あれから、刺客を何人斬ったのだろうか。追撃を振り切って、駆けに駆けた。黄祖らしき女の声が聞こえたのは、結局あの一度きりである。
すっかり夜が明けている。小川の水で口を濡らしてから、一刀は赤くなった愛刀を洗ってやった。昨晩丁寧に整備したばかりなのに、すぐにこれだ。きっと、思春は鼻で笑うのだろうな、と手で水をかけながら思う。
あたりを見回す。夜間で視界が悪く、声をかけ合う余裕もない。仕方のないことだが、朱里たちとはぐれてしまったようだ。
「まずは、道を尋ねるところからやってみるか。長沙に向かえば、おのずと合流は叶うはずだ」
自分が見つからないからといって、わざわざ後戻りをすることはないだろう。だったら、長沙を目指して進んだ方が、時を無駄にしなくて済む。
あとは、そのための土地勘が一刀にないことだけが問題なのである。幸い、衣服に目立つ汚れはできていない。返り血を大量に受けていたら、着替えの用意から頭を悩ませるところだった。
とりあえず、川沿いを歩いてみる。水の補給に立ち寄る旅人と、ひとりくらい出会えるだろうと思ってのことだ。
しばらく進むと、女の話し声のようなものが風に乗って流れてきた。ちょっと小走りになって、人影を探す。会話をしているようだから、たぶん二人組なのではないか。
「ああ……。いや、そうか。いけないのは、きっと私の方なのだろうが」
「おおっ? おおう、ほうほう……」
すぐに見つけることができなかったのは、岩で死角になっているからだった。声の主の姿を眼にして、その理由を考えるまでもなく悟る。
「ええっと……。覗きをしでかすようなヘンタイさんの割には、とっても堂々とされているのですねぇ。意表を突かれてしまいましたが、いまからでも悲鳴をあげるべきなんでしょうか。あー、こほんこほん……」
体型としては、朱里とあまり変わらないくらいの女の子か。腰より先まで伸びた金髪が、朝の日差しを浴びて鮮やかに輝いている。
裸で川に入っているのだから、ちょうど水浴びをしていたところなのだろう。二人組だと感じたのは錯覚であり、どうやら相手は妙な人形だったらしい。太陽の塔を彷彿とさせる人形を、女の子が大事そうに両腕で抱える。丸見えになった局部。そこを捨て置いてでも守りたいものなのだろうが、とらえどころのない声と表情が、不思議な感覚をより強くする。
「ほんとうに、すまないことをした。仲間とはぐれてしまい、恥ずかしながら道に迷っている。それで、ひとを探していたのだが」
「ふむふむ。それで、風の裸を見た感想はいかがだったのでしょうかー。欲情しました? それとも、想像以上に貧相な体型だったから、がっかりしちゃったりしてー?」
「ン……。均整がとれていて、美しい身体つきをしていた。残念だと感じたようなことは、少しも」
「んえっ……? んっ、そのぅ……。そこでまじめに返事をされてしまうと、こちらとしては困るというかなんというか。お兄さんも、大概変わり者ですねぇ」
服を着直した少女と一緒に、なぜか焚き火を囲んでいる。
口を聞いてもらえないのが、普通なのだろう。そもそも、覗きの現行犯と向き合っているのが異常だった。
長い金髪は、まだまだ乾きそうにもなかった。現代のようにドライヤーがあっても不便だろうから、朱里が伸ばしたがらないのもよくわかる。
「通報しないでもらえて、助かる。急いでいるのは、事実なのでな」
「いえいえー。近くに誰もいないような状況ですし、逆上したお兄さんに襲われでもしたら、元も子もありませんからねぇ。あっ。いま、その手があったか、なんて邪なこと考えてないですよね?」
煽っているとしか思えないような言葉だった。程昱だと名乗った少女は、自分を試しているつもりなのだろうか。そこが普段の定位置なのか、あの人形が頭のてっぺんに置かれている。名を、宝譿というらしい。
見たところ、腕のたつようなタイプではない。裏に隠したへばりつくような殺気も、感じられなかった。
「その気があったら、きみをとっくに組み伏せている。そこまで若気の至り、私にはないかな」
「枯れていますねえ。ですが、しわしわという感じでもありませんし。まあ、そのあたりの詮索は、後々のお楽しみということで」
独特なリズム感である。間延びしたような声には、得意なペースに引き込むだけの力があるのか。
物怖じしない豪胆さも、大したものだ。そういえば、と歴史上の曹操麾下に、程昱の名があったことを一刀は思い出していた。
「それで、お兄さんはこれからどちらに」
「急ぎ、長沙へ。理由の詮索は、できればしないでもらえると助かる。他のことなら、いくらでも話そう」
「ふうん? 結構な訳ありのようですが、お兄さんが誠実な御方だということだけはわかったのですよ。あっ。だからって、ここでおちんちん大きくしないでくださいねぇ。いくら風の裸が魅力的に映ったからといって、こんなお外で朝っぱらから欲情されては身が持ちません」
顔の眼の前で、程昱が指を一本ぴんと立てている。
会話を続けていく中で、肚の底にある真意がやはり見えてこない。それだけに、ちょっと不気味な感じもする。
「話の筋が、よく見えないな。道さえ教えてもらえれば、私はそれで」
「おうおう兄ちゃん。そこまで訊くのは、野暮ってもんじゃねえのかい。この嬢ちゃんはよぉ。同じ旅人として、自分も長沙まで同行してやるって言ってるんだ」
「すみません、お兄さん。こっちの宝譿が、不要なことまでべらべらと。とにかく、そういうことでいいんじゃないでしょうか。私も、旅の道連れがそろそろ欲しいなー、と思っていたところだったのですよ。ほら、いろいろと物騒じゃないですか。水浴びをするにしても、覗きがいきなり出没したりしてー?」
「そのことに関しては、謝る。だが、ほんとうにいいのか」
「迷っている暇、ないのですよね? でしたら、答えは出ているようなものじゃありませんか」
隣までやってきた程昱が、飴を握った右手を差し出してくる。いわゆるペロペロキャンディであり、この世界の器の大きさにまたしても驚かされた。
よくわからないまま、ひと口舐めてみる。子供の頃の記憶が少し蘇ったような気がしていた。そのくらい、懐かしい甘さが口に拡がっている。
「おおっ。これはまた、大胆なことをしてくれるじゃありませんか。ふふふー。道中、愉しませてくださいねぇ、お兄さん」
程昱がちろりと舌を出す。飴の表面全体を美味そうに濡らしていく様子を、一刀はしばらく見ていることしかできなかった。