あれから、すぐに三人の亡骸の転がる場所を離れた。
男の背に揺られながら、朱里はひとつため息をついていた。
役人に見つかれば間違いなく面倒事になるし、切り抜けられるだけの資金も人脈も自分にはなかった。それに、この人のことをどう説明したらいいのかもわからない。
交わした言葉はまだ少なく、『天の御遣い』と思わしき男の全貌が見えているわけではない。それでも、なんとなく信じたいという気持ちになってきているのは、粗相をしてしまった自分を笑うことなく、優しく手を差し伸べてくれたからなのか。
股の間が冷たい。我慢できなかったアレのせいで、背負ってくれている男の服も、たぶん幾らか濡らしてしまっている。
思い返すだけでも、羞恥で顔から火が出てしまいそうだった。だから、つい意地を張ろうとしてしまう。たとえ、それが客観的に見て、子供っぽい振る舞いであったとしてもだ。
「あ、あの。ほんとうに、自分で歩けますから」
男の肩を掴み、軽く揺すってみる。
この若さで、どれだけの修練を積み重ねてきたのだろう。細身であるように見えて、服の下にはおそらく鋼の肉体が隠されている。
「無理をするな。咄嗟のことだったとはいえ、こわい目に遭わせた。あんなもの、きみのような小さな子が、見ていい光景ではない」
「き、嫌いです、子供扱いされるのは。私だって、闘えます。そのために、今までお勉強してきたんですから」
男の声は、どこまでも穏やかだった。
相変わらず興味は周辺の景観にあるようで、山や原野を見てはひとりでなにかを呟いているようだった。
「そうか。それは、すまないことをしたな。だが、きみのようなかわいらしい子が困っているのに、放っておくわけにもいくまい。だから、私は自分がそうしたいと思っているから、きみを背負っているだけだ。いいだろう、それで?」
「は、はい……。あの、それとなのですが、軽く自己紹介でもしておきませんか。危ないところを助けていただいたのに、今のままではお礼も申し上げられませんから」
よく考えてみると、互いに名前を知らない状態でここまできてしまっている。
それではさすがに不自由だし、関係を築いていくうえでよくないことでもある。
「私は諸葛亮。姓は諸葛、名が亮です。生まれは徐州なんですけど、今はこの荊州で暮らしています」
「諸葛亮、といったのか。それに、荊州という地名も」
「あの、どうかされましたか?」
「いいや。これは、急いで結論を出すようなものではない。ただ、ぼんやりと感じていた可能性が、よりくっきりしてきたというだけの話だ」
「は、はい? よくわかりませんが、そういうことにしておきます」
掴みどころがない人だと思った。
光と一緒に、天から出現した男の人。どういう力を宿していて、どんな考えをしているのかさえ、自分にはわからない。
それでも、『天の御遣い』が予言のとおりだったならば、乱れた世の中に変革を起こすだけのなにかがあるはずなのである。闘えるだけの力はある。そのことだけは、あの人攫いを瞬時に始末した腕前から、十分に理解できた。
「北郷一刀。北郷が家の名で、一刀のほうが諱にあたる。それが、私の名前だ。生まれたのは日本。きみに合わせるのなら、最後は薩州で暮らしていたということになる」
「さ、さっしゅう? 聞いたことのない地名です。やはりあなたは、天からやってきたお方なのでしょうか」
「天? はははっ。ある意味、そうなのかもしれないな。私は一度、おのれの終わりを体感している。もし、それで天国に逝ったというなら、きみの言う通りなのだろうな、諸葛亮。どういう導きがあって、こんな格好をさせられているのかまでは知らないがね」
北郷。北郷一刀。まるで聞き馴染みのない姓だったが、諸葛というのもそれなりに珍しいものであるから、なんとなく親近感が湧いてしまう。
日本。それに、薩州という言葉にも思い当たる節はなかった。少し話してみただけでも、これなのである。やはりこの人は、ほんとうに『天の御遣い』なのではないか。そんな人物を救ったのだから、はじめての接吻を捧げたのにも、大きな意味があるのではないのか。
