※この作品はR-18です。

【書籍化】大司教の権力を悪用して純真無垢な聖女とセックスしたら、毎晩イチャラブご奉仕されるようになった話   作:月見ハク

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※長めのターニングポイント(急接近)回です。


第39話 ただのマイ

 謁見用の派手なローブを身にまとい、神殿の外廊下を歩く。

 

 午後の空気は湿っており、空も灰色の雲が覆い尽くしている。

 神殿に帰ってくる頃には大雨が降っていることだろう。

 

 どんよりとした心地で正門前へ向かう。

 

 いつもの質素な馬車ではなく、謁見用の白塗りの馬車が待っていた。

 その前に(たたず)んでいるマイに、目を奪われる。

 

「……美しい」

 

 女神がこの世に顕現したら、きっとこんな姿をしているのだろう。

 

 儀式用のローブよりもはるかに高価なシルクで作られた純白のローブは、胸元から下半身にかけてぱっくりと左右に開いていた。

 その下には濃い青色のローブを着こんでおり、足下まで続いている。

 

 頭にも純白のベールを被っており、裏地は青だ。

 純潔の白と清貧の青を織り交ぜた、聖女らしい衣装といえる。

 

 ローブの袖や裾には金糸の意匠が凝らされており、胸元にも純金のネックレスが下がっていた。

 

 一見すると聖女には似つかわしくない(きら)びやかな装飾だが、マイが着ると気品や神秘性に様変わりするから不思議だ。

 

「大司教さま、あの……いかがでしょうか?」

 

 小首をかしげた絶世の美少女が、不安そうに俺を見つめてくる。

 

 白いベールとのコントラストのせいか、黒髪がいつもより艶っぽい。化粧などしていないはずなのに、整った目鼻立ちがゾクっとするほど美しい。

 金色の瞳に吸い込まれてしまいそうだ。

 

「あの……すみません、まだ着慣れていなくて……大きさも、ちょっと合わなくて」

 

 彼女がこの謁見用の衣装を着るのは、選任の儀――初披露の際に王へ祝福を授けたとき以来だ。

 

 代々受け継がれてきたローブをマイの体に合わせて直したはずなのだが……そのときよりも成長したようだ。

 豊満な胸元が、薄いシルク生地をこんもりと押し上げている。

 

「えっと……」

 

 俺が無言で見惚れていると、とうとう彼女は瞳を揺らして下唇を噛んでしまった。

 

「ああすまない、よく似合っているよ」

 

 慌てて微笑みかける。

 

「あ、よかったです。……立派な聖女に、見えますか?」

 

「国中の民が一目で聖女だと認めるだろう」

 

「そうですか」

 

 マイはようやく安心したように、ふっと自然な微笑みを浮かべた。

 

 貴族の婚礼衣装にも似たこの格好は、彼女の美貌や色香を引き立ててしまっている。

 

 そんな姿をこれから他の誰かにさらすと思うと、無性に苛立つ。

 

 俺は湧き上がる感情を胸に隠しながら、マイとともに馬車へ乗り込んだ。

 

 

***

 

 

「大司教リンゼ、そして聖女マイ、よくぞ参ったな」

 

「お久しぶりです、陛下」

 

 豪華な謁見の間で、俺は椅子に座る初老の男性と視線を合わせる。

 

 形式上はひざまずく必要があるのだが、宗教上、王と大司教は対等という立てつけだ。

 だから俺とマイは、王の御前にも関わらず立ち姿勢のまま挨拶を交わしていた。

 

 白髪で気の良さそうな老人。

 

 それが皆の感じる王の第一印象だろう。

 

 しかしシワの奥にある瞳は、少しも笑っていない。

 俺と同じように、決して真意を悟らせない目だ。

 

 だが。

 

「聖女マイ、久しいな。選任の儀で会った以来か」

 

 マイに視線を移した瞬間、その緑色の瞳にギラリと熱が宿る。

 

「陛下、お久しぶりです。お元気そうでなによりです」

 

 彼女が事前に用意していた台詞を紡ぐ。

 

 ほんのり甘ったるさのある美声が、謁見の間に響く。

 王の側に控えている近衛騎士が、感嘆のため息をついたのが分かった。

 

「はは、そなたの祝福のおかげだ。今日はわざわざ顔見せに出向いてもらってすまない。視察の道中に襲撃があったと聞いてな。心配で居ても立ってもいられず、こうして呼び出してしまった」

 

「とんでもございません。陛下の息災(そくさい)をお祈りするのも、聖女の役目ですから」

 

 段取りどおり、マイが涼やかな微笑を浮かべながら答える。

 

「それは嬉しいな。では、頼む」

 

「はい」

 

 頭を下げた王に向かって、マイが手をかざす。

 

 淡い光があたりを包み、祝福が始まった。

 

 俺はさりげなく謁見の間を見渡す。

 

(第一王子の姿が見えないな)

 

 てっきりマイを一目見るべく、無礼にも謁見に立ち会うかと思っていたのだが。

 

「……うむ、心が洗われるような魔力だ。これまで四人の聖女から祝福を受けてきたが、そなたが一番心地いい。本当に、神話に伝わる初代聖女を見ているようだ」

 

「……ありがとうございます」

 

 マイは静かにまぶたを伏せると、聖女らしい穏やかな笑みを浮かべてみせた。

 

