身体の内側にあった熱が霧散していく。静かに息を吐き、一刀は朱里が無事であることに安堵のほほえみを浮かべていた。
一度やってしまったことを、覆す術などどこにもない。村人が数人駆け寄ってくる。ほとんどが若い男で、顔にはあふれる血気が見受けられる。
それも当然か、と一刀は朱里の頭を帽子越しに撫でていた。いつからこんな虐げられ方をしていたのかは知らないが、肩身の狭い暮らしなんて言葉で形容できるほどの苦しみではなかったはずなのだ。そんなところに余所者の自分があらわれて、小さな希望を与えてしまった。この責任を、果たしてどのように取ればいいのか、と朱里の顔を見ながら考えていた。
「あのくそったれどもに、俺たちゃどれだけ泣かされてきたことか。けど、天はこの村を見捨てちゃいなかったんだ。兄さんみたいなお人が、こうしてあらわれてくれたんだからよ」
男のひとりに肩を叩かれる。感極まっているのか、声が少しふるえていた。
天。やはり、天なのか。藁にもすがる思いというわけではない。この世界の人々は、本気で超常的な存在による救済を信じ、そこに希望を託している。類まれなる智能の持ち主であろう朱里ですらそうなのだから、そこに例外はほとんどないと言っていいのかもしれなかった。
ちりん。どこか遠くから、怜悧な鈴の音が聴こえたような気がしていた。苦悩を含んだ甘興の双眸が思い起こされる。振り向いてみたものの、そこには誰の姿もなかった。
「あの偉ぶってる李烈の野郎に、泣きっ面をかかせてやりたいんだ。いや、ぶっ殺せるのなら、俺のこの手で首を引っこ抜いてやりたいくらいなのかもな。そんでも、この村の人間は錦帆賊にびびっちまっている。一発ぶちかましてやろうぜ、って呼びかけても、みんないい顔をしないのさ。まっ、その気持もわかるがよ」
別の若い男が、悔しそうに地面を見つめながら言葉を搾り出している。
反撃を試みるのはいい。しかし、それがもし失敗に終わったら、その時はいまとは比べ物にならないような惨状が待っているはずなのだ。現状の搾取を飛び越えて、奴僕のような扱いをされるのならまだいい方なのかもしれない。妻子にそんなリスクを背負わせるくらいなら、事を荒立てずに怯えながらでも生きていく方がいい。その考えも十分に理解できるから、男は強く唇を噛み締めているのだろう。
「兄さん。あんたの腕を見込んで、頼みがある。あの野郎どもを、叩き潰してもらいてえんだ。こんな絶好の機会、二度とやってくるはずがねえ。兄さんだけが、俺たちの希望なんだ。だから、頼む」
その場にいる全員が、深々と頭を下げた。
自分のやるべきこと。それは、天の御遣いとして義の剣を振るうことなのか。そんな大層な肩書さえあれば、人を斬ることが簡単に許されるのか。
「一刀さん」
朱里の真っ直ぐな視線に射抜かれたような気分になる。
問答を続けているだけの時間的余裕は、おそらくないのだろう。行動を起こすのなら、数日のうちにやるしかないとは思っていた。それ以上に時をかければ、相手がなにをしてくるかわかったものではない。刀を握りしめ、一刀は数秒だけの瞑想に耽っていた。
「さっきの頭領然とした男。あの李烈を消せば、このあたりの錦帆賊は大人しくなると思うか」
「あ、ああっ。やつの下についている何人かの副官も一緒にやっちまえば、あとのゴロツキに人数をまとめる力なんてないはずだ。散り散りになりゃあ、しょぼくれた野盗同然よ。それくらいなら、どうにだってなる」
そうか、と一刀は小さく頷いた。
ここは、運命の流れに乗るしかないのかもしれなかった。それに、あの賊徒に対する怒りもある。少しの間だったにしろ、朱里を怖い目に遭わせてくれたのだ。その借りを、まだあの李烈に直接返せてはいなかった。
「いいだろう。報酬は、私とこの子が半月食っていけるだけの食料と、銭で手打ちとする。そうだな……。ついでに、馬を一頭用意してもらおうか。そちらは、なるべく健脚なものがいい」
「えっ? あ、あの、一刀さん……?」
朱里からしてみれば、これは大変な人助けになるのだから、金銭を要求しないほうが却って得られる名声が大きくなると思っているのかもしれなかった。
