フェイクラバーズ 作:かえで
——午後7時半
濃紺一色で占められた夜空という名の大舞台。
本日の舞台の主役である、満ちた月が明るい輝きで地上を照らし続けている。
一方、普段主役をつとめている幾千の星々は、名もなき群衆役に徹している。
「きみも早く帰りたいでしょ。見送りがてら話聞かせてちょうだいよ」
ミゼルが右手に黒い四角柱のものを吊り下げて、自宅から出てきた。
ここで事情説明しようと思っていたら、わざわざ気を使ってくれたようだ。
「なあ、それ」
発着場へ歩き始めてすぐに、ミゼルが吊り下げているもの——ランタンを指差した。
そのランタンは、側面は前面以外、黒く塗り潰されている。
上に乗っかっている屋根が傘のように幅広く、一般的な形とは程遠い。
それでも、前面からゆらゆら揺れる炎がミゼルの足元を照らしている。
「え?」
「持てるようになったのか」
ミゼルは炎恐怖症。
手持ち灯りも持てないから、ランタン持ち係の妻同伴でないと夜道を歩けない。
リディアからそう聞いていたのだが……。
「ああ、これはね。ぼくの、ぼくによる、ぼくのためのランタンなんだよ」
ミゼルが右手を高く上げて手製のランタンを見せてくれた。
—— —— ——
『いい加減、夜もひとりで歩きたくなってきたろ』
ある日。妻のジャンヌからそうたずねられて、ミゼルは思いついた。
炎が極力目に入らないランタンを自作しよう、と。
—— —— ——
(なるほどな……)
それから1年近くかけて、改造を重ねた結果。こんないびつな形になったという。
「よかったな、進歩したじゃねえか」
「早く普通のランタンを持ちたいんだけど、なかなかねぇー」
「ちょっとずつでいいんだよ。時間が特効薬って言うしさ」
光源、調理、入浴……。人と炎は非常に密着している。
その一方で、不始末や火災、兵器や魔法などで、人は簡単に炎の餌食となってしまう。
ミゼルは6年前の火災が原因で、炎を全く受け付けない生活を強いられてしまった。
現状、妻の支えがないと日常生活もままならない。
それでもこのランタンは、ミゼルの心の傷が少し癒えた証だと思う。
「ジャンヌさんが、突然死んじゃったらどうしようって、たまに焦っちゃうんだよなぁ」
「あいつがそんなタマかよ。雑草みてえにびくともしねえ」
「っ、確かに……はははっ!」
伴侶が散々な言われようだというのに、ミゼルがけらけら笑っている。
これでも、エッジなりの褒め言葉である。
ミゼルは笑いがおさまると急に立ち止まって、エッジに頭を下げてきた。
「リディアさんを助けていただいて、本当にありがとうございました。心よりお礼を申し上げます」
「こちらこそ、自国の内輪もめにリディアを巻き込んでしまい、心よりお詫び申し上げる」
「……朝は悪かったね。きつく言ってしまって」
これはミゼル個人としてよりも、村の長としての御礼。
そう察して儀礼的な話し方で答えたら、ミゼルの口調が元に戻った。
「上の立場なら、ああ言うのが当たり前だ。おまえ有能なんだから、もっと自信持て」
「いやあ、褒めてくれてありがとう……それよりさ」
「あ?」
「その顔……大丈夫なの?」
心配そうな声でミゼルが指さしてきた先は、エッジの顔半分を覆う包帯。
時折ちらちらこちらを見てきたから、いずれ言及するだろうとは思っていた。
「大したことねえよ」
「……本当?」
「ああ。部下が大げさに巻きやがったんだ」
わざとらしく首をすくめながら、堂々と嘘をついた。
包帯が外れたら、嫌でもバレるとわかっている。
それでも、こちらの問題で負った怪我をミゼルにひけらかす意味がない。
「大事にされてるね。国王さま」
「あっ、そうだ。経緯話しとかねえとな——」
即座に話を切り替えてから、歩きながらここまでの経緯をミゼルに話した。
「……ってことで、あいつの顔。またのぞきにくるからさ」
「うん。明日ジャンヌさんに頼んで、病院に連れて行ってもらうよ」
