男の自分といたのでは、入りづらい店もあるのではないか。そうした意味でも、思春の存在はありがたいと言える。
前のめりになりすぎないほうが、結果が出る場合がある。あとは流れの中で、自分が掴み取れるかどうかというだけなのだ。
始末の的は、どんな人物なのだろうか。中央から流れてきた貴族の跡取りだと炎蓮は話していたが、まだ完全に面は割れていないのである。あわよくば、その正体をいまのうちに。まずありえないことだが、振らないかぎり賽の目が変わることはない。
雑多な匂いを感じる。人通りは多く、露店にも活気がある。この明るい場所が、夜になると表情を一変させるのだ。
「ン……。この感じ、まさかな」
炎蓮の言葉を、一刀は思い出していた。
狂気をその身に宿した人斬りが放つ、隠しきれないほどの腐臭。それが人混みの先から、漂ってきた気がしていたのだ。
一歩ずつ踏みしめ、その正体を確かめようとした。
若い男。身なりからして、庶民ではない。腰にはひと振りの剣を履いていて、左手の指が柄の部分を弾いている。
眼つきにどこか鋭さがある。この男が件の辻斬りだとすれば、明るい時間帯から獲物を探しているのか。柄を弾いていた指が止まる。男の視線は、自分の刀に注がれていた。
「やあ、そこのお兄さん。この街で、きみのような若い剣士に巡り会うことは少なくてね。それで、声をかけずにはいられなかった」
男に呼びかけられ、一刀は足を止めた。
意外と人懐っこい話し方をすると思った。護衛はいない。それとも、遠巻きにどこかで見守っているだけなのか。
ここで仕掛けるつもりはないし、まだ殺しの下手人だという確信があるのでもない。とにかく、ここは男に付き合ってみるだけだった。
「どうかな。急ぎの用事でもなければ、そこの茶屋で休んでいくというのは。ああ、支払いなら気にしなくていい。これでもボクは、懐に多少余裕があるのでね」
「でしたら、遠慮なく。私も、ちょうどほかの剣士の話をうかがいたいと思っていたところなのです。近頃、見ていた景色が変わりすぎていて、戸惑うことが少なくありません」
「はははっ。面白いことを言うね。当たりを引いたのかな、これは」
男が嬉しそうに相好を崩している。
同世代の剣仲間に餓えている、というのは本当なのかもしれなかった。ただし、自分ではその希望を満たしてやることなどできない。戸惑うことが少なくないというのも、半分が嘘である。
店内の座敷に案内される。卓の向かいにいる男が剣を背後にそっと置くと、一刀もそれに倣った。
自分は、若手の剣士らしく振る舞えているのだろうか。どう思われようと構わないが、これは遊びのようなものなのである。最悪、この男が始末の的でなくてもよかった。だが事実として、近づくほどにあの匂いは強く濃くなっている。
「ボクの名は路圭。ちょっと前に兄が病で亡くなってしまってね。それでひょんなことに、剣だけ振ってきた次男坊に出番が回ってきたのさ。事情が事情なだけに、大っぴらには喜べないのが残念だよ」
「そうでしたか。私は、北郷一刀という者です。こちらは見聞を広めるため、各地を旅している途中でして」
店の女が持ってきた茶を口に含む。香ばしさの中に、上品な甘みがある。嗜好品に精通している方ではないが、そんな自分でも上等なものだとわかる程度にはうまい茶だった。
祝意を述べてやるべきだったのかもしれないな、と一刀は路圭を観察しながら思っていた。巡ってきた幸運に、眼の前の男は野心を隠せずにいる。平静を装って語っているつもりなのだろうが、なにもかもが筒抜けだった。
「いいな、剣の旅ができるというのは。ボクは人の使い方なんて知らないし、ましてや政治だなんてさ。たまに、もっと世の中が乱れればいいと思ってしまう時すらあるよ。そうなったら、ボクの家だって嫌でも戦をすることになる」
「人を斬ることが、おそろしくはないのですか。あれは、剣士にとってこれ以上ない毒薬になり得る。経験の浅い私ですら、そう感じてしまうのです」
「つまらないことを考えるんだね、きみは。殺しが毒というなら、感覚が麻痺するまで食らいつくすまでじゃないか。高尚な生き物でいるべきじゃないんだ。剣士なんてものはね」
