※この作品はR-18です。

剣聖外史始末旅   作:KKS

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 穏やかな日差し。元気にはしゃぎまわる、子犬の鳴き声。それだけを感じていると、この世界はあたかも平和そのものであるかのように思えてくる。

 右手で握るリードがぴんと一直線に張る。どこかに遊び道具でも見つけたのか、子犬が全力で駆け出そうとしているのだ。だが、すべてが自由にならないこともまた、この世の真理なのである。別にそのことを犬に諭したいわけではないのだが、暴れん坊に対するしつけも仕事の一環なのではないか、と一刀は考えた。

 声でたしなめ、上手に待てた時にはやわらかな体毛で覆われた身体を撫でてやる。

 修練の厳しさに耐えかねて、逃げ出そうとしかけた剣丞の顔を思い出した。両親を早くに亡くし、頼った先でそんな眼に遭わされたのである。あの頃は、自分にしてもまだまだ拙い部分が多すぎた。いまになって反省したところで、謝罪の言葉をかけることもできないが、せめて恨みに思ってくれているなよ、と願うばかりなのである。

 

「おい、一刀」

 

 冷え冷えとした声。そのおそろしさが伝わったのか、子犬がいきなり姿勢をただす。

 切れ長の眼。首に巻いた布で口もとが隠れているから、表情もよく読めなかった。泣く子も黙る江軍大将、であったのかどうかは、自分の知るところではない。

 どこか寂しげな雰囲気のある女。こだわりが強く、ツンとした表情をしていることが多いのは、奥底にある責任感がそうさせているのか。それが、自分にとっての思春だった。

 

「ちっ……。聞いているのか、この痴れ者め。あっ……。お、おい、大人しくしていろ。ぐっ、この……っ」

 

 そうやって呼ばれることにも、随分慣れてきた。これで思春なりに親愛度合いを示してくれている、と思うのは自惚れが過ぎるのか。

 そんな女が、小さな犬一匹に翻弄されかかっている。神経が図太いのか、あの思春に闘気を向けられようが素知らぬ顔で走り回ってみせるのだ。半分逃げ出そうとしている一匹をなんとか抱き上げ、思春が額の汗を拭った。動いたせいで布がずれている。それでようやく、表情の全貌をうかがい知ることができた。

 

「鈴の甘寧を手こずらせるとは、大したものだな。近くに、水場がある。そこで、ひと休みしていこうか」

「いつもながら、勝手なことを言ってくれる。ま、まあいい。私も、そろそろ休憩を入れたいと思っていたところだ」

 

 視線を逸らしたまま思春が言った。

 朝に街を出てから、一時間は経過しているはずだった。もう少々暇をつぶし、夕刻までに子犬を無事飼い主に返せば、今回の依頼は完了する。

 

 

 清流に脚を浸し、思春が身体を伸ばしている。子犬は依頼人からの預かりものであるから、多少気を遣っていた部分があったのかもしれない。

 水面に見え隠れする日に焼けた肌。素直に、美しいと思えた。見られていることに気がついたのか、思春が切れ長の眼で睨みつけてくる。

 

「痴れ者中の痴れ者だな、貴様は。それで、どうしてこの依頼に私なんかを連れてきた。外を散歩するだけなら、朱里でも事足りたように思えるが」

「簡単な話だ。万一犬に逃げられた場合、あの子では手に余る。何事も適材適所と言うだろう? その点、おまえと一緒にいれば安心だ」

「むっ……。褒められているのか舐められているのか、真顔で答えられるとわからなくなる。ええと、それとだな……」

 

 少し間を開けて、思春が竹の皮に包んだなにかを取り出した。

 太陽の位置からして、ちょうど昼時なのだろう。となれば、出てくるものなどひとつしかない。

 

「不要ならば、断ってくれて構わない。気まぐれで用意しただけのものだ。朱里のように、うまく作れているかも……っておい。話している最中に弁当を掻っ攫うやつがいるか、痴れ者」

「考えるまでもないことを、おまえが尋ねてくるからだ。ありがたく頂戴させてもらうよ、思春」

「う、うむ。味には自信がないが、食って死ぬようなことはないはずだ。そこだけは、安心してくれていい」

「はははっ。なんだ、それは」

 

 竹皮の入れ物を草の上に置き、中身を取り出す。そこにあるのは、こぶし大の握り飯が二つ。迷わずひとつを手にして、かぶりついた。

 愉しそうにしている二匹の声。それすら耳に届いていないのか、思春はじっと自分の反応を見ているばかりだった。ここが日本なら、つくだ煮や焼いた鮭なんかが具材として選択されていたのだろう。故郷の味から離れて、もうどのくらいになるのか。

