前回のあとがきにもありますように、以前考えていたような展開は全部白紙にもどっていますので、ご理解ください。
傾と瑞姫のふたりが、仲良く走り去っていく。
褒められた手段ではなかったが、商売根性というか金を得ることに対する執念は見習うべき強さがある。大きなため息をひとつ吐き、思春が踵を返そうとした。群衆。すでに散り散りとなっている。これでは、始末屋の仕事もすぐには見つかりそうにもないか、と一刀は人々の背中を眺めながら思う。これが傾や瑞姫であれば、きっと声を荒げてでも食い下がる。
そういう貪欲さのない自分が旅の船頭をしているのが、朱里にとっては悩みの種なのではないか。
「あの、もし……」
女の声。振り返ると、小さな子どもの手を引いた婦人が、ちょっと困ったような顔をして佇んでいた。
声をかけてきた相手が、なにやら自信がなさそうに空いた手を泳がせている。始末屋への依頼、ではおそらくない。なにか面白くないことでもあるのか、思春はいじけたように首に巻いた布を口まで上げていた。
「ねえ、おねーちゃん。これ、ここって、なんて書いてあるの?」
「万事始末請負。つまり、なんでもやりますよってことを書いてあるんだよ。ええと……。お名前、なんていうのかな」
「あっ、そうだった。璃々は、璃々っていうの。今日はね、おかーさんお休みだから、市場に遊びにきてるんだよ。えへへっ、いいでしょ」
朱里の背負っている旗を指差し、娘の方が先に口を開いた。
ほほえましいやり取りで気が和らいだのか、婦人が申し訳無さそうに頭を下げる。お姉さん扱いをされて嬉しかったのか、朱里はいつも以上に平らな胸をがんばって反らせていた。
「始末屋さん、とでもお呼びすればよろしいのでしょうか。ンッ……。どうしてお声がけしたのか、正直自分でもよくわからないのです。あっ……ごめんなさいね、あやふやなことを言ってしまって」
「構いませんよ、御婦人。なんのあてもない道中なのです。行く先々で結んだ縁だけが、私のすべてといっても過言ではありません。ですから、今日という日もきっと」
雰囲気のある、いい立ち姿をしている。それだけで、婦人がただ者ではないという確信があった。
しなやかさを感じさせる指先。どっしりと落ち着きのある腰つき。ただし、自分が見た目通りの少年の頃であれば、まっさきに気がいったのは周囲を圧倒する大きさの乳房だったのではないか。
「まるで、風のない日の水面のようなお方ですのね。まだお若いのに、大変な苦労をされてきたのかしら、始末屋さんは」
今のような反応をされることにも、さすがに慣れた。
自分は、自分として振る舞うことしかできない。無理に溌剌としようとしてみても、思春に気味悪がられて終わるだけだ。
「よろしければ、家に寄っていってくださいませんか。ふふっ。娘も、お連れの方にすっかり懐いてしまったようですし」
地面に向かって垂れる思春の布を、璃々と名乗った娘が面白がって引いている。あれで優しいところのある女なのだ。小さな子の扱いを知らないだけで、悪い気はしていないのだろう。
危なっかしくて見ていられないのか、朱里だけは自分に助けを求めてきているのだが。
「よろこんで。袖振り合うも他生の縁。素人のはじめた貧乏旅、誰かの助けなしにはできません」
「難しい言葉をお使いになるのですね、始末屋さんは。私のことは紫苑とお呼びください。短い御縁となるかもしれませんが、どうぞよしなに」
「こちらこそ、紫苑さん。北郷一刀です。気楽に、一刀と呼んでくださって構いません。私には、真名と呼べるものがないのでね」
「えっ……? んっ、んんっ……。承知いたしましたわ、一刀さん」
紫苑というのは、この婦人の真名なのだろう。許してくれたのは、たぶん奇縁を結んだ証だけではない。
そう思ったのは、世の中には真名で通した方が、身動きを取りやすい女がいることを知っているからだ。
†
璃々を肩車した状態で、紫苑の家に到着した。どちらかといえば、邸宅と表現した方が適切なのだろう。そのくらい、立派な造りをしている自宅だった。
「えへへー。始末屋さんってすごいんだね、おかーさん。璃々、おうちまで運んでもらっちゃった」
「うふふっ。ここまでのお代は、璃々にあげるお小遣いから差し引いておこうかしら。一刀お兄ちゃんは、遊びでしているんじゃありませんからね」
「えっ、ええー!? お兄ちゃん、そうだったの……?」