だが、どんな大義名分で飾り立てられていようと、人殺しは人殺しなのである。それをなんの見返りもなくやってしまっては、いずれ自分の剣は狂気に沈む。そうなってしまわないためにも、最後の線引だけは必要だと思っていた。
「わかったよ、兄さん。そのくらいであいつをやってもらえるのなら、安いもんだぜ。ほかにも、協力できることがあるなら、なんでもするからよ」
「だったら、やつらの根城の詳細を、この子に教えてやってほしい。全体の人数、見回りの配置。それがわかっていれば、私も動きやすくなる」
朱里の顔にちょっと驚きの色がある。
一度流れに乗ったからには、きっとこれから先もこういうことが続く。直接手を下すのは自分だけでいい。それでも、補助をしてくれる参謀の存在があるのとないのとでは、天と地ほどの差が生まれてくるような気がしていた。
剣の腕ひとつで、すべてを変えられると考えるのはあまりにも傲慢ではないか。かたまる朱里に頷き返しながら、一刀はそんなふうに思っていた。
「頼りにしているよ、軍師殿」
「は、はいっ、がんばりましゅ! あう……」
朱里がうつむいたのと同時に、かわいらしい鈴の音があたりに響く。
少しだけ戻った和やかな雰囲気の中、一刀は天に向かって決意を捧げていた。
†
曇天の下を、一刀は朱里と二人で歩いていた。
流れる空気にかなり湿り気がある。それに、雨が近づいている時独特の、あの匂いがあたりにはあふれていた。
帽子を抑えながら頭をあげていた朱里が、あっと声を洩らした。一滴落ちてきた雨が、茶色い地面を滲ませる。それが絶え間なく続くと、二人して濡鼠のようになる。
泥を跳ね上げることも気にせず、足を進めた。
心地いい雨音が、むしろ集中力を高めてくれている。あと十分ほど歩けば、下見しておいた目的地に到着することになる。
「見事な予想だった。いい雨ではないか、朱里」
「村の方々が、教えてくださったおかげです。雲の形。その周期。一刀さんに天意があるから、この恵みの雨はやってきたのでしょう。さすがは、天の御遣いさまですね」
腹は十分に括れている。そうでなければ、朱里からこんな冗談がでてくるはずはなかった。
天気が悪くなると、船を出そうにも出せなくなる。村の男を使って李烈に酒を届けさせてあるから、今夜は宴会にでもなるのではないか。そうなったら、当然警備の手も薄くなる。殺しをするには、うってつけのタイミングだった。
錦帆賊の根城が見えてくる。平地に建てられた館を柵が取り囲んでいて、中には五十人ほどが暮らしているようだった。その一番奥に、あの男はいる。三日ほどの張りこみで、ほかの的の目星もつくようになっていた。
「いってきます、一刀さん」
「危うくなったら、すぐに飛びこむ。だから、心配はしなくていい」
力強く首を縦に振り、朱里が二人いる門番のところに小走りに駆けていく。
当然ながら足止めをくらうが、それでよかった。雨で顔がよく見えないのか、門番の指が朱里のあごのあたりに触れている。
李烈の居所の確認と、門番の排除。それを同時進行でやると自ら提案し、あの子は役目に徹している。
話がまとまったのか、二人が朱里と一緒にこちらに向かってくる。こんな雨中で、真面目に仕事などしていられるか。そんな声が、下劣な笑みから伝わってくるようだった。
「へへっ。李烈の兄貴になにかあっちゃいけないし、しっかり味をみておかねえとなあ。しっかし、かわいらしいお嬢ちゃんが相手してくれるなんて、貧乏くじ引いて今日は正解だったな」
「いやいや、ほんとうそうだぜ。献上されてきた酒も飲めない。うまい飯にもありつけないで、こちとら泣きそうだったんだよ。ふへっ、だからさ」
林の中に差し掛かる寸前で、男が手のひらで朱里の尻をまさぐろうとする。
これ以上好きにさせてやることはない。木陰から姿をあらわし、一刀は刃を薙ぎ払った。
地面が赤く染まる。崩れ落ちた二人に少しだけ視線をくれてから、朱里が言った。
「予定通りで、問題ありません。李烈は奥の間。副官たちは、別の部屋で集まって宴会をしているそうです」
「わかった。すぐに、始末をつけてくる」
