水面に若い男の姿が映っている。数回瞬きしてみようが、そこにあるものが変化することはない。こんな自分の姿を、再び見ることになるとは。顎のあたりを撫で、一刀は感慨にふけっていた。
焚き火にくべられた枝。小気味のいい音を鳴らし弾けている。
ようやく、人心地つくことができている。三人を斬り、粗相をしてしまった諸葛亮を背負い、そして肉体の若返りを実感した。
激動といえば、激動なのだろう。そもそも、自分がいまどこにいるのかすら、明確にはなっていないのだ。けれども、心の揺れは小さなものだった。意識がどこかに消えてしまうまで、剣だけを振り続けたことがある。それとは逆に、何時間も構えの姿勢でいたこともある。無我の境地というやつに、自分は多少なりとも近づけていたのだろうか。おのれが介在しているだけ、切っ先に鈍りが生じる。究極的には、剣だけがあればそれでよいのだ。
火であたたまっていた諸葛亮が、ようやく顔をあげた。
「私、もうお嫁にいけません。北郷さん。責任、とってくださるんですか」
どことなく、声が暗く落ち込んでいる。それもそうか、と一刀は自分の行いを顧みた。
不可抗力だったとはいえ、年端もいかない少女にしていいことではなかった。視線こそ恨めしいが、陰鬱に染まりきっているわけではない。いまは、それだけが救いだった。
「責任、か。きみがとれと言うなら、私は従うほかあるまい。どうすれば、許してもらえるのだろうか」
「あう……。嫌って言ってるのに、絶対子供扱いしていますよね、私のこと。朱里です。私の真名、朱里っていいます。んっ、こほん……。責任をとる気があるんでしたら、まずは真名で呼ぶべきですよね、北郷さん?」
三角座りをしたまま、諸葛亮が腰に拳をあて、薄い胸板を反らしている。実際、見た目以上の年の差があるとは口にしなかった。
それよりも、真名というのはなんなのか。朱里。歴史に名を残す諸葛亮には、孔明という字がある。それとはまったく別の意味を宿しているのが、真名なのか。
「ン……。真名というのを私は知らないが、その響きからして、簡単に呼んでいいものではない気がするのだが」
「はわっ。北郷さんは、真名を知らない……。天の国って、やっぱりこことは仕組みからして、全然違っているのかな」
久遠。どこかの世界の織田信長が使っていた別称と真名では、また違う意味合いがあるような感じがする。
諸葛亮の口から時折発せられる、天という言葉。強いこだわりがあるというか、そこには特別ななにかがあるはずだと一刀は思う。
「ここに着くまでに少し話したが、私は一度死んだ身なのだよ。死すれば、すべてが無になるだけだと思っていた。しかし、この世の中にはそうでない場合があるようだ」
諸葛亮の表情に驚きの色がある。
自分の言った内容を、そのままの意味で捉えることのできる人間などそういないだろう。気が触れた、と思われてもなんら不思議ではないのだ。
死してのち、肉体のみが若返り、知らない世界で目醒めた。自分で直接経験していなければ、悪い冗談で済まされる話である。
「信じて、くれるかな。私はこことは違う世界で育ち、剣の腕だけを鍛え、そして命を終えた。子はなく、連れ添っていた誰かがいたわけではないが、甥とその嫁が最後の見送りをしてくれた。満足はしていたよ、それで」
剣丞と久遠の顔を思い出す。
やるべきことは、やった。そして、後継者を見いだすことができたのだから、自分は恵まれていたのだろう。
諸葛亮の返事を待った。川のせせらぎ。見つめていると、心が穏やかになる気がしていた。
「信じます。あなたを信じることで、私は新たな一歩を踏み出すことができると思うんです。ですから、北郷さん」
諸葛亮の瞳に、決意の炎が宿っている。
この大地で、自分の剣は行き先を見失っている。この子と過ごしていれば、いずれその答えが見えてくることがあるのだろうか。
