一(紫苑)
寝台からそっと起き上がり、卓の上で燃えていた灯火を吹き消す。ちょっと煤けたような匂いがあるが、それもすぐに流れていく。
ようやく眠ってくれたわが子の眼を、迂闊に醒ますわけにはいかなかった。なるべく音を立てないように、寝台の上にもどる。穏やかな吐息。横になり、身体にかけていた衣を直していると、それがすぐに聴こえてくる。
おやすみなさい璃々。
娘の名を呟き、紫苑もまた一日を終えようとしていた。
「んっ、んんっ、はあっ……」
数度寝返りをうってみたが、鬱々とした気分が紛れることはなかった。今夜もまた、当分眠れそうにない。遊び疲れ、すっかり夢の中に落ちてしまった娘のことが、いまは羨ましく感じるくらいだった。
このような状態になってしまってから、もう二ヶ月にはなるのだろうか。
領地を預かる者として、それなりに忙しい毎日を過ごしている。戦場に出れば弓を使うし、政務となれば率先して筆をとる。文武どちらかに傾倒することもなく、これまでよく仕事をこなしてきたという自負があった。
愛娘の成長も著しく、昼間面倒を見てくれている侍女たちを、最近ではよく困らせているようだった。活動的であるのは好ましいことだし、自分も小さな頃はそれでよく父母に叱られたことがある。だから、わが子にはなるべく自由にさせてやりたいと思うのは、親ばかが過ぎるのだろうか。
璃々には、父がいない。賢い子だから、その事実を理解してもいる。夫を亡くしたのがもっと幼い時分であれば、辛い現実を認識することはなかったのかもしれない。どちらが幸せであるのかは、判断がつかなかった。
自分ひとりであるがゆえに、倍以上の愛を注いでやらなければ。それこそ、親の勝手な思いこみなのかもしれなかった。けれども、娘に対し他にどんなことをしてやれる。種々ある苦しみを、時代のせいだからと片付けるのは容易いことだ。だが、果たしてそんな考えの先に未来はあるのか。
「あっ、んっ……。ふうっ、んんっ……」
なにかを考えるほどに、悶々とした気分が渦巻いてくるようだった。
嫌な感覚を遠ざけようと、身体を撫でてみる。張りつめた胸の先。軽く指でこねると、甘い痺れが走った。凝り固まった思考が、ゆるやかにとけていく。情けないくらいに実った乳肉をおのれの手で揉みしだいた。洩れそうになる声をどうにか抑える。息を潜めて耳をそばだてたが、璃々は健やかに寝息をたてている。
「ごめんなさい。こんなお母さん、璃々が見たらきっと軽蔑するわよね」
囁くように発し、紫苑は着物の締めつけを緩めていく。
もう少し。もう少しだけ気分を発散させれば、きっと今夜も眠りにつけるはずだ。朝になれば、普段と同じ笑顔を振りまくことができる。だからあと少しだけ、と自らの手で肉体を慰める。
「こんな、あっ……。ふっ、んふっ、くっ、む……ぅ」
唾液を指にまぶし、気持ちのいい部分を下着越しにいじる。
娘の隣ではしたない汁を垂らしている女が、いい母親であるはずがない。普通であれば暗く憂鬱になってしまうような考えが、この時だけは快楽を得る助けとなる。
自分の性欲が強いことは理解しているつもりだった。独り身になってからも定期的に発散するようにしてはいたのだが、それでも常に満たされない部分があったのかもしれない。
充実した生活。そこにぽかんと空いた一点が、どこまでも自分の身を苛んでいる。
「おっ、あっ、んんっ、あーっ……。だ、だめよ、こんなことでは。ふーっ、んっ、んあっ、あっ……」
熟した秘部をいじるほどに、その感覚は強くなっていく。
指が止まらない。それなのに、心は満たされるどころか切なさを増していく。まるで自分は、蜘蛛の巣に捕らわれた弱い餌だった。
苦悶を呼ぶ思考。かき消そうと、片手で乳房を搾り上げる。今夜は、いつまでも眠れそうになかった。
†
ぼんやりとする頭を無理やり起こし、紫苑は乱れた着衣を整えていく。
今日は久しぶりの休みで、朝から璃々と街に出かける約束をしていたのである。そろそろ、新しい服を買ってやってもいいのかもしれない。璃々はおしゃれに興味がでてきたようで、自分が仕事の際に着ていく服に注文をつけてきたりする。
「お母さん、はやくはやく。朝ごはん食べて、一緒にお出かけだね」
「ふふっ。そんなに愉しみにしていてくれたのね、璃々。嬉しいわ、お母さんも」
「へへへー。お母さん、毎日お仕事大変そうだもん。だから今日は、璃々がたくさん元気を注入してあげるの!」
「まあ。お姉さんみたいなことを言うようになったのね、あなたも。でも、ありがとう」
ほとんど気にしていないようで、子供は親の姿をきちんと認識している。
