「私が紫苑さんを呼びに行った時には、ここまでじゃなかったのに。一刀さん、急がないと」
「わかっている。朱里も、離れるな」
紫苑の邸宅まで続く道は、張り詰めた空気に満ちていた。
朱里の前を歩いていると、男がひとりゆっくりと近づいてくる。まとっているのは、殺気だった。悟られぬよう、腰に差している刀の鞘に左手でふれる。
朱里の感じた変化が取り越し苦労だったら、どんなによかったことか。
身軽な思春は先行させ、偵察を任せてある。自分は道中の掃除をしながら進んでいけばいい、と一刀は男に視線を移しながら思っていた。
刃物をちらつかせれば、それでどうにかなると見られているのがちょっと癪である。
「よう、そこの若えの。きれいな女侍らせて、呑気に散歩かい。へへっ……。見張りってのは、どうにも退屈でね。ここを通りてえなら、ひとり俺にも分けてもらおうか。そっちの色の白い女。そうだ、おまえがいい。ガキと浅黒いのは、俺の趣味じゃねえんだ」
「はあ、くっだらない……。こんな芋男の相手、大金積まれたってごめんよ。無駄に喋って息をするだけ、路傍の石よりも使えないわね。いいから、さっさと消えてくれないかしら」
直接指名を受けた瑞姫以外のふたりも、当然かなり腹を立てていた。暴言を吐かれたせいで男も怒気をあらわにしているから、落ち着いているのはついに自分ひとりということになる。
瑞姫が蹴り上げた石ころが、男の頬を見事にとらえた。
殺意を伴い、男が剣を振りかざす。大げさな動きのせいで、胴が隙だらけになっていた。瞬時に刀を抜き放つ。居合の要領だった。血が噴き出し、男が地面に胸から倒れる。
「さっすが、一刀くん。この調子で、さくさく行きましょ」
「ちょ、ちょっと瑞姫さん。仕事中なんですから、あんまり一刀さんにくっついちゃだめなんです」
機嫌をもどした瑞姫が、鼻歌交じりに肩を寄せてきた。それがまた気に障ったのか、引き剥がそうと朱里が必死になっている。緊張感がないと言えばそれまでだが、相変わらず肚の据わった姉妹だった。
やがて、紫苑親子と別れの言葉を交わしたばかりの玄関先が見えてくる。正規の番兵はどこにもいない。喧騒も聞こえてこないから、思春はうまく配置についたのだろう。
一刀は影に潜み、かたく閉ざされている門の様子を伺った。自分たちの出番だと踏んだのか、姉妹が静かに頷き合っている。
外からでは、内部の異変に気づくことはできないだろう。相手も、素人ではなさそうだ。朱里への対応を間違っていなければ、自分たちもすぐには動けなかった。回り回って、乳飲み子を預かると決めた思春の判断が、正解だったことになるのか。
「ねえ、お兄さぁん……♡ ここ、どうか開けてくださらない? 草鞋の紐が切れてしまって、ひとりじゃどうにもならないの」
「女だと? あんの野郎、しっかり見張っとけって赤蜘蛛の旦那から言いつけられてんのに、また道草食ってやがるな」
「どうでもいいじゃない、道に転がる石っころのことなんて。優しそうなお兄さん。助けてもらえたら、お礼はたくさん差し上げるからいいでしょう、ねえ……♡」
確認用の小窓に向けて、瑞姫が猫なで声を遣っている。朱里の時とは違って、侍女ではない誰かが応対に出てきたようだ。
雰囲気から察するに、相手は男なのだろう。もじもじと身体をくねらす妹の後ろで、傾が殻つきの卵を手の中でふたつ擦り合わせている。
辛抱できなくなったのか、ついに通用口が開かれる。男がひとり顔を見せたかと思うと、すぐさま傾が前方に躍り出た。当然、なに食わぬ顔で瑞姫は無関心を貫いている。
