※この作品はR-18です。

フェイクラバーズ   作:かえで

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エッジ視点・残酷な描写あり


違算

 

 

——翌7の月11日 午前9時すぎ

 

 

 2日前、エッジはバロン城を訪れた。

 1泊2日の予定で、訪問の主な内容は国王セシルとの会談と各所視察。

 その中には、あまり好きではない晩餐会も入っていた。

 それでも、数年ぶりにローザやセオドアやシドに会えたからよしとする。

 

(自家用艇の点検もしてもらえたし、ラッキーだったな)

 梅雨真っ盛りのバロンから、そのまままっすぐエブラーナに帰る訳がない。

 現在ミストの集落の入口に入ったばかりである。

 

 寄り道した理由は、朝からリディアの先生ぶりを見たかったからに他ならない。

 授業をこっそりのぞいて、リディア補給してからエブラーナに帰るつもりでいた。

 

「いい天気だなぁ」

 

(バロンと大違いだ)

 本日もミストは、雲ひとつない晴れ渡った空が広がっている。

 この村は、月末の3日間を除いて雨が降らないと聞いている。

 エッジもミストで雨に打たれた記憶はあまりない。

 

 黒魔法講座は公民館の一室で行われているはず。

 公民館は村の入口から一番奥にあるが、エッジなら10分もあれば余裕で着く。

 

「……?」

 

(まだ里帰りの時期じゃねえよな)

 公民館に向かってしばらく歩いていたが、誰にも会わない。

 ひとりぐらい住民が歩いていてもいいのに、変だ。

 そう思いながらも先を進むと、集落の中央にある広場が近付いてきた。

 

(やっぱり変だ……)

 広場に入った瞬間、眉を寄せた。

 この時間、授業の真っ最中で公民館にいるはずの子どもたちが遊んでいる。

 

「あっ、リディアせんせーのカレシー」

「ほんとだ、コイビトだー」

「おかーさーん! エッジ来たよー!」

 

 エッジの姿に気付いて、子どもたちがわらわら駆け寄ってきた。

 

「おまえら、こんなとこで遊んで何やってんだ」

「あのね、今日は講座が休みなの」

「はあ??」

 

(風邪でも引いたのか?)

 黒魔法講座の教師はリディアひとりだけしかいない。寝込んでしまったら講座は休みになる。

 リディアの自宅に行ってみようか。

 脳内で進路変更の検討を始めた矢先。

 

「だからー、ぼくたちすっごくひまなのー」

「エッジ遊んでよ」

 

 子どもたちが、エッジのマントをぐいぐい引っ張ってくる。

 予定が詰まっているし、リディアの顔を見たらすぐにエブラーナに帰るつもりでいる。

 申し訳ないが、今日は遊べない。

 

「お、おい。今日」

「——エッジ様じゃない!! ちょうどいいところに来てくれたわぁー!」

 

 エッジが子どもたちからの遊べ攻撃にうろたえていると。

 ちょうどいいところにリディアの友人、アリサが走ってきた。

 子どもたちの中にアリサの息子がいるからだろう。

 

「こら、あんたたちー! 仮にも国王様に向かってなんて口聞くのー!」

「おかーさんだって、しょうがなく『さま』つけてるだけじゃん!」

「大人はいいんですぅー」

「よくないよ。おかーさんたち、ふけーざいでみーんなたいほだ!」

「っ、ばかなこと言うんじゃないの! ここはミストだから逮捕されないわよー!!」

「ちぇー」

「つまんねーの」

 

 エッジは、アリサと子どもたちのやりとりを微笑ましく眺めていた。

 ヒモだとミスト中に言いふらしたのは、この女。

 簡単にそう予想できるぐらいには、アリサは毒舌をエッジに吐きまくる。

 それでも、へこへこ媚びへつらわれるよりよっぽどいいと思って放置していた。

 

「……それより、あんたたち。あっち行って遊んでなさい」

「わかったよ」

「行こうぜ」

「またね、エッジ」

 

 子どもたちが、アリサに促されて広場の隅に移動した。

 アリサが珍しく真面目そうな表情に変わったのが気になる。

 

「それでね、エッジ様。大へ」

「——今日講座休みって、リディアの奴、寝込んでんのか?」

「ちっ、違うわよ!? リディアが、ミストからいなくなっちゃったのー!」

「何だと!?」

 

(あいつらか!)

 アリサの言葉で、エッジは即座に確定に近い仮定を打ち出した。

 リディアは自ら消えたのではない。カルミネにさらわれたのだと。

 

「公民館に来ないから、家に呼びに行ったけど誰も出てこなくて……。今みんなで探してるところなのよ」

「昨日はミストにいたんだな」

「ええ。夜寄合が終わって途中まで一緒に帰ったわ」

「そうか……」

「急にサボるような子じゃないし、どこ行っちゃったのかしら……?」

 

 程なくして、広場に住民が次々と集まってきた。

 アリサの言葉通り、手分けしてリディアを探していたのだろう。

 見つからなかったと互いに報告し合う彼らの様子を視界に入れながら。

 エッジの心は後悔と自分自身への怒りで占められていた。

 

 どうして今まで気付かなかった? 何の対策も取らなかった?

 カルミネがリディアを狙う訳がない。

 そう思い込んでいた自分は、どれだけ浅はかだったのか、と。

 

 

——午前11時すぎ

 

 

 急いでエブラーナ城に戻ったエッジを、イザヨイが待ち構えていた。

 

「……やはり間に合いませんでしたか。申し訳ありません」

 

 イザヨイは、カルミネの潜入調査中だった。

 昨日、幹部と思われる人物が、リディアをさらってくるよう部下に命令する場面を目撃。

 すぐに施設から脱出して夜通し走り、2時間ほど前にエブラーナヘ戻ってきたという。

 

「謝る必要ねえ。それよりなんかつかんできたんだろ? 全部話してくれ」

 

 施設地上階にある傭兵業は、資金稼ぎ目的の業務だったこと。

 地階で働く者は、全員何かしらの暗示にかけられた状態。そこで、人体実験や薬品研究を行っていたこと。

 逆に、地上階で活動している者は暗示をかけられていないこと。

 この半年近くのカルミネでの出来事を、イザヨイから報告を受けた。

 

「あと……例の人体実験がようやく成功しました」

「えらい時間かかったな」

 

 例の人体実験とは、状態異常の耐性を人間に持たせる薬品研究のことだ。

 

 —— —— —— 

 カルミネが、わざわざリボンを装備する必要がなくなる薬の研究をしている。

 エブラーナ城でも、1年ほど前にその情報を把握していた。

 当時、潜入調査に入っていたゲッコウが暗記能力を駆使して。

 調剤配合一覧表の内容を、頭に叩き込んで帰ってきてくれたおかげで。

 

 画期的な研究だと思うが、副作用が半端ない。

 実際エブラーナ城でも、調剤配合一覧表を参考に薬を作り、複数の動物で実験した。

 ところが、2日後に異常行動を起こして翌日全て死んでしまった。

 動物でこれなのだから、とても人間には使えない。

 —— —— ——

 

「改良を繰り返して、副作用を極力減らしていたようです」

「……死なねえとしても、身体に悪影響が残るのなら意味ねえ」

「おっしゃる通りです。それでも半年以内を目処に、商品化する予定を立てていました」

 

(そんなことさせねえけど)

 さらわれたリディアを取り返す。そんな大義名分が出来たのだ。

 今回はそこまではしないが、薬の流通が始まるまでには余裕でカルミネを叩き潰せる。

 

 イザヨイの報告はまだ続いた。

 