本気でショックを受けたような声。璃々のような小さな子の相手をするのは、いつぶりなのだろうか。剣丞と久遠の間に生まれた子供を、わが子のようにかわいがった日々を思い出す。遠方へ学びに出ているから、現世を離れる間際に顔を見ることはできなかった。
あの子が、北郷の血を未来に繋げてくれる。そこに、実は織田家が相乗りしていたことなど、知る由もなかった。
「食事を馳走してもらえれば、それで。手伝ってくれるのだろう、璃々ちゃんも」
「うんっ! おかーさん、とってもお料理じょーずなんだよ。だけど璃々、ちょっぴり苦手なお野菜があるんだぁ……」
かわいらしい悩みを、璃々が耳もとで密かに教えてくれる。最後にお母さんには内緒だよ、とつけ加えると愉しそうにはしゃぐ声が頭上から聞こえた。
「おかえりなさいませ。あの、そちらは」
「旅のご客人よ。今夜はお泊りになられるから、部屋を用意しておいてもらえると助かるわ。ええと……」
「ふっ、ふたつ。お部屋はふたつあれば充分ですので、はい」
「それならひとつでいいだろうが、この痴れ者め。それとも、たまにはひとりで眠りたくなったのか、朱里?」
「ちっ、ちがいましゅ! あいたっ……」
突如として火蓋を切った闘争に、紫苑がやや面食らっている。ひとつで足りることを一刀が指を立てて示すと、とりあえずその場の収まりはついた。
駆け寄ってきた侍女と思わしき女に、紫苑が手短に指示を飛ばす。どこか鋭さのある侍女だった。ただし、このくらいの貴人に仕えるのであれば、別に普通のことなのかもしれない。
滅多にない機会だからと、宅内を紫苑に案内してもらう。この世界では安宿しか使ったことのない一刀にとっては、すべてが新鮮に映っている。時代物のセットでしか見ることのなかった現物が、当たり前のように溢れているからだ。妙に現代的な要素の入り混じった世界ではあるものの、紫苑宅には想像していた光景が概ね拡がっている。
「あそこに設置された的、紫苑さんは弓を?」
「ええ。自慢するような腕ではありませんが、多少は」
「えー? おかーさんのすごいところ、璃々たくさん知ってるもん。ねっ、一刀おにーちゃんたちにも、見せてあげようよ」
「後学のために、是非とも。おい、ぼさっとしていないで貴様も頼み込まないか、痴れ者」
思春の眼は、いつになく本気だ。
黄祖暗殺のためにも、使える手段は多いに越したことはない。近接戦に持ち込めなかった場合を想定して、弓の修練でもするつもりなのかもしれなかった。
そもそも、得意とする舞台を用意できなかった時点で、ある程度の勝ち負けが見えてくる。その時には、自分の判断で思春を退かせる腹づもりではいた。
「それでは、参ります」
練習用の弓に、紫苑が矢を番える。切っ先が的の方に向けられると、それだけで場の空気が引き締まったような気がしていた。
璃々にばかり構っていたせいで寂しくなったのか、朱里がやたらとくっつこうとしてくる。後ろから抱きしめて、発射の瞬間を見守った。
わずかに弧を描いて、矢が真っ直ぐに飛んでいく。紫苑の姿勢にぶれはない。太い一本の芯が、頭から土踏まずまで通っているようである。
中心を射抜かれた木製の的が、無惨にも砕け散っていた。
「いい腕をされている。ここまでの使い手には、私も出会ったことがないな」
「ほんとに、すごいです。いいなあ……。紫苑さんみたいにしゅばっと矢を放てたら、私も一刀さんのお役に立てるのに」
「はははっ。朱里にこれ以上優秀になられてしまうと、私のような剣術馬鹿の立つ瀬がなくなる。今くらいがちょうどいいのではないかな、きっと」
「えっ、えへへへっ……。ありがとうございます、一刀さん。子供扱いされるのは嫌いですけど、これはまあ、別腹ということで」
身体を小さく縮める朱里の頭を、帽子越しに撫でてやる。自分たちの関係が気になったのか、紫苑がちょっと首をかしげている。
「とても仲がよろしいのですね、おふたりは。少し気になっていたのですが、これまでずっとご一緒に?」
「この子と出会ってはじめた旅なのです。朱里がいてくれなければ、私は荒野で野垂れ死んでいたかもしれない。ですから、特別な連れと思っていただいて問題ありません。それは、こちらの思春も」
「まあ……。とても、素敵な関係を築いておいでですのね」
どこにも、隠す理由はないと思った。
朱里と思春はかけがえのない旅の道連れなのである。そのふたりが、世界にとって異物でしかない自分を選んでくれている。それなら、堂々と発信していくのがむしろ筋だろう。
予想外の展開だったのか、思春は顔を赤くしてそっぽを向いてしまう。事情のわからない璃々だけが、無邪気に笑い声をあげていた。