 

***

 

 

「して、リンゼよ。聖女マイは美しく育ったな。選任の儀で見たときも息をのんだが、先ほどは息が止まるかと思ったぞ。社交の場に出たら王国中の貴族令息たちが窒息死してしまうな」

 

「陛下、聖女をそういった場には」

 

「分かっておる、冗談だ」

 

 紅茶をすすりながら、王が口角を上げた。

 その目はまだ熱に浮かされていて、じっとティーカップの水面を見つめている。

 

 俺と王は、謁見の間の隣にある小さい談話室にいた。

 

 マイは先に下がらせ、今は聖騎士長とともに控室にいるはずだ。

 

 王が彼女のことを思い出して感慨に浸っている隙に、片目を閉じて遠視の術を発動する。

 

 ――マイは俺の言いつけどおり、出された紅茶に口を付けることなく静かにソファーへ座っていた。

 ピンと背筋を立てて穏やかに目を伏せている姿は、一枚の絵画のようだ。

 

 

「リンゼ、教会の運営に変わりはないか? だいぶ予算を切り詰めているようだが」

 

「問題ありません。不正な金の出入りを絞っているだけですので」

 

「そうか。いや、貴族と司教の癒着についてそなたから報告があったときは、さすがの(わし)も驚いたよ」

 

「その節はご尽力いただき感謝しております」

 

 困り顔を浮かべる王に、俺も似たような笑みを返す。

 

(タヌキめ)

 

 貴族と司教の癒着を黙認してきたのは、この王に他ならない。

 

 協力を仰ぐため、王に近い貴族の不正については告発しないでおいてある。そのおかげで、俺はこうして王の懐に入ることができた。

 

 だがもし敵に回るのであれば、全ての不正を明るみにするつもりだ。

 それを分かっているのか、この老人も俺を無下(むげ)に扱うようなことはしてこない。

 

「そういえばそなたの所の、なんといったかな……ああゴーゼだ、彼は元気かな」

 

「ゴーゼ司教、ですか?」

 

「彼とは絵の趣味が合うてな。一度、絵を贈ってくれたこともあった。最近は顔も見せず文もないから、何かあったのかと思ってな」

 

「それはどのような絵でしょう?」

 

「いやなに、賄賂の類いではない」

 

 王のまぶたがピクリと震えた。老獪な男にしては珍しく、動揺が顔に出ている。

 

「賄賂でないなら結構です」

 

 どうせ、聖女見習いの裸婦像か何かだろう。本当に下劣な者たちだ。

 

「相変わらず潔癖だな」

 

 俺が絵について知らない様子を見て、王はわずかに安堵の表情を浮かべる。

 連絡の途絶えたゴーゼ司教については、これ以上聞いてくることはないだろう。

 

 だが、なるほどな。

 

 ゴーゼ司教は、俺の思った以上に王城へ食い込んでいたらしい。

 

「ところでリンゼよ、此度の視察はご苦労であったな」

 

 王があからさまに話題を変えた。

 

「ええ、まさか最初の村で賊の襲撃に遭うとは、思ってもみませんでした」

 

(わし)もアレクから一報を聞いたときは驚いたよ。王の直轄領で聖女見習いを狙うなど不届きな賊だ。だがまあ、アレクがいてよかったであろう? 自ら陣頭指揮を執り、少女たちの救出にも一役買ったと聞いているぞ」

 

 王の表情が明らかにゆるむ。

 誇らしくて仕方ないといった表情で、「あれは無鉄砲だが勇猛なところもあって」などと勝手に話を進めている。

 

 俺に第一王子を売り込んでいるというより、息子の自慢話を聞いてほしいといった感じだ。

 

 なるほど。

 これは思った以上の溺愛ぶりだ。

 

「それにアレクは心根が優しくての、そこは儂というより母親譲りだな。その点をもって王には相応しくないなどと申す者もおるが、儂は好ましく思っているのだ。リンゼの目から見て、どうだったかの?」

 

「そうですね……」

 

 俺は、強烈な違和感を覚えていた。

 

(心根の優しさが、母親譲りだと?)

 

 第一王子の母、先代の王妃はすでに病死している。

 苛烈な性格で、常に赤髪を振り乱して周囲を怯えさせていたと聞く。

 

(まさか)

 

 俺は念話の術を発動した。

 

『聖騎士長、一つ調べてもらいたいことがある』

 

『なんでしょうか』

 

『二十年ほど前に王都神殿にいた聖女見習いで、赤髪の者の消息を追ってくれ。至急だ』

 

『神殿に戻り次第、取り掛かります』

 

 俺の直感では、第一王子は王妃の子ではなく、王が聖女見習いに産み落とさせた子だ。

 

 それなら、この聖女好きの王がことさらに第一王子を可愛がる理由にも合点がいく。

 

 これが事実で、もし明るみになれば王と第一王子は一貫の終わりだろう。王が聖女見習いに手を出し孕ませた時点で、この大陸の禁忌にいくつも触れている。

 

 王族の権威は地に堕ち、王国中の民たちが教会とともに彼らを糾弾する流れが起きる。下手をしたら国を二分する内戦に発展してしまうだろう。

 

 俺にとっては、またとない手札(カード)だ。

 

 だからこそ慎重に調べを進め、使いどころを見極める必要がある。

 