「すまねえな。本当ならこっちでしなきゃいけねえのに……」
「わざと不義理を働いた訳じゃなし。謝らなくていいよ。リディアさんもわかってるでしょ」
ミゼルが間延びしたような声でそう話したが、それに答えず黙り込む。
いつもなら『おう、そうだな』と答えるところだが、今は不安でいっぱい。
なぜなら、カルミネに救出に向かってから、リディアとまともに話が出来ていないから。
本当は、ふたりで顔を突き合わせて話し合いたい。
しかし、実現する日が来るかどうか現段階では定かではない。
ざり、ざりっと、ふたりが地面の土を蹴る音だけが辺りに響く。
そんな中、突然ミゼルにぽんと肩を叩かれた。
「心配しなくても大丈夫だよ。あの子のことだから、なんにもなかったように、花火見てアイス食べて、きみと一緒にはしゃいでるって」
「……それならいいけど、な」
「今年も、楽しみだよねー」
ミゼルがランタンを軽く振りながら、すたすたと先を歩いていく。
昨年の花火大会終了後。ミゼルと裏方5年契約を結んだ。
今年は契約1年目。リディアが今年も住民と一緒に喜んでくれる自信はある。
……例え、リディアのエッジへの対応が今と変わらなかったとしても、だ。
しばらく、特製ランタンの薄暗い光を頼りに、暗い夜道をお互い無言で歩いていた。
すると、ミゼルが急に立ち止まり、こちらを振り返った。
「ところでさ」
「なんだよ」
「『エブラーナ国王さま』に、折り入って提案したいことがあるんだ」
「……話?」
「うん、聞いて損はしないと思うよ」
エッジは思わず眉をひそめてしまった。
わざわざ『エブラーナ国王さま』と取って付けて、この男は何を提案する気なのか……?
——午後11時
診察と傷の処置を終えてから、明日の段取りを済ませた。
あとは、溜まった書類を片付けておかなければならない。
「若様」
執務室で作業を始めてから30分ほど経った頃。
じいがまたまた執務室にやってきた。
「……なんだよ」
エッジは書類から視線を動かさず、おざなりに返事をした。
じいは10分おきに、様子をのぞきにきており、これでもう3回目である。
気遣いよりも、逆に邪魔をしにきているようにしか思えなくなってきた。
「いい加減、お休みになられた方がよいのでは?」
「全部終わったらな」
「なっ、なんと無茶をおっしゃるのですか!? お身体が保ちませぬぞ!」
「……じゃあ、じいがオレの代わりにこいつら片付けてくれんのか?」
机に載せてあった書類の束をまとめてつかむと。
声を荒らげたじいにわざと見せ付けるように、それで机をばさばさ叩いてやった。
「それは……」
「出来ねえだろ」
「っ、おっしゃる通りですな……」
昨日はバロンで1泊。本日はカルミネへ。
エブラーナ城を不在にしていた間の書類が、手つかず状態で残っている。
書類をさばく仕事は、誰にも代わってもらえない。
それを誰よりもよくわかっているであろうじいは、反論出来ない。
「若様がそこまでおっしゃるのですから……じいはもう止めませぬ。ただ、くれぐれもご無理だけはなさらぬよう」
「おう」
「では……お先に失礼いたします」
ばたん
前々回と前回と違う挨拶を残して、じいが肩を落としながら執務室を後にした。
このまま自宅に帰ると思われる。
「もう誰も来ねえだろ」
机の引き出しを開けると、青いお札がぱんぱんに詰め込まれている。
それを数枚まとめてつかむと、宙に放り投げて結界を張った。
未だ痛む右目と頬の痛みをよそに、書類作業を再開させた。
いつもはだらだらこなす作業だが、今日は文字に没頭してしまう。
それぐらいには、今のエッジは現実逃避したくてたまらなかった。
§
ところが、逃避行動のおかげで、いつも以上に作業が捗るわ捗るわ。
たった2時間もかからないうちに、全ての書類を一気に片付けてしまった。
「くっそ、終わっちまった……」
エッジは左顔半分を下にした状態で、机の上に突っ伏して目を閉じた。