乾いた感触。思い出して、恥ずかしさが倍増した。思いを向ける相手はまだどこにもいない。だから、ことさら罪悪感があるわけではなかった。もしかすると、この人こそが。なんて感じてしまうのは、窮地を一緒に脱出したことによる、緊張の緩和が強く作用しているのかもしれなかった。
「火を熾せるものを持っているか」
「あ、それだったら」
流れる小川に視線をやりながら、北郷さんが言った。
火打ち石は、普段から持ち歩くようにしている。あとは、少しだが乾燥させた食料も鞄の中に入っていた。今は水鏡先生のところで暮らしているのだが、いずれは旅立ち仕官先を探すつもりでいたのだ。それが、これまでよくしてくれた先生のためにもなる。培ってきた知識は、日常の中で持て余しているだけでは意味をなさないからだ。
「このあたりでいいだろう。私は、薪になりそうな枝を拾ってくる。その間に、濡れたものを洗ってしまうことだ」
「はわわっ。こ、こんなお外で、その……」
「風邪をひいてしまっては、元も子もなかろう。それに、旅の恥はかき捨てともいう」
「あう……。わ、わかりました、北郷さん。薪集めのほうは、よろしくお願いします」
「うん、それでいい。いい子だな、諸葛亮ちゃんは」
「ちゃ、ちゃんづけはやめてくださいっ」
「ははっ。わかった、わかったよ、諸葛亮」
静かな足音だけを連れて、北郷さんの姿が林の中に消えていく。
啖呵を切った手前、じっとしていることはできなかった。小川のすぐそばでしゃがみ、濡れた下着に指をかける。羞恥と緊張。その両方が再び押し寄せるが、誰にも見られていないから、と自分に言い聞かせた。
「え、えいっ!」
叫びと同時に、下着を足首まで一気にずりさげる。
染みは中心から拡がっていて、見ているのも嫌になるくらいだった。身につけるものからでも、大人らしさを出してみたい。そう思って買った下着なのに、この有様はいったいなんなのか。
「んうっ……。やっぱり、ぐしょぐしょになってて気持ち悪い……」
水に浸し、汚れた生地を擦り合わせる。
なにも履いていないせいで、股の部分がやけに涼しかった。じゃぶじゃぶという川の波立つ音。それだけが、朱里の耳に虚しく届いている。
†
乾いた枝を必要なだけ見繕い、ついでに転がっていた松ぼっくりを拾い上げた。しっかり乾いているから、これはいい着火剤になる。
澄んだ空気が心地良い。木の隙間から覗く空は青々としていて、どこまでも高く拡がっていた。
おのれの手を見つめ、一刀は眼を細めていた。
肌の質感が、死ぬ直前とは違いすぎる。それに、声にもしわがれた感じは少しもなく、むしろ闊達としているくらいだった。
顔に触れる。やはり、皺の存在を感じない。そうなると、白かった髪も昔のように黒々としているのかもしれない。あとから川の水面に姿を映してみれば、はっきりすることだと思った。
死を認識するまでの意識をもったまま、自分は別の世界で眼を醒ました。そして、肉体だけが若々しくなっている。
「ほんとうに、おまえの仕業なのか。かつての剣丞も、こんなふうに」
死したと感じた時に抱いていた刀が、そのまま手の中にある。剣丞を、異質な織田信長と巡り合わせた伝来の刀。今度は、自分になにを見せようというのか。
心を安らかにし、刀身を抜き放つ。この世界の空気は、やけに自分に合っているように思えてくる。気に満ち溢れているというか、これまで感じたことのないような活力が、身体の底のほうから湧き上がってくるのだ。
細身の木立。狙いを定め、刀を振り下ろす。楽に両断することができ、藁を斬るよりもずっと容易かった。
「諸葛亮。私の知る蜀の丞相なのか、あの子が」
語りかけたところで、刀がなにか返してくれるわけではない。
幼い見た目をした、かわいらしい女の子。それでも、眼にはただならぬ力があるように思えていた。
なにをするにしても、世の中を情勢をよく知る必要がある。自分には行くあてがなく、生きていくための銭もない。
「それにしても、この服装になにか意味でもあるのか」
刀を鞘に仕舞い、真新しい白い袖に触れる。
