甘興さんとの別れから、早くも一日が過ぎようとしていた。
しばらく歩きづめだったことに加えて、野営が続いていたから、身体には結構な疲労が蓄積している。それでも、と朱里は懸命に足を踏みだすことをやめなかった。
運命の出逢いがあったあの日。一刀さんがどう思っていようと、自分の中ではそういうことにするつもりだった。天の御遣い。それ以上に、不思議な感じのする男の人。
こことは別の世界で命の終わりを迎え、二度目の生を得てしまった人。小難しい理屈などで計れるものではない。一刀さんの立ち居振る舞いを見ていると、ほんとうにそうなんだと思わされることがいくつもある。
若々しい見た目と相反する落ち着き。実際、眼が醒めてまったく知らない世界に飛ばされてしまったのなら、動揺や困惑があるのが普通ではないのだろうか。けれど、あの人にはそんな様子は少しもない。
流れのままに生き、流れのままに進んでいく。
もちろん、すべてに対して無抵抗でいるわけではない。襲ってきた三人を斬り捨てた時はおそろしい剣だと思ったが、それもまた流れであり、斬るべくしてあの人は斬ったのだという納得感がそこにはあるのだ。
甘興さんとの別れにしても、それは同じなのかもしれなかった。横から観察していて、どちらともに興味を抱いていることくらい理解できている。一刀さんは生粋の剣士で、再び覚醒した世界で信念の振るい方を探そうとしている途中だった。そんな時に、腕に覚えがある女の人と出逢ったのだから、心が惹かれるのも無理はないと朱里は思っていた。
自分にはない強さ。それに、きれいな眼をしている人だという印象が残っている。
「ついたぞ。ここでいいのだな、朱里」
「ひゃ、ひゃいっ……! あう……」
いきなり声をかけられたものだから、驚いて舌を噛んでしまった。
表面がちょっとひりひりする。こういう締りのなさが、子供っぽさにつながることはわかっている。でも、こればかりは自分でもどうにもならない部分であり、一刀さんの優しい笑顔がいまだけは辛かったりもする。
「い、いきましょう、一刀さん。まずは、旅の第一目標達成です。これからも、いろんな場所をたくさん見て回りましょうね、一緒に」
一緒に、という部分にありったけの力をこめた。
思いが通じているのかは不明だが、一刀さんは軽く頷いてくれている。それに少しだけ安堵を覚え、朱里は小さな胸を撫で下ろすのだった。
責任とか約束とか、ほんとうはそんなもので縛るべきではないのかもしれない。ともに過ごしていて安心を得られる人。それはきっと、本質的なあたたかさを一刀さんが備えているからなのだろう。
お兄さんのようで、時々お父さんのような一面すら感じさせてくれる人。一刀さんの歩んできた人生の蓄積が、そこには作用しているのだろうか。見た目以上にある歳の差。だけど、そんなものを気にして後悔するくらいなら、乱世に呑まれて死んだほうがマシだという気持ちが湧いてくる。
「まずは、今日の寝床を確保しようか。それから、食料の補充だ」
「はわっ。ね、寝床……。それって、つまりはそういうことなんでしょうか……!」
よもや、いけない誘いの意図がそこにはあったりするのだろうか、なんて考えてしまう。ひとりでに鼻息を荒くし、朱里は両手を胸の前で握りしめている。
だったら、先にどこかで水浴びを済ませておかなければ。あまりに性急なことで、つい思考が危うい方向に振り切ってしまっている。同じ寝台で眠って、ぎゅっと抱きしめられて。それから、この前の突発的な接触どころではない、大人の世界の扉が開けてしまうのだ。きっと、そうに違いない。
「どうした、そんなに顔を赤くして。もし体調が優れないのなら、早めに休息を……」
「ち、違いますぅ。はあ、はあ……。こ、これはほんとに、なんでもありませんのでっ」
「そうなのか? だが、無理は禁物なのはこの先もずっと同じだ。なにかあれば、すぐに伝えるのだぞ」
「あっ……。は、はい。えへへ……。手、あったかいですね」
言いながら差し出された手を、勇気を振り絞って握ってみる。
