晴れ渡った空の下を歩く。足取りが軽い。
学校へ行くのが楽しみだなんて、生まれて初めて。理由は単純だ。彼に会えるから。
スキップしたい気持ちを必死に抑えながら歩いていて、私は声を上げそうになった。
道の先に碇君がいる。
声を掛けようと走り出して、私の足は途中で止まう。碇君の隣を女の子が歩いていた。
確か、惣流さん。ハーフかと思ったらクォーターらしい。一言で言えば、綺麗な人だ。私なんて比べものにならないくらい。
見ていると、碇君の頭を惣流さんがこづいたので、私はびっくりしてしまった。けれど、叩かれた碇君は頭に手を当てて文句を言ったものの、本気で嫌がっている風ではない。さらによく見ると、碇君は惣流さんの鞄も持ってあげている。
二人関係が、私にはよく分からなかった。ただ、友達以上のような気がする。二人の様子が、とても自然に見えたから。
私は――気は進まなかったが――碇君と親しいらしいジャージと眼鏡の男の子に、碇君と惣流さんのことを聞いてみることにした。
「碇と惣流?」
「え、ええ」
「なんでまた山岸さんが、あの二人のこと気にするわけ?」
「そ、それは……興味本位なんですけど、あまり接点が無そうなのに親しいみたいなので……」
眼鏡の方の男の子に突っ込まれて、私は苦しい言い訳をした。少し勘が鋭そうだ。ジャージの方の男の子は、なにも考えてなさそうだけど。
「そりゃ一言で言ぅたら、夫婦やろなぁ」
「ふ、夫婦ぅ?」
ジャージの子の言葉に私は、すっとんきょうな声を上げてしまった。
「そそ、妻は碇の方だろうけどさ」
眼鏡の子が追従する。そりゃあ、碇君が甲斐甲斐しく惣流さんの世話を焼いている姿はよく見るけれど。でも。
続いて出てきた発言は、混乱する私に追い打ちを掛けた。
「もう、一つ屋根の下やしなあ」
「ど、同棲してるんですか?」
ショックだった。立っていられるのが不思議なくらい。
「でも、どうして……?」
呆然して立ちつくす私に、眼鏡の子が頭を掻きながら説明してくれた。
「それはさ――」
それによると、碇君と惣流さんはネルフの巨大ロボット〝エヴァンゲリオン〟の専属操縦者なのだという。
上司の家に三人で同居しているそうだ。
私は身近に感じていた碇君が、急に遠い存在になってしまったように感じられた。ロボットのパイロットだなんて……。
休み時間、碇君が本を返しに席にきてくれた。感想を聞くと、やっぱり私と似たような感じ方をしたみたいだ。こんなに似ているのに。
また本を貸すことを約束する。
碇君だけでなく、惣流さんの姿を追うことも多くなる。どうしても気になってしまう。
我が強く、物怖じしない人のようだ。先生にだって、言いたいことははっきり言う。私とは真逆のタイプ。好きになれそうにはない。
碇君とは放課後に、私の家や図書室で本の話をするようになった。碇君の家に誘われたこともあったが、惣流さんもいると思うと気後れしてしまって、私は遠回しに断った。
その時間は至福と呼べるものだった。後に見ても、眩しく輝いて見えるだろうと思う。私の人生で数少ない誇れる時として。
いつしか私と碇君とは、本を通して友達と言えるくらいの関係にはなっていた。
けれど私の胸の中にはずっと、もやもやとしたものがわだかまっていた。それらは、碇君と惣流さん――それに無口な綾波さんもだけど――がネルフの職務で学校を休んだり早退したときや、二人が碇君の作ったお弁当を食べているとき、それに――なんと言っても一番はこれなのだが――私と別れた後の碇君が、家で惣流さんとどう過ごしているのかと想像したときに、ざわついて私を苦しめた。
私は友達という曖昧な関係に耐えられなくなっていた。だから、遅かれ早かれ聞いてしまっていたと思う。
「惣流さんのこと、どう思ってるんですか?」
「ど、どうしたの急に……?」
図書室で向かい合わせに座っていた碇君は、明らかに動揺を見せた。
「そんなこと聞くなんて…なんか、山岸さんらしくないね」
自分でもらしくないと思う。今までの私からは大きく外れた行動だ。でももう、後には退けない。
私は半分身を乗り出して、碇君に迫った。
「教えてください。友達ですか?」
碇君は、考える間を置いてから答えてくる。
「……友達じゃないと思う」
「じゃあ、恋人ですか?」
「こ、恋人!?」
碇君は悲鳴みたいな声を上げた。
「ち、違うよ。そんなんじゃない。僕とアスカは、そんなんじゃないよ」
否定を繰り返す。なにかが引っかかった。
「……じゃあ、なんなんですか?」
碇君はさらに時間を掛けて、ゆっくりと言葉を吐き出す。自分でも意識していなかったことを、整理しながら答えているみたい。
「家族でもないと思うし。仲間かな……? 同じエヴァのパイロットの。うん、アスカは仲間だよ」
仲間。エヴァのパイロット。私は、また疎外感を覚える。