左目の奥が酷使で熱を持ち、傷付いた右目や頬がじくじく痛む。
そんな中、逃避という枷が外れたおかげで、胸が張り裂けるような思いが蘇ってくる。
5年も続いたリディアとの関わり、出会った時から含めるともう6年か。
それが、たった数秒の出来事で終わってしまうかもしれないなんて。
『過去は変えることは出来ない』から、目や顔の傷はすんなり受け入れられたのに。
これだけは、どうしても受け入れたくない。
「……リディア」
おまえは何も悪くない。そうリディアを粘り強く説得したら。
何事もなかったかのように日常が再開されると思っていた。
……あの時、イザヨイに声をかけられるまで。
***
——数時間前
『悪いのはあたしなの!……あたしが……エッジの顔に傷を付けたのっ!』
アスラがイザヨイに糾弾されるのが耐えられなかったのだろう。
リディアは大声で叫ぶと、その場で泣き崩れてしまった。
そんな彼女の元へ、いち早く駆け付けたのは意外なことにイザヨイであった。
リディアを追い詰めたことに対して、負い目を感じたのだろうか。
その直後、激しい揺れと爆発音が聞こえた。
逃げた白魔道士の仕業——証拠隠滅だとすぐにわかった。
「リディアのことを頼みますよ」
エッジにそう言い残して、アスラは幻獣界へ帰っていった。
その後、空間移動術を使って施設から脱出して飛空艇に戻る。
既にそこには、屋外にいたザンゲツが待機していた。
そして、エブラーナ城に帰るためにカルミネを離陸した直後のことだった。
「お館様!」
「どうした?」
「リディア様が、今すぐミストへ帰りたいとおっしゃっております!」
「……何だって?」
イザヨイから大きな声で呼ばれて、甲板の隅へ向かう。
そこにはイザヨイと、リディアが彼女の胸に顔を埋めながらうずくまっていた。
エッジはリディアの前でしゃがむと、こう声をかけた。
「ミストに帰りてえって?」
「……うん」
「エブラーナ、嫌になったか」
「いやじゃない。エブラーナ……好きだよ……」
「だったら城でいいじゃねえか。なんで、すぐミストに帰ろうとすんだ」
理由を何度も聞いても、「ミストに帰りたい」としか答えない。
「それでもだめだ。おまえをひとりにさせられねえ」
遊びの帰りと訳が違う。
じゃあ、またな、おやすみ。そう気軽に言い残してミストに置いて帰れない。
—— —— ——
現在リディアの知性は、アスラをフルパワー状態で召喚した代償で、たったの1しかない。
リディアはひとり暮らし。
得意の魔法が使えないとなると、普段と違って危険だ。
そもそも、あんな事件があったばかりだ。
ひとりきりで一夜を過ごさせるなど、エッジには出来ない。
—— —— ——
「今日だけでいいから、城に泊まれ」
「……それなら、おじちゃんの家に泊まる。おばちゃんも喜ぶもん」
「だったら、一旦城に寄って侍医に診てもらおうぜ。それが終わったらミゼルん家に送ってく。それならいいだろ?」
「エッジの方が先……」
「何!?」
「みんなを心配させちゃだめだよ……」
「ばか言うな! おまえが先に決まってるだろ!?」
次の目的地はエブラーナ城か、ミストか。
話は平行線を辿るばかりで、次第に苛立ってくる。
そんな中、リディアがぽつぽつとこうもらした。
「あたしは大丈夫、何ともない」
イザヨイの胸に顔を埋めて、エッジの顔をちっとも見ようともしない。
それのどこが大丈夫なのか。
いらいらが頂点に達してしまい、右手を伸ばしてリディアの肩をぐっとつかんだ。
「っ!?」
「こっち向けって」
「や、いや……」
「お館様、無理強いはおやめ下さい!」
この時のエッジは、頭に血が上っていた。
イザヨイやリディアの声は、左耳から右耳へ素通りしていく。
どうしても、リディアにこちらを向いて欲しくてたまらない。
イザヨイからリディアを強引に引きはがそうとした、その時だった。
「い、や……っ!」
ばしん!