そこにどういう意味があろうと構わない。いまの朱里にとっては、一刀との触れ合いだけがすべてだった。
†
しばらく村で過ごしていて、感じたことがある。
暮らしている人数の問題なのかもしれないが、表を出歩いている住人が少ないことが朱里は気になっていた。
農作業をしてたり、露店を開いている大人がいるにはいる。だけど、なんとなく活気がなく思えてしまうのは、そこに子供の声がないからなのではないか。
まだ陽は高く、これだけの営みがあるのだから、小さな子があたりで遊んでいるのが普通なのである。同じことが気にかかっているのか、一刀さんの発する雰囲気にも、かすかだがぴりっとしたものが入り混じっていたりする。
「鈴。また、鈴の音か」
「はい? 鈴なら、私もつけていますけど……」
首もとについた装飾品。持ち上げると、ちりんというかわいらしい音が鳴る。
一刀さんの言っている鈴は、きっと自分のものではない。だとしたら、それは。
「たぶん、あまり目立たないほうがいい。こっちだ、朱里」
誘導に従い、近くにあった民家の壁に背中をつけた。
村に流れていた穏やかな雰囲気が、じりじりと消えていく。襲来するなにかに対し、朱里は唾を飲んで身構えた。
男たちの集団。二十、あるいはそれ以上なのか。どこからどう見ても荒くれ者で、これが噂に聞く錦帆賊なのではないかと朱里は思った。だったら、どうしてこんなにも村人たちは緊張をあらわにしているのだろうか。
のんびり歩いていたおじさんが、急いで遠くに離れようとする。露店をやっているお姉さんの呼びこみの声もぴたりと止まっていて、異様な重々しさだけが周囲に満ちていた。
「おう。商売の調子はどうだい、姉さん。今日は天気がいいから、客もさぞかし来たんじゃねえのかい」
「え、ええ、それはもう。おかげさまで品が薄くなってまいりましたので、ぼちぼち店じまいにしようかと……」
「ほう。だったら、今月は多めに上納金を出してもらえそうだねえ。期待しているよ、姉さん」
「そ、それは困ります。いまだって、暮らしていくのが精一杯なんだ。ちょっと売上があったからって、そんなことされちゃあ……」
明らかに様子がおかしい。
見ている感じだと、店のお姉さんに話しかけているのが、あの一団を取り仕切っている男なのだろう。錦帆賊は長江沿いにいくつか拠点を構えていて、それぞれの支部を取り仕切る人間が配置されている。そのひとりがあの男なのだとすると、噂に聞く義侠的な振る舞いとは、随分と違う感じがする。
言葉の物腰こそやわらかだったが、そこには明確な棘がある。なんなら、いますぐにでも刺し殺したって少しの問題もない。男からは、そんな危うさが伝わってくるのである。
「はあ。丁寧に教えてやってるのに、なんにもわかっちゃいねえなあ。おい」
「あっ。そ、そんなっ」
頭領らしき男が右手を差し上げる。同時に、配下のひとりが並べられていた品物を勢いよく蹴り飛ばした。
腰につけている鈴が卑しく鳴る。錦帆賊を束ねているのは『鈴の甘寧』とも呼ばれる武侠の人で、それが広まり配下でも鈴をつけるのが慣習のようになっているのだという。正直、信じられないという思いが強かった。噂に聞いていたのとはまるで違う。薄汚れた現実を思い知らされたようで、胸の内で感情がぐるぐると駆けずり回っていた。
狼藉はさらに続く。品物を守ろうとしたお姉さんまでもが足蹴にされ、地面を転がされている。頭領らしき男は自分では手をくださず、それを冷ややかに見つめているだけだった。
一刀さんを仰ぎ見る。力のすべてを知っているわけではないが、このくらいの手合に苦戦するはずがない。期待をこめて、服の裾を指で引いた。
「そんな。どうしてなんですか、一刀さん」
何度合図を送ってみても、一刀さんは壁に寄りかかったまま体勢を崩さなかった。
この有様を見て、なにも思わないはずがない。もし自分にそれだけの力があったのなら、間違いなく立ち向かっている状況だった。それだけに、一刀さんがなにもしないでいるのがもどかしい。
