襄陽陥落を目指す孫堅軍の中に、一刀は兵士として従軍していた。ついに、その時がやってきたのである。黄祖を斬り、思春の本懐を遂げさせる。始末屋として請け負った仕事だった。ほかの仲間は、孫堅軍とは距離を取って行動している。朱里や風には、冷戦な観点から戦場を俯瞰してもらいたい。始末のこと以外にも、炎蓮の未来のことが気がかりだった。
全体の士気は高い。総大将である炎蓮自ら采配を振るい、前線で立ち回る戦だった。孫家の兵は、評判通りの勇猛果敢。炎蓮の長女もかなりの腕自慢らしく、違う部隊にいても軍功を上げたという話がいくらでも入ってくる。
緒戦をやった感じでは、どうやら負ける気配がない。同僚や面倒を見てくれている上官も、想定通りに戦が進んでいることに安堵しているようだった。戦場に立てば血が滾り、多少のリスクなら顧みることがなくなる。それが飯を食い、横になろうとしたときにふと不安になるのは当然のことだった。
小さな戦闘を終えた夜、数人の兵士と一刀は火を囲んでいた。所属している程普の部隊は、前線を支えるために動くことがほとんどで、激しい闘いはまだやっていない。
話すのは、これからの展望や勝ったあとのこと。軍全体が波に乗っているのだから、誰もが気分を昂らせていた。
「なあ、北郷も聞いただろう。やっぱり、うちの殿様は無敵なんだぜ。あの御方の背中にくっついていりゃあ、勝ちが拾える。この感じなら、劉表の首が跳ぶまでそう時間はかからねえはずだ」
「襄陽を奪ったら、宴会だ宴会。気前の良い殿様のことだ、たっぷりと褒美をくださるだろうし、とにかくくたばらねえようにな。ははははっ」
同僚たちの言ったように、孫堅軍は確かに連戦連勝。損害もあまりなく、戦は極めて順調に進んでいた。
「勝っているときこそ、しっかりと足元を見つめ直さないと。皆さん、明日も早いんだから今日はもう寝ましょう。火の始末は、俺がしておきますから」
「若いのに、つまらん奴だな。まあ、今夜は北郷の小言に付き合ってやるとするか。それじゃ、あとは頼むぜ」
同僚たちが散らばっていく。焚き火の中で爆ぜる小枝。土をかけて、一刀はひとり闇へと消えていった。
†
月の明かりだけを頼りに、暗がりを十分ほど歩いた。頃合いを見計らって、懐に入れてあった鈴を鳴らす。同じような音色が返ってきたかと思うと、木の後ろから思春が姿を現した。
思春の足音には、張り詰めたような緊張がある。今回は当事者であるのだから無理もない。宿敵である黄祖を、何としてでも討ち果たす。一刀としても、始末の依頼を受けたからにはやり切るだけだった。
「そちらは順調そうではないか、一刀。それこそ、気味が悪いほどに」
「孫堅軍は確かに強い。それでも、勝ちすぎた軍勢には緩みがつきものだ。朱里と風は」
「暇さえあれば、議論をしている。孫堅軍の通る道。どこに兵を伏せ、罠を置けば痛手を負わせられるのか。貴様には、あまり見せない顔なのかもな」
案内する、と思春が小声で言った。
風の考えは、相変わらずよくわからないままだった。ただ、始末屋にとって不利益になるような動きをする気配はないし、朱里との協業を愉しんでいる雰囲気もある。風を始末屋に引き込んだのは自分の責任のようなものだから、この先斬らなければならないような事態にだけは、なってほしくはないと一刀は思う。
歩いた先に、野営の明かりが見えてきた。自分の足音に気がついた朱里が、立ち上がって駆けてくる。
「お帰りなさい、一刀さん。戦で、怪我なんかはしていませんか」
「平気だ、朱里。幸いなことに、私の部隊はまだ最前線に放り込まれてはいない。それに、劉表軍が勝ちを譲っているような気配がある」
抱きついてきた朱里の頭を、ゆっくりと撫でる。普段子供扱いされることを嫌う朱里だったが、これだけは別腹でいいらしい。
「さすがの嗅覚ですねぇ、お兄さん。私と朱里ちゃんも、誘引の線を疑っていたところなのですよ。というか、ほぼ確信?」
「劉表軍の負け方も、上手なんだと思います。被害は出していても、致命傷になるところまではいかない。そして、一度戦をはじめたからには、孫堅さんが途中で引き返さないことも知っている」
「こんな戦が続いては、お兄さんの剣の腕、いつまで経っても発揮できないんじゃありませんか。あっ。ですからこうして、夜な夜な陣地を抜け出しては、調教済みの肉奴隷に有り余った元気をぶつけようと?」
まとわりつくように、風が舐めかけの飴を押し付けてくる。しょうがなく少し舐め返してやると、満足したように引いていった。
風の言動が気に障ったのか、むっとしたような表情で朱里が腕を抱いてくる。安心させてやろうと、引き寄せられた反動を使って軽く唇を触れ合わせた。思春にはしっかりばれていたようで、背中から刺すような視線が飛んでくる。
「はあ、まったく……。それにしても、黄祖らしいやり口だな。じっくりと締め上げ、気がついたときには手遅れになっている。しかし、相手はあの江東の虎だ」
「くふふー。そうですねぇ。孫堅さんは孫堅さんで、やらしい策ごとぶっ潰してやろう、っていうお考えなのかもしれませんが」
「ご自身と家中の力をきちんと認識できているから、できる作戦なんでしょうね。ともかく、あちらが仕掛けてくる時期を、私と風さんで見極めます。その時は、思春さんも」
静かに、そして力強く思春が頷いた。