なんにだって、はじまりがあって終りがある。その終わりが、自分にとっては実はそうではなかっただけだ。
無人になった門を堂々と抜ける。降りしきる雨。足音が、呑み込まれて消えていく。ちょっと身をかがめて、建物沿いを様子をうかがいながら移動した。朱里の聞いたとおりなら、この先の室内に副官が五人集合している。まずは、そちらの始末をつけるつもりだった。
「なっ、てめっ……」
廊下にいたひとりを刺殺し、中をさらに進んだ。
床に水が滴っている。濡れた刀身。その先端から、赤い雫がぽとりと落ちた。
「悪いが、おまえたちには死んでもらう。つぎなる生があったら、無駄な恨みは買わないようにするのだな」
「ひっ……。う、うわあっ」
酔いの回った人間に、遅れを取る理由などひとつもない。部屋の中央に躍りこむ。ひとりの首をまず狙い。つぎにもうひとりの胸を刺し貫いた。心は落ち着いている。怒りに支配されるようなことはない。そして、北郷家伝来の刀も、自分の技にしかと応えてくれている。
剣を抜かせる間もなく五人を斬り斃し、一刀は副官の集う部屋をあとにした。残す標的はあとひとつ。これなら、朱里が雨で風邪をひく前に帰れそうだった。
血刀をぶら下げたまま、最奥の離れに向かう。入り口はひとつで、四人が守りをかためていた。かたわらには酒器が置かれていて、雨を肴にちびちびとやっていたことがよくわかる。
石畳の上。縦になって向かってくる四人を、一呼吸する間に斬り捨てた。雷が頭上で鳴る。自分の行いを見て、天が怒っているのだろうか。できれば、いまだけは眼を瞑っていてほしい。ちょっとほほえみすら浮かべて、一刀は離れの中を土足で進んだ。
「ああ? なんだ、てめえ。どうやって、ここまで入ってきた」
「それは、あの世で配下に尋ねるといい。私がつい見損なった世界だ。先に行って、存分に愉しんでおいてくれ」
充血した眼が睨みつけてくる。隣に置いてあった剣を抜き、李烈が雄叫びをあげて斬りかかろうとする。
構えたまま、ゆっくりと前進する。ちりん。今度は、はっきりと鈴の音が聴こえたように思えていた。
「天意により、貴様を始末する」
打ち合いとも言えないようなものだった。李烈の剣を弾き、胴を狙って剣を横に薙ぐ。
タイミングを同じくして、金属のついたなにかが天井から飛来する。ちりん。冷ややかな音がしたかと思うと、李烈の首に組紐のようなものが巻き付いていた。
「うぐっ、えっ……」
釣り上げられる男の身体。構わず、胴体をぶった斬った。
釣られた胴体と分断されて、下半身だけがぼとりと落下する。吹き出す鮮血。李烈の死を確認したのか、先端に鈴のついた組紐がどこかに消えていく。
刀身を拭った得物を鞘に納め、一刀は長い息を吐き出した。すぐに、暗闇に向けて声を放つ。もう、闘いにはならないと思っていた。
「おまえなのだろう、甘興。顔くらい、見せていけばいい」
闇の奥で光る二つの
影が降りてくる。音はない。濡れ鴉のような髪は、今日も頭の後ろでまとめられている。髪を縛っている紐についた鈴が、穏やかに一度音を鳴らした。
「どうして、剣を使わなかった。おまえの腕があれば、この男を斬ることは難しくなかったはずだ」
「貴様に敗れたせいにきまっているだろう、北郷。それと、私のほんとうの名は甘寧という。鈴の甘寧。以前まで、この
吐き捨てるような言い方だった。
鈴の甘寧。朱里の話を聞いていて、そうではないかという予感はしていたのだ。
孫呉の武官として功績をあげた猛将。それがやはりというか、女として眼の前に立っている。
この世界では、常識などあってないようなものだと思っていた方がいい。それは歴史の流れにしても同じで、潮目なんてものは案外あっけなく変化してしまうものなのだ。だからおそろしくもあるし、おもしろくもある。その渦の中で、自分は自分として闘うだけだった。
「少し付き合え、甘寧。ははっ。嫌とは、言ってくれるなよ?」
「ちっ……。気色の悪い笑みを向けるな、この痴れ者め」
苛立ちの言葉を吐き捨てながらも、甘寧はどこかに去ろうとはしなかった。
ここは、ほどなくして混乱に包まれるのだろう。雨に濡れる女の黒髪。一刀はそれを横目で捉えつつ、帰りを待つ朱里のもとに急いだ。