 —— —— ——

 カルミネが別の人体実験を行って成功させたこと。内容は毒の研究だと思われる。

 しかし証拠隠滅を図ってしまい、それ以上のことはわからないこと。

 その実験にエミールと呼ばれた男が関わっていたこと……。

 —— —— ——

 

「エミール?……あ、そういうことな」

 

 エブラーナ国王になる。生前、エミールは本気でそう思っていたから。

 初代国王と同じエドワードの名が与えられる、エブラーナ王家の嫡子と同じように。

 代々エミールの名が伝統として、カルミネの親玉に引き継がれているのかもしれない。

 

「そいつ、どんな奴だった」

「30〜40代の色白で銀の長髪。顔は……その……」

「なんだ、言ってみろ」

「お、お館様に非常によく似ていて……」

「そいつが王族の血ィ引いてるなら、オレ似てるところもあるだろうな。続けろ」

 

 イザヨイが言い淀んだ理由をエッジはすぐに察した。

 その場でエッジと似た顔の男が現れ、一瞬見惚れてしまったと思われる。

 

 —— —— ——

 変化、回復、戦闘、隠密……。

 イザヨイはなんでもござれの万能忍者だが、唯一欠点がある。

 それは、度を超えた『お館様至上主義』。

 何が何でもエッジを優先するため、他の忍との連携が崩れることもしばしば。

 —— —— ——

 

「体型は中肉中背。しかし、戦闘にはいささか不向きかと。それから……オッドアイの持ち主でした」

「色は」

「左は濃茶、右が青。海の底のような色でした」

 

 エッジはしばしの間、考えを巡らした。

 

(今すぐリディアを助けに行きてえが……準備が必要だよな)

 既にイザヨイから、手書きだが地下2階の地図を渡されている。

 しかし、現地を直に知る者をカルミネに連れて行った方がいい。

 それなら、少しでも休ませてあげなければ。

 

「今から2時間休憩しろ。終わったら、ゲッコウと一緒にここに来い」

「必要ありません」

「夜通し走ってきて、寝てねえんだろ?」

「『短眠の術』で済ませました」

「……命令だ。身体も休ませねえと保たねえぞ」

 

(いつの間に、『短眠の術』会得したんだよ!?)

 平然とした表情でエッジの労いを断ったイザヨイに、上司の特権をかざしてやった。

 

「かしこまりました。では、失礼し……」

「——絶対休めよ。絶対にだぞ! 言うこと聞かねえと、連れてかねえからな!」

「はい……」

 

 これでもかと言うぐらい、エッジが口を酸っぱくして休憩を促してやると。

 イザヨイは不服そうな表情で、部屋から立ち去って行った。

 

「……困った奴だな」

 

 イザヨイの気配が消えてから、エッジはため息をついた。

 

(担当と代わってまで、オレを監視しやがるからなぁ)

 イザヨイの悪い癖。それは自身の空き時間を、エッジの護衛監視に費やしてしまうこと。

 しかも、先ほど『短眠の術』を会得したと話していた。

 今後ますます、護衛監視時間が増えてしまうではないか。

 監視の目から逃げることが出来る、秘伝忍術の結界術があって助かった。

 

 イザヨイがエッジに忠誠以上の思いを寄せていることぐらい、とっくの前にお見通し。

 しかし、イザヨイはエッジにとって信頼できる有能な部下。

 それ以下でも、それ以上でもない。もちろん、この先も。

 

 

——午前11時半

 

 

 イザヨイが天井裏で監視していないか気配を辿って、確かめてみた。

 

(さっきと同じ奴だ)

 引き続き、同じ者が監視を続けているとわかり、安堵する。

 どうやら命令に従って休憩してくれているようだ。

 

「お、お館様ぁ……」

「何だよ。まだ読んでねえのか」

 

 目の前にいるザンゲツが古い書を手にしながら、がたがた身体を震わせている。

 

「本当に……本当に、よろしいのですか?」

「許すっつってるだろが。早く読め」

 

 未だ身体を震わせているザンゲツに苛立ち、吐き捨てるように言い放った。

 

(びびっちまうのはわからないでもねえが、今はそれどころじゃねえんだよ)

 ザンゲツの手元にあるのは、エブラーナ秘伝忍術書。

 国王以外は閲覧が禁じられている格式高い書である。

 リディア救出作戦を立てるために、この書に目を通してもらう必要がある。

 だから、ザンゲツをここに呼んで、書を渡した(そして、読めと命じた)というのに。

 

「しかしなが」

「——緊急時っつってんだろ!! とっととそれ読んで、使えそうな術がねえか探せっ!」

「……御意」

 

 —— —— ——

 6年前にエブラーナが襲われるまで、エッジは放蕩三昧の生活を送っていた。

 現在、世間では『ゼロムスを倒した相当な実力者』と持てはやされている。

 しかし、対人戦闘は未経験。

 その足りない分を補ってくれる経験豊富な忍者として、ザンゲツをここに呼んだ。

 —— —— ——

 

 5分後、サンゲツは忍術書に目を通し終えて、静かにそれを机の上に置いた。

 

「どうだ?」

「使えるのは空間移動、隠密、封印ですな」

「偶然だな。オレも一緒のこと考えてた」

「リディア様の救出に並行して、施設の者を捕獲し、城に連れて帰ることも可能だと思われます」

 

 施設の人間をごっそりエブラーナ城に連れて帰れば、薬の製造を止められる。

 リディアを救出してから、後日ぼっこぼこに叩き潰したらいい。

 そう考えていたエッジは、ザンゲツの意見に賛成した。

 

「さすがに一度で全員の捕獲は厳しいと思われますが。いかがいたします?」

「いい。それで行こうぜ」

「はっ」

「やっぱ、おまえ呼んで正解だったなぁ。『医者と坊主は老人がよい』『亀の甲より年の劫』ってことわざが……」

 

 なぜか苦々しい表情を見せたザンゲツを無視して、術の準備に入ることにした。

 

§

 

 エッジは机に向かって、真っさらな巻物へ術式を書いている。

 ザンゲツは少し離れた来客スペースのソファに座って、地図を眺めている。

 地図は、カルミネの施設内部や外観部を改めて城で書き起こしたものだ。

 

「まずオレが隠密術を使って施設に潜入するだろ」

「拙者たちは外でおびきよせ……さすがに全員は外に現れないでしょう」

「屋内の廊下と部屋全部に封印術の撒菱をばら撒いておくさ。終わったらオレは地下3階へ行く」

「拙者は外で待機。ゲッコウとイザヨイに中に入ってもらいますか」

「ああ。ばら撒いた撒菱の回収だな」

「しかしながら、初代国王様は素晴らしいお方ですなぁ。ずいぶんと便利な術を残して下さったもので……」

 

(出来すぎだな)

 ザンゲツの言葉に、エッジは筆を持つ手を一旦止めた。

 もしや、この秘伝忍術書はカルミネ対策用に作られたものではないか?

