次の日。授業中、休み時間、気にしないようにしていても彼の方ばかり見てしまう。もちろんじっと見つめていたりしたら変に思われるから、ちらちらと横目でだけれど。
やっぱり彼は他人と一歩距離を置いている。私と同じように。
放課後。帰ろうと昇降口から出た私は、思わず空を見上げてしまった。
雨が降っている。それほど強くはないけれど、傘無しではとても帰れそうにない。
朝は雲がわずかにあったものの晴れていたし、天気予報でも降水確率は二十%だったのに。
ついていない。いつだって私はついていない。嫌なことばかりに出会う。そういう運命なのだと、半ば諦めているが、
「はぁ……」
ため息が出てしまう。
私はどうにか止んでくれないものかと、あらためて雨の様子を見た。一向に止む気配はない。それどころか、強くなったよう見える。
鞄を掲げて――は無理。だいたい中の教科書やノートがびしょびしょになってしまう。やっぱりどこかで、ビニール傘でも買うしかない。
そこまで考えて、私は小さく声を漏らした。
「あっ」
今日は財布を持ってきていない。お昼もお弁当を作ってきたから必要なかった。
しかたがない。走って帰ろう。風邪をひいてしまうかもしれないけれど、他に方法がない。それに風邪を引いて学校を休めたら、一日中、本を読んでいられる。
私は投げやりになって、雨の中に飛び出そうとした。
「山岸さん?」
背後から声を掛けられて、振り返る。走り出そうとした瞬間だったため、危うく転んでしまうところだった。
「い、碇君……」
碇君が傘を持って立っている。
「傘、持ってきて無いの?」
「え、ええ、降る様子がなかったので……。碇君こそ、よく雨が降るって分かりましたね」
不思議に思って聞いてみる。まさか、いつも持ってきているわけじゃないだろうし。
「僕は置き傘してたから。よかったら、入っていく?」
「えっ、い、いえ、私は……」
私は、反射的に断ってしまっていた。自分を呪う。
幸いなことに碇君は食い下がってくれる。
「嫌だったらしかたないけど。でも、濡れちゃうよ」
「嫌だなんて……。じゃ、じゃあ、お言葉に甘えさせて頂きます」
しかたがない。無理に断っても、彼の気分を悪くしてしまうだろうし。これは自然な流れ。
私は彼の広げた傘の中に入り、雨の中に一歩踏み出した。ついてないことばかりじゃない。嫌なことばかりじゃない。ずっと陰鬱に感じていた自分の運命が、明るく思えてくる。
その時は確かに、そう思えた。
歩き出してから聞いてみると、私の家に寄ると碇君はかなり遠回りになってしまうらしい。
私は、彼に申し訳なく思った。
「すみません。私のために……」
「いいよ。気にしないで」
碇君は笑顔で、そう言ってくれる。優しい。
ふと見ると、碇君の肩が雨に濡れている。私の方に傘を差し出してくれているから、はみ出してしまっているんだ。
「あ、あの、もっと自分の方に傘、向けてください。このままじゃ、碇君が濡れてしまいます」
「え、でも、そうしたら山岸さんが濡れちゃうでしょ?」
一人用の傘で二人を完全にまかなうのは難しい。私と碇君は少し間を空けて並んでいるので、なおさらだ。
私は思いきって言ってみた。
「も、もう少し…近付きませんか……?」
「そ、そうだね……」
横に半歩ずつ近付いて、肩が触れ合う。それで私たちは、ようやく雨を避けることができた。
言葉が出ない。だんだんと顔が火照っていくのが分かる。
碇君も同じようで、ぎこちなく真正面だけを見ている。
しばらくの間、肩を寄せ合いながら雨の中を黙って歩く。
これって……相合い傘?
