一
静かで、なにもない夜だった。
放棄された廃屋の壁を、風が時折揺らす。ほかには、火種が弾ける音だけだった。
街を出る前に調達した油を使い、刀の手入れをする。することがなくて退屈なのか、朱里が真剣な眼差しを向けてくる。思春は、膝を抱えて眠っているようだ。
これまでに、多くの血を吸ってきた刀だった。
正義の刃を振りかざしているつもりはない。世直しとか、だいそれた大義を掲げるつもりもない。結局、殺しはどこまでいっても殺しでしかない、と一刀は思う。
それでも、見て見ぬふりをするには、世の中クズが蔓延りすぎている。
「朱里の旗も、汚れが少し目立ってきたな」
「私たちが、旅してきた証ですから。どうしても使えなくなるまでは、このまま」
「私も、そうするべきだと思う。万事始末請負。改めて、よい文言だな」
余分な油を拭き取った刀身を、灯りにかざして確認する。
上質な紙は安くないから、自分の取り分はほとんど整備代で消えていく。昔から、不思議なほどに傷まない刀だったが、使ってそのままにしておくのは気が休まらない。
おそらくこの習慣だけは、朱里や思春に咎められても治らないのではないか。
「起きてらっしゃいますか、思春さん」
「ああ。こんな場所で熟睡できるほど、私は図太くないのでな」
「よかった。黄祖の始末をつける算段。私なりに、考えてみたんです」
朱里に声をかけられて、思春が瞑っていた片目を開けた。
刀身に柄を装着し、目釘でしっかりと留める。いずれ研ぎ師に出会えればいいと思うが、いまのところ急ぐ必要はない。余程乱雑に扱わなければ、斬れ味には問題ないはずだ。
「聞こう。私もちょうど、そのことを思案していた」
「それでは。私たちの選べる道はふたつ。いつものように黄祖の懐に飛び込み、討ち果たすこと。紫苑さんのお話を聞いたかぎり、相手の警戒心はかなりのものです。ことを確実に成し遂げるためにも、調査にも手間をかけなければなりません」
「もどかしいが、どうにもなるまい。やつの執着心の強さは、私も身にしみている」
始末屋の内で、黄祖と直接の面識があるのは思春だけだ。
狙った獲物をつけ狙う、蛇のようなしつこさ。服従を拒んだことで、最後は拠り所だった錦帆賊を失落させられている。そういう意趣返しをやってみせる手腕も、黄祖にはあるということだった。
理想は、一対一で勝ち負けを争う展開に持ち込むこと。そうなれば、遅れを取る思春ではないと思った。黄祖の始末は、当人がつけなければ意味がない。そのための露払いなら、一刀はいくらでもするつもりでいる。
「もうひとつの道は、孫家の軍勢を利用することですね。孫堅さんとの戦が近いこともあって、黄祖は身辺の警固により気を使っているはず。だったら、相手から出てくる機会を待てば手間が減ります。ただし、この道も決して平坦ではありません。戦の流れを読み違えば、押し包まれて返り討ちに遭うだけ。多数の護衛を捌いている間に黄祖の逃亡を許しても、こちらの敗けとなりますから」
「どちらにせよ、捨て身の覚悟で臨むだけだ。あの女を葬らなければ、死んでも死にきれん」
思春から決意を聞かされて、朱里が表情を曇らせた。ついで、伏し目がちに視線を向けてくる。思春さんをどうにかしてください、と口が動いていた。
諸葛亮という、三国志でも屈指の大看板を背負っているが、優しい子なのだ。その願いのすべてに、自分は応えられていないのだろう。だからこそ、守ってやりたいと強く思う。
「思春の決意を、否定したりはしない。最後は、死の暗闇の中にある、生を拾えるかどうかになってくる。一度くたばった経験のある男の言うことだ。説得力があると思わないか、思春?」
「なっ……。くっ、くくっ、あははっ。似合わない冗談をいきなりぶつけてくるな、この痴れ者め。おかげで、せっかく高めていた緊張感が台なしだ」
思春の声がふるえている。
表情だけはどうにか取り繕おうとしているから、余計に見た目が妙な感じになっていた。いま、これだけ笑えているのだから、思春はきっと大仕事をやり遂げる。そういう確信があったのだが、わざわざ言葉にすることはやめておこう、と一刀は再び得物に眼を落とした。
