焚き火の向こう側に、怪訝一色になった女の顔がある。気まずそうに身体を縮こまらせる朱里の頭を軽く撫で、一刀は空を見上げていた。
もうすぐ日が暮れ、あたりには闇が満ちる。朱里を連れて強行軍などするつもりはないし、道中を急ぐ理由も自分にはなかった。
結局、あのゴタゴタがあったせいで、食料探しは中断させられたようなものだ。朱里の携行していた干し肉を火で炙り、唾液とないまぜになるまで味わってから嚥下する。ひとり分をちぎって差し出すと、女は少し考えてからそれを受け取った。
「これが非礼の詫びになるとは思わないが、よければ腹の足しにしていってくれ」
「ふんっ。しかし貴様、ほんとうに人攫いではないのだろうな。そんな小さな子を連れて行く宛のない旅などと……。しかも、知り合ったばかりとなると余計に怪しいではないか」
女が自分の招きに応じたのは、朱里の存在があるからなのかもしれなかった。
濡れ鴉の羽のような髪はすっかり束ねられていて、頭のてっぺんには装飾として小さな鈴が鎮座している。その音色は涼やかで、いくらか剣呑さを孕んでもいるようだった。
「き、嫌いです、子供扱いされるのは。それに、知り合ってからの期間は確かに短いですけど、一刀さんとはその……いろいろとあった仲ですので。責任とか、約束とか……。わ、私だって、十分に大人なんですからいろいろ、えへへっ……」
多分に誤解を生み出してしまいそうな口ぶりで、朱里は自分たちの関係をまくし立てる。
とはいえ、他人には言いづらいトラブルがあったことは事実であり、この二人旅は交わした約定によるものだった。風で焚き火の煙が流れたのか、朱里がちょっとむせている。そういった仕草はまだまだ子供で、なにもかもがほほえましいと一刀は感じている。
「あっ。そういえば、お姉さんのお名前をまだ伺っていませんでしたね。私が諸葛亮で、こちらが北郷一刀さんです」
「ちっ……。この男のような痴れ者に教える名を持ち合わせているつもりはないが、まあいいだろう。そうだな……。私は甘興。野暮用があって、このあたりを旅している」
甘興と名乗った女が、しかめっ面をしたまま炙った干し肉をかじる。自分に対して警戒心を解けないでいるのか、背後に置いた剣に片手の指先が触れた状態になっている。刀を朱里に預けたりするなど、なんとか誠意は示しているつもりなのだが、どうにも第一印象が悪すぎるとこうなってしまうらしい。
「私に評価されたところでうれしくなどないだろうが、いい腕をしていると思った。どこかの家に、仕官はしているのか?」
「わかりきっていることを敢えて口にするな、この痴れ者が。……誰かに仕えるとか、そうしたことを考えるのが好きではなくてな。おのれの腕ひとつで、やれるだけのことをすればいいと思っていた。それが、侠に生きる者の本質なのだと思いこんでな」
甘興が自嘲気味に笑う。火に照らされた表情には憂いがあり、なにかの苦しみを抱えているようでもあった。
いずれかの麾下となれば、安定を得ることはできる。だが、それは代わりに自由を失うという意味でもあり、どちらが正しいと言えるようなものではなかった。事実、自分だって社会に馴染むことを好んでいたわけではないし、剣の道に生きるという選択は、崇高なようでいて半分わがままを通しただけだったのだ。
「散々、悩めばいいさ。悩んだ先にこそ、ほんとうの答えはあると私は思う。ははっ。年寄りの冷や水、と聞き流してくれても構わないがな」
「年寄りだと? 諸葛亮。いったいなにを言っているのだ、こいつは。どう見たって、同年代か少し下くらいではないか、私と北郷では」
「あ、あはは……。そ、それについては、私も完全に理解しているわけではないのですが。というか、よろしいんですか、一刀さん。ほとんど出会ったばかりの甘興さんに、あのことをお話になっても」
「別段、隠すようなことではあるまい。それに、こう言ってはなんだが、甘興には負い目があるのでな。いまの私には、そのくらいしか誠意を示す手段がないのだよ、諸葛亮」
自分と朱里がなにを相談しているのか、甘興にはわかるはずがない。
呆れていたような表情が、また訝しげなものに変化している。それは当然の反応で、こうした場面にこれから何度も出くわすのだろうな、と一刀は内心思っていた。
「私は一度死を迎え、この地で黄泉帰りを果たしている。どういう理屈があって、そうなったのかはわからない。意識が真っ白に溶けはじめ、あとはどこかに消えるだけだと思っていた。それなのに、実際はこうだ」
