賑やかに風呂屋の入口をくぐる女たちを見届け、一刀はひとり散策に出た。
改めて周囲を見渡してみると、袁術のいる本拠地でなくとも、これだけの民衆が集まるものなのか、と思わされる。大通りには出店も多い。流れてきた者を狙っているのか、ちょっと胡散臭い雰囲気の商売をしているところもちらほら見えてくる。それを特に規制する様子もなく、見回りの役人たちは密かに袖の下を受け取っているのだ。
汚い金が、誰かの役に立つこともあるのだろうか。特に憤ることもなく、一刀は方々で行われているやり取りを観察していた。
胡散臭い商売であろうと、いきなり失くされては困る人間が確かにいる。この南陽の川底に住まうのは、健康に丸く太った魚だけではないのだ。
誰しも、一歩間違えれば闇に堕ちる。始末屋稼業をしている身として、危機感は常に持ち合わせておくべきなのだろう。
そんなことを考えていると、幅の広い荷車が後ろからやって来た。護衛の男が三人ついていて、荷台はしっかり筵で覆われている。上級役人への献上品か、それとも機嫌とりのために集めた怪しい代物か。どちらにせよ、いまの自分にとっては関係のないものでしかない。
必要なだけ身体を動かし、一刀が荷車を通してやる。なにが気に障ったのか、すれ違いざまに怒声が飛んできた。
「ぼさっとすんじゃねえ。てめえ、轢き殺されてえのか」
取るに足りない相手からの暴言など、返すだけエネルギーの無駄になる。思春とは違う、憎しみ感じる舌打ちだけを残し、男たちがどこかに去っていく。
途中、気さくな老人のやっている店で肉の串焼きを買い、小腹を満たす。出かける前に、朱里から半分押しつけられるようなかたちで渡された小遣いだった。
肉をひとつ残した状態で、立ち止まった。
喧騒の届かない路地である。肉の汁のついた先端を見つめたまま、一刀が音もなく振り返る。
「ひゃ、ひゃひっ!?」
かわいげのある声。後ろにいた影が、驚きのあまり跳び上がっていた。
まん丸い眼をさらに丸くし、周泰がこの場を慌てて取り繕おうとしていた。苦しい言い訳を並べるところを見物するのも一興だが、そこまで意地の悪い対応をしてやることもない、と一刀は思う。
「食うか、周泰。私が言うのもなんだが、味は保証する」
「へっ? はっ、はいっ、いただきます。んむ、もしゅもしゅ……」
根本に残った肉を、周泰が器用に口に運ぶ。ほとんど餌付けしているようなものだが、本人が旨そうに食っているのだから問題ないだろう。
「やわらかいだけじゃなくしっかり噛み応えもあって、お肉本来のお味が……って、違います! ええっと、これはその、つまりですねぇ……?」
「いいから、水でも飲んで落ち着け。それとも、言い訳が必要なくらい、後ろめたいことをしている自覚があるのか、周泰」
「んっ、ごくっ、んっ、はふっ……。いえ、後ろめたいことなど、なにも」
周泰がなにを求め、始末屋を追っているのか。そんな理由、事情を知っていればわらべでも想像がつく。
「炎蓮様のお側にいた護衛の話で、あの場に北郷さんがいたことを知りました。しかも、負傷された炎蓮様を追うように、崖から落ちたとも」
話しながら、周泰が一応周囲を気にしている。先代からの因縁のある袁術の領地なのである。狙いは始末屋一行にあるとはいえ、どこになにが潜んでいるかわからない。
「元気なお姿を見て、安堵いたしました。あの状況から生還なさるとは、やはり炎蓮様は普通じゃありません」
それはあなたも同じですけど、と周泰がつけ加える。
ひとりになり、追跡に気づいてから、斬り結ぶようなことにはならないと思っていた。それに、隠密として孫家に貢献してきた周泰なら、炎蓮の性格くらい熟知しているはずだ。
「あれから襄陽を攻め、劉表を斬ったらしいな。炎蓮の娘は、平気か」
「周瑜殿の補佐もあり、いまは立ち直られているのです。さすがに、炎蓮様討ち死にの流言を耳にされた時は、とても戦にならないほど落胆されていましたが。思えば、あれも黄祖が事前に準備していた策だったのでしょうか」
現当主の状態を、割と赤裸々に周泰が明かしてくれる。長沙での襲撃を退けてから、それなりに交流のある少女だった。孫家の中で始末屋の裏稼業を知っているのも、この周泰だけである。
黄祖の思惑が、最後まで実現することはなかった。
炎蓮が生き延びたうえに、黄祖自身が討ち取られているのだ。加えて、虎の尾を踏み抜いたこともあり、劉表までもが斬られる事態となっている。この先、荊州は間違いなく孫家一色となっていくのだろう。
「連れ戻したいか、炎蓮を」
核心を突く問いを、あえて投げてみる。周泰の眉が、ちょっと動いたような気がしていた。
意地の悪いやつだと思われても仕方がない。それでも、構わないと思った。炎蓮の命を永らえさせ、出奔に関わった者として、一刀にはつけるべきけじめがある。
「南海覇王を、見つけました。積み上げた石と一緒に、誰かのお墓のようになっていて」
視線を地面に落とし、周泰が言葉を続ける。
「それで、わかってしまったのかもしれません。炎蓮様は、孫家での闘いに区切りをつけられたのだと。だからといって、なにもしないのも違うと思いませんか、北郷さん。ですから、こうして」
「炎蓮が元気にしているかどうか、様子だけでも確認しにやってきた、というわけだな」
そうなのです、と周泰が頷いた。
健気な忠誠心である。炎蓮ではなく自分を追ってきたのも、寂しさで決意が鈍ってはいけないから、と考えているのかもしれなかった。
孫堅文台は、後継者に恵まれ、臣下にも恵まれている女だった。その事実だけは、間違いなく伝えてやらなければ、と一刀は思う。
「いますぐに、炎蓮の気持ちが変化することはないだろう。だが、十年後、二十年後ともなればどうかな」
「はあ……。途方もないことを仰るのですね、北郷さんは」
「そのくらい、楽に構えているといい。娘に、剣は返してやったのか、周泰」
「野ざらしにしておくのは忍びないことですし、孫策様に。それで、炎蓮様が生きておいでになると確信されたようなものですが」
孫堅の名は、群雄たちの名を記した地図の上からは消えた。ただ、江東の虎の志と剣は受け継がれ、次代の英傑を生み出そうとしているようだった。
胸の前で合わせた指をもじもじとさせながら、周泰がちょっと口籠っている。
「あの、北郷さん」
「また、いつでもくるといい。もてなしは、してやれそうにもないが」
「いいえ。そのお気持ちだけで、とっても嬉しいのです。それから、私のことは明命とお呼びくだされば」
「わかった。ありがたく、明命と呼ばせてもらうとしよう。私のことも、一刀でいい」
「えへへ。はいなのです、一刀さん。それでは、私はこのあたりで」
笑顔の花が咲いている。駆け去っていく明命の姿は、どこまでも軽やかだった。