真名というのを呼んでみてもいい、と一刀は思った。偶然結ばれただけの縁。意味など、これから持たせていけばいいのではないか。
「朱里、と呼ばせてもらおうと思う。それで私は、どうやって責任を取ればいい」
「は、はいっ。北郷さんこそが、預言にあった天の御遣いさまだと、私は確信しているんです。漢による統治は乱れ、民は救いを求めている。だけど、まずは国の現状を知っていただくだけでもいいんです。その先のことをいまここで要求してしまうのは、それこそ無責任な感じがして」
やはり、という思いが強くなる。
朱里の話す統治の乱れとは、黄巾賊による叛乱なのだろうか。そうでないとしても、群雄割拠の時代が長く続くことは、本を読んだりして知っている。
董卓の専横からはじまり、やがては魏呉蜀による覇権争いが繰り広げられることになる。そんな乱世の真っ只中で、自分になにができるのか。探すのは、簡単なことではないはずだった。
「私は、私の信念に従い剣を振るう。それでいいな、朱里」
「お任せします。国を見聞していただく中で、私も北郷さんのことをもっと知りたいと思っていますから」
「一刀でいい。真名の重みに釣り合うとは思えないが、私にできるのはそのくらいだ」
「は、はいっ。それでは、一刀さんとお呼びしたいと思います」
朱里に向かって、右手を差し出した。
最初意味がよくわからなかったのか、数秒思案した後に、朱里はおそるおそる手を前にやっている。繊細そうな指先。小さな手のひら。やさしく握り合わせ、一刀はほほえんだ。
「これからよろしく頼む、朱里」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします、一刀さん」
結ばれたのは盟約、それとも友情なのだろうか。
目覚めて出会ったのがこの子でよかったと思える日が、いつかやって来ればいい。そんな願いを右手に託し、一刀は少しだけ握る力を強めるのだった。
†
川沿いを移動し、一刀は付近にあるはずの村落を目指していた。
このあたりの地形は、ほとんど頭に入っているらしい。朱里の計算上では、あと半日ほど歩けば目的地に到着するのだという。
自分ひとりだけなら、おそらくその三分の一くらいには時間を短縮できるはずだった。朱里はどうにも運動は苦手そうで、休憩を挟んだ時は隠れて足を揉んでいたりする。その姿がほほえましくて、つい手助けをしてやりたい気持ちになるものの、それではまた子供扱いをしていると叱られる可能性が高い。それに、ひとまずともに旅をすることを決めたのだから。相手にペースを合わせるというのは、必要な気配りでもあると思えた。
「食べられそうなものがないか、近くを探してくる。水の補充はおまえに任せていいな、朱里」
子供の頃に抱いた冒険心をくすぐられるというか、文明が発達しきっていないだけに、この世界は大地に力がある。
四肢に気力がみなぎっているのは、きっとそのおかげではないのか。若くなった肉体に、かなり慣れてきた頃合いなのである。筋力的な強さだけでなく、眼や耳にしても研ぎ澄まされた感覚がある。いまの自分が、どこまでやれるのか。純粋に試してみたい気持ちがあるのは、確かだった。
散策をしている中で、気になることがあった。足を止め、一刀は意識をある一点へと集中させている。
生い茂る木々の向こう側。そこから、かすかだが聞き覚えのある音がしているようだった。しかし、その音には知っているものとは違い、どことなく鋭さがある。直感でしかなかったが、調べようという気になったのはそのせいだったのだ。
「鈴の音。少し、様子を見ておくべきか」
鈴なら、朱里も衣装の飾りとして首もとにつけている。ただし、その音はもっとかわいらしく、聞いていて心が和むようなものだった。
なるべく気配を消し、足音を最小限にした状態で音の出どころに近づいていく。人が複数歩いたような痕跡はない。乱雑に、枝葉をかき分けるようなこともしていない。いい緊張感だと思った。現代日本で暮らしていて、こういった感覚を得られる機会はほとんどないからだ。
