一
空が白んできたのと同時に、一刀は廃屋を離れた。
果たすべきことは、果たした。あとは村にもどり、残った分の報酬を受け取る。それで、この地を後にするつもりだった。
これから先、どこに向かうべきなのか。風にすべてを任せるのもいい。そのくらいの気楽さがあるのがいまの身分のいいところでもあるし、どこを訪れようと真新しさがあるのは間違いないのだろう。
受領した馬に朱里を乗せてやる。背中のリュックサックは食料でいっぱいになっていて、小さな身体が時折馬上で危なっかしく揺れている。しばらくは手綱をとり、のんびりと歩き旅をするつもりだった。二人を常に運んでいたのでは、馬に負担がかかりすぎる。こちらとも、できれば長い付き合いにしたいという思いがある。
成り行きで一緒になっていたような思春が、街道の分岐点に到着したところで足をとめた。決意を湛えた瞳。一文字に結ばれた口。髪留めについた鈴が、ちりんと寂しく音を鳴らす。
「たった一晩のことではあるが、その……世話になったな。私は、私の進むべき道を行く。息災にしていろよ、二人とも」
「やっぱり行ってしまわれるんですか、思春さん。せっかく、仲良くなれたと思ったのに」
「そんな顔をするな、朱里。どこかで道が交われば、私たちはまた巡り逢える。だろう、思春?」
「ちっ……。そういうところがいけ好かないんだ、貴様は。わかったのなら、さっさとどこかへ行ってしまえ」
素っ気なく言葉を吐き捨て、思春が顔を横に向ける。
再会の予感があるのは、すでにその実績があるからなのだろう。朱里も一応納得したようで、一刀は馬を曳いて歩きはじめた。しばし長沙を長江沿いに進み、各地を見て回ることになる。あるいはその旅先で、今回のような賊徒の横暴に出くわすこともあるのかもしれない。
「あの、一刀さん……」
「どうした。なにか思い残したことでもあるのか、朱里」
「い、いえ、別にそうではなくてですね……」
馬の背中で揺られる朱里が、しきりに後方を気にしていた。しかも数回に一度は、ぎこちなく手を振ったりもしている。
正直、その理由は発せられる気配で最初からわかっていた。あえて知らないふりをしていたのは、その主の機嫌を曲げないためでもある。
それがずっと続いているのが焦れったくなったのか、ついに朱里が状況を言葉にしてしまう。当然といえば、当然のことだった。
「あの、一刀さん。どうして思春さんは、いつまでも後ろからついて来られているんでしょうか。一緒に行きたいのなら、さっきそう言ってくださればよかったのに」
「思春には、思春の事情がある。あまり言ってやるものではないぞ、朱里」
「は、はい……?」
一瞬だけ後ろを振り返ると、自分たちから十メートルほど離れて、思春がひとりで歩いている姿が見えた。
気をつけていたつもりだったが、視線に気づかれてしまったのだろう。思春の双眸から発せられる殺気が、痛いくらい背中を刺している。そのことが観察していてわかったのか、朱里は苦笑を浮かべていた。
「なにをじろじろと見ている、朱里。私は別に、その痴れ者についていこうとしているのではないのだぞ。私の行こうとしていた道を、貴様たち二人がたまたま先に歩いている。ただ、それだけのことではないか」
「そういうことだ、朱里。だから、思春がどうしていようと気にすることはない。私は、それでいいと思っている」
「わ、わかりました。一刀さんが、そう仰るのなら」
「理解したのなら、さっさと歩け。貴様らが足を止めていると、邪魔でかなわん」
そんな不思議なやり取りをしてから、三時間ほど道を進んだ。さしたる脅威はなく、ちょうど開けている場所があったから、そこで昼食をとることにした。
馬を木につなぎ、地面に腰を下ろす。調達しておいた布を敷いてやると、朱里はよろこんでそこに尻を落ち着けた。
「あはは……。やっぱり、こうなるんだ……」
「なんだ、その顔は。旅人同士、助け合うのがこの世の常ではないか。貴様たちが先に休んでいたところに、私がたまたま通りかかった。そうだろう、一刀?」
「はははっ。おまえの好きにしろ、思春。それと今夜は野営になるだろうから、腕利きがもうひとりいてくれると助かるのだがな」
「知るか、貴様の事情など。だが、近くで出逢ったのなら、手を貸してやらないこともない。それが、流れというものだ」
木に寄りかかり、思春が果物をかじっている。
情けは人の為ならず。自分と思春の関係は、きっとそんなつながりで続いていくのではないか。
村を出る前に朱里が用意してくれていた握り飯を口にする。ほどよい塩加減が、心地よく染み渡るようだった。
†
ようやく街に入ると、まずは寝床の確保を優先して行った。
思春は途中でどこかに消えてしまったが、自分は朱里のことだけを考えていればいいと一刀は思った。銭に多少余裕はあるから大きめの寝台がある部屋にしてもよかったのだが、小さくても寄り添って眠ればなにも問題ないから、と押し切られて安い部屋を選ぶことになった。