何十年も前に着用していた、学園時代の制服だった。着心地はそれなりによく、機能性は考えられている。白を基調としたカラーリングがちょっと死に装束のようでもあり、自分に対する皮肉なのかと考えたほどだった。
「少し、長居しすぎたのかもしれん」
燃料は十分に集まっている。諸葛亮も、下着の洗濯を終えた頃だとも思った。
歩きだそうとして、なにかの気配が近づいていることに一刀は気づいた。敵意はない。さしたる闘気があるわけでもない。
小さな塊が、まっしぐらに向かってくる。躓いた。塊が飛ぶようにして、自分めがけて突っこんでくる。あっと思った時には、もう手遅れだったのだ。
「あうっ! は、はわわっ……」
「んぐっ……。むう、んむっ」
衝撃。塊を抱きとめようとした拍子に、地面に隆起した木の根に足をとられたのかもしれない。
とにかく、どちらも派手に転んだ。顔にはやわらかなものが覆いかぶさっていて、視界が塞がれているうえに息がし辛くなっている。それでいて、舌にちょっとしたしょっぱさがあるのが、不思議だった。
「いたた……。ご、ごめんなさい、北郷さん。わ、私、北郷さんのお帰りが遅いから、それで心配になってしまって」
申し訳無さそうな声だけが聴こえる。
きっと、顔の上に諸葛亮が乗っているのだろう。だとすると、この舌で感じているやわらかさの正体はなんなのか。
別に、このくらいなんてことはない。そう言葉を搾り出そうとすると、どうしても舌がそのなにかに触れてしまう。包まれるような感覚があり、居心地としては悪くなかった。
「んっ、あうっ、ひゃうっ……♡」
舌が動いたのと同時に、諸葛亮がおかしな声をあげている。
肉感のある二つの弁、とでも表現すればいいのだろうか。それをどうにかしようとするほど、諸葛亮の声はどんどん艶ががったものに変化していくのだ。舌で感じる、あたたかな蜜のような液体。そこまでやって、諸葛亮が下を履いていないのではないか、という結論にたどり着いた。
「むうっ、んっ、んぐぅ」
「やっ、んうっ。しゃ、しゃべらないでください、北郷さん。この状態でお口を動かされると、わたし……いっ♡」
冷静に考えてみれば、どちらともにまともな対応ができていないことがよくわかる。自分は腕を使って乗っている身体をどかせばいいだけだし、諸葛亮にしても最初に立ち上がっていれば間違いなど起きなかったはずなのだ。
年端も行かないような少女。年齢を知っているわけではないが、孫くらいの年の差はあって然るべきはずなのである。そんな子を相手に、していい行いではなかった。それなのに、どうしてこんなにも身体が熱をもつのか。
理由をあげるとすれば、若返った肉体に、精神のほうがいくらか引っ張られているのかもしれなかった。
数十年単位で忘れていた感覚。確かに、学園に通っていた頃は、有り余る精力の制御に苦労した覚えがある。そんな、一度捨て去ったはずのものが、若くなった肉体に引っ張られるかたちで再び頭をもたげているのか。
体験として、商売女を抱いたことはある。その時は、満たされるものなどなにひとつなかった。肉体の関係なんてものは、その程度でしかない。一緒になりたいと思うような女はいなかったし、最期まで出会うこともなかった。剣の腕だけを磨き、剣の道だけに生きる。それでいいと思えたし、後悔してもいなかった。
「あはっ、はっ、はーっ、はふっ……♡」
理性を動員し、諸葛亮の身体を両腕で持ち上げた。やはりというか、なににも包まれていない無垢な恥丘が、眼の前にあらわれる。こんな子が、男を知っているとは思えない。それだけに、悪いことをしたという気分になるのは当然のことだった。
かすかに拡がった未成熟な割れ目から、唾液と一緒に女の汁が滴り落ちている。白い肌。それが少しだけ赤く色づいていて、やけに色っぽく見えてしまう。
「はわわ♡ み、見ちゃだめぇ……♡ 絶対に、だめなんですから……っ♡ こんなところ、水鏡先生にだって見せたことないのに、はうぅ……」
林の中にこだまする声。
どことなく気まずくなった雰囲気を振り払うように、一刀は左右の頬に手のひらを打ち付けるのだった。