リディアに強い力で腕を叩かれてしまった。
「リディア……」
上りに上っていた血がすっと冷めていく。
拒絶されたことに衝撃を受けながら、リディアから手を離さざるを得なかった。
「ごめん……わがままだって、わかってる。でも……早くミストに帰りたいの……」
リディアが身体を震わせながら、ぽつりぽつりと謝罪と希望を口にした。
—— —— ——
今回の事件はエブラーナ国内のいざこざが原因。
カルミネもだが、エブラーナもリディアに迷惑を掛けた。
カルミネの施設が崩壊して、首謀者のエミールが自死した今。
エブラーナは、侍医による診察や休養、さらわれた当時の状況を聴取するなど。
被害者であるリディアへ、出来る限り事後対応に当たらなければならない。
もしそれを怠れば、リディアやミスト(村長のミゼル)に義理を欠くことになる。
仮に、今回さらわれたミストの住民がリディアでなかったとしてもだ。
エッジは、その人物をエブラーナ城に連れて帰って事後対応していた。
—— —— ——
リディアが心配なのはもちろん。リディアやミストに筋を通さねばならない。
エッジはそう考えていたので、リディアをエブラーナ城に連れて帰りたかったのだが……。
「お館様、リディア様には回復術を施してあります。今は心の休養の方を優先させるべきだと……」
「お願い、エッジ……」
「……わかった。今からミストに送ってく」
イザヨイの追撃もあって、結局ミストに向かうことに決めた。
「もうちょい我慢な」
「……ありがとう」
頭を撫でてやると、リディアが小さな声で返してくれた。
それが唯一の救いであった。
その後、ザンゲツへミストへ舵を切るよう命じて、ゲッコウにこんな任務を下した。
知性が元に戻るまで、ミストで密かにリディアの護衛をつとめるように、と。
それから約1時間後。
飛空艇がミストに到着して、真っ先にミゼルの自宅へ向かった。
「今晩、ここでリディアさんを休ませるよ」
ミゼルからそんな申し出があり、ありがたく受けることにした。
すぐにリディアは、ジャンヌに連れられて部屋の奥へと入ってしまった。
最後に「ごめんね……」とエッジへ詫びの言葉を残して。
***
リディアはエッジから顔を逸らし続け、ミストに帰ると頑として譲らなかった。
これは、自責によるものではないか? エッジはそう推測している。
エッジと一緒にいると、顔に傷を付けてしまったことを嫌でも思い出してしまうのだろう。
『なんにもなかったように、花火見てアイス食べて、きみと一緒にはしゃいでるって』
ミストを離れる前、ミゼルはああ言ってくれたが、不安でたまらない。
1ヶ月過ぎても、これから先もずっと。今日のように、リディアから避けられ続けたら……。
頭をゆるゆる上げると、大きくため息をつきながら、あごを腕に乗せた。
時間が特効薬。
他人には、そんな偉そうな口を叩くくせに。
いざ自分がそうなるとこれとは。……情けない。
「いや、あいつだけは別なんだよ……」
自ら掲げる理想や信念、多少のことでは動じない精神力。
それらが、リディアのことになると、全く意味をなさなくなる。
友情以上恋愛未満の関係から全く進展せず。いつか終わりがくるだろう。
うすうすそう察していたけれど、やっぱり嫌だ。
リディアが存在しない日常なんて考えられないし、考えたくもない。
(そういや、まだ見てねえぞ)
今更ながら、思い出した。
忙しないまま、包帯をぐるぐる巻かれてしまって、顔の傷を見ていないことを。
席を離れて、部屋の壁下半分を占める引き出しがついた木製の棚へと向かう。
「確か……ああ、ここだ」
記憶を辿り、ある引き出しを開けると、中から手鏡を取り出す。
それを棚の上に置いてから、自身の右目を覆っている包帯を外し始めた。
細く白い布がぱらぱらと床の上に滑り落ちていくが、気にしない。
程なくして、包帯を全て解くと、目に当てられていたガーゼをびっと一気にはがした。
「っ……!!」
ガーゼと塞がっていない傷が癒着していたせいで、痛みが顔面を走る。