乱世に生まれた人間の宿命。そうやって狂気の出どころを決めつけるのは簡単だが、ほんとうにそれでいいのか。時代、それに社会が人格に影響を与え、時には路圭のような怪物を形づくる。そして、その眼に見えない抑圧すら超越したひと握りだけが、英傑への道を開いていけるのではないか。
だが、そんなことはどうだってよかった。世の中に対して、なにが間違いであり、なにが正しいことなのか。自分のような男に、それを決定する権限があるはずがない。
あるのは、わけもなく命を絶たれた誰かの恨みだけ。そのどす黒い濁流を飲み干せるというなら、やってみればいいと思った。
「強いお方なのですね、路圭殿は。先ほどのことは未熟者の戯言だと思い、お忘れください」
「真の剣は、殺しでしか鍛えられないとボクは思っていてね。誰にも屈することのない豪剣。ボクの目指す頂きは、そこにある」
「いつか、拝見してみたいものです。私も、よくよく研鑽を積まなくては」
「なんなら、ここで見ていくかい? 軽い稽古くらいなら、つけてあげられるよ」
その気になったのか、路圭が剣を掴んで立ち上げる。
ちょっと、塩梅を間違えたのかもしれなかった。思春がこのやり取りをそばで見ていたら、きっと激しく舌打ちをしていることだろう。相手が相手なだけに、表向き面倒を起こすわけにはいかなかった。始末はなるべく穏便に、周囲に飛び火しないような方向でやってしまいたい。そのための準備も、朱里が行ってくれているところだった。
「あっ。捜しましたよ、若殿。座学がお嫌いなのは重々承知しておりますが、そろそろ戻られませんと……」
「いいところを邪魔してくれたな、まったく。はははっ。場所が場所なら、首が飛んでいたぞ」
「あ、あははっ。勘弁してくださいよ、若殿。遊びがしたいんだったら、また晩にでも」
「いちいち一言多いんだよ、おまえは。とまあ、悪いね北郷くん。見ての通り、ボクはそれなりに不自由な身なのさ。店の支払いは済ませておくから、あとは好きにしておいてくれ」
目付け役らしき壮年の男が、路圭に対してしきりに頭を下げている。
夜間に行われる遊びというのが、街を恐怖に包む辻斬りなのか。だとすると、余計に気分のいい話ではない。政治の勉学で蓄積したストレスを、殺しという最悪のかたちで発散している。そんな振る舞いをする人間を、誰が剣士だと認めるものか。
男を引き連れて路圭が去っていく。ぬるくなった茶を飲み干し、一刀は器のふちを静かに指で撫でている。
†
窓から差し込む夕陽が眩しいくらいだった。諸用を済ませて宿に帰ってから、しておきたい作業があるからと朱里は黙々と卓と向き合ったままだ。
壁に寄りかかり、思春は手を入れて袖の内側を確かめていた。冷たい感触。それが、幾重にも折り重なっている。
頭領の地位を捨て、外道となった配下を始末する旅に出た。孤独な闘い。背後には黄祖の影が常にあって、まともに眠れない日々が続いた。それがどうして、こんなことになっているのか。
規格外なほどに強い異邦人。ただそれだけなら、感情を乱されることなどなかったはずだ。
「どこをほっつき歩いているんだ、あの痴れ者は」
首に巻いた布を口まで引き上げ、ぽつりと洩らす。
包むようなあたたかさをくれる男。実際はあるのだという歳の差が、その感覚を生んでいるのだろうか。だったら、もう少し身持ちをかたくしろ、なんて文句をつけたくもなる。
知らない女としれっと身体を重ね、始末の依頼まで取り付けてきた。しかも相手は長沙太守の孫堅で、黄祖とその主君である劉表とは実質的に敵対関係にあるのが因縁を感じさせる。本人にその意識がなくとも、天の御遣いという異質な軸は大小の渦を巻き起こす。そして、その流れに身を任せるのも悪くないと思っているのもまた事実だった。
部屋の外から足音がする。帰ってきたのを知らせているつもりなのか、必要以上に大きな音だった。
「遅いぞ。どこぞの女と、また乳繰り合っていたのではないだろうな」
視線は向けずに、言葉だけで軽くなじってみる。一刀が横に立つが、心を苛立たせるような匂いはどこにもなかった。
作業を中断した朱里が、明るい笑顔と一緒に振り返った。おかえりなさい、という言葉がなんだか板についている。再び布で口もとを隠し、同じことを呟いてみる。自分では、どうやら朱里のようにうまくできそうにはなかった。
「始末の的と会ってきた。朱里の見立てどおり、今夜辻斬りは出現するはずだ」