 自分がそんなことを考えているなどつゆ知らず、思春は握り飯を手に持ったまま硬直し続けている。さすがに、なにか言葉を返してやらなければ。咀嚼した米を嚥下し、一刀はひとつ頷いた。

 

「ま、まずかったのなら、はっきりそう言えばいいではないか。別に私だって、褒められることを期待していたわけでは……」

 

 二人だけで遠出する機会など、これまでにはなかったことである。しかも依頼は子犬の面倒をみているだけという至極簡単な内容であり、思春の気が緩むのも無理はなかった。

 

「先走るなよ、思春。食うつもりがないのなら、おまえの分まで私が平らげてしまいたいくらいだ。いい腕をしている。煮ても焼いても食えない痴れ者ごときに評価されたところで、うれしくもなんともないかもしれないがな」

 

 それまでじっと見ていたくせに、急に恥ずかしくなってきたのか、思春が全力で顔をあらぬ方に向けてしまう。人の心の機敏がわからないのか、立ち止まった二匹はどちらも不思議そうに首をかしげるばかりだった。

 小遣い稼ぎに近い仕事だったが、受けた意味は別のところにあったようだ。最後のひとくちを食べ終え、思春が指についた飯粒をきれいにする。果てしなく拡がる原野の風景。心に染みるのはどうしてなのだろう、とくだらないことをふと考えてしまう。

 身じろぎの音。街で噂に聞いたことだが、と思春が前置きをする。声にあらわれる真剣さに、一刀は過ぎるものがあった。

 

「孫堅が、戦の準備に務めていると聞いた。現段階で事を構える相手など、劉表以外にいるはずがない。そうなれば、あの女も」

「あの女。やるつもりなのか、黄祖を」

 

 確かに、思春が頷いた。

 戦の混乱に紛れ、大将首に狙いを定める。孫堅の軍勢に、肩入れをしたいからではない。錦帆賊の統率を歪ませ、もっとも望まぬ方向に導いてくれた女。黄祖を討ち果たさなければ、死んでも死にきれるものではない、と思っていてもおかしくはなかった。思春の味わってきた苦痛は、きっと自分の想像を遥かに越えているのだろう。

 孫堅と劉表による闘い。自分の知る歴史においても、それは孫家の転換点になるような出来事だった。孫堅の死。柱石を失った家の動揺は大きく、孫策はしばし臥薪嘗胆の日々を送ることになる。

 知り合ってさえいなければ、どうということはなかった。ほんとうに、あの豪剣の持ち主が命を終えるのか。過ごした時間こそ短いが、強烈な印象を残していった女だった。

 炎蓮、と心の内で呟いてみる。

 

「戦となれば、警固の兵も多くそばにつく。簡単な仕事ではないぞ、これは」

「楽でなかろうと、私はやらねばならん。貴様にだって、なんの見返りもなしに助太刀をしてもらえるとは思ってはいない。ただ、依頼のひとつとして考えておいてはくれないか、始末屋として」

 

 声に、寂しくなるような響きがある。それ以上のことを、思春は語ろうとはしなかった。

 

 

 途中までと同様に、思春が布で表情を隠している。約束に間に合うよう、夕刻前に一刀は街にもどっていた。

 市場で買い物をしている朱里を拾い、三人で依頼人のところへ向かうつもりをしていた。『万事始末請負』の旗は、目印としてもちょうどいい。子犬はさすがに遊び疲れたのか、二匹とも腕の中で静かに眠っていた。

 

「お疲れさまでした、一刀さんも思春さんも。えへへっ。こうして平和な依頼ばかり続くのも、なんだか悪くありませんね」

「そうだな、朱里。私も、できればそうあってほしいと願っている」

 

 朱里の首についた鈴が、ちりんとかわいらしい音を奏でている。思春が顔を背けてしまったのは、その音色が優しすぎたためなのか。

 とにかく、もうすぐ依頼は完了する。街の見聞はほとんど済んでいるし、そろそろ旅立つ頃合いだという話にもなっている。この二、三日、傾と瑞姫とは顔を合わせていない。旅の道連れは多くて構わないが、それを強要することもないと一刀は思う。

 

「おっ、いたいた。始末屋さん。向こうの通りで、あんたたちを捜してる女の人から頼まれてね。ちょっと様子がおかしかったから、すぐに行ってやってくれるかい」

 

 男から告げられた言葉には、どこか不穏な雰囲気がある。

 抗いようのない風向きの変化。不安げにうつむく朱里の頭を、一刀は撫でずにいられなかった。

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