 今、王や第一王子派を敵に回すのは得策ではない。

 彼らが本格的にマイや教会を奪おうとしてきたときの、いわば切り札だ。

 

 

「どうしたのだリンゼ、ずいぶん考え込んでいるようだが」

 

「ああいえ、アレク殿下の勇姿を思い出しておりました。殿下は確かに勇猛果敢でしたよ、陛下に似て」

 

「はは、世辞はいい」

 

 王が上機嫌そうに紅茶のおかわりをすすり始める。

 

 しばらくすると、聖騎士長が思念で話しかけてきた。

 

『大司教様、よろしいですか?』

 

『どうした』

 

『第一王子です。控室にやってきて聖女様をお茶に誘ってきました』

 

『……場所は?』

 

『分かりませんが、第一王子がいつも茶会に使っている応接室だそうです』

 

『今、向かっているのか』

 

『申し訳ありません。王の許可は得ていると言われ……それに大司教様も後で呼ぶとのことでしたので』

 

『謝る必要はない。少々礼儀や形式を欠くが、ここは彼らの王城だ。突然の茶会の誘いはそう珍しくないし、聖女や君が断れないのも無理はないだろう』

 

 思念で会話をしながら、同時に遠視の術を発動する。

 

 ――王城の廊下を、マイと聖騎士長、そして第一王子の取り巻きらしき近衛騎士や侍女がぞろぞろと歩いていた。

 

 いくら無作法で身勝手な第一王子といえど、王族が、それも王城で聖女に対して滅多なことはしないだろう。

 

 そう、頭では判断しているのだが。

 

 ついさっき王のおぞましい事実に勘付いてしまったからか、嫌な予感がする。

 

『大司教様、部屋に着きました』

 

 聖騎士長の言葉に、俺は遠視の術に集中した。

 

 キーンと頭の中枢に痛みが走る。

 念話の術と遠視の術を同時に行使するのは、さすがに負担が大きいようだ。

 

 ――第一王子が案内したのはよくある応接室だった。丸テーブルに椅子が二脚。特に不審なところはない。

 

 第一王子が扉を開け、中にマイを入れる。

 

『よし、騎士はここまでだ! 和やかな茶会にしたいのでな。何かあったら中から呼ぶ。ああ、大司教殿が来たら知らせてくれ』

 

 言うなり第一王子は数人の侍女だけを中に引き入れ、扉を閉めた。

 

 音のしない鍵をかけて。

 

『聖騎士長、俺が合図をしたら扉を破って突入しろ』

 

『……どういうことでしょう。茶会で何かが起きるので?』

 

『念のためだ。すべての責任は私が持つ』

 

『承知しました』

 

 聖騎士長にとっては意味の分からない指示だろう。王城で、近衛騎士の制止を振り切り、第一王子の応接室の扉を破るなど、反逆行為と捉えられてもおかしくはない。

 

 だが聖騎士長は、そんな無茶を何も聞かずに受け入れてくれた。

 

 やはり彼は信頼に足る男だ。

 

 

「リンゼよ、さっきから片目をつぶってどうしたのだ?」

 

 目の前にいる王が眉をしかめる。

 

「目にごみが入ったようです。じき自然に取れるでしょうからお気になさらず」

 

「そうか。それで視察中のアレクの様子だが、そなたから見て何か気になる点は――」

 

 王がまた長話を始めた。

 俺はそれに適当な相槌や返答を送りながら、再び遠視の術に集中する。

 

 ――マイは、丸テーブルを挟んで第一王子の正面に座っていた。第一王子が相も変わらず「今日はあいにくの雨だな」などとくだらない天気の話を振り、マイが涼やかな聖女の表情で聞いている。

 

『そうだ聖女マイ、とっておきの飲み物を振る舞わせてくれ! 君と大司教殿にぜひ味わってほしくてな、わざわざ遠方から取り寄せたんだ』

 

『飲み物ですか?』

 

『ああ、喉が渇いただろう?』

 

 第一王子が壁際に立つ侍女の一人に合図を送った。

 

 すると手に水瓶を持った、空色髪の女がゆっくり歩み寄ってくる。王城でもそう見ることのない美女だ。

 

『これはこの侍女、リィの出身領の特産品でな、そこでしか採れない果実を搾ったものなんだ。美味いぞ』

 

 リィと呼ばれた侍女が、手慣れた所作で二つのコップに果汁を注いでいく。

 

 マイはそれを複雑な表情で見つめながら、遠慮がちに第一王子を見た。

 彼女には王城で出される紅茶には口を付けないように、とは言ってある。

 

『すみません、私は』

 

『ああ分かっている! リィ、毒見を』

 

『はい』

 

 空色髪の侍女が、小皿に注いだ果汁をくいっと飲み干す。

 

『聖女マイ、実はな、リィは元聖女見習いなんだ』

 

『え、そうなのですか?』

 

 マイが目を見開いてリィを見つめる。

 

 するとリィは恥ずかしそうに首をかしげ、微笑んだ。

 

『マイ様、お久しぶりです。といっても私がマイ様とともに修練に励んだのは一カ月ほどなので、覚えていらっしゃらないかもしれませんが……私のほうは、真剣に座学をこなすマイ様の姿をよく覚えています』

 

『そう、なのですね……すみません私、覚えていなくて』

 