 術の準備に励めば励むほど、そう思えて仕方がない。

 

(つっても、初代の頃はカルミネなんてなかったぞ? 時代が合わねえ)

 考え出すとキリがない。思考を切り替えて再び筆を進める。

 

「あいつらは回収が終わったら、地下3階でオレと合流。空間移動使って、みんなで地上に一気に戻りゃいいな」

「そんなに上手い具合にいくとは思えませぬが……」

「あいつらが来ねえようならオレは先にリディア連れて戻る。おまえにリディア託してから引き返すさ」

 

 おおむね作戦を練り終えた。

 残るは作戦で使用する術の忍具作成だけである。

 ひとりで地味な作業を続けるだけだが、引き続きザンゲツには残ってもらう。

 

「ミストのみなさまの反応はいかがでした? 相当ご立腹だったのではありませぬか?」

「全然」

「はい?」

「カルミネのこと知ってる奴ほとんどいねえし」

「ま、まあ……エブラーナでも知らない者が増えてきておりますからなあ」

「『勇者がんばれー』って、手ェ振って見送ってくれた」

「ゆ、勇者!?」

「それも住民ほぼ総出でな」

 

 半ば冗談めいた内容だが、これはれっきとした事実である。

 エッジはさらりと話したが、固い表情のままで複雑な図柄をさらさらと書き続ける。

 

 ***

 

——数時間前

 

 リディアの行方を探していた住民が、広場に大方集まってきた時だった。

 そこで遊んでいたあるミストの子どもが、突然からかい混じりでこう叫んだ。

 

「エッジ! 早くお姫様を助けに行かなきゃ!」

 

 気が付けば、広場にいた者たちからエッジは勇者として祭り上げられていた。

 

 やがて、広場に村長のミゼルが現れた。彼もリディアを探していたようだ。

 エッジの姿を見つけるなり、表情を険しくさせながらこちらに近付いてきた。

 

「話がある。ついてきて」

「……わかった」

 

 広場のすぐそばにある建物の陰に連れてこられて、開口一番ミゼルからこう言われた。

 

「リディアさん、カルミネにさらわれたんじゃないの?」

「!」

 

 ミストでカルミネの存在を知る者は、リディアしかいないと思っていたのに。

 

「なんでカルミネのこと知ってんだよ」

「だいぶ前にリディアさんが教えてくれてね。エブラーナに興味があったから、調べたことがあったんだよ」

「調べるって、おまえミストから出たことねえって聞いたぞ?」

「読みたいものがあったら、奥さんに頼んで図書館で資料借りてきてもらってるんだよ」

「……返しに行くのも、嫁か」

「他に誰かいる?」

 

(嫁、完全にこいつのパシリじゃねえか……)

 ジャンヌは趣味が買い物で、頻繁に各地へ出かけている。

 そのついでに、資料の貸出や返却してもらっている。

 だから、一度も文句を言われたことがない。ミゼルはそうしれっと言い訳した。

 

「それより、なんでカルミネにさらわれたってわかったんだ」

「きみがリディアさんのことを好きだから」

「っ!?」

「ここのみんなにも、もうバレてるよ? 気付いてないの、お年寄りと本人ぐらいじゃないかな」

「マジか……」

「きみの弱点ってそれぐらいしかないからね。カルミネにそれを知られたから、連れ去られたんじゃないの?」

 

 ミゼルの推論は、エッジのそれとほぼ同じであった。

 

「で、さっきの答え。まだ聞いてない」

「ああ……おまえの言う通り、十中八九カルミネだ」

 

 そう答えた途端。ミゼルの顔がアスラのごとく鬼のように厳しいものに変わった。

 

「これからどうするつもりだ」

「っ……助けにいくに決まってるだろ」

「そう」

 

 ミゼルの態度がいつもと真逆。こんな表情も出来るのか。

 少し驚いていたら、ミゼルがこちらを指さしてきた。

 

「きみに、ひとつ言っておく」

「え」

「『ミストの大事な民』に何かあったら、エブラーナに責任を取ってもらうからな」

 

(やっぱこいつ、リディアを特別扱いしねえんだな)

 村の長として至極真っ当なミゼルの物言いに、エッジは感服した。

 例えさらわれたのが他の住民でも、この男は今と同じことを言うに違いない。

 

「もちろんそのつもりだ。全力で救出する」

「……ありがとう。きみならそう言ってくれると思ってた」

 

 ミゼルは表情を緩めてから、最後にこう言い残してエッジの前から去っていった。

 

「きみは相当やり手って噂だから、信用してる。今はみんなに内緒にしておくから、がんばって」

 

 ***

 

 その後、住民から底抜けに明るい声援を背に浴びながら。

 エッジはミストを離れてエブラーナ城に到着し、現在に至る。

 現時点でリディア失踪の真実をミストで知る者は、村長のミゼルだけだ。

 

「……もし失敗しようもんなら、その反動が怖ええんだよ」

 

(この大陸を沈没させてもおかしくねえ……!)

 リディアにもしものことがあれば、幻獣界も黙ってはいない。

 特にリディアを溺愛するリヴァイアサンが、どんな反応をするか。考えただけでぞっとする。

 

「お館様らしくありませぬな」

「は?」

「無鉄砲が持ち味ですのに、今日はずっと影を潜めておられます」

「前なら考えなしに……っ! 今頃カルミネに向かってただろうな」

 

 エッジは話している途中で、右手の親指を噛み切る。

 傷口からぽたぽた流れてくる血を、巻物の中央に垂らした。

 術式が描かれたそこに、血が吸い込まれて一瞬青い光を放つと、跡形も無く消えた。

 

 まだ血が止まらない親指を、今度は手元に置かれた小皿の上に掲げた。

 真白な皿がじわじわ紅く染まって、水面を作っていく。

 

「けどよ、リディアがあっちに囚われてんだ。何の考えもなしに乗り込んであいつに何かあったら意味ねえだろ」

「リディア様はミストどころか地上でたったひとりしかしない召喚士ですからなあ」

「あいつの代わりは誰もいねえ……絶対に失敗出来ねえんだよ」

 

 地上やミストや幻獣界だけではない。

 エッジにとっても、リディアの代わりは誰もいない。

 エッジは左の拳を強く握りしめながら、絞り出すような声でつぶやいた。

 

 親指を小皿から一旦離してみると、血は止まっている。

 揺れる紅の水面をじっと見つめていたら。しくしくすすり泣く声が聞こえてきた。

 

「おい、急に何泣いてんだ」

「あのお館様が……ここまで成長されるとは……」

「おまえ、じいに似てきたな」

 

(年寄りだからしょうがねえか)

 ザンゲツから褒められたが、いちいち相手にしていられない。

 

「お館様」

 

 エッジが新しい巻物を広げるとほぼ同時に、ザンゲツに名を呼ばれた。

 

 妙に真剣な声だったせいで、顔を上げて客間スペースの方を見る。

 ザンゲツがとうに泣き止んでおり、姿勢を正してこちらを見据えていた。

 

「なんだよ」

「『麻の中のよもぎ』……環境や地位が人を作るとは、まさにこのこと。長年お館様を見てきましたが、ようやく拙者はこの言葉を実感出来るようになりました。ありがたき幸せにございます」

「……!」

 

 ザンゲツの言葉が、不覚にもエッジの胸に響いた。

 

 —— —— ——

 ゼロムスを倒して、エブラーナヘ帰還した直後の話だ。

 エッジは、ほぼ廃墟と化した自城や周辺を見やると、こう痛感した。

 持ち味の無鉄砲さだけでは、ほぼゼロからの復興は終わらない、と。

 それから慎重、入念、堅実……。

 自身の持ち味とは対極の特性を、ほんの少しずつ己に取り込むようにした。

 —— —— ——

 

 じいに次ぎ、長年エッジを見てくれていた者の言葉は重みがあり、嬉しいものだ。

 国王に即位してよかった。そう感じ入っていたら。

 

「とは言え、お館様もずいぶんお歳を召されましたし、やはり大きいのは時間でしょう……ははははっ!」

「ちっ」

「あとは、リディア様をお助けになられて、将来王妃としてお迎えになられたら、もう言うことありませぬなあ……!」

 

 舌打ちしても、ザンゲツの高笑いは止まらない。

 エッジは机の下に両手を隠して、特殊な印を音を立てないように結んだ。

 机上に置かれた、出来立てほやほやの巻物に右手を添えてから。

 荒っぽい足取りで悦に入っているザンゲツの元に近付いた。

 

「さすれば、エブラーナはますます安泰。ははは、はっ……? お、お館様!?」

 

 ようやくエッジが消えたことに気付いたようだ。

 ザンゲツが慌てふためいているが、もう遅い。

 

『感動が台無しだっ!』

 

ばちん!!