「はわっ!? やっぱりすごいです、一刀さんは。そういう星のもとにお生まれになっているんでしょうね、きっと」
「犬も歩けばなんとやら、ではないのか。ただしこの男の場合、災難は相手に降りかかることになるのだが」
ゆるい雰囲気のせいで、どうでもいい冗談を口にしてしまう。
このままではいけない。そんな考えに背中を押され、探っていた懐の中身を手で掴む。卓上には朱里が購入してきた布が拡げられているが、墨はすでに乾いている。その上に、思春は掴んでいたものをばら撒いた。
「あ……。これって、思春さん」
「多くはないが、別筋から依頼料をもらってある。恋仲の男を斬られた女が、夜鷹をして稼いだ銭だ。始末屋として動くのなら、このくらい恨みの積み重なった金があるべきなのではないか?」
一刀が静かに頷いてみせた。
孫堅から受け取った銭を合わせ、朱里が三等分に仕分けていく。別に自分はいくらだって構わないのだが、そこには形式的なこだわりがあるのではないか。朱里の手もとに、一刀はじっと見入っていた。相手と実際に言葉を交わしたことで、なにか気持ちに影響があったのかもしれない。だが、それが心配するようなものでないことくらい、表情を見ていれば理解できる。
そのまま夜になるまで待機し、宿をあとにした。家々を屋根伝いに移動し、思春は集中力を高めていた。相手はおそらく二人でやってくる。路圭という剣自慢の次男坊と、その目付け役がひとり。住人が犠牲になるまでに朱里が釣り出し、指定の地点で始末をつけることになっていた。
小さな明かりが道の先に見える。朱里のものではない。男がふたり。おそらくだが、篝火を手に持っているのが目付け役なのだと思春は思った。
逃げられるだけの距離を維持したまま、朱里が相手と少し話している。あれで案外度胸のある子だった。それとも、一刀となにかを成し遂げたいという気持ちが、朱里の心に勇気を宿しているのだろうか。
「しくじるなよ、一刀」
発してから、意味のない心配だと思い直した。自分をたった一撃で叩き伏せ、虎と渾名される孫堅の襲撃を受けてなお、平気な顔をして帰ってきた男なのだ。あの日感じた強烈な痺れは、いつまでも手の中に記憶されている。それだけの剣技の持ち主を、辻斬り風情が破れるならむしろ面白いことではないか。鈴つきの組紐を取り出し、思春は冷えるような笑みを浮かべていた。
路圭は獲物をじわじわと追い詰めているつもりなのか、瞬時に距離を詰めるような真似はしない。おのれが狩る側にいると信じて疑わないから、そういうことができるのだろう。だとすると、ちょっと憐れみの感情すら湧いてくる。
一刀は、路圭の始末を孫堅と遭遇した橋で行うと決めているようだった。辻斬りの被害は、そのあたりがもっとも多いと朱里が話していた。
月光がぼんやりと地上を照らす。必死になって逃げる朱里を、助けてくれる誰かはいなかった。今夜は特別人気がない。自分たちの存在がなければ、路圭は相当無聊をかこった状態で朝を迎えていたのではないか。いつからか、目付けの姿が近くから消えている。そろそろ出番か、と思春は闇空を跳躍した。
「なにも、おそれる必要はないよ。きみを苦しませるようなことはしない。痛みは、ほんの一瞬だ」
「はっ、はあ、ふう……。け、結構です。あなたみたいに間違った力の使い方をする人がいるから、世の中はいつまでも治まらない。だったら、私は」
「へえ。小さいのに、強い意志をしているんだね。だからこそ、斬ってみたくもなる」
「こ、子供扱いされるのは、嫌いです。それに、あなたの濁ったその眼では、真実なんてなにひとつ捉えられない。私のことも、あの人のことも」
「話の筋が見えないな。おしゃべりは、もうお終いにしようか」
周りこんでいた目付け役と路圭に挟まれ、朱里は橋の上で孤立している。抜き放たれる刃。目付けの男に狙いを定め、思春は腕を振るった。
「う、ぐ、うえっ」
首に巻きつけた組紐を、締め上げながら手繰り寄せる。なんの感情の揺れもない。例えるならば、道端に落ちたごみを排除している感覚なのか。
路圭の動きが止まる。隙をついて、朱里が闇の中に消えていった。ついであらわれるのは、あの男の姿。白い上着。月の明かりを受けているせいか、やけに神々しい印象がある。
「路圭殿。また、お会いしましたね。夜道は危険ですから、あまり出歩かれるべきではありませんよ。なんでも、この街には辻斬りが出没するようだ」