それと同時に、自分の倫理観が急速に崩れていることも、客観的にはわかっていた。
そもそも、起きがけに三人を斬ることが普通であるはずがない。仕合った拍子に殺しかけたことはあっても、最後の一線だけは越えずに守ってきたのである。それが、この世界ではいとも簡単に破れた。
三人を殺めたことに後悔はない。朱里の怯え方に偽りはなかったし、相手が本気で危害を加えにきているのだから、手加減をする理由はなかった。手の中に残っているのは、ほんの少しの後味の悪さと、不思議な昂揚だった。
なんらかの気配が、すぐ近くにある。自然体を装い、一刀は茂みを抜けた。
「なっ……!?」
聞こえてきたのは、鈴ではなく女の驚きの声だった。
緑の中。小川が緩やかに流れていて、人目を憚り水浴びをするなら、これ以上の場所はなかった。
腰の先まである長い髪には、濡れ鴉の羽のような妖艶さがあるようだった。褐色の肌。惜しげもなく晒されていて、ひと目見ただけでも全身が鍛え上げられていることが見て取れる。
着替えている途中だったのか、衣服はそばの岩にかけられていて、女の手には褌のような布が握られていた。つい、眼が下腹部の方を向いてしまう。筋肉の隆起した太腿。そして、短く整えられた陰毛の茂る秘部。肉欲に惹かれているというより、名工の創りあげた彫刻に見とれている感覚とでも表現すればいいのか。とにかく、しばらく視線を動かすことができなかった。その間にも女の放つ殺気は爆発的にふくらんでいて、いまにも刺し貫かれてしまいそうな気分になる。
「この、痴れ者が。すぐにこの場から消え失せろ。さもなければ、後悔することになるぞ」
小さな礫が飛来する。簡単に避けたのがいけなかったのか、女の怒りは倍増しているようだった。
掴んだ布で秘部を隠した状態で、空いていた右手に剣を握り攻撃をしかけてくる。胸にさらしが巻かれていたことだけが、幸いだったのではないか。身を捻って襲い来る凶刃を回避しつつ、一刀はそんなことを考えている。
「ぐっ……。この……っ」
怒りの感情に任せた剣の軌道だけに、予測するのは難しいことではなかった。
手足の動き。それに、女の視線を観察していれば、つぎの狙いがどこにあるのかくらい察しがつく。筋はいい。切っ先にも、やはり鋭さがある。それだけに、平静な状態で闘えていないことが残念でならなかった。
「いい加減に、死ねっ! 死んで、私の前に首級をさらせっ!」
一度死んだ身であるのに、また死ねと言われるのもおかしな感じがする。
とはいえ、朱里とは約束を交わしたばかりなのである。一緒に旅をし、見聞を広める。再び得た生で、自分がするべきことはなんなのか。探すための一歩は、まだ踏み出しかけたところなのだ。
瞬間的に気合を発し、抜刀する。どう考えても非があるのは自分の方で、これで女に怪我でもさせようものなら、朱里にも幻滅されてしまうのではないか。
振りかざされた剣だけを狙う。闘う力さえ奪えば、心を折ることができると思っていた。女の眼には、それだけの真っ直ぐさがある。
金属同士がぶつかり合う。得物に、やわな造りでは損傷してしまいかねないくらいの衝撃がある。長く苦楽をともにし、なんの因果か、ついには自分を異質な世界に招いたと覚しき刀なのだ。そのくらいのことは、やれるはずだと感じていた。
「はあっ、ぐっ、うぅ……。き、貴様、いったい何者だ」
地面に手をつき、女が荒々しく息を吐いている。恨めしさの宿る双眸。なにもできなかった悔しさが、そこにあらわれているのか。
「ン……、そうだな。天の御遣い。そんなふうに、呼ばれることもある」
どうして普通に名乗らないのか、自分でもわからなかった。
呆気にとられたせいか、女の口がぽかんと開いている。心を穏やかにしてくれる鈴の音。背後からやってくるその音に、一刀は少しだけ表情を緩めている。