 

「痛あっ!!」

 

 ザンゲツの頭を強く叩いてから机に戻って、先ほどとは違う印を結んだ。

 広げっぱなしの巻物の中央——血を滴り落とした部分に、再び右手を添える。

 すると、ふわふわ小さな煙が立った。

 

「お館様ぁ……試すなら、せめて予告ぐらいしていただけないでしょうか……?」

 

 不意打ちで鉄槌を食らったからだろう。

 ザンゲツが不服そうな表情を隠さない。

 

「十分隙あったろ。避けなかったのが悪いんだよ」

「なんと……!? 気配が一切ないのにどう避けろと!?」

 

 エッジは、誰に何を言われようが適当にあしらえる『大人の男』という自負がある。

 しかし、触れられたくないことも少なからずある。

 リディアとの関係や行く末、過去の女性関係、そして年齢。

 以上が、エッジの三大地雷要素である。

 

 ザンゲツは、普段からしょっちゅう地雷を踏みまくってエッジに怒られている。

 今回は同時に2個も踏んだので、怒りの鉄槌を下した。

 しかし、それに加えて実はもうひとつ目的があった。

 

「へえ、いい術だな。オレが何言ったかも聞こえてねえようだし」

 

 ザンゲツが居残りさせられた原因は、術のテスト。いわゆる被験体である。

 一矢報いる(殴る)ついでに、隠密術を試しに使ってみた。

 その結果、姿や声だけでなく気配も消せることを、この目でしかと確認出来た。

 

「……どうせ年寄りだと」

「何だと!?」

「い、いいえ! 何も!」

「……くそ。また、巻物作らねえと。ほんと面倒くせ」

 

 秘伝忍術書の隠密術は、気配だけは隠せない『隠れみの術』の上位互換である。

 とっても便利だが、デメリットもある。

 術者が隠密状態を解除するか。時間が切れると巻物自体が消えてしまう。

 この術を一度に何度も使いたいのなら、巻物を複数本作らねばならない。

 

 血は要るし、手間暇かかる。忍術書の術はどれもこれも犠牲が大きい。

 エッジは仕方なく、再度巻物を作る作業に取り掛かかった。

 

§

 

 5分後。巻物が再度完成した。

 

「これで隠密術は完成だな。あとは……」

「空間移動術と封印術ですな」

「封印術が先な。しょうがねえ、やるか……」

 

 エッジはため息をついてから、部屋の端へ向かう。

 そこに置いてあった箱を、ずるずる机まで引っ張ってきた。

 箱の中には、忍者が敵を足止めするために使う、鉄の塊——撒菱が大量に入っている。

 

「何やら浮かぬ顔ですなぁ。こんな便利な術もそうそうございませんぞ」

「作り方読んでねえのかよ」

「ざっと目を通しただけですので……」

 

 —— —— ——

 秘伝忍術書の封印術は、撒菱の中に人間や動物を封じ込めることが出来る。

 術者が撒菱を放り投げるだけで、近くにいる人間を撒菱の中に封印する。

 撒菱を無人の場所に設置しておけば、近くを通りかかった人間は全員封印される。

 

 封印対象外は、術者——エッジ本人と術者の血液を有する者である。

 今回の場合、エッジの血をザンゲツたちの身体に付着させておけばいい。

 封印を解除する方法は、術者自ら回収した撒菱を水洗いして塗料を落とすこと。

 その5分後に、封印された者たちが撒菱から現れる。

 —— —— ——

 

 封印術も、秘伝忍術書の他の術と同じく、術そのものは有能なのだ。

 そう、術そのものは。

 

「ほれ、もっかいしっかり読んでみろ」

 

 エッジは席を離れてソファに向かい、秘伝忍術書を差し出した。

 ザンゲツが渋々といった面持ちで、それを受け取って書を開く。

 

「なになに……『水と、術者の血液を1対5の割合で混ぜ合わせたものに、撒菱を10分間浸して水気を切る。それが終われば、術者の血液と青墨汁1対2の割合で混ぜ合わせたもので、撒菱に満遍なく色を着ける。乾かしたら完成』!? こ、これは……!」

「術の代償は貧血だ」

 

§

 

 それから1時間近くかけて、エッジは青い撒菱数十個を地道に作り終えた。

 大量に作って常備しておきたかったが、さすがに血が足りない。

 もちろんその後、増血剤も服用した。

 

「あとなんだっけ」

「空間移動術ですな」

 

 空間移動術も、これまた有能な術である。

 

 —— —— ——

 術者が『入』の巻物を持った状態で術を発動すれば。

 術者の近くにいる生者は全員『出』の巻物がある場所へ瞬時に移動する。

 移動距離は無制限。

 『出』が国外に置いてあれば、片道とはいえ瞬時に国外脱出が出来る。

 —— —— ——

 

 今回はリディアの救出が最大最優先事項である。

 身柄を確保して、とっとと脱出するために、この術が必要不可欠なのだ。

 

「これで最後か……」

 

 イザヨイとゲッコウがここに現れるまで、あと30分を切った。

 秘伝忍術書を改めて手に取ってページをめくる。

 

 —— —— ——

 残りの秘伝忍術書の術は全て、使用経験がある。

 自家製の青いお札を使った結界術は言わずもがな。

 記憶透視術も一度だけ術を試したことがある。この術も発動までに時間と手間がかかる。

 しかも、代償として術を発動後、術者の身体は抵抗力が減少して数日寝込む。

 —— —— ——

 

「おっ、材料も作り方も隠密術と変わんねえな」

 

 まだ血は余っている、これは楽勝。

 そう思いながら、巻物を広げて秘伝忍術書に描かれた例を見ながら。

 青い墨汁で図柄を書き始めた。

 

「テレポやデジョンよりこっちの方が便利だな」

 

 白魔法のテレポや黒魔法のデジョンは、ダンジョン内だけしか使えない。

 しかし、この空間移動術は巻物の持ち主次第で、どこでも使えるし、移動先になり得る。

 

「しかしながら、3回は少なすぎると……それも人生でですぞ?」

 

 この空間移動術は、2本の巻物でワンセットとなる。

 3回使い終えると、たちまち巻物が消えてしまう。

 その後、新たに巻物を作り直しても術は二度と発動されない。

 

 そう。この術はひとりの術者につき、人生でたった3回しか使えない。

 秘伝忍術書にそう書いてあったのを、ザンゲツは覚えていたようだ。

 

「1回じゃテストも出来ねえだろ。3回ありゃ上等だ」

「いや、それもそうですが……」

 

 今回リディアを助けることが出来たら、それで十分だ。

 使いたかったら、初代国王のように術を開発すればいいだけ。

 怪訝そうな表情をしたザンゲツを無視して、巻物に図柄を書き始めた。

 

 その数分後。思った以上に早く巻物が完成した。

 

「これは、『入』の巻物は、お館様で、『出』が拙者と言うことですな」

「よしっ、テストするぞ」

「ほ、本当によろしいのですか!? 他の術と違い、人生で3」

「——オレがいいって言ってんだ!!」

「うっ……」

 

 怪訝そうな顔で再度確認してきたザンゲツを遮り、怒鳴り返してやった。

 

「何度も言わせんな。早くそれ持って、あっち行けっ」

「ぎょ、御意……」

 

 『出』の巻物を持たせたザンゲツに、しっしと手を振って部屋の隅へと追いやると。

 秘伝忍術書を手に取り、記載されている印を頭に叩き込む。

 

 それから印を結んで、巻物の『入』と描かれた部分に手を添えた……。

 

「ひいっ!?」

「うわああっ!」

 

 巻物がばさばさと床に落ちる音に続いて、眼前にはザンゲツの顔。

 彼の上に覆いかぶさっていることに気付き、目をひんむいて大声を上げた。

 

 どうやら、『入』を持った術者が『出』の巻物から出てくる仕様らしい。

 

「あいたたぁ……」

「——ばか野郎っ!」

「っ!?」

 

 即座に上体を起こすと、ザンゲツに向かって怒声をあげた。

 

「なんで巻物から離れて立ってねえんだ! それぐらい気ィ利かせろ!」

 

(これがリディアなら……くそっ!)

