風呂屋の入口で、かつて大将軍だった女と目配せをしてから、一歩踏み出す。
孫堅の名と地位を捨てた途端、世界は奇妙な繋がりで溢れはじめた。そういう感覚があって、炎蓮は大声で笑い出しそうになる。それもこれも、北郷一刀という男が物事の中心にいるから起こる結果なのだろう。見てくれの年齢は娘とさほど変わらなくとも、中身の分厚さがまるで違っているのだ。
立ち合って、純粋に死を感じさせられたのは、いつぶりだったのだろうか。
少なくとも、孫家を率いるようになってからは、味わったことのない感覚だった。だからこそ、あの男に貫かれると見境なく心が燃える。いつか本気で狂ってしまっても、北郷ならば引きずり戻してくれると信じてしまう。
靴を脱ぎ、ほかの三人を連れて板張りの廊下を歩く。始末屋の金の出入りは朱里が管理しているようで、入浴料も一括で払ってくれていた。
背中越しに一応覗いてみたものの、傾の言っていた格安料金は嘘ではないようだった。ひとりにつき一枚の銭を、朱里が番頭に渡している。
この状況に慣れきっているのか、あの思春がなに食わぬ顔で先に行こうとしているのがおかしくなってくる。銭袋の口をしっかりと閉じている朱里の肩を、炎蓮が抱きかかえた。
「オレたちみんな、悪い男につかまったんだ。だから、落ちるとこまで一緒に落ちてやろうじゃねえか、朱里」
「ふえっ!? い、いきなりどうされたんですか、炎蓮さん」
旅に出てからまだ半月も経っていないが、始末屋に流れる空気は性に合っている。雲のように漂い、ときには雷のように激情をぶつけ合う。
道中、愚痴やわがままで険悪になりかけても、最後はあの男が丸く収めてしまうのだ。干渉する気がないようでいて、動いたときには滞りが消えている。器としては、将軍よりも王だった。とはいえ、あの残念なくらいの野心のなさも、北郷の気持ちのよさのひとつではあるのだが。
先客のいる脱衣所に入ると、身だしなみを整えるために設置してある姿見が眼に入った。長髪を捨てた自分の姿が映し出される。
乱雑な切り口に触れると、勝手に笑いが込み上げてきた。始末屋の潜影。これが、自分の新たな立ち位置なのである。
「すん、すんすん……。あの、ちょっと微妙な匂いがしませんか、思春さん」
「安かろう悪かろうで、掃除の手を抜いているんじゃないか。もし、暇な時間にあの姉妹がやらされていると思うと、妙な納得感がある。どうせ、建物自体もろくな造りをしていないのだろう」
「辛口ですねー、思春さんは。まあ、雑多な雰囲気を愉しむのもいいんじゃありませんか。ちょっと匂いが気になるくらい、川で水浴びすることを思えば……」
着ている服に手をかけながら、三人が愉しそうに話している。朱里は匂いを気にしているが、違和感がそれだけではないことに炎蓮は勘づいていた。
脱衣の途中、たまたま腕があらぬ方向にいったふりをして、壁を殴りつけてみる。妙な反響。それに、隠しきれない気配が板を挟んだ向こう側に存在している気がしていた。
下着姿になった朱里が、ちょっと遠慮がちに裸になっていく。始末屋総出で北郷に犯されたばかりだというのに、いじらしく羞恥心を残しているようだった。小さく笑って、炎蓮も着物を床に落とす。さらしを外すと、窮屈にしていた乳房が一気にこぼれ出た。朱里と風が、炎蓮の肉感あふれる肢体を羨ましそうに見つめている。
二人の頭を撫でながら、炎蓮がもう一度気になった壁の方に視線をくれる。あるとすれば、覗き用の小さな穴なのか。格安の風呂で女を釣り、裏では欲望を滾らせる男どもから金を巻き上げる。悪くないやり口だと思った。
吹けば飛ぶような下郎の視線など、あったところでどうでもよかった。自分の心と身体に火を着けられるのは、あの男だけなのだ。ならばここは、堂々と見せつけてやるくらいでいい。
「炎蓮。傷はもう、大事ないのか」
「痛むといえば、痛む。心の傷、とでも言っておこうか。ハハハッ。慰めてくれるか、思春」
「ちっ……。心配した私が、愚かだった。貴様もたいがい、救いようのない痴れ者だ」
「おうよ。痴れ者で大いに結構。これからも、やりにやりまくってやろうじゃねえか」
思春との言い合いも、段々とさまになってきたのではないか。なにやら傾とは以前からの因縁がありそうで、酒を呑む機会があればいい肴になりそうだった。
白い手ぬぐいを肩にかけ、炎蓮が浴室に続く引き戸に手をかけた。あたたかな空気と一緒に、隙間から湿気が流れ込んでくる。
「わあっ。広いお風呂って、滅多に入れないからすごくわくわくしませんか、思春さん。えへへっ。身体、洗ってあげましょうか」
「あまりはしゃぐな、痴れ者め。自分の身体くらい、勝手に洗う」
「おおっ。思春さんは、さすがの鉄壁ぶりですねえ。それでは朱里ちゃん、こっちで風と洗いっこでもしましょうか」
「了解です。風さん、とっても髪が長いから、洗うの大変そうですもんね。いいなあって思うこともありますけど、私だったらこのくらい」
髪を伸ばすなら、肩の先くらいまでがいいい、と朱里が手で宙に線を引いている。
ほほ笑ましいやり取りを尻目に、炎蓮が洗い場の椅子に腰をおろした。どうしても、かわいい盛りだった小蓮の姿が眼に浮かぶ。