『ふふ、まっすぐで正直なところは昔と変わりませんね』

 

 元聖女見習いと聖女が、昔を懐かしむように微笑み合う。

 

 

 俺は念話の術で聖騎士長に話しかけた。

 

『聖騎士長、数年前に神殿を去った聖女見習いを覚えているか? 明るい空色の髪で、名前はリィ。おそらく愛称だ』

 

『それはリィベルスピーラですね』

 

『リィベ……なんと?』

 

『リィベルスピーラです』

 

『よく覚えていたな』

 

『長年、大司教様の補佐をしておりますから』

 

 俺は、致命的に人の名前を覚えるのが不得手だ。

 聖騎士長は暗にそのことを言っているのだろう。俺の代わりに関係者の名前を覚えるようにしているのだと。

 

 非常にありがたい心掛けだ。

 

 

 再び遠視の術に意識を向けると、ちょうど第一王子がコップの果汁を飲み干すところだった。

 

『――くぅっ、やはり美味いなリィの果汁は!』

 

 リィが第一王子のコップに二杯目を注ぐ。

 

『ありがとうございます。マイ様も、お口に合えばいいのですけれど』

 

『えっと、では……一口だけいただきます』

 

 第一王子が乾杯とばかりにコップを掲げる。

 マイはそれに不思議なものを見るような視線を送ったあと、コクリと果汁を飲んだ。

 

 その瞬間、彼女の金色の瞳孔(どうこう)が広がる。

 

『……すごく、甘いですね。おいしいです』

 

『おお、それはよかった!』

 

 第一王子は二杯目も飲み干すと、リィにも飲むように勧めた。

 

 リィは頬を赤らめながら、自ら用意したコップに果汁を注ぎコクコクと飲む。

 その姿を、マイは目を細めながら眺めていた。

 

 

「――して、聖女マイはどうだったかの?」

 

 不意に王からマイの名を口にされ、俺は遠視の術を切った。

 

「……どうだった、とは?」

 

「アレクから、聖女マイともずいぶん親しくなったと聞いている。だから聖女マイのほうはどうだったのだろうと思ってな」

 

 いまいち要領を得ない質問だ。聖女マイが第一王子をどう思っているのかを聞きたいのだろうか。

 

「聖女マイからは、アレク殿下について特に何も聞いてはいませんね」

 

「ふぅむ……そうか。気が合うやもと思ったのだがな」

 

「陛下、先ほどから何を言っているのです?」

 

「いやな、王族と聖女はもっと親交を深めるべきだと思うのだよ。この国の、未来のためにもな」

 

 王の瞳の奥が、ギラリと熱を帯びる。

 

 その瞬間、俺の背中にゾクリと悪寒が走った。

 

 ――遠視の術。

 

 再びまぶたの裏にマイを映し出す。

 

 彼女は先ほどと同じく、涼やかな聖女の笑みを讃えていた。

 

『聖女マイ、俺は平民に扮して国中を旅してきた』

 

 第一王子が唐突に自分語りを始める。

 

『そこでリィのような聖女見習いを引退した者たちと出会い、話をし、聖女について見聞を広げてきた。そこで知ったのだ。聖女に関するしきたりや常識が、いかに眉唾(まゆつば)であるかということをな』

 

 なるほどな。

 第一王子の旅の目的は元聖女見習いを見つけ出し、手籠めにすることだったようだ。リィもその一人なのだろう。

 

(やっていることが聖女狩りと大差ないな)

 

 マイはいきなり始まった王子の演説に、若干戸惑っているようだ。聖女の微笑みを浮かべながら、ほんの少し瞳が揺れている。

 

 第一王子はマイをちらりと見やってから、眉間にシワを寄せた。

 彼女があまり関心を寄越さないのを感じとったのか、すかさず話題を変える。

 

『数々の聖女見習いを見てきて、先代の聖女にも何度か会った。聖女という存在に俺ほど精通している者はいないと自負している。そして先日の視察で君と接し、確信したんだ。君こそ、(まこと)の聖女であると!』

 

(まこと)の、聖女ですか?』

 

 マイの反応を見て、第一王子がニヤリと口角を上げる。

 

『ああそうだ! 君だけは今まで見てきた聖女や聖女見習いとは違った。芯から美しく、穢れがない。透き通った魂を持っている。君は、聖女になる前から聖女だったのだ』

 

 この男は、何を言っているのだろうか。

 マイを口説いているのは分かる。だが、親子そろって要領を得ない物言いだ。

 

『聖女になる前、から』

 

 ふっと、マイが寂しげに微笑んだ。

 その憂いを帯びた表情は、どこか自分自身に苦笑しているようだった。

 

 この青年は、何も分かっていない。

 

 マイの心の奥底に眠る、およそ聖女に似つかわしくない刃を。

 

『だが俺はこうも思う! 聖女といえど、一人の少女に変わりはないのだと。無垢な聖女だと持てはやされ、そういう振る舞いを強いられているが、君だって孤独や寂しさを感じる普通の女の子だ。そうだろう?』

 

 まるで寄り添うような眼差しを送る第一王子に、マイは初めて温和な笑みを浮かべた。

 目元は優しげに細められ、その瞳は何かを思い出すように斜め下を見つめている。

 

『ふふ……大司教さまにも、似たようなことを言われました』

 

『そ、そうか……』

 