賢いだけでなく、優しい子でもある。璃々がこの先ものびのびと育ってくれることだけが、自分のただひとつの願いだった。
「ねえねえお母さん、今日はどんなお店がでてるのかなあ。前にお菓子くれたおじさん、また来てくれたらいいのに」
「日が暮れるまで、見て回りましょうか。お母さんも、とっても愉しみにしていたもの」
小さな手を引いて道を歩く。このあたりは侍女を伴って普段から来ていることもあり、璃々の足は軽い。
せっかく二人でいるのだから、なにか珍しいものがあればいいのに。自分の領地であるがゆえに、どんな商売がされているかは日々報告としてあがってくる。怪しい商人がいれば番兵を使って排除させるし、現場での判断が難しい場合は自分で直接確認することもあった。
「さあさ、見ていってくれお客さん。秘伝の薬湯でまる二日煮込んだ元気の出る卵。それがなんと、いまならたったの銭五枚! 腰の痛みから眼の痛み。なんにだって効く病気知らずの薬膳卵だ!」
近くから、なにやら賑やかな声が聴こえてくる。
薬代わりになる卵を売っている行商人。その元気な雰囲気に興味をそそられたのか、璃々に手を引かれて紫苑もまた駆け出していた。
外套を着込んだちょっと不審な雰囲気のある女。置いてある籠には殻付きの卵が山積みにされていて、周囲には客が集まりはじめていた。
「おっと、お買い上げありがとうお兄さん。うーん、そうだなあ。せっかくだから、すぐに買ってくれたお客さんには、心づけをさせてもらおうか。卵ふたつ。いまならなんと、ひとつ買えば卵がふたつ付いてくる! ほらほら、買わないと損するよ、そこの奥さん。売り切れてからじゃあ、もう手に入らないかもしれないよ」
「いやーん、やすーい♡ 万病に効く薬がこんなお値段で手に入る機会なんて、滅多にないどころか、これが最後かもしれないもの。そうよね、みんなー?」
商人が雇っている売り子なのか知らないが、媚びた声で女が「安い安い」とあたりにふれ回っている。
正直、放置しておいていいものではないように思えて仕方がない。万病に効くなんて代物がそんな安値で売っているはずがないし、そもそもそんな都合のいい薬が世の中にあるはずがない。
「お母さん、あれ買って買ってー? 璃々と二人で食べようよ、ねえー」
「えっ、ええ、そうね……」
とはいえ、いまの自分は休日を謳歌する母親に過ぎないのである。璃々の声が無邪気に弾む。これではもう、引き下がることなどできる気がしなかった。
意を決して、紫苑は財布を開こうとする。山のようにあった卵はすでに半分ほど消えていて、商売は順風満帆そうである。
「うげっ……。ど、どうしてここに始末屋が」
女の威勢のいい声がぴたりと止む。
あらわれたのは、男がひとりに女がふたりの三人組。璃々より少し大きな女の子の背中には、『万事始末請負』と墨で書かれた旗があるのが見えている。
「われらから離れてなにをこそこそ準備しているのかと思っていたが、よもやこんなせこい商売に手を出しているとはな……。さすがに、見損なったぞ」
「やかましいぞ、陰険女。ああもう、頭を使って銭を稼いでなにが悪い、なあ瑞姫」
「ちょ、ちょっと姉さま。ここでそんなに気安く名前を呼ばれると、私たちの関係が……って」
人垣にざわめきが拡がる。詐欺師だとか金返せだとか、手のひらを返す様はある意味見事である。
思った通り、あの二人にはつながりがあるようで、それに勘づいた客が眼を醒ましはじめていた。三人組の先頭に立つ、白い衣服を身にまとった男。なんとなく視線を惹きつけられる。備えている雰囲気がいいというか、喧騒の中にあっても動じるところがなく、周りに流れる空気に微塵のぶれもない。
「ひいっ、はあっ……。て、撤退するぞ、瑞姫。憶えていろよ、くそったれの陰険女!」
「ちっ……。勝手に人のせいにしてくれるなよ、この恥知らずめ。いいから、さっさとどこにでも行ってしまえ」
「もう、置いていかないでよね、姉さま。はあ……。それじゃあまた会いましょう、一刀くん」
女の口ぶりからして、三人組とあの商人とは顔見知りのようである。
始末屋と呼ばれていた男の名前は、一刀というのか。あれだけ密集していた客が、散り散りになってまばらになっている。放っておけば、あの三人組もどこかに行ってしまう。その前に、紫苑は声をかけてみたくなっていた。
「あうぅ……。卵屋さん、急いでどこかに行っちゃった。残念だったね、お母さん」
「ええ。そうね、璃々……」
璃々の手を引き、『万事始末請負』と書かれた旗に歩み寄る。
どうして自分がそわそわしているのか、紫苑は自分でも理由がわからなかった。
以前ごちゃごちゃと書いていたことは、一旦すべて忘れてもらえると助かります。
ごめんなさい。