歯をくいしばって痛みをやり過ごしてから、左手で持った手鏡に顔を映した。
「……」
開けることが出来ない右目のせいで、視界は狭い。
それでも、はっきりと見えた。
右の額から頬にかけて、ズレや歪みのない赤い線が深く入っているのが。
それからも、傷をじっと見つめ続けていたら。
自ら心の深層に閉じ込め続けていた、暗く澱んだ欲の塊がじわじわあふれてきた。
まるで、灰白色が灰色へ、いずれ黒へと濃さを増していくかのように。
心の表層を占めていた、健全に偏っているリディアへの思いと混ざり合う。
「……リディア」
エッジはうっとりとするような表情で、鏡に向かって好きな女の名を呼んだ。
右の人差し指で、鏡に映る赤い傷を何度も何度もなぞり続ける。
上から下とゆっくりと、まるで愛おしむような指遣いで。
「おまえは……何も悪いことやっちゃいねえ。気にしなくていい……」
自責に駆られる小さな身体を抱きしめながら。
耳元でこの言葉をささやいてやりたい。
それでも収まりがつかないなら、苦しみなんて忘れるぐらい。
……強く、激しく抱いてやりたい。
手鏡をリディアに見立てた、エッジの語りかけはまだまだ続く。
「こいつといっしょに、死ぬまで生きていけるって思ったらさ……」
二度と消えない顔の傷は、エッジが身を挺してリディアを守った証でもある。
それをリディア自身の手で顔に刻み付けてくれた。
リディアの意志がそこになくても、この事実だけは変わらない。
「……オレはうれしくてうれしくて、たまんねえんだよ」
エッジに傷を付けたことで、自責で苦しむリディアをよそに。
リディアから傷を付けてもらい、この傷と共に一生を終えることが出来ることを。
手放しで喜んでいるなんて、誰にも打ち明けられる訳がない。
「幻滅するだろうな……でもよ、それぐらいおまえのことが……」
(好きでたまんねえんだ)
やがて、お札がひび割れを起こし始めて、ぱりぱりと音を立て始めた。
音が鳴り止めば結界が解かれて、再び監視の目に晒されてしまう。
それまでの間ぐらい、喜びに浸らせてくれとばかりに。
エッジは国王という鎧を脱ぎ棄てて、ただのエドワード・ジェラルダインとして。
手鏡に向かって、恍惚とした表情を浮かべ続けていたのであった。
§
事件の翌日。
ザンゲツとイザヨイを筆頭に、忍数名がカルミネに向かった。
施設は地上階と地下階どちらも爆破により、ほぼ原型を留めていなかった。
カルミネから逃げた女が、エミールから下された最後の命令を忠実に遂行したらしい。
現場捜索を行ったが、これと言った証拠は何も見つからなかった。
ただ施設が全壊したため、開発された薬の製造並びに流通を阻止することは出来た。
エッジがカルミネでばら撒いた数十個の青い撒菱は、全て回収して城に持ち帰ってきた。
翌朝、水洗いという所帯染みた作業を経て。施設で働いていた者が全員撒菱から解放された。
その人数は、傭兵、傭兵見習い、研究員、作業員……60名ほど。
カルミネの実態をつかむために、彼らに事情を聞かないと何も始まらない。
早速この日から、施設で働いていた者たちへの事情聴取が始まった。
地上で活動していた傭兵関連の者は、エミールの術の被害を免れていた。
ところが、地下で活動していた研究員や作業員——地下関係者は、開口一番こう言った。
「ここは一体……?」
「何があったんだ!?」
地下関係者はみんな、右も左もわからない状態。
混乱する彼らに、使用人は事情聴取よりも一から事情を説明せねばならなかった。
——救出から5日後 6の月16日
「若様、再度聞き取りがようやっと終わりましたぞ」
「どうだった?」
「やはり、エミールの目を見てからは、何も覚えていないと話す者ばかりですなあ」
「やっぱだめか」
「日が経てば、何か思い出すかと思っておりましたが……傭兵は口を揃えてあの建物に地下があったのかと驚いてますし、何の情報も得られなかったのは口惜しい限りでございます」
「金策要員に地下の情報なんざ必要ねえと思ったんだろ。だから、エミールはそいつらに術をかけなかったんだよ」
(都合よすぎるだろ……!)