爆発したみたいに顔が熱くなって、私は両手で顔を覆った。
「どうしたの?」
「な、なんでもないです」
驚いて覗き込んでくる碇君に、慌てて答える。
馬鹿みたいな想像だと自分でも思うが、今、碇君と私はまるで――まるで本の中の恋人同士みたいに見えるかもしれない。
妄想でしかない。それは分かっている。けど、今だけ、家に着くまでの間だけは、この本の中に迷い込んだような気分を味わっていようと思う。
冷たい雨が降る中で、碇君の体温が酷く熱く感じられた。
夢見心地でいる内に、家に着いてしまった。残念に思う。どうせなら永遠に着かなければよかったのに。
義父が第三新東京市に滞在する間、貸し与えらた一軒家。作りは新しく、住み心地はいい。
「じゃあね。また明日」
あっさりと立ち去ろうする彼に、
「あ、あの、少し寄っていきませんか? 体も冷えてしまったでしょうし……」
私は、勇気を振り絞って言った。 断られたらどうしよう……。
碇君は考えるように視線を巡らせてから、
「うん、お言葉に甘えようかな」
うなずいてくれた。
「はい」
顔が、ほころんでしまう。よかった。ほんとうによかった。
「どうぞ、入ってください。誰もいませんから、気を使わなくても平気です」
「お邪魔します」
二階の自分の部屋に彼を案内する。
「ちょっと待っててください。なにか、飲み物持ってきますから」
私は急いで、階下に駆け下りた。
台所に着いてから胸に手を当てると、ばくばくとすごい勢いで胸が脈打っている。
今部屋に男の子が――碇君がいる。そのことが私を興奮させた。
意味もなくその場で立ったり、しゃがんだりを繰り返してしまう。
あぁ、こんなことをしている場合じゃない。
冷蔵庫を開けると、まだあると思っていたオレンジジュースがない。飲みものであるのは義父の缶ビールくらいだ。
しかたなく冷蔵を閉めて、台所を見回す。
しょうがない。インスタントコーヒーで我慢してもらおう。碇君、コーヒーはだいじょうぶだろうか?
砂糖を取ろうと戸棚を開けて、私の目は白い紙袋に止まった。
以前、不眠気味だったときに病院で処方してもらった睡眠薬の袋だ。中を見ると、まだ三分の一くらい残っている。
まだ残ってたんだ。もう全部使ってしまったと思っていた。
ふと、用意したコーヒーカップを見る。
もし、〝これ〟をコーヒーに混ぜたら――
薬袋を強く握りしめていることに気づき、私は激しく首を振った。
なにを考えているんだろう。そんなことをして、碇君をどうしようというのだろうか、私は。
馬鹿げてる。
私は気を取り直してコーヒーを用意すると、碇君の待つ自分の部屋に戻った。
「お待たせしました」
碇君は、行儀よく正座している。
「山岸さんって、ほんとうに本が好きなんだね」
私は最初、彼が部屋の中で一番目立つ大きな本棚を見て言っているんだろうと思った。けれど、違った。
「この部屋、本の匂いがする」
私は、一瞬放心してしまった。それが、碇君には呆れたように見えたらしい。
「ご、ごめん、変なこと言ったかな……」
気まずそうに、碇君は謝ってくる。
もちろん私は呆れてもいないし、気分を害してもいなかった。その逆。
「い、いえ……好きなんです。本の匂い。心が落ち着くっていうか」
本を開いたときの、あの微かな匂い。それを嗅ぐと悲しみも、寂しさも、苛立ちも、みんな忘れることができた。
「うん、落ち着くね。懐かしい気もするし」
しみじみと言った感じで、碇君が言う。
他の人にも分かってもらえるなんて思わなかった。ううん、きっと碇君だから分かってくれた。私と似ている彼だからこそ。
私は、すっかり有頂天になって本のことを語り出していた。たぶん熱が入りすぎていたのだと思う。
「本のこと喋ってるときの山岸さんって、別人みたいだね」
そんなことを碇君に言われてしまう。
「す、すみません。私、一つのことに集中すると他が見えなくなるみたいで……」
「あやまらなくていいよ。きっとこれが本当の山岸さんなんだろうね」
本当の私? うん、そうだ。本を読んでいるとき、語ってるとき、それが本当の私。それ以外は偽物。碇君は、それを分かってくれる。碇君だけが分かってくれる。知ってくれている。
時間は、あっという間に過ぎてしまった。
私は、おすすめの本と碇君が興味を示した本を、彼に貸すために渡した。
「ありがとう。借りるね」
「よかったら感想聞かせてください」
「うん。じゃあ、明日学校で」
「さようなら」
玄関で碇君を見送って、私は自室に戻った。
急に部屋が広くなったように感じられた。なんだか肌寒いような気もする。一人には慣れているのに。
さっきまでとは、まるで別の世界のよう。白昼夢だったのではないかとさえ思えてくる。
私は碇君の座っていたクッションを手に取り、頬擦りした。暖かい。これが彼がここにいた証し。現実だった証拠。
私は碇君の温もりが消えてしまわぬようにクッションを、強く、強く抱きしめ続けた。