一
炎蓮を追って崖から河に落ちてから、三日が経とうとしていた。どうにか炎蓮を引き上げ、できるだけの手当はしている。肉体の強さは、折り紙付きなのだろう。黄祖の矢を受けた箇所の出血は止まり、息も問題なくしているようである。あとは、意識がもどるかどうかだった。
炎蓮を下手に動かすことができないから、仲間たちを探しに行くこともままならない状況である。黄祖を討った思春は、無事に戦場を離脱できたのだろうか。武力がなくとも、朱里と風が持ち前の頭脳で支援をしてくれていればいいのだが。眠っている炎蓮の顔を手で扇いでやりながら、一刀はそんなことを考えている。
三人との縁が途切れていなければ、きっと近いうちに巡り会える、と一刀は気楽に構えている。黄祖の襲撃を受けて散り散りになった際も、どうにかなったのだ。
それにしても、と一刀は炎蓮の握りしめているものを見た。自分の愛刀と同じく、これも孫家伝来の剣なのだろう。剣に生きる者として、炎蓮は最後まで手放さなかった。
竹筒に汲んできた湧き水で、口元を濡らしてやる。炎蓮が、少し身じろいだ気がしていた。
「ンッ……。ぐっ、ごほっ、はっ……」
目覚めた。大きく咽る炎蓮を、一刀は穏やかな眼差しで見守っている。
「あ……? どうして、北郷が。ああっ、くそ、いってぇ……」
「戦のことは、覚えているな。おまえは、黄祖に射られたのだ。私の仲間が邪魔をしていなければ、ここを」
豊かな胸の中心を、一刀がぽんと手のひらで押す。黄祖に討たれて死ぬはずだった孫堅が、こうして生き延びた。逆に、有力な臣下を失った劉表は、立て直せずに乱世の渦に飲まれていくのだろう。
「ああ、そうだった。オレは、黄祖との賭けに負けたのだな、始末屋。奴も、命を賭してオレの首を奪りにきていやがった。それが、こうして。……ったく、情けねえったらありゃしねえ」
噛みしめるように、炎蓮が言った。
天運は、確かに孫家に味方した。黄祖の奇襲は成功し、炎蓮を討つ寸前まで追い詰めたが、最後の最後で始末屋が邪魔をしたのだ。それも、黄祖が引き寄せた因縁なのだろう。
「生きてさえいれば、あとのことはどうにでもなる。今は、命を拾ったことを喜べばいい」
「んっ、あっ、んむっ、んっ……」
ゆっくりと口づけ、炎蓮の乾いた口内を唾液で満たす。生を感じさせる舌使い。投げやりなことを言っていようと、炎蓮の心は死んでいなかった。
「ぷはっ、はあっ……。北郷め、オレが動けないからと好き勝手にしやがって。ハハッ。まあ、しばらく看病されてやるとするか」
明るい口調で言ってから、炎蓮が腕を広げて大きく息を吸った。
ともかく、状況を前向きにとらえてくれていることに安堵する。射られた腕が痛むようで、炎蓮は顔をちょっとしかめていた。
†
身体を動かせるようになると、炎蓮はしきりに剣と対話するようになっていた。剣の名を、南海覇王というらしい。
試しに握らせてもらうと、澄んだ刀身に目が奪われた。幾人の血を吸ってきていようと、褪せることのない輝き。バランスも素晴らしく、軽く振ってみたが違和感がまるでない。
「北郷。貴様が剣を持っていれば、立ち会って気持ちに白黒つけられたのだがな」
「私の刀は、黄祖を斬るために仲間に託した。それに、私には」
続く言葉は、口にしなかった。同じ剣士として、炎蓮の言わんとすることはある程度理解できる。相手が乱世に生きる群雄だろうと、感覚として通じる部分は間違いなくあるのだ。
「黄祖は、死んだのだな。ああ、そうだ」
このまま、炎蓮は孫家にもどるのか。劉表との戦を続けながら、残された者たちは血眼になって当主の行方を探しているのだろう。
襄陽の奪取と、当主の喪失。同僚たちと話していた宴も、お流れになっているのかもしれない。それだけ、孫家において炎蓮の存在は大きかった。
「少し付き合え、北郷。怠けきった身体を、動かさねばならん。貴様も、早く仲間のもとに帰りたいだろう」
炎蓮が、拳くらいの石を集めてくるように言った。ずっと看病されていた木陰の側に、それを積んでいく。
塔。あるいは、墓標のような見た目だった。炎蓮の表情の厳しさは、戦場にいるときと同じだった。なにも言わずに、一刀が見守る。
どんな言葉も、今は必要ない気がしていた。すべては、炎蓮の心が決めることだ。
石を積み終えた炎蓮が、南海覇王を手にしている。見事な刀身が、鞘から抜けていく。炎蓮の長い髪が、風に吹かれて炎のように拡がった。
「さらばだ、南海覇王よ。最後の務め、果たしてもらうぞ」
切ない響きのある声だった。拡がっていた髪を、炎蓮が掴まえる。
美しい所作。かつて行われていた武士の切腹にも、これに近しい厳かさがあったのかもしれない。
指で搾った髪に刃が当てられる。じりっ、と斬り裂く音がした。
躊躇はない。孫家の当主として、やれるだけのことはした。後事は、娘たち次代に託す。
「孫堅文台は、ここで死した。そうだな、北郷」
掴んでいた髪の束を、炎蓮が解き放つ。
また、風が吹いていた。朝のやわらかな陽射しの中に、きらめきが融けていく。
「旅に出てみるか、炎蓮。始末屋の手も、多い方がいい」
炎蓮が、南海覇王を石に突き立てた。感じていたように、やはりこれは墓標なのである。
孫堅はここで死に、炎蓮はひとりの女として生きることになる。始末屋は、来るものを拒まない。今では、この女傑も立派な社会のはみだしものである。
「ハハハッ。オレのようなよい女を迎えられて、貴様も嬉しかろう。始末屋も、賑やかになる」
「いい年をして、はしゃぎすぎるなよ。諸葛亮が、怖がる」
清々しい表情となり、炎蓮がいつものように豪快に笑う。そこに真っ当な反論をぶつけられて、ちょっと拗ねたように舌を出しているのがかわいらしい。
「その諸葛亮というのが、貴様のお気に入りなのか、北郷。いいな、環境を変えるというのは。ガキの頃を思い出して、オレも愉しみになってきたぞ、いろいろとな」
短くなった髪を確かめながら、炎蓮が肩を抱いてくる。
始末屋として、ひとつの大仕事を終えた。そして、新たな仲間を加えて新たな旅がはじまる。
「あーっ! いた、いましたよ、思春さん。一刀さんが、あちらに」
「子供のように喚くな、痴れ者め。そもそも、あの男が簡単に死ぬはずがないだろう。殺しても、すぐに蘇ってくるかもしれない化け物だ」
「むっ……。思春さんに子供扱いされるのは……、って今はそんなことどうでもいいんです。ほらっ、はやくはやく」
「はあっ、はあっ。お二人とも、ちょっと待ってくださいよぉ。そんなに急がなくたって、お兄さんは逃げませんってば」
ちょうどいいところで、仲間たちの声が聞こえてくる。
静かに手を挙げ、一刀は自分の無事を知らせた。