長女の雪蓮には、次代の孫家当主として厳しく当たるしかなかった。鍛えるだけの、資質を備えていると思っていたからだ。そして、血気にはやる姉が少々無茶をしても、蓮華が補佐としてどうにかするだろう。
すべて、始末屋の潜影には関係のないことのはずだった。
「ちっ。オレも、まだまだ青二才ってわけか」
洗いやすくなった髪に指を通していく。
朱里の上機嫌な鼻歌が、側から聴こえてくる。それで、心の靄が少し晴れたようだった。桶に汲んだ湯を頭からかぶり、炎蓮はひとり笑っていた。
同時に洗い終わっていた思春と、湯船に向かう。少し熱めの湯が、身体の芯に染みていく。思春の視線が胸のあたりに集まっているが、ここは大人の余裕を見せつけるべきなのか。
そもそも、北郷が乳の大小を気にしている様子はどこにもない。抱いている相手に、魂をぶつけ合う価値があるかどうか。結局、大事な点ははそこなのだろう。
「ふう……。もっと胡散臭い風呂屋なのかと警戒していたが、値段の割に悪くない湯だ」
「ハハハッ。まあ、それならそれでいいんじゃねえか」
「せっかく愉しんでいるのに、引っかかる言い方をする奴だな。ああ、そうか」
腕組みをした思春が、肩まで湯に浸かっている。最後まで言わなかったあたり、内容の想像はつく。
「脱衣場での言葉を返すようだが、貴様もたいがい嫌味な女だな。強いて言えば、足りぬのは北郷であろう」
思春が考え込んでしまったところで、遅れていた二人が湯に入ってくる。
どちらともに見事なまでの子ども体型だが、大陸随一の男の味を知っている。
ここにも下衆の覗きがいるのだろうが、そんなことはつゆにも思わないはずだ。多くのことを経験しても無垢でいられる朱里の存在は、貴重だった。ある種、天賦の才といえるのかもしれない。
「ふう、あっちぃ……」
湯船の縁に座り、炎蓮が手で顔を扇いだ。火照った肌に、生ぬるい風が降り注ぐ。
欲望をぶつけたければ、オレの身体を見ていくらでも愉しむといい。銭を払った分くらいは、満足させてやろうではないか。おかげで、こちらはのんびり湯を使わせてもらっている。
胸の谷間に流れる汗を指ですくう。炎蓮が、気だるそうに息を吐いた。
あとからやってきた客のひとりが、炎蓮たちの近くで湯に浸かる。少女の年頃は、思春とそれほど違わないくらいか。物怖じしない明るい笑顔が、眩しかった。
どうやら、自分たちに興味が湧いたようである。
「こんにちは。お姉さんたち、あんまり見ない顔だね。もしかして、旅の人かな」
「はい。私たち、旅のなんでも屋をしているんです。お姉さんは、こちらによく?」
「へえ。いいなあ、愉しそうで。あたしは
シャオ、という響きにどうしても反応してしまう。それに、この人懐っこさだった。
思考の沼から戻ってきた思春が、小蘭の顔を見る。ちょっと休憩したくなったのか、炎蓮に続いて湯船の縁に上がった。
始末屋の四人が、呼ばれたい名で適当に名乗る。当然、炎蓮は潜影だった。
上半身を伸ばしながら、思春が小蘭に話しかける。裸でいる開放感が、気を緩ませているのだろう。
「たまたま、顔を知っている女が店の前に立っていた。ここは、いつもこんな値段で商売をしているのか」
「うん、そうだよ。乱世にもいるもんだね、人情のある商売人が。いやあ、ほんとうに助かっちゃうよ」
「襄陽の戦火から逃れてきたのか、小蘭も」
思わず、炎蓮が尋ねていた。柄でもないことをしているせいか、腕が粟立っている。
「ううん。あたしは、また別のところから。だけど、最近どこも戦が多くて困っちゃうよね。なかなか、安心して暮らせないなあ」
「ひとりの群雄が、天下を戴こうとするからいつまでも戦が続く。乱世の仕組みとは、案外その程度のものなのかもしれんな」
「あははっ。あたしには、よくわかんないや。難しいこと考えるんだね、潜影さんは」
笑いながら、小蘭が身体に湯をかけている。
「あたしなんて、毎日仕事してご飯食べられたら、それで幸せなんだもん。最近は、それに加えてお風呂まで入れてるんだから、これ以上のことってないよ。だから、お役人様にも感謝しないとねぇ。時々見回りにきて、無法者が出ないようにしてくれてるみたいでさ」
「ほうほう。お役人様、ですかー」
湯の中を漂っていた風が、小蘭の言葉に反応を示した。自由に乱れていた長い髪を、朱里が整えてやっている。
怪しげな風呂屋の仕組み。それに、役人との関わりまであるようだった。いろいろときな臭いが、まだ始末屋が動くようなことではない。恨みつらみの宿った金がなければ、北郷が裏の仕事をやることはないだろう。
「オレたちは、何日かここに滞在するつもりだ。仕事の依頼があれば、なんだって飛びつくぜ。なにせ、銭がないからな」
一歩踏み出し、炎蓮が小蘭の肩をたたく。
「あはは。お互いない袖は振れないね、潜影さん。というわけで、みんな明日を生きるためにがんばろー!」
「おっ、おおー?」
小蘭にならって、朱里が右腕を突き上げている。
どれだけ土壌が腐敗していようと、命は力強く咲く。そんな当たり前のことを、思い知らされているようでもある。
「先に上がって待っている。付き合え、思春」
「んなっ……。どうして、私が」
これ以上、無垢な心に触れていると、湯あたりよりもひどいのぼせ方をしてしまうのではないか。
湯を跳ね上げた炎蓮は、嫌がる思春の腕を引っ張り脱衣場に消えていった。