 彼女のあまりの色気に、第一王子が素に戻る。

 

『ですが、ありがとうございます。殿下に、真の聖女などと言っていただけて光栄です』

 

『そ、そうかっ……』

 

 小首をかしげ、全てを包み込むような聖女の笑みを浮かべるマイに、第一王子の声が上ずった。

 

 すると第一王子はチラリと側に立っているリィを見る。

 

 はぁ、はぁとリィの呼吸が荒くなっていた。頬も先ほどよりもさらに赤い。

 

 次の瞬間、王子の瞳にギラリと熱がこもり――。

 

 ――ガタンと、俺はその場で立ち上がった。

 

「どうしたのだリンゼよ、先ほどから様子がおかしいぞ」

 

 突然席を立った俺を、王が困惑した表情で見上げてくる。

 

 構わず、遠視の術でリィの様子を観察する。

 

 熱い吐息、急激な発汗、頬の紅潮、開ききった瞳孔。これは――。

 

 

「……酒だ」

 

 

 基本的に、治癒の力を持つ聖女に毒は効かない。

 

 そんな彼女たちにとって唯一の弱点。

 弱点がゆえに厳しいかん口令が敷かれ、知る者もほとんどいない秘密。

 

 酒の主成分は、聖女にとって強力な媚薬(・・・・・)となる。

 

 だからこそ教会は、古の民は、聖女に酒を振る舞うことを禁忌中の禁忌としてきた。

 表向きは、不浄の飲み物である酒を聖女に与えるのは女神を冒涜するものだということにして。

 

 貴族であれ王族であれ、その禁忌を犯せば厳しい罰が待っている。

 

 まさか王城内で、聖女に酒入りの果汁を飲ませるとは。

 いくらあの第一王子でも、次期国王ともあろう人間がそんな大罪を犯すなど考えてもみなかった。

 

「リンゼ、これ以上不審な振る舞いをすれば近衛を呼ばなければならなくなる。茶でも飲んで落ち着いたらどうだ。まだ(わし)の無駄話は終わっておらんぞ」

 

 声に茶目っ気を含ませているが、その瞳には明らかに焦りの色が宿っていた。

 

(やはり、時間稼ぎだったか)

 

 この老人も、分かっていて息子に協力しているのだろう。

 

 マイに媚薬を仕込み、酩酊させて押し倒し、既成事実を作る。

 今回で孕まなくとも、聖女であるマイは王子に襲われたなどとは誰にも言えない。

 そうして弱みを握り、何度も王城に呼び出し、孕むまで犯す。

 

 おおかた、そんな魂胆なのだろう。

 

 反吐が出る。

 

「陛下よ、王の血族とは、強烈に聖女を欲するものだ」

 

 彼らは聖女と交わることによって膨大な魔力を得ることができる。古い昔、その力を使ってこの大陸全土を支配したのが今の王たちの先祖だ。

 

 歴代の大司教でも知る者は少ない、教会の古文書に記されたこの大陸の真の歴史。

 

「急に、何を言い出すのだリンゼ」

 

 王が談話室の扉をチラリとうかがう。近衛を呼んで俺を拘束するかどうか迷っているのだろう。

 

「本能に抗うのはさぞや辛いことなのだろう。だが欲も過ぎれば、聖女を護る騎士は剣を向けざるを得なくなる。王子のわがままの代償は大きいぞ、王よ」

 

 俺は、誰にもマイを渡すつもりはない。

 彼女は、永遠に俺のものだ。

 

「……お前こそ不敬が過ぎるぞ、リンゼ」

 

 王がいよいよ扉に向かって声を上げようとする。

 

(この切り札は、取っておきたかったのだがな)

 

 俺は低い声で王に告げた。

 

「先に謝っておこう。私はこれからこの王城でいくつかの無礼を働く」

 

「なんだと?」

 

「それを見逃すというなら、私はアレク王子の出生の秘密を握ったまま死んでやろう」

 

「なっ……」

 

 他にも切れる手札はいくつかある。

 だが今一番、王に効くのはこれだ。

 

 そもそもがマイを守るための切り札。ここで失っても惜しくはない。

 

「……懸命な判断だ、王。では失礼する」

 

 驚き顔で石のように固まった老人を尻目に、俺は談話室を出た。

 

 

 

 

 早歩きで、マイのいる応接室へ向かう。

 

 全速力で駆け出したいが、無駄に近衛の注目を浴びるわけにはいかない。

 

 応接室の場所は、さっき遠視の術で視たから分かっている。

 

 俺はいくつかの階段を上りながら、まぶたの裏にマイを映し出した。

 

 ――マイは、相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。背すじを伸ばして椅子に座り、涼やかな表情で第一王子に相対していた。

 

『聖女マイ、少し顔が赤いようだが……どこか体の具合が悪いのではないか?』

 

『いいえ、体の調子はとてもいいです。聖女は風邪を引きませんから』

 

 まるで相手を安心させるような笑みに、第一王子がまたも見惚れる。

 マイは少し困ったように眉を寄せると、「ですが」と続けた。

 

『少しこのローブが暑くて……あの、夜風をいただいてもよいでしょうか?』

 

『あ、ああ、構わない!』

 

 第一王子が目配せすると、リィが近くの窓を開け放った。

 

 ふわりとカーテンが揺れ、マイの黒髪がさらさらとなびく。彼女は心地よさそうにふっと顔をゆるめた。

 