錦帆賊の襲来に怯えていた村とは違い、この街には活気がある。数日過ごしたとしても、これなら特段問題はなさそうだった。
朱里を連れて、各所の散策にでた。明るい時間帯なこともあって、結構の種類の屋台が通り沿いに並んでいる。気になった店で二人分の食べ物を買い、軒先のベンチのようなものに座って味を確かめた。
透き通った汁で満たされたラーメン鉢。動物系の出汁がベースになっているようで、細い麺がするすると喉を通っていく。朱里もその味が気に入ったらしく、あまり言葉を発することなく黙々と中身をすすっている。
「平和なようだな、この街は。私の故郷は、どこでもこのくらい穏やかな暮らしをすることができていた。異なる現実を見ていると、そのありがたさがよくわかるようになってくる。やはり、視点は多くもつべきだな」
神妙な顔つきで朱里が頷く。口の端に飛んだ汁を指で拭ってやると、それが少しだけやわらかなものに変化する。
のんびりとした時が流れていく。この街で、自分の剣が必要とされることはないのだろう。それは嘆くようなことではなく、実によろこばしいことだった。
「なにかあったのでしょうか、あれは。見たところ、役人の方のようでしたが」
「少し、様子を見に行ってみようか。私もちょうど、食べ終わったところなのでな」
屋台の店主に鉢を返し、役人らしき男たちの後を追った。
街を流れる川沿いを進む。美しく整備された景観。その橋の下に、役人たちが集まりなにか見分でもしているようだった。
目を凝らす。囲まれている中央に、倒れている人の足が見えていた。役人たちの焦燥感を見るに、おそらく死んでいるのだろう。いつやられたのかは知らないが、この人通りの多い真っ昼間にできる犯行ではないと一刀は思った。
「人斬り、なのでしょうか。やっぱり、物騒なのはどこも変わらないんですね、一刀さん」
朱里の嘆きの声が虚しく消えていく。
この世は地獄。どこにいようと、それは同じなのか。遠くから片手で拝み、朱里を連れてその場を去ることにした。少し、事情を調べてみる必要がある。散策の続行がてら、一刀は街の人間の声に耳を傾けることにした。
†
情報を収集をしていて、見えてきたことがある。
殺しが行われるのは夜。特定の誰かというのではなく、辻斬りに近い誰かによる犯行のようだった。数日おきの時があるかと思えば、連続して死体があがる場合もある。下手人は気まぐれに斬っているだけで、その日に殺しの衝動があるかないかの違いしかないのだろう。
遺体は無惨にも両断されていることがほとんどであり、かなりの腕前の持ち主であることがうかがい知れる。類まれなる豪剣を、渇望を満たすためだけに振るう。それは剣士として、決して許されることではなかった。
嫌がる朱里を諭して宿に残し、一刀は夜の帳の降りた街に出た。
今夜、その人斬りが出ると決まっているわけではない。それでも、様子を見てみようという気になったのだ。殺しだけを目的とした剣。その持ち主が、どんな人間であるのか。始末にかかるとしても、確かめておきたかった。
「静かな夜だ。なにも起こらないのかもしれないな、今夜は」
ひとり呟きながら、件の橋にたどり着いた。
そこで、なんとなく空気の変化を感じていた。刀の柄を指で撫でる。簡単に抜くような真似をしたくはないが、備えだけはしておくべきだった。
「こんな夜更けに帯刀している男がひとり。しかも、物珍しい格好をしているときているじゃねえか。それで貴様、何人斬ってきた?」
女の声。それも、獰猛な野獣のような響きがある。
真正面にあった微量な闘気が爆発的にふくらんでいる。来る。そう感じた時には、相手はもう自分との距離を詰めていた。
抜かなければ、死が待っている。剣客としての直感が、脳内でそう囁いた。
身体の芯にまで達するような豪剣。どこかに油断があれば、確実に斬られていた。そのくらいの危うさが、女の振るう剣から伝わってくる。
「ほう。オレの一太刀を、こうも容易く受け止めるか。ハハッ。おもしれえじゃねえかぁ、貴様。地方の辻斬り風情が、ここまで斬り甲斐のある相手だとは思っていなかったぞ」
女の口が獰猛に歪む。
どうやら、自分はこの街に出没する辻斬りと間違われているようだった。だとすると、この女は何者なのか。そのことを、悠長に考えているだけの余裕はない。とにかく、いまはこの場を斬り抜けることが先決だった。
闘いからくる悦びが、女の全身からあふれかえっているのだろう。血を薄めたような色をした長髪が、炎の如く拡がっている。大きく張り出した見事な胸に、肉感の強い下半身。武神のような美しさがある女ではある。それでも、斬られてやるわけにはいかなかった。
豪剣を跳ね返すかたわら、脳裏に過る二つの顔がある。長年心を惹かれる相手を見つけられなかった自分が、こんな感情を抱く日が来ることになるとは。その変化にちょっと驚きながらも、一刀は闘争の流れに身を委ねている。