一瞬呆気にとられた男の口に、傾が持っていた卵を押し込んだ。
「お、おひっ、んぐっ……。こ、このっ、なに……ッ」
「ああー? すまんが、なにを言っているかわからんなあ。それともまさか下郎の分際で、余の煮炊きした卵が口に合わぬとでも申すつもりか。ああ? あははっ。ほら、食え食え。口が裂けるほど、美味いであろう。こっちに出てきて、とくと感想を申してみせよ」
引っ張り出された男が、そのまま地面に突き倒された。
殻つきの卵を、強制的に咀嚼させられているのだ。見ていてえづきそうになったのか、朱里がそっと顔を背けている。成り行きを見守っているのは、一刀だけだ。
「なあ、おいっ。くくくっ……。いいから、なんとか申してみよ。よもや、あまりの美味さに顎でも外れたか。あっ……? はぁ、あははっ、はっ……♡」
馬乗りの態勢で、傾が男の顔面を殴打し続けている。確認するまでもなく、意識は飛んでいるのだろう。あれではまともに息をすることもできないだろうから、死んでいてもおかしくはなかった。
行こう、と朱里に声をかけた。
瑞姫は早々に立ち去りたそうにしていたが、傾は男をサンドバッグにしたままだ。フリーになった通用口の敷居をまたいで、一刀は中に立ち入った。通り際、軽く肩を叩くと傾が獰猛な笑みを覗かせた。
†
宅内の配置は記憶できている。
遭遇した賊を始末しながら、紫苑と璃々の行方を求めて足を進めた。あの侍女の姿も、まだ見ていない。
最後にたどり着いたのは、あの日食事をともにした部屋だった。閉め切られているせいで、内側の様子はわからない。壁に耳を近づけ、気配を探った。勝ち誇ったような男の声。遅れて、紫苑の懇願が聞こえてくる。
「お願いですから、娘にだけは手を出さないで。いたぶりたいなら、わたくしを……。ぐっ、ううっ……」
「はははっ。ったく、よく喋るやかましい口だぜ。言われなくとも、今夜はたっぷりかわいがってやるからなぁ、黄忠さまよぉ? 処刑された弟の恨み、その身体で晴らさせてもらおうじゃねえか。それまでは、きゃんきゃん喚いてしっかり酒宴を盛り上げてくんな」
「お、おかーさんっ」
「勝手な真似をするんじゃないよ、黄忠のガキが。あんたは黙って、ウチの猛獣どもに酒を運んでいればいいのさ。ねえ、璃々さま?」
「ご、ごめんなさい。璃々、なんでも言うこと聞くから、おかーさんに乱暴なことしないで」
「ほう。泣かせてくれるじゃねえか、ガキのくせによ。それなら、おめえが素っ裸になってこの赤蜘蛛を愉しませてくれるってのかい? ははっ、あはははっ」
賊徒の首領の名を、赤蜘蛛というのか。
聞いているだけで、虫酸が走る会話だった。内容から察するに、紫苑親子はどちらも無事のようである。そのことだけが、いまは救いなのか。そして、紫苑の正体はやはり黄忠だった。だからといって、やるべきことはなにも変わらない。
感覚を研ぎ澄ませる。相手の人数は、多くて十人。首領とあの侍女は近くに座っていて、璃々は部下たちに給仕をさせられている。
とにかく、璃々の退避をなによりも優先するべきだ。娘の安全さえ確保できれば、紫苑の心が折れることはない。
「朱里には、璃々の保護を任せる。あとは、私が」
「がんばります。私だって、始末屋のひとりなんですから」
いざとなれば、思春の援護があるはずだ。朱里と呼吸を合わせてから、扉を蹴破る。賊徒の混乱は小さくない。酒盛りをしている部下連中が立ち上がるまでに、勝負をつけるつもりだった。