『聖女マイ、君は本当に美しいな』

 

『え?』

 

『先ほどの話の続きだ。俺は数多くの元聖女見習いと会ってきた。聖女に関するしきたりや常識がいかに眉唾(まゆつば)であるかを知った。たとえばそう……純潔を失っても、治癒の力も、その高潔な魂を失わない者もいるということを、知ったのだ』

 

 第一王子が、リィとは別の侍女に目配せをする。

 

 「うっ」と辛そうな声を発したその侍女は、やがて諦めたような表情を浮かべ、応接室の奥にある扉へと向かった。

 

 おそらく、その扉の向こうには寝室があるのだろう。

 

 マイを好き勝手に(もてあそ)ぶために用意された部屋が。

 

『そして、君は生まれたときから生粋の聖女だ。何があろうと、その聖女としての輝きが消えることはないだろう』

 

 第一王子は立ち上がると、一歩、二歩とマイに近づいていく。

 

 その様子を彼女は、興味深げに見上げていた。

 まるで「どうしたのですか?」と気軽に聞くような表情を張り付けて。

 

『聖女マイ、少し疲れているように見えるな。休んだらどうだ?』

 

『そう、見えますか? でもご存じでしょうか、聖女は疲れ知らずなんですよ』

 

 ふんわりと微笑むマイに、第一王子が舌打ちをする。

 その口が「ゴーゼ司教め」と小さく漏らすのが分かった。

 

 ゴーゼ司教め、話が違うぞ……といったところか。

 

 なるほどな。

 単細胞な第一王子にしては手が込み過ぎていると思った。

 おそらく事前にゴーゼ司教が吹き込んだ策なのだろう。

 

 だが不可解だ。

 

 ゴーゼ司教の目的は聖女を攫い、帝国の権力者に捧げることだったはずだが。

 

 まあ、それは後で本人に確かめればいいだろう。今考えても仕方がない。

 

 もう、応接室の前に着いた。

 

「大司教様……!」

 

 早足で現れた俺に、聖騎士長が声を掛ける。

 俺は返事の代わりに念話の術を発動した。

 

『馬車を応接室の窓の外、真下に付けられるか? 正門に停めたほうは見張られている可能性がある。裏手に停めたほうだ』

 

『この下は……中庭ですね。可能かと』

 

『では急いでくれ』

 

『はっ』

 

 俺と入れ違いに、聖騎士長が静かに応接室前から去っていく。

 

「これは大司教様、殿下がお待ちですぞ。今知らせますゆえ」

 

 王子の近衛騎士長がにこやかな笑みを浮かべる。

 

「ああ、それには及ばない」

 

 こういうときは敵に猶予を与えてはいけない。それに近衛騎士長が共謀している可能性もある。扉を開ける前に拘束されてはかなわない。

 

 不意打ちが最適解だ。

 

 俺は扉に近づくと、その内と外に二重の防護魔法を発動した。

 

「大司教様、なにを――」

 

 近衛騎士長の手が伸びてきた瞬間、一気に魔力を解き放つ。

 

 ドガッと鈍い衝突音がして、俺の結界にふっ飛ばされた扉が奥に張っておいた結界とぶつかり粉々になる。

 ふっ飛んだ扉が、万が一にも室内にいるマイに当たるのは防げた。

 

「え、大司教さまっ……」

 

 マイが椅子に座ったまま目を丸くしている。

 

 俺は彼女に微笑みかけると、離れたところで呆然と立ち尽くしている第一王子を見据えた。

 どうやら衝撃音で、咄嗟に身を引いたようだ。

 

 マイから離れてくれたのは好都合だ。

 

「聖女に毒を盛るのは大罪だぞ、アレク王子」

 

「はっ、いったい何を言っているのだ、大司教殿!」

 

 焦りと敵対心をあらわにする第一王子を無視し、俺は近くに立っていたリィに話しかける。

 

「久しいな、リィベルスピーラ。元気だったか?」

 

 その瞬間、空色髪の聖女見習いがブルリと震えた。

 

「大司教、様……そんな、私のことなどを、覚えておいででっ……」

 

 まったく覚えていないが、俺はさも懐かしむような表情を浮かべる。

 

「ああ、よく覚えているよ。ずいぶんと酷い仕事を押し付けられたようだね」

 

 するとリィは息を詰まらせ、慟哭し始めた。

 

「うっ、あぁっ……私、申し訳ございませんっ……マイ様に、マイ様にっ……!」

 

「君はもう大丈夫だ。後で迎えを寄越そう。……それを私に預けてくれるね?」

 

「……はい、大司教様っ……」

 

 彼女を優しく抱擁しながら、果汁入りの瓶と彼女自身のコップを受け取る。

 

 これで証拠を一つ確保した。

 

「アレク王子、何か申し開きはあるか?」

 

 マイに近づきながら、テーブルの上のコップも手に取りローブの中へしまっていく。

 

「大司教殿、これがどれほどの不敬か分かっているのか!」

 

 第一王子が俺のローブを凝視しながら、顔に焦りを増していく。

 

「先に姑息な手段で聖女に手を出したのは王子だろう」

 

「はは、大司教殿の言っていることは一から十まで訳が分からん! おい、この男を拘束しろ!」

 