 ザンゲツともみくちゃになって、互いの顔がほぼゼロ距離まで接近した。

 これが怒鳴った原因であるが、完全なる八つ当たりである。

 

「な、何と言う無茶をおっしゃられるのです! 実戦では嫌でも巻物を持ち歩くことになるのですぞ!?」

「……」

 

 あまりに理不尽だと思ったのだろう。ザンゲツが厳しい口調で反論に出てきた。

 

 指摘はもっともだ。

 しかし、よくよく考えたら、『出』は待ちの状態でいいのではないか?

 わざわざザンゲツが持ち歩く必要がないのではなかろうか?

 

「……決めた。『出』は飛空艇に残す」

「お、お待ち下され!? そのおっしゃりようですと、拙者は置き去りにされると言うことではありませぬか!?」

「やることやったら飛空艇戻って、巻物見張っとけ!」

「いや、ですから先に戻れるかどう……っ、ひ、ひいぃぃっ!?」

 

 突然ザンゲツが顔面蒼白になり、がたがたと身体を震わせ始めた。

 自分だけカルミネに置き去りにされるのが、そんなに嫌なのか?

 

「おい、どうした」

「お……お館様! う、後ろを!」

「なんだよ、うっせえ奴だな……」

 

 まるで化け物でも見たかのように、ザンゲツが怯えている。

 エッジが渋々ながら、後ろを振り返ると……。

 

 

——午後4時半

 

 

 エッジは現在隠密状態で、カルミネ内部の1階を経由して地下2階に潜入中である。

 リディアがいる場所は、イザヨイが入ることが出来なかった地下3階だと思われる。

 

 ここまでの道のりで、各部屋と廊下に青い撒菱をばら撒いてきた。

 屋外にいるザンゲツのおびき寄せに反応して、館内にいる者が外へ向かうだろう。

 ばら撒いてある撒菱に封印されるとは知らずに。

 

 ある一室の扉をそっと開けてみれば、白衣を着用した研究員らしき男がふたりいる。

 どちらも椅子に座って何をする訳でもなく、ぼうっと前を見ているだけ。

 

 地階の人間は全員人形のような者ばかりだ。

 そう思いながら、エッジは扉の隙間に手を差し入れる。

 それと同時に、親指大の大きさの青い撒菱を床に転がして再び扉を閉めた。

 

『ばら撒き終了』

 

 この施設の内部状況は、事前に頭に叩き込んである。

 壁に沿って先を進んでいると、真正面から3、4人ほど男たちが歩いてきた。

 みんなうつろな目をしており、一言も口を利かない。

 

『もっと作っときゃよかったな……』

 

 最後の青い撒菱を、その男たちの足元にぽいっと投げつける。

 一瞬にして、彼らの姿が撒菱に吸い込まれるかのように消えていった。

 

 後発部隊のゲッコウとイザヨイの腕には、エッジの血を身体につけてある。

 そのふたりに撒菱の回収を任せて、先を急ぐ。

 

 程なくして、通路の突き当たりに到着して壁の前で立ち止まった。

 

(これか)

 延々と白が続く壁のある部分に、ぱっと見ではわからない筋が入っている。

 大きな長方形を象るそれはイザヨイの報告通り、地下3階への隠し扉だ。

 中心を押さえて目一杯力を入れる。

 すぐに、音もなくその部分だけ左側に動いた。

 引き扉の向こう側には、下に続く階段があり、エッジは先を進む。

 

「……ちっ、時間切れか」

 

 等間隔に篝火が置かれているおかげで、ひょいひょい階段を降りる。

 その途中、身体が煙に覆われて隠密状態が解除されてしまった。

 

 どっちみちリディアを確保したら、とっとと脱出するだけなので、まあいい。

 そう思っていたら、視界に白い扉が入ってきた。

 

 扉の前に立ち、中の気配を辿ればリディアのそれをうっすらと感じる。

 他には誰もいないようだ。

 エッジはひとつ息を吸うと、ゆっくりとドアノブを回して扉を開いた。

 

 —— —— ——

 ここまで作戦は順調に進んでいた。怖いぐらいに。

 上手くいくだろうと思っていた。

 それがまさか暗礁に乗り上げるどころか、エッジとリディアの関係を大きく変えてしまうとは。

 —— —— ——

 

§

 

 地下3階。

 異様に広い室内は白い床以外、荒削りの岩壁に囲まれている。

 リディアは唯一の調度品である白いベッドの中央に座っていた。

 

「リディア!」

 

 名を呼ばれても、リディアは物言わず微動だにせず、こちらを見ている。

 紺青の瞳は、ガラス玉のように無機質に光っている。

 表情も、何の感情も入り混ざってない無を漂わせている。

 上階にいた者たちと同じ、『操り人形』だ。

 

「おい!?」

 

 そんな状態のリディアが、突然どこからか短剣を取り出した。

 両手で自身の喉元に刃先を突きつける。

 自死を図ろうとしているのが、誰の目にも明らか。

 これは敵の罠だとわかっていても、エッジは動かずにいられなかった。

 

「っ、させるか!!」

 

 一切躊躇することなく、リディアの元に向かって駆け出した。

 あともう少しで、リディアの身体を取り押さえることが出来る距離に近付いた、その時。

 

「……っ!」

 

 リディアの首の近くできらりと輝いていた刃が、視界からふっと消えた。

 その直後、右の額から頬にかけて引き裂かれるような衝撃が走る。

 リディアの手から短剣が滑り落ちて、かしゃんと大きな音が立った。

 

(……目ぇやられたか)

 咄嗟に右手で顔半分を押さえると、ぼたぼたと紅い滴がこぼれ落ちていく。

 一瞬、何が起こったのかわからなかったが、それで状況を把握した。

 リディアが次に何をするかわからないから、傷付けられても冷静でいられた。

 

「エ、エッジ……」

「リディア。元に戻ったんだな……」

 

 名を呼ばれて、声の主を見やった。

 リディアの紺碧の瞳が、じわじわ潤んで水面を揺らしている。

 『操り人形』のままなら平然としているが、今は良くも悪くも感情を取り戻している。

 いつものリディアだ。……術は解かれた。

 エッジがほうと安堵の息をついた矢先、リディアの表情が大きく歪んだ。

 

「っ……う、っ……」

「どうした、リディア」

 

 リディアがすぐさま両手で顔を覆ってしまい、がくがくと身体を震わせる。

 

「ど……どうしよう……エッジ……あ、あたし……」

「違う。これはおまえがやったんじゃねえ」

 

 エッジに傷を付けた人物を、リディアが知ってしまったら自責の念に駆られてしまう。

 それだけは避けなければならない。

 エッジが血に塗れていない左手で、リディアの肩に触れようとするも……。

 

「嘘言わないで!!」

「な……」

「あたしが、エッジの顔に……傷を付けたのっ……!」

 

(気付いてるのか?)