抜いた刀を素早く横に払う。並んで座っていた首が、一度に三つ宙を舞った。立ち尽くす璃々のもとへ、朱里が駆けていく。盆からすべり落ちた銚子が、床にぶつかって派手に割れた。
「お兄ちゃん。それに、朱里お姉ちゃんも」
「いきますよ、璃々ちゃん。お母さんのことは、一刀さんが絶対に守ります。だから、いまは一緒に」
わずか数秒の間に起きた出来事だった。
紫苑の唇から血が流れている。これまで、手ひどい仕打ちを受けたのだろう。後ろで縛られた両腕。露出させられた片方の乳房が、まるで見世物のようになっている。
食い物の乗った机を蹴り倒し、残った部下を斬り倒した。朱里の逃げ道を確保するためにも、自分に注目を引きつける必要がある。最後のひとりを文字通り両断した頃には、ふたりの姿は部屋から消えていた。
「おまえ、黄忠の連れてきた間男の……」
「不義密通をしたのではない。私は、始末屋だ。金をもらって、女を抱くこともある。非道を働く悪人を、地獄に送り届けることもある」
「おもしろい。蜘蛛の巣にかかって死んでみるか、貴様も」
部下を全滅させられても、赤蜘蛛の余裕は崩れない。仲間がどうなろうと、自分が生きてさえすれば再起が計れるというわけか。
侍女が紫苑を立ち上がらせ、人質とした。構わず、一刀は赤蜘蛛を始末することだけに集中する。
「いい面構えだ。はははっ。自分を、強えと信じているやつの顔だな」
赤蜘蛛が手首を小さく動かした。刀をぶら下げている右腕が、白いなにかに拘束されている。ふりきれない。数メートル離れた先から伸びる、蜘蛛の糸のようなもの。どんな構造をしているのか、かなりの強度があるようだった。
一刀が危機に陥っているのを見て、紫苑の顔が蒼白になっている。平気だ、と頭を左右にふった。赤蜘蛛の手首から、また糸が伸びてくる。今度の狙いは、空いた首。観察するほどに、不思議な技だ。
「そ、そんな……。わたくしのせいで、一刀さんまで」
「あははっ。いい声で鳴いてくれるねえ、黄忠。始末屋だかなんだか知らないけど、赤蜘蛛の糸に縛られたら終わりさ。せいぜい、死に顔を見ていておやりよ」
締め上げる力が、いよいよ強くなっている。命をかけた我慢くらべだ。
なにもないはずの天井を見つめて、一刀が足を踏ん張っている。どこかから、ちりんと鈴の音が響いた。
「なっ……!? あぐっ、ああっ、がっ……」
上方から飛来した鈴つきの組紐に、今度は侍女が首を締め上げられている。一歩、二歩。紫苑を盾にしていることもできず、侍女がふらふらと引き寄せられている。
さすがに、思春は自分の考えをよく理解してくれている。技を受けて餌となり、相手の意識が集中する機会を窺った。ここまでおもしろいものが見られるとは思いもしなかったが、これはそれだけ世界が広い証拠なのだろう。
「始末屋め、これが狙いだったのか」
組紐と同時に投擲された小刀が、一刀を縛る糸を断ち切った。
姿勢を低くして、赤蜘蛛目掛けて突っ込む。タイミングを合わせて天井裏から降りてきた思春が、テコの原理で侍女だった女を吊り上げていた。
「おもしろい技だが、もう見飽きた。あとは血の池に垂らして、釣りでもするといい」
発射される糸の間をすり抜け、赤蜘蛛に肉薄する。
夫を殺し、娘を恐怖の奈落にたたき落とした悪人の最期を、紫苑は目に焼き付けようとしているのか。反撃を試みる手首を、まずは斬り落とす。返す刀。歯を食いしばった赤蜘蛛の胸の中心を貫くと、どす黒い血が噴き出した。
「終わった。これで、ほんとうにすべて終わったのね」
呆然としていた紫苑の双眸から、やがて涙がこぼれ落ちた。