 その掛け声の前に、俺は扉のこちら側に強固な防護魔法を張っていた。

 

 飛び込もうとした近衛騎士長が弾かれて尻もちをつくのが見える。

 だが、これは俺の注意を引くための囮だ。

 

 王子の手に魔力が集束していく。

 全力の電撃魔法が放たれるのだろう。

 

 だが。

 

「タネは一度見た」

 

 魔法が放たれる寸前、指と指の間に一筋の電流が走る。それを発火点にして強大な電撃を誘発させるのだ。

 

 なら、発火を防げばいい。

 

「ぐっ……くそっ!」

 

 王子の指と指の間に張った極小の結界が、電流を阻害する。

 弾かれた電流がバチンと大きな音を立て、王子が後ろに仰け反った。

 

 今まで大した敵と、単独で戦ったことなどないのだろう。

 不測の事態にうろたえ、体ががら空きだ。

 

 ――防護魔法。

 

 高密度の結界を三重に張り、王子にぶつける。

 

「ぐうぅッ……!」

 

 咄嗟に放たれた電撃魔法に一枚目の結界が相殺され、二枚目の結界が王子の着ていた魔道具の皮鎧を無効化し、三枚目の結界が王子の体を吹っ飛ばした。

 

 ドンと勢いよく壁にぶつかった王子が、がくりと崩れ落ちる。

 

 まだ息はあるようだ。

 ここで王子を殺してしまっては、いよいよ事が大きくなってしまう。

 

 俺は用意していた四枚目の結界を解くと、マイに向き直った。

 

「大司教さま、これは……どうして」

 

「マイ、神殿に帰るぞ」

 

「え、でも」

 

 彼女の視線が出口のほうへと向けられる。結界越しに、大勢の近衛騎士が待機していた。

 

『大司教様、応接室の下に馬車を付けました』

 

『上出来だ、聖騎士長』

 

 念話の術を解くと、俺はマイの体を横抱きに持ち上げた。

 

「えっ――あんッ、ぅっ……ッ」

 

 胸の中で、彼女の小さい体がビクンと跳ねる。

 

 俺は開け放たれたままの窓枠に片足を乗せると、マイの耳元にささやいた。

 

「少し目を閉じていなさい」

 

「あっ、あの、だいし――」

 

 もう片方の足を掛け、思いきり外へ飛び出す。

 

 ふわりと、体が宙に浮いた。

 

 すぐに重力で体が落下を始め、王都の夜景の光が上に流れていく。

 

 ここは七階の高さだ。鍛えている俺の足腰でもそのまま着地したらひとたまりもない。

 

 ――防護魔法。

 

 自分の体の真下に結界を展開する。

 俺の体重で割れてしまう程度のものを、幾重にも張っていく。

 

 バリン、バリンと八枚の結界を砕き、無事に地面に着地した。

 

「大司教様、中へ!」

 

 馬車の扉が開き、中から聖騎士長の手が伸びてくる。

 その手をつかんでマイとともに中へ飛び込むと、馬車が急発進した。

 

 何事かと右往左往する衛兵たちを避けながら、俺たちの馬車は王城の裏手から外に出た。

 

 

***

 

 

 夜の王都の下町を、馬車が走り抜ける。

 

 気づけば天井から、ボツボツと雨音が響いている。それはすぐに大雨の音に変わった。

 

 これで、追っ手が来るとしても明日になってからだろう。

 王をしっかり脅したから、もしかしたら追っ手すら来ないかもしれない。

 

 あの場で王子を殺していたらきっと話は違っていた。

 

 俺の中に殺意はあった。

 だがマイの前で、俺が人を傷つける姿をこれ以上見せたくなかったのだ。

 

 そんなことを考えていると、ふと正面に座る聖騎士長が気まずそうに咳払いをした。 

 

「大司教様、私のような者が同乗してしまい申し訳ございません」

 

「いや、君には礼を言いたいくらいだ。あの状況で、よくここまで動いてくれた」

 

「……それが私の仕事ですので」

 

 聖騎士長はマイに視線を移すと、はっと我に返り下を向いた。

 

 黒髪を雨で色っぽく湿らせ、物憂げに窓の外を眺める彼女を見てしまったのだろう。

 

 きっと神殿に着くまで聖騎士長はこのままだ。やはりこの男は信頼できる。

 

 

 沈黙と、マイの甘い香りが馬車内を満たす。

 

 やがて彼女が小さいため息をついた。

 

「すごく……びっくりしました」

 

「いろいろ突然だったからね。驚かせてすまなかった」

 

「いえ……私、何も知らなくて……でも、大司教さまが私を守ってくださったのは、分かります」

 

「そうか」

 

「はい、それに……」

 

 マイが、思い出し笑いをするように表情をゆるめた。

 

「私、空を舞ったのは生まれて初めてです」

 

「ああ、私もだ。恐かっただろう?」

 

「いえ、恐くはなかったです。だって、大司教さまが……」

 

 マイは一瞬聖騎士長を見ると、穏やかな聖女の笑みを作ってから俺を見つめた。

 

「大司教さまのこと、信頼していますから」

 

 

 

 

 馬車が神殿の正門をくぐり、外廊下の近くに停まる。

 

 念のためにと聖騎士長が飛び出していき、しばらくして扉が叩かれる。

 

「大司教様、神殿内に異常はありません」

 