確認するように、両手の指を動かしてみる。どこにも差し障りはなく、すべてがスムーズに可動してくれているだけだった。
甘興は、唖然としたまましばらく口をつぐんでいた。まともな人間でないと思われてもしかたがない。小さくちぎった干し肉のかけらを咀嚼し、一刀は甘興から言葉が出てくるのを待っている。
「天の御遣い、なんて仰々しい名乗りをしたのはそのためか、北郷」
「諸葛亮が、予言にあった存在と、私が重なると言うのでな。それで、つい悪ふざけをしてしまったのだよ。混乱させたことは謝罪する、甘興」
「そんなことは、別にどうだっていい。着替えをのぞかれたことと比べれば、至極些細な問題なのでな」
「はわわっ。す、すごく恨まれているみたいですよ、一刀さん。じ、実は、私に言えないあんなことやこんなことまでしてしまったとか、ないんですよね!?」
「ちっ……。冗談にきまっているだろう、痴れ者め」
「あ、あうぅ……。どうしましょう、一刀さん。私まで、痴れ者認定されてしまったみたいなのですが」
泣きついてくる朱里のことを、軽くあやす。小動物のように健気で、愛らしい姿だと思った。場の雰囲気を和ませようとしてくれているのだろうが、甘興も意外と冗談を言える質らしい。とっつきにくさが印象としては先行する女だったが、それがすべてではないことに朱里も安堵しているのだろう。
夕陽に照らされ、甘興の髪が美しく輝いている。
緩みのない肉体。魅力的に映える褐色の肌。そして、剣のごとく鋭さのある瞳。惹かれるものがないと言えば嘘になる。現代で暮らしていた頃には生まれなかった感覚が、こうも簡単に湧いてくるとは。案外、自分という男は節操なしだったのか、と一刀は首をひねりたくなる気分だった。
「このあたりを旅しているということは、付近の村に寄っていくのか、北郷」
「そのつもりだ。物資の補充をしなければ、さすがに手詰まりになる。なにか、問題でもあるのか?」
「んっ……。いいや、別に。貴様ほどの腕があれば、大概のことは解決できるだろう。あの最後の一撃。正直、おそろしいと感じてしまった。私も、剣には多少自信があったのだがな」
恨めしそうに膝を抱え、甘興がじっと睨みつけてくる。
双方ともに冷静な状態で立ち合えば、結果はもう少し変わっていたのではないか。怒りによる衝動があったとはいえ、甘興の攻撃にはかなりのキレがあった。
若返った肉体による反応がなければいくらか危険を感じる場面はあったし、久しぶりに心を熱くすることができたのだ。その点については、感謝の気持ちしかない。
「この一帯を治めておられるのは当然州牧さまなのですが、実際は錦帆賊の影響がかなり強いと聞き及んでおります」
朱里の口から、錦帆賊という聞き馴染みのない言葉がでる。
それを聞き、どうしてか甘興が顔をしかめている。公的な体制を飛び越え、現地では独自の組織が実権を握っているというのはよくある話だ。
この荊州の統治者は劉表で、その下には郡や県を支配するための寄騎がさらについている。錦帆賊という集団がどこまで力を持っているのかは知らないが、そのやり方に問題がなければ、支配者から目こぼしされることも少なくないのだろう。支配する側としては、地域の治安が保たれ、税があがってくればそれでよかった。
「錦帆賊の頭領は、義侠心にあふれたお方なのだとか。だから、暮らしている人々も怯えることがないし、いい関係が築けているのだと噂されています。機会があれば、ぜひお会いしてみたいですね、一刀さん」
「ン……。ああ、そうだな」
朱里の錦帆賊評が気に入らなかったのか、甘興は親指の爪を噛んで苛立ちを堪えているようだった。
恨みがある。あるいは、そこには悔しさのような思いがあるのだろうか。ともかく、出会ったばかりの自分に、甘興の事情などわかるはずがない。そうした意味でも、この付近のことが一刀は気になりはじめていた。
「ふんっ……。貴様たちと過ごしていると、こちらにまで痴れ者気質が伝染ってしまいかねん。もうすぐ、日も沈む。このあたりで消えさせてもらうぞ、私は」
「えっ? あ、あの、甘興さん?」
ちょっと声を荒げ、甘興が立ち上がる。引き止めるのは無駄だと思った。自分たちの関係は刹那的に生まれたに過ぎず、間には細い糸が一本あるだけなのである。
それにどうせ、縁があればまたどこかで巡り会うことになる。そのくらいさばさばとした気持ちで、一刀は女の背中を見送った。