「北郷くん。なんのつもりだ、これは」
苛立った様子で、路圭が一刀に剣を向ける。おのれが釣り出されたという事実に、さすがに気づいたのかもしれない。
だが、どちらにせよ手遅れではある。ちりん、と組紐の先につけた鈴が鳴る。息絶えた目付けの男を地面に打ち捨て、思春は対峙を見守ろうとしていた。
「よもや、路圭殿が噂の下手人だったのでしょうか。でなければ、早く剣を仕舞われるべきだ。見回りの役人に見つかれば、面倒なことになる」
「茶番なら、もうやめにしよう。ほら、きみも武器を抜けばいい。昼間の埋め合わせを、ここでしてやろうじゃないか。見たかったのだろう、ボクの豪剣を」
腰を落とし、路圭がにじり寄る。人体を真っ二つにするだけの豪剣の持ち主だ。腕には、自信があるはずだった。
それでも、一刀は自然体で佇んだ状態を崩そうとはしなかった。離れていても、立ち姿に隙がないことがわかる。冷静であれば、この時点で負けを悟っているべきだった。
「舐めているのか、このボクを。それともただの死にたがりなのかな、北郷くんは」
「闇雲に振りかざすばかりが、剣の道ではない。それに本物の豪剣は、もっと骨の髄にまで響くものだ」
上段から放たれる一撃を、一刀は最小限の動きでかわす。
瞬時に腕を取られた路圭は、怒りをにじませそれを振りほどこうとした。まるで大人と子供の立ち合いである。狂気を孕んだ刃が、一刀に届くことはない。精神を擦り減らしているのか、路圭の息がかなりあがっている。もう十分だと判断したのか、一刀が得物に手を伸ばした。
「あぐっ、うっ、ううっ」
「斬られる痛み、存分に味わっていくがいい。簡単に死なせてもらえるとは、思わないことだ」
腕の腱を斬られでもしたのか、路圭が握っていた武器を取り落とした。両腕、それに脚。次々に薄く切断され、苦悶の声が闇夜を流れていく。したたる血の音。それが、屋根の上まで聴こえてくるようだった。
武器を納めた一刀が、路圭を橋の欄干まで引きずる。言葉を放つ気力すら失せたのか、あるのは掠れた呼吸音だけだった。
「おまえはこれまでの行いを後悔し、この場で自刃して果てるのだ。遊びの続きは、あの世で獄吏とするがいい」
「ふ、ふざっ……。うっ、ごっ、ごほっ」
無理やり握らせた刃が、路圭の首を斬り裂いていく。噴き出る血の量は、四肢の時とは比較にならなかった。
かたちだけでも自殺ということにしておけば、それ以上の面倒はなくなる。伝聞は意外なほど広まり、やがてそれは事実となるのだ。孫堅から依頼を受けた時点で、一刀はこの手法をとるしかないと思っていたようだった。朱里が整えた書面を路圭の口に噛ませ、とどめを刺す。すべてが赤く染まるまで、時間はそうかからなかった。
「北郷一刀、おそろしい男だ」
それだけ言い残し、思春は始末の場をあとにした。
†
街を離れ、砂利道をあてもなく歩く。自分たちのやれることはやった。あとは、統治者がどうにかしてくれることを祈るのみである。
首に巻いた布が風になびく。それを手で抑えて、思春は前を行く二人の姿を眼で追っていた。
朱里の背中に、小さな旗が揺れている。白地に黒の墨で書かれた『
「ひとつの街に留まるのなら、噂の広がりを待つのも悪くはありません。ですが、私たちは旅の身ですので。だったら、こうして宣伝するしかありませんよね。お金も、稼がなくてはいけませんから」
街を旅立つ前に、朱里が語っていたことだった。
小さいくせに、しかと現実が見えている。もしそんなことを口にすれば、間違いなく朱里の不興を買うのだろう。頬をふくらませて不満をあらわにする姿。それを想像するのも、もはや難しいことではなくなっていた。
「思春さーん。今日のお昼は、お魚にしませんか。近くに川があるので、たまには釣りでもしようって一刀さんが」
「痴れ者め。そのようなこと、私に尋ねるな。だいたい、いつも言っているだろう。私の進む先に、偶然貴様ら二人がいるだけなのだとな」
「あ、あはは……。これからもずっと続けるつもりなんですね、その設定……」
始末の旅は、これからも長く続く。
その中で、いつか自分は本懐を遂げられるのだろうか。それも北郷一刀という男を中心にして回る円の中にあるのではないか、と思春は思うのだった。