ふたりの意識が、自分に集まっていた。決めていることがある。脳裏をよぎる影。黄祖の始末によって、命運を左右されるであろう女の影だった。
「孫家の戦に乗じよう。隠れ蓑にするだけの大軍もある。私は、長沙に向かうべきだと思う」
「異論はない。一応、私は依頼人でもあるからな。今回の始末、手立ては貴様に任せる」
「方針さえ決めてくだされば、私は一刀さんに従うのみです。劉表との戦、兵はいくらでも入り用になってくる。どうでしょう。まずは、潜り込むことからはじめられては。思春さんと私は、外から動きます」
朱里の智嚢が回転を開始する。戦の展開を読む力は、自分などよりもずっと優れているはずだ。
灯りを入れ替えようと、朱里が立ち上がる。扉付近から気配を感じて、一刀が手で制した。
「おう、ようやく見つけたぞ。いつも通り、湿気た面が三つ並んでおるようだな」
「ちょっと、やだ……。ここって、ほんとに湿気臭いじゃない。あなたたち、よく平気な顔をしていられるわね」
乱入してくる傾と瑞姫の姉妹にも、随分と慣れてきた。
貧乏くじでも引いたときのように、思春は嫌そうに顔を背けている。やる気になっていたところを後ろから蹴られたせいか、朱里はちょっと不満そうだ。
「どうでもいいが、つけられていないだろうな。始末屋は、黄忠の出奔劇に一枚噛んでいる。劉表の息のかかった土地だ。どこで目をつけられているか、わかったものじゃない」
「ふんっ。みくびるなよ、この私を。旅の行商に身を落として、あー、もうどのくらいだ。とにかく、逃避行はお手の物なのでな。相手が貴様であっても、金さえもらえればコツを教えてやらんでもないが」
「いらん。逆に金をくれると言われても、絶対聴きたくない」
「ま、また、思春さんと傾さんはそうやって。むむむむ……」
「うふふっ。悩み事だったら、瑞姫お姉さんが聞いてあげましょうか。ほら、こっちにおいでなさいな、朱里ちゃん?」
「あー、あー、聞こえない。意地悪で子供扱いしてくるひとの言葉だなんて、これっぽっちも聞こえませーん」
一転、和やかになった廃屋の雰囲気の中で、一刀だけが神経を尖らせていた。外から感じていた気配が、まだ完全に消えていない。
ふたり以外の何者かが、ここを襲いにきているとしか思えなかった。
朱里の位置を確かめる。あとの三人は、どうにか斬り抜けてくれるだろう。戸板。蹴り破られたのと同時に、侵入してくる影があった。すぐに反応した傾が、肉切り包丁で応戦している。
「貴様、よもや余と妹の命を奪いにきたか。そのほとんどが滅びたというに、宦官どもめ」
「勝手になにを盛り上がっている。おまえがどこの雌豚かは知らんが、用があるのは甘寧だけだ」
「ああん? 権力に使われている豚に、豚呼ばわりされる謂れなどあると思うか。好きな部位を言ってみろ。どこからでも、すぐにバラしてやる」
拮抗した状態のまま、傾がひとりを屋外に押しやった。間髪いれずに、風に乗って悲鳴が流れてくる。
なだれ込むふたりを即座に斬り、一刀は思春のことを見た。
「ちっ……。こいつら、黄祖の放った刺客か。泳がされていたとなると、面倒なことになる。包囲を崩して、長沙まで止まらず走るぞ」
「少し、派手に動きすぎたようだ。殿軍は、私が請け負おう。思春は、朱里と瑞姫を連れて先に行け。傾のことも、忘れずにな」
「貴様、面倒事を全部私に押しつけたつもりか。ああっ、もう……。とにかく死ぬなよ、一刀」
勢いをつけて外にでる。暗がりでよく見えないが、傾はすでに数人斬り倒しているようだ。
首を後ろからつかまえて、早く行けと耳打ちする。これでは、相手の総数を把握することは難しい。展開としては、完全に不利を受けていた。
殺気がふくらむ。風を切る音。刀で払うと、軽い金属音がした。
「ははははっ。濡れるほどよい泣き顔をしているのだろうなあ、思春。さあ、もっとだ。惨めに逃げ回る姿を、私にもっと見せてくれ……」
思春の真名を呼ぶ女の声。
ここは、退いて態勢を立て直すしかない。刺客の剣を打ち払う一刀は、大きく拡がった闇の一点だけを見つめていた。