 リディアが何度も頭を横に振る。

 その度に顔を覆う指と指の間から、ぱらぱら雫が飛び散っていく。

 エッジはひどく動揺するリディアの右肩に、再び左手を軽く添えた。

 

「おまえは操られてただけだ。混乱と一緒だ」

「全然……違う、一緒じゃない……ごめんなさい」

「こんな傷、どうってことねえ。気にすんな」

「無理だよそんなの……!」

「……リディア」

「エッジの目が……見えなくなったら……あたし、どうしたら……」

 

 これ以上、リディアを不安にさせてはいけない。

 左手でリディアの頭を撫でながら言葉をかけてあげた。

 しかし、リディアは顔から手を離そうとせず、泣き止む気配がない。

 エッジの言うことに耳を傾けようともしない。

 それでも、身柄は確保出来た。早く安全な場所へ連れて行ってやりたい。

 

「……ごめんなさい……」

「ここでうだうだ言ってもしょうがねえ。さっさと逃げるぞ」

「許し……」

 

とさり

 

「リディア?……リディアっ!! おいっ、どうした!!」

 

 突然リディアが意識を失くして、ベッドに横たわった。

 エッジはその身体を必死で揺さぶるが、目を覚ます気配はない。

 

「!」

 

 揺さぶり続けていると、ふたつの気配が扉とは違う方向から近付いてくる。

 この部屋のどこかに隠し扉があったようだ。

 

「まさか、ここまで取り乱すとは思いもしませ」

「——誰だっ!!」

 

 声の方向——後ろを振り返り、さやから抜いた村雨を真っすぐ突きつけた。

 刃の先には、エッジと大差ない顔を持った丸腰の男性。

 その後ろには、白いフードをかぶった白魔道士と思われる若い女性。

 目の前にいるふたりは、先日イザヨイがこの部屋で目撃した者たちだと確信した。

 

「その傷は私からの贈り物です。喜んでいただけましたか?」

「てめえは……」

「はじめまして、エブラーナ王。私はエミール・ジェラルダインのひ孫。エミール4世とでも呼んでいただければ」

 

 こちらの威嚇をものともせず、男が作り笑いを浮かべて自己紹介を済ませた。

 一方、白魔道士の女は、明確な敵意を持ってエッジをにらみつけてくる。

 エミールの術にかけられているのだろう。リディアを眠らせたのも、おそらくこの女だ。

 

「リディアを囮に使いやがって! 卑怯だぞ!」

「彼女はよい働きをしてくれました。少し眠っていただきます。これ以上手を出しませんから、ご安心を」

「……リディアを使ってまで、ここにオレを引き寄せた目的は何だ? 相変わらずエブラーナが欲しいのか?」

「ええ。あなたを殺してでも」

「なら、オレにさっさと刺客を差し向ければいいだろ?」

「刺客の命が無駄に消えるだけです。余計な殺生は好まない主義ですから」

「……だろうな。人体実験用の人間ですら死刑囚を裏取引で集めてたぐらいだ」

 

 エッジは、カルミネが行っていた身柄の裏取引の事実をエミール本人に突きつけた。

 その情報源は、旅で知り合った仲間——セシル、ヤン、ギルバートである。

 

 —— —— ——

 エッジとセシル、ヤン、ギルバートは年に一度、会合と称して顔を合わせている。

 

『おまえらの国は、カルミネと変なことで関わってねえよな』

 

 昨年エッジは、その会合中にセシルたちへそう話した。

 その結果、ここ数ヶ月の間に、3人から自国でカルミネと死刑囚の身柄の裏取引があったと報告をもらった。

 更に一昨日、トロイアでも同じ事例があったという情報をセシルからもらったばかり。

 —— —— ——

 

「彼らはいずれ確実に死ぬ運命。その時期が更に早くなっただけです。未来や可能性のある者を無作為に殺すことを考えたら……」

「それでも、人殺しには変わりねえぞ!」

「それは、あくまでもあなたの倫理観に過ぎません」

「っ……」

「人体実験、身柄の裏取引を禁止する法律は、どこの国にも存在していません。法に触れていない以上、あなたにとやかく言われる筋合いはありませんよ」

 

(……狡猾な奴だ)

 勝ち誇ったように笑うエミールに、苛立たしい思いでいっぱいだ。

 

 —— —— ——

 死刑囚の人体実験使用は、倫理的に大問題だ。

 しかし、身柄の裏取引と共に、どこの国でも違法と認められておらず、黒に近いグレーゾーン。

 よって、カルミネはリディアをさらうまで、明らかに違法だと取れる行為を侵していなかった。

 エッジがここまで表立って動かず、情報収集に徹していたのは、それが理由である。

 —— —— ——

 

「殺生好まねえとこだけは、初代国王と一緒か」

「その言葉、そっくりそのままお返してあげます。誰ひとり殺めずに、ここまで辿り着いたのですから」

「……」

「元を辿れば初代国王に繋がるのですから、そうなるのも致し方ないでしょうね」

 

 —— —— ——

 古来よりエブラーナ大陸では、領土拡大を巡って部族同士の争いが絶えなかった。

 100年ほど前、南東部の部族の長をつとめていた男性が大陸統一を掲げた。

 彼は対立する部族の長と話し合い、吸収合併を進めて領土を広げていった。

 一度も争いを起こさず、一滴の血も流さず。

 数年掛けて悲願を達成した男性は、国を興し、エブラーナ初代国王の座についた。

 —— —— ——

 

 命を無駄にしない。

 初代国王のそんな精神が、彼の血を継いだ者たちの遺伝子にも刻まれていると思われる。

 エッジや、エッジの目の前にいるこの男にも……。

 

「んで、オレを殺して前科二犯になるつもりか?——『初代』エミール」

「……何のことでしょう?」

「王族で碧い目を持った奴は、初代国王の息子エミールが最後だ。次に現れるとしたら、早くて50年ぐらい先になる」

「30年前、彼のものを移植したのですよ。こんな綺麗な目をむざむざ土に返すなんてもったいないでしょう」

 

 碧い瞳は崇高だと尊ぶかのように、エミールが誇らしげに右手で右目を抑えている。

 

「きれいな目なのに、片方だけか? 中途半端だな」

「っ……」

 

 エッジから指摘されるやいなや、エミールが表情が強張らせた。

 

「つーか、両方残したくても出来なかったんだよな」

「なに……!?」

「てめえとひ孫の魂を入れ替えるのに、1個犠牲にしちまった。——だから片目しか残ってねえんだ」

「っ、なぜそれを!?」

「初代国王が、オレの前に現れたんだよ……エブラーナ秘伝忍術書からな」

 

 ***

 

 あれはカルミネに乗り込む数時間前。

 エッジが執務室で秘伝忍術の準備をしていた時だった。

 ザンゲツに言われるがまま、後ろを振り返ってみれば、青い光が見えた。

 光源は机上に置かれたままだった、エブラーナ秘伝忍術書。

 光は執務机を包むようにどんどん大きくなっていく中、男性の残像が現れた。

 はじめ、残像は現れて消え、現れてを繰り返していた。

 やがて、姿をその場に留めた残像は自らをエブラーナ初代国王と名乗った。

 

 初代国王の容姿は、エッジとよく似ていた。違いはひげがあるかないかぐらい。

 いくら先祖だからと言っても、遺伝子が強すぎるのでは……。

 あ然とするエッジに、初代国王は一方的に話し続けた。

 

 —— —— ——

 この残像を見ているであろうそなたは

 さぞや能力が非常に高く、好奇心がてらに術を全て試した者か

 この書に記載されている術を使わざるを得ない状況に陥っている者

 そのどちらかだと思われる

 

 我がジェラルダイン家には、100年から200年にひとりの割合で

 海の底のような瞳を宿す者が生まれてくる

 当家ではその瞳を『深海の碧』と呼んでいた

 