「分かった」

 

 俺も外に出て、一応付近の様子をうかがう。

 聖騎士長に目配せをし、下がっていいと合図を送った。

 

「では我々は外の警戒に当たります」

 

「ああ、王城からの追っ手か使者が来たらすぐに(しら)せてくれ」

 

「はっ」

 

「あ、待ってください、聖騎士長さん」

 

 去って行こうとする聖騎士長を、マイが引き止めた。

 

「なんでしょうか、聖女様」

 

 馬車の中を(うやうや)しく見つめる聖騎士長に、マイがそっと手をかざす。

 

「今日は、本当にありがとうございました。気休めかもしれませんが、聖騎士長さんにも祝福を」

 

 マイの手のひらが淡く光り出す。

 それは祝福と、わずかに治癒が混ざった光だった。

 

「……感謝いたします。我々が、この身に代えて聖女様とこの神殿をお守りします」

 

 ぐっと拳を握った聖騎士長が、一礼して去っていく。

 

 

「さあマイ、私たちも中に入ろう」

 

 手を差し伸べると、マイのしなやかな指が重なる。

 

 ビクンと震えたその手を引き寄せ、地面に降ろす。

 

「あっ」

 

 バシャリと水たまりに着地し、跳ね返った泥水がマイのローブに掛かった。

 

「ごめんなさい、せっかくのローブが……」

 

「洗えば問題ない。さあ」

 

 パシャパシャと泥水を跳ねさせながら、外廊下の屋根の下へと避難する。

 

 振り向くと、マイのローブはさらに泥だらけになっていた。

 

「これでは、国中の誰も聖女とは認めてくれないですね」

 

 彼女が小首をかしげ、困ったような笑みを浮かべる。

 

「いいや、君は泥にまみれようが、聖女であることに疑いようはない。それにほら、今の私こそ大司教だと言っても誰も信じてくれないさ」

 

 見下ろせば、俺のローブはマイ以上に泥だらけになっていた。豪奢な衣装も、これでは形無しだ。

 

 そんな姿を見た彼女は吹き出すように笑い――ふらりと倒れ込んできた。

 

「マイ……よく耐えたな」

 

 俺の胸にしなだれかかるマイが、熱い。

 

 はぁ、はぁと呼吸は荒く、全身に汗をかき、頬は紅潮し、俺と触れ合っているだけでビクビクと痙攣していた。

 

 彼女の体は、ずっと酒に――媚薬に(おか)されていたのだ。

 

 王子と一見和やかに会話を交わしていたときも、俺に抱かれて宙を舞ったときも、帰りの馬車で外を眺めていたときも。

 

 彼女たちは、魔力が多ければ多いほど酒が効きやすいと聞いたことがある。

 

 きっとマイは、風が吹くだけで絶頂しそうなほどの性感に襲われていたのだろう。それを、ずっと耐えていたのだ。

 

 懸命に、聖女であろうとして。

 

 そんなことが、ただの聖女にできるはずがない。

 

「大司教、さまっ……お腹のおく、あついです……体中が、ジンジンしてっ……」

 

 マイは俺がわずかに動いただけで「あッ」と高い声を発し、小刻みに体を震わせた。

 

「もう我慢しなくていい。私が毒を抜いてあげよう」

 

 抱き締める力を強くしただけで、彼女はビクンと震えてしがみついてくる。濡れた黒髪をポンポンと撫でただけで、肩をブルリと震わせて甘い吐息を漏らした。

 

「大司教、さま……わた、わたしっ、ちゃんと、聖女でしたか?」

 

「ああ、君は立派な聖女だったよ」

 

「よかっ、た……よかった、です、わたし……リンゼさまの、そばにいたい……わたし、頑張って、聖女でい続けますから、だからっ……その間はずっと、わたしのことっ、わたしのこと、だけ……見ていてください……お願い、します……」

 

 マイは絶頂に肩を震わせながら、子どものように泣き始めた。

 

 涙で顔をぐちゃぐちゃにして、腕を震わせ、それでも離したくないというように俺のローブを必死につかんで。

 

 ――君は生まれたときから生粋の聖女だ。

 ――マイ様こそ私たち下賤(げせん)な民を導いてくれる聖女。

 ――あなたは、体だけでなく心のほうも無垢なのだな。

 

 脳裏に第一王子の、ヌべリエの、第二王子の言葉が浮かんで消えていく。

 

 マイに魅せられた者たちは皆、彼女に勝手な理想を押し付け、それが彼女の本質なのだと疑わず、その偶像にさらに魅せられていった。

 

 俺も、彼らと同じだろうか。

 

 マイの中に(まこと)の聖女の姿を見出し、惹かれたのだろうか。

 

 

 いや、違うな。

 

 とうに答えは出ている。

 

 俺は――。

 

「マイ、俺は君がほしい」

 

「……え?」

 

 雨音が強まっていく。

 あたりに人の気配はない。

 

 たとえ人の気配があったとしても、これからすることは変わらないだろう。

 

「聖女になる前から、俺は君がほしかった」

 

 泣きじゃくるマイの唇に、俺はキスをした。




いよいよ書籍第2巻が11月22日(金)に発売されました! 書き下ろしは「お忍びの視察と雨宿り」。下町の視察に来たマイと大司教が、突然の雨に打たれて…というお話です。
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