じいから報告を聞いて、エッジは頭を抱えてしまった。
—— —— ——
地下関係者は、エッジがエミールの『深海の碧』を破壊したことで、洗脳が解かれた。
ところが、みな洗脳されていた間の記憶が残っていない。
傭兵関連——地上関係者は、時折現れる連絡係の指示に従い、動いていただけ。
エミールの存在も全く知らないと、全員が証言した。
§
もうひとつ。地上関係者は全員、ある男性を指さし『あいつが連絡係だ!』と口々に言った。
その男性は地下関係者で、洗脳術をかけられていた。
地上への連絡係をつとめていても、本人にはその記憶がない。
—— —— ——
そんな調子なので、カルミネの実態の全容を知るのはとても難しい。
エミールにまんまとしてやられた感が否めない。
「まさかエミールが、お館様の命を狙っていた『だけ』とは思ってもみませんでした」
「まだわかんねえぞ? 逃げた奴取っ捕まえて、話聞かねえことにはな」
「しかし、気の毒な話ですな……洗脳から解放されぬまま一生を終える可能性が高いとは」
「ああ。いくら殺生しねえったって、性質が悪りぃぜ」
—— —— ——
エミールの他人を洗脳する術は、2種類存在が確認されている。
かけられている間の記憶が残らないもの。そして、記憶が残るものだ。
前者は、施設の地下関係者。『深海の碧』の破壊が術の解除条件。
後者は、リディアやエミールの側にいた白魔道士の女。
こちらはエミール自身が解除するか、何かしらの条件が重ならないと術は解除されない。
エッジはそんな予測を立てていた。
—— —— ——
女に下されたエミール最後の命令は、『エブラーナから逃げ続けろ』だった。
ところが、術をかけた張本人はあの世に行ってしまった。
これでは偶然条件を達成しない限り、死ぬまで解除されないだろう。
「これ以上引き留めてもしゃあねえ……全員故郷に帰してやるか」
「そのことですが。傭兵上がりの者たちを中心に、今後の生活に不安を感じる声ががちらほら上がっておるようです」
「……へえ? だったら、うちでみんな引き取るか」
「なにゆえに?」
「人手が増えたら、今働いてる奴らを諜報に回せる」
国外の情勢を少しでも把握していたら、ルビカンテの強襲を避けられたはず。
だったら、各地に諜報を派遣して世界中から情報を集めたらいい。
ゼロムス打倒後、エッジはエブラーナに帰国してからそんな野望を抱いた。
人員不足でずっと先送りしていたが、ようやく目処が立ちそうだ。
「おお……! 若様の悲願が……! こ、ここまで本当に長かった……っ、うっ……」
「だからさぁ、いちいち泣くなって」
むせび泣くじいにいささか呆れるが、気持ちはわからない訳ではない。
野望と称するが、あくまでも目的はエブラーナの安全を考えてのもの。
領土拡大目的で戦争を仕掛けるつもりはないし。
他国から協力要請されたら、情報を流して相手に貸しを作ることも出来る。
「これで逃げた女も見つけやすくなるぜ」
「ならば若様。忘れぬよう似顔絵を残しておいた方がよろしいかと」
「もう書き残したぞ」
「な、何と! 若様がここまで成長なされるとは……! じっ、じいはいつでもあの世に……っ、っ……」
(どんだけ泣きゃ気が済むんだよ……)
比較対象は幼少期のエッジなのだから、成長するに決まっているではないか。
再び泣き始めたじいを、エッジはじと目で見届ける。
もはや、何の感情も湧かないぐらいには、じいはよく泣くのだ。
何にせよ、エミールの真の狙いもルゲイエの過去の動向も判明していない。
もし、白魔道士の女を捕まえたら、秘伝忍術書の記憶透視術を使えばいい。
洗脳術を解除する手がかりもつかめるかもしれない。
「ついでっちゃあ何だが、ミストと伝書鳩で連絡を取ろうと思ってな」
ひそひ草は希少で高価、しかもすぐ枯れる。
手紙は翌日以降にしか届かない。
早く連絡を取りたいのなら、今は伝書鳩を使うのがベターだ。
エブラーナとミストなら、半日もかからないだろう。
「そ、それも若様のご提案で?」
「いや、ミストの村長。この先リディアに何かあった時にうちを頼りたいんだとさ」
「ははあ……」
「将来的には、あいつのこと抜きにして、有事になったら頼りてえって言ってたな」
***
——5日前
リディアを送り届けた帰り道の途中。ミゼルがエッジにこう切り出した。
「きみもわかってると思うけど……これから、今日みたいなことが起こっても、ここの人は、誰もリディアさんを助けに行けない……」
ミゼルの指摘は正しい。
ミストの住民の大多数は、全く力を持たない一般人である。
小さな村だから、軍隊や兵を整える余裕もない。
いざと言う時に戦力と成り得る者は、リディアしかいない。
先日捕まったばかりとはいっても。力を持つ者を利用したいあくどい輩はまだ多い。
特にリディアは、現時点で世界にひとりしかいない召喚士。
そういう奴らからしてみれば、格好の的だ。
「リディアさんに何かあったら……ぼくたちミストの住民の代わりに助けて欲しいんだ」
海を越えた村の長直々に頼まれたら、断る理由はなかった。
***
「しかしながら、ミストが頼るならバロンの方がよいのでは? ここよりもよほど近いでしょうに」
「うちじゃなきゃ嫌なんだと……そいつが村長の間は、特にな」
じいの言う通り。エブラーナとミストは海を隔てており、決して近いとはいえない。
エッジもその場でじいと同じ質問をして、ミゼルに意思確認したのだ。
ミゼルはエブラーナを信頼しているが、逆にバロンへの恨みと不信感がいっぱいだった。
それもそのはず。6年前の火災で心身共に傷を負い、今も引きずっている。
いい加減、バロンを許して信頼してやれ。
エッジはそう思いながらも、本人に言えずじまいだった。
「大変光栄な話で……! ならば、ミストには諜報は必要ございせぬな」
「なんで」
「若様が頻繁に足を運ばれておるようですし、それで十分でございます」
「……まあな」
「リディア様と文通も始める事も可能ですのう?」
「んなもん、誰がするか」
(やりたいなんて言えるか!)
にやついているじいに、そっぽを向いて返事をした。
ミゼルだけでなく、じいまでそれを振ってきたかと。
—— —— ——
リディアとの通い婚もどきの関係が終わるかもしれない。不安でたまらない。
今のエッジにとって、ミゼルの提案はまるで保険か救済措置のように思えた。
顔を見るのが怖いから、もう会えない。
そう言われたら、文通に切り替えたらいい、と。
—— —— ——
エッジはそれほどまでに、リディアとの繋がりを切らしたくなかった。
だから、こうして検討をすっ飛ばしてまででも、じいに話を持ち掛けている。
「訓練、時間掛かるだろ。すぐ始めてもいいぞ」
「かしこまりました。では早速……」
各地に点在する主要施設と連絡交換するために、わざわざ移動しなくて済む。
そんな理由から、既にエブラーナでは領土内で、伝書鳩で連絡交換している。
あとはエブラーナからミスト間を行き来出来るよう、鳩を数匹を訓練するだけだ。
§
「失礼します」
じいとほぼ入れ違いで、ゲッコウが執務室に入ってきた。
「おぉ、ご苦労さん。急に置き去りにして悪かったな」
「いえ、お館様のご指示とあれば」
リディアの知性が戻ったのだろう。
5日前にミストに置いてきたが、ここに帰ってきたようだ。
「あの翌日、リディア様はバロンの病院に向かわれましたが、特にお怪我はなかったようです」
「そっか、それならいいんだ」
「一昨日から、講師のお仕事にも戻られました」
「知性が1から完全に戻るまで4、5日か……長えな」
「それまでは、ほぼ術が使えず便利が悪いと、よくこぼしておられました」
(だろうな)
今の季節、リディアは氷魔法を重宝している。
魔法が使えないと暑い中、冷たい飲み物が飲めない……。
「アスラが滅多に使うなって怒るのも無理ねえな」
「それでも、お館様が今頃ここにはおられなかったかもしれないと考えますと……お二方には感謝の言葉もございません」
「そうだな」
(なのに、あいつは……)
ゲッコウの言う通り。リディアは命の恩人である。
傷を負わせた責など、感じる必要はないのだ。
死んでしまったら元も子もない。それに比べたら傷なんてどうでもいい。
そのことをリディアはすっかり忘れている。
「他、なんか変わったことは?」
「っ……」
ゲッコウが微々ながらも、身体を揺らした。
今のエッジは、リディアの動向が気になって仕方がない。
普段なら見逃していたが、見逃す訳がない。
「おい」
「っ、特に何事も……」
「嘘つくな。何か隠してんだろ、言え」
「……そ、某は、お館様からリディア様の護衛を命じられました。ですから、その……報告する義務は……ないと思われますが……」
こちらをちらちら窺いながら、しどろもどろで答えた。
そんなゲッコウに苛立ちが募る。
ゲッコウの言い分は正しい。
護衛は対象を守ることが主たる目的。情報を盗む諜報とはまた別物である。
エッジも通常の任務なら、『そうだな』と返して、それ以上何も聞かない。
しかし、リディアのことになると話は別だ。
「オレが言えって言ってんだぞ!?」
「ひっ……!」
「いいからさっさと言えっ!!」
「それは……」
「こういう時だけ女みてえに、うじうじしやがって!! だから、おまえは結婚出来ねえんだよ!」
どん!と右拳で机を叩いたら、ゲッコウがおののいている。
エッジがリディアの事が好きだという事実は、国内外問わず有名な話だ。
もちろん、ゲッコウも知っている。もう少し