 ジェラルダイン家の血を引く者は元来、非常に心の強い者が多く

 心で人を動かし、その者たちと協力し、エブラーナ南東部を治めてきた

 しかし、『深海の碧』は他者を強制的に懐柔させる力を持っている

 いわゆる洗脳というもので、この術に惑わされないのはジェラルダイン家の血縁者だけ

 

 その瞳を持つ者を私はひとりだけ知っている

 あれは非常に危険な男であった

 我が息子なのに正しき心に導いてやることが出来ず、心残りでならない

 

 『深海の碧』の恐ろしさは洗脳だけではない

 『深海の碧』を持つ者は、自身の眼球ひとつを代償として

 自身とジェラルダイン家の血縁者の魂を入れ替える術が使える

 身が朽ち果てる前に術を使えば

 通常の人間よりも、はるかに長くこの世界に留まることが可能

 あの者なら自身の欲を果たすために、この術を使うであろう

 

 他にも『深海の碧』を持った者は、この世に生を受けた時点で

 まるで赤子が成長ししてひとりで地に足を着け歩けるがごとく、術の存在を知っている

 なんの修行もせずに術を使いこなせてしまい、人としての成長に悪影響を及ぼしかねない

 これらの理由から、私は『深海の碧』は忌まわしき瞳だと考えている

 

 私は『深海の碧』を持って生まれてきた息子を上手く誘導して力を使わせることもなく

 大陸統一を果たし、国を興すことが出来て満足していたが

 あの者は次の国王の座を欲して次第に本性を現すようになった

 

 私はもう長くない

 あの者の消息がわからぬまま、この世を去らねばならない

 

 未来の国王よ

 私はそなたに出来る限りの知恵を絞って、この書と残像を遺した

 どうかあの者か

 未来に現れたかもしれぬ、邪な心と『深海の碧』を併せ持つ者に

 引導を渡してやってくれ……。

 —— —— ——

 

 話し終えると残像は消えて、二度とエッジの前に姿を現すことはなかった。

 

 ***

 

「あの男……! 最後の最後まで、余計なことを!」

 

 エッジが初代国王の言葉を簡略的に説明している間。

 エミールは、終始顔を紅潮させて歯ぎしりを起こすぐらい憤慨していた。

 

「初代国王の息子エミールは、死ぬ前に目を1個捧げて、ひ孫の身体と入れ替わった。ひ孫の魂はエミールの身体に移って、そのままエミールとして死んだ……大方そんなとこだろ?」

「その通りだ。エブラーナを手に入れるまでは死んでも死に切れないからな」

「へっ、せっかく『深海の碧』持ってんのに、もったいねえな。それ使ってエヴァンを支えてやれただろ」

「笑止! 私は選ばれた者だぞ!? なにゆえ国王の補佐などつとめねばならないのだ!?」

 

 自身の持つ力を暴かれ、偽る必要がなくなったのだろう。

 エミールの口調が一転して尊大なものに変わった。

 

(こりゃ国王以前の問題だな。いや、人としても……)

 どうやらこれがエミールの本性だと思われるが、人格、性格に問題がありすぎる。

 

 自身の延命のために親族まで犠牲にしたぐらいだ。

 自分以外の者はモノ同然。そんな認識を持っているようだ。

 

 エッジはエミールをにらみつけると、はんと鼻であざ笑ってやった。

 

「エヴァンが次の国王に指名されたのもうなずけるってもんだ」

「何!?」

「てめえは国王という位が欲しいだけだ」

「それのどこが悪い!」

「民を思う心がねえ奴は、国王になる資格はねえんだよ!!」

「そんなものは要らぬ! 奴らはしょせん駒に過ぎん!」

 

(行けるな)

 白魔道士の女は、エミールの少し後ろで杖を構えて待機している。

 エミールに命令されない限り、女は動くことはなさそうだ。

 今が初代国王の望みを叶える絶好の機会。

 

「……だったら尚更だ。てめえにエブラーナを渡すわけには行かねえ!!」

 

 それはまるで閃光のような速さだった。

 エッジは叫ぶと共にエミールの懐に飛び込み、右手の村雨を上空へ振り上げる。

 エミールの右額から右頬へに向かって、村雨を一気に振り下ろしてから。

 即座に柄を握り直して、右目を下から切っ先で突いてやった。

 

「うああああっ!!」

「……これでおあいこだ」

 

 エミールが身体をよろめせながら、右手で右の顔半分を押さえた。

 そこからだらだら血が流れて、床に紅い染みを作っていく。

 

 余裕のない今のエミールが命令を下せる訳もなく、女は無表情で立ち尽くしたまま。

 エッジが村雨の刀身を振って血を切ると同時に、エミールはその場で崩れ落ちた。

 

「き、貴様……! 化け物か!」

「これぐらい片目でも余裕だ。もう術は使えねえなぁ」

「……うっ!」

 

 エミールの胸ぐらをがっとつかんだ。

 すぐに右手を高く上げて、村雨の切っ先を彼の喉元へ突き付ける。

 

 『深海の碧』をこの世から完全に消せば、これ以上エミールは好き勝手出来ない。

 ようやく、忌まわしい愚息の目が消えた。

 初代国王も、あの世でそう安堵しているだろう。

 

「心を操る術ってもんはさ。術者自ら術を解除するか、元を潰すってのがお約束だろ?」

「……っ」

 

 ここまでエミールは、何の抵抗も見せずやられるがまま。

 『深海の碧』の力に依存して、何の修練を積んでいないと見て取れた。

 

「それでも無理なら、てめえの命を消しゃいい……違うか」

 

 物言わぬエミールの反応からして、やはり目の破壊が術の解放条件だったようだ。

 『操り人形』と化していた施設の者たちも、やっと自身を取り戻したに違いない。

 

「……くくっ」

 

 エッジが村雨を突きつけて、威嚇し続けていたにもかかわらず。

 突然エミールが、身体をぶるぶる小刻みに震わせながら笑い始めた。

 

「何がおかしいんだよ」

「半分は正解だ。——おい! 私を守れ!」

「かしこまりました」

 

 表情が一変したエミールの命令により、白魔道士の女がエッジの方へと向かってきた。

 彼女が未だエミールの術から解放されていないのは、見て明らかだ。

 

「ちっ!」

 

 最後の『深海の碧』を潰されたエミールよりも、女の方が厄介。

 エッジがエミールの身体を床に投げつけるかのように放り投げ、村雨を構え直したその時。

 

どくり

 

「……!?」

 

(なんだ、これ……)

 視界が一瞬ぐらつき、強い動悸と共に全身に得も言われぬ不快感がエッジを襲う。

 まるで血が赤から青にでも変わったような、身体の構造そのものが捻じ曲がったような……。

 

 不快感はすぐに消失した。

 ところが、今度は全身に渡ってひどい脱力感に襲われる。

 握力を失くした右手から村雨がずるりと滑り落ちて、その場に金属音が鳴り響いた。

 

「……っ!」

 

 その場で両膝を折ってひざまずいた瞬間。胸に強い衝撃と痛みが走った。

 そのまま後ろへ倒れて、げほげほと咳き込む。

 吐血は見られないので、肺の損傷は免れたらしい。

 

 左目を開けると、目の前には杖がある。

 どうやら、ひざまずいた時に出来た隙を見て、女がエッジの胸を杖で突いてきたらしい。

 

「っ、ふふっ……あはははっ、ははははっ!! 予想以上に発現が早かったな!!」

「……!」

 

 狂ったように高笑いするエミールに言い返そうとしたが、声が出ない。

 おぼつかない右手で簡単な印を結んでみたが、風ひとつ吹かない。

 忍術も使えなくなってしまったようだ。

 

(混合毒か……!?)