「へえ。このシケた村にしちゃあ珍しく、べっぴんさんがいるじゃないか。どうだい。うちの組で働く気があるなら、お世話させてもらうよ」
お姉さんをいたぶることに飽きたのか、頭領らしき男の意識がこちらに向いてしまう。
蛇のようなねっとりとした視線。手足が硬直してしまい、うまく動かせなかった。男の意図を汲み、二人がゆっくりと歩み寄ってくる。ここにきて、路上に子供の姿がない原因が理解できた。錦帆賊がやってくるたび、気まぐれに連れて行かれてはたまったものではない。だから親たちは、なるべく子供を外で遊ばせないようにしているのではないか。
「い、いやっ」
悪夢としかいいようのない現実。一刀さんは黙ったまま、ことの成り行きを静観していた。
「この子、あんたの連れかい? へへっ、よかったじゃあないか。李烈の兄貴に見初められたんだから、いい暮らしができるぜ。もっとも、いい子にしているって、条件つきだがな」
二人が、腕を伸ばせば届く距離にまで接近している。あの日斬られた三人と同じ、濁った眼をしていると思った。
従順でいなければ打ち捨てられるか、便利な労働力としていつまでも使われてしまうのではないか。こんな腐った世の中は、変えなければならない。そして、自分はその変革をなすために、天の御遣いたる稀人と邂逅したのではなかったのか。
気持ちで負けてたまるかと思い、必死になって二人を睨みつけた。それでなにかが変化するわけではない。もしかすると、機嫌を損ねて暴力を振るわれるだけなのかもしれなかった。だけど、一歩を踏み出すことをやめたくない。それすら諦めてしまっては、届くはずの思いも届かなくなってしまう。そんなのは、絶対に嫌だった。
「私の連れに、薄汚れた手で触れてくれるなよ。この子と私は旅の途中で村に滞在しているだけで、そちらの都合に巻き込まれるようないわれはない。わかったら、さっさと立ち去ることだ」
「ああ? なんだ、よく見たらただのクソガキじゃねえか、こいつ。てめえ、どの面さげて俺たちに……」
男が言葉を発することができたのは、そこまでだった。
みぞおちを強かに打たれて、二人が仲良く地面に転がっている。ちょっと胸がすくような思いだったが、一刀さんの冷え切った表情を見ていると、さすがに自制心が湧いてくる。
「どうやら、まだ遊びたりないように見える」
さらに五人が向かってくる。一刀さんは、簡単に剣を抜くような真似をしない。だからこそ、その一撃には覚悟にも似た重みがある。それに打ちのめされたから、昨日の甘興さんだってひとまず和解に応じる気になったのではないか。
少々相手が増えようと、一刀さんの輝きを消すことなどできはしなかった。
ひとり、またひとり。呼吸をするかのように制圧されていき、地面に投げ捨てられていく。五人目が鞘に入ったままの刀で叩き伏せられたのを確認したところで、頭領が撤退の合図をかけた。
「もういい。もう、興が冷めたわ」
あれが、李烈という男なのだろうか。さらなる醜態を晒せば、おのれの権威の中枢にまで傷が入ることになる。そのあたりの判断ができるだけ、冷静な人間だと言えるのかもしれなかった。
義侠の集団、錦帆賊。その威信がたやすく地に落ちているのを目の当たりにし、朱里は無性に泣きたくなっていた。
「あの、一刀さん……」
「半端な手出しなら、するべきではないと思った。しかし、私の意志のかたさも、大したものではないようだ。おまえを傷つけられたくなくて、ついあんな真似をしてしまうのだからな」
自嘲気味に一刀さんが笑っている。反抗の代償が、いつか村に返ってくることになる。そのことを心配しているのだから、優しい人だと思った。
しかし最後には、その理性を飛び越えて、自分を守ることを選んでくれたのである。ひとりの人間として、それがうれしくないはずがなかった。
「兄さん、あんたすごいじゃないか。あのごろつき共を、簡単にのしちまうんだからさ」
少数だが、村人たちから歓声があがる。男たちの打ち倒されるさまを見て、気分がすかっとしたのは、どうやら自分だけではなかったらしい。
波乱づくしの旅のはじまり。それはまだ、終わりを迎えてはいなかった。