それに――もちろん知ってはいたが――碇君と惣流さんがお互いを名前で呼んでいることも、私を打ちのめした。私と碇君は、姓で呼び合って君付け、さん付け。
どちらが深い関係かなんて――考えるまでもない。
私の部屋には、大きな熊のぬいぐるみがある。だいぶ前に義父が買ってくれたものだ。一人遊びの相手を努めてもらうことも多かった。
私はそのぬいぐるみを、にらめっこをするみたいに正面から見据えていた。
「シ……」
さっきから出そうとしている声が出ずに、息苦しい。
「シンジ……」
やっとのことで吐き出す。
今度は顔が熱くなってしまう。鼓動が速くなり、やっぱり苦しい。でも心地の良い辛さだ。
私は、ぬいぐるみを手にとって引き寄せた。
「マ、マユミ……」
腹話術士がするみたいに、ぬいぐるみの頭を動かしながら言う。
顔がさらに赤くなる。気恥ずかしい気持ちが広がって――なんというか幸せ。
でも、それも一瞬。
「馬鹿みたい……」
私はぬいぐるみを抱えたまま、ベットに倒れ込んだ。
虚しい。
からっぽだ。私の心はからっぽだ。なにも無い。誰もいない。
だから本を読む。中身を入れたくて。たぶんそう。
でも、どれだけ本を読んでもそれはやっぱり借り物で、本当の私の中身じゃない。
碇君なら私の中身になってくれるかもしれない、そう思った。でもだめ。碇君には惣流さんがいる。
私には彼女に勝てるものが、なにひとつ無い。
でももしかしてひょっとしたら、本当に碇君は惣流さんを仲間だと思っていて、恋愛感情はないのかも。変に勘ぐってしまうのは、私が臆病だから。
私は、抱きしめていたぬいぐるみの顔を見つめた。このぬいぐるみみたいに、碇君をずっと手元に置いておければいいのに。
「本当は、どうなんですか?」
もちろん、ぬいぐるみは答えてくれない。
私は彼に、そっと口づけした。
放課後いつものように図書室に向かおうとしていた私の足は、惣流さんに手を引かれて歩く碇君の後ろ姿を見て止まった。
階段を上がっていく。屋上にいくみたいだ。
私は、彼らの後を追っていた。
屋上に出て、そっとあたりを見回すが碇君達の姿はない。と、
「や、やめようよ」
「なによ。びびってんの?」
声が聞こえてくる。近くだ。
どうやら二人は出入り口の影にいるらしい。私は壁に背を付けながら、慎重に近付いた。声は止んでいる。角から顔だけを出して――
すぐに引っ込めた。
見なきゃよかった。こなきゃよかった。二人の姿なんか見つけなければ。私は運命を本気で呪った。
二人は――碇君と惣流さんはキスをしていた。
長いキスは終わったみたいで、また声が聞こえくる。
「……まったく。誰かに見られたら、どうすんのさ」
「それがいいんじゃない。スリルがあって。まぁ、こんなとこ誰もきやしないでしょうけど〝ね〟」
語尾が妙に強調されている。私はそれが自分に向けられた言葉のように感じられた。そんな、まさか――
「なんだったら、最後までしてみる?」
「ば、馬鹿言わないでよ」
「なによ。うちじゃあ、猿みたいにしてるくせに」
「そんなこと……だいたい最初にしようって言ったのアスカじゃないか」
「そうだった? でもあんたのここは、今すぐにでもしたいみたいよ」
「ちょっ」
チャックを下ろす音。
「ふふ、びんびんじゃない。本番が嫌なら口でしたげるわ」
すぐにその場から逃げ出したかった。耳を塞ぎたかった。でも、そのどちらも私にはできなかった。
くちゃくちゃと滑った音が、辺りに響く。
「あぁ、うぅぅ」
それに碇君の呻き声。
音だけでも、二人がなにをしているのか分かってしまう。
「どお、気持ちいい?」
「う、うん、気持ちいいよ。とっても……」
汚される。碇君が汚されていく。
「そう言えばさ。あんた、最近転校生と仲いいみたいじゃない」
「え? う、うん」
私は、どきりとした。
「山岸だっけ? あの暗い子」
勝手に決めつけないで。あなたのような傲慢な人に、本当の私が分かるはずもない。
「そんな言い方……よくないよ」
やっぱり碇君は優しい。この女が、彼をたぶらかしているんだ。
「好きなわけ?」
「ど、どういう意味?」
「馬鹿ね。惚れてんのかって聞いてんのよ」
私は期待してしまっていた。碇君の答えを。でも、
「山岸さんは、そういうんじゃないよ。話も合うし一緒にいると落ち着くけど、ただの友達だよ」
分かっていた。そうであることは十分、分かっていた。けど、それでも思ってしまう。裏切られた、と。
「まっ、そうでしょうね。この私が、目の前にいるんですからね。他の女に目なんか行くはずないわ」
「あ、アスカ、もう、イキそう…だよ……」
「ふふっ、いいわよ。たっぷり出しなさいよ。私にしゃぶってもらえる幸せを噛みしめながらね」
助けてあげなきゃ。
あの女が、碇君を堕落させているんだ。
だから助けてあげなくちゃ。
それができるのは、私だけ。
早くあの女から、碇君を助けてあげなくちゃ。
一際高くなった碇君の声を背にして、私はその場を立ち去った。