 攻守交代とばかりに、エミールが立ち上がる。

 すると、さげすんだような目で、上から見下ろしてきた。

 

「短剣に毒を塗っておいた。一歩間違えたらあの召喚士は死んでいただろう」

「……っ!?」

 

 やはり、身体を張ってリディアを止めて正解だった。

 リディアの死は、幻獣という恩恵が地上から消えることを意味する。

 幻獣界と地上の橋渡しが出来る人間は、リディアただひとりしかいない。

 

「こうしているうちに、体力や生命力や知性が根こそぎ奪われているはずだ。今は顔面だけだが、身体中が澱んだ緑に染まれば、貴様は地獄行きだ」

「……!」

「どうだ?? 素晴らしいものを開発しただろう?」

 

(くそ……唾、吐き捨ててやりてえのに……!!)

 してやったりの表情で笑いながら、エミールがエッジの顔に近付いてきた。

 この男が関わっていた実験は、現在進行形でエッジを追い詰めている毒の生成だったようだ。

 

「実験体ではわからなかったが、まさか減らず口も叩けなくなるとは思わなかったな。まあ、資料は全て消し去ってやったから今更だが」

 

(こいつ……まさか、オレを殺すため『だけ』に……)

 傭兵の育成はおろか、状態異常防止薬品の開発……。

 全て、エッジを殺すための道具でしかなかったのだろうか。

 そうだとしたら、王位継承者に対するエミールの私怨は、もはや異常を通り越している。

 

「杖を下げろ」

「はい、エミール様」

「命令だ。証拠隠滅しろ」

「かしこまりました」

「終わったらここから脱出し、以後エブラーナに捕まらないよう逃亡を続けろ。——行け!」

「かしこまりました」

 

(くそ! 逃げられちまう……!)

 女がエミールの命令に機械的に返事をしてから、その場を離れる。

 そして、最初にこの部屋に現れた時に通ってきた隠し扉から外に出ていった。

 これでは、エッジと同じルートでここにやってくる予定のイザヨイたちとは接触しない。

 

「さて……」

 

 エミールが腰をかがめて、自身の足元に転がっている物体をつかんだ。

 それは、エッジが手放してしまった村雨の柄であった。

 

 村雨の持ち主が、その刀でとどめを刺されてしまうなんて、何という皮肉。

 そんな予想をよそに、エミールが冷笑と嘲笑ないまぜの表情を浮かべた。

 

「今更エブラーナの覇権を貴様から奪ったところで、『深海の碧』がない以上、先は見えている」

 

 エミールがそう告げると、エッジを見下ろしながら自身の首に村雨の刃を当てた。

 先ほど、リディアが短剣を喉元に突きつけた時とは違う。——本気だ。

 

(自決するつもりか!?)

 この男が死んだら、何もわからないまま終わってしまう。

 エッジを殺すためだけに、このカルミネを運営していたのか。

 あの女の洗脳を解く方法や、ルゲイエのことも……聞きたいことが山ほどあるのに。

 

「この先、苦しみに苛まれる貴様を見たかったが……ようやく積年の恨みを晴らせた。この世にもう未練はない。——地獄で待っているぞ、エブラーナ王」

 

 エミールがそう言い終えた瞬間。

 声ひとつ出さず、躊躇せず。エッジに笑みを見せながら、村雨で自身の首をかき切った。

 

 首から紅い液体を勢いよく噴き出しながら、仰向けに倒れていく。

 

(もう二度と『深海の碧』は、この世に現れねえ……)

 身体を動かせない。声も出せない。

 エミールを止める術を何ひとつ持っていなかったエッジが出来たことと言えば。

 返り血を浴びながら、左目で一族を翻弄し続けた男の最期を見届けたことだけであった。

 

§

 

 エミールの自決を止められなかった。

 そんな悔いはさておき、リディアの安否を確認しなければならない。

 

「……っ」

 

 力が入らず、エッジはその場に目を閉じて顔を突っ伏した。

 聴覚を研ぎ澄ませると、すうすうと寝息を立てている声が聞こえてくる。

 女に睡眠状態にされてから、何も手出しはされていないようで、胸をなでおろした。

 

 リディアの安否が判明して、気が緩んでしまい、少しずつ意識が濁っていく。

 身体の痛みはほとんどないが、温は冷へ、動は止へ。

 生きている実感が失われて、着実に死へと向かっている自覚がある。

 常人なら、今頃発狂しているのではないだろうか。

 

 エッジは数年前から、国王である自分がいつどうなってもいいように、少しずつ国の制度を変えている。

 今ここで死んでも、エブラーナはなんとかやっていけるだろう。

 それでも……。

 

(まだ……死にたくねえ……!!)

 あと少しで終わるエブラーナの復興を見届けて、次の者に託すまでは。

 それに地獄なんぞ行ったら、二度とリディアの顔を見ることが出来なくなる。

 最後に交わした言葉が『ごめん』『許して』なんて……。こっちこそごめんだ!

 

「こ、これは、睡眠状態……?」

「お館様っ!!」

 

 突然、ばたんと扉が開いた音に続いて聞き慣れた声が耳に届いた。

 女性の声はイザヨイ。真っ先にエッジの元へやってきた。

 もうひとり、男性の声——ゲッコウは、リディアの元へ向かい、安否を確認しているようだ。

 

【……万能薬は、無理だ……回復で……時間を延ばしてくれ】

「万能薬が効かない!?……わ、わかりましたっ!」

 

 エッジは声が出せないため、読唇術でイザヨイに時間稼ぎを伝えた。

 

「お願いです……どうか、死なないでください……!」

 

 イザヨイが白い光をまとわせた手のひらを、エッジの身体にかざしてきた。

 回復術を使ってくれているようだ。

 

(地獄に行くのが、ちょっと遅くなるぐらいだな……)

 しかし、今のエッジが侵されている毒は、特殊なもの。

 イザヨイの術や、白魔法で回復してもらっても、一時しのぎにしか過ぎない。

 エッジは体感的にそう感じ取っていた。

 

【イザヨイ】

「はい」

【……ゲッコウ、伝えろ……万、能薬……リディアを起こ……せ……】

「はい。——ゲッコウ! リディア様に万能薬を!」

「今使ったところだ!」

 

(予想通りだな……)

 視界がかすむ中、部下ふたりの仕事ぶりをぼんやりと眺める。

 

 —— —— ——

 イザヨイはエッジの肌の色を見て動揺したのか、真っ先にこちらへやってきた。

 敬愛するお館様の最大のピンチに、無意識でそういった行動を取ったのかもしれない。

 しかし、『リディアの救出が最大最優先』と事前に打ち合わせしたはずなのに……。

 

 一方、ゲッコウはエッジの意を裏切らず、すぐにリディアの元へ駆けつけた。

 回復と変化の術を使えない、未だ結婚相手が見つからない。

 それらを除けば、ゲッコウは優秀な忍だとわかっていたが。

 指示される前に、リディアへ万能薬を使うとは、いい意味で予想外であった。

 —— —— ——

 

 部下たちを評価しているうちに、更に意識が朦朧としてきた。

 走馬灯のように、最初にリディアと出会った時の情景が頭をよぎる。

 

 —— —— ——

 当時エッジは、今のように朦朧とした意識の中で。

 回復魔法を使ってくれるローザ……ではなく、視線を向け続けていた。

 そこにいたのは、ローザの背後で様子を見守ることしか出来なかったリディアだった。

 —— —— ——

 

「……様……リディア様……!」

 

 リディアを起こしているのだろう。ゲッコウの声がかすかに聞こえてきた。

 エッジも意識がうつろになりながらも、リディアの目覚めを願い続けるのであった。

 

(オレを……助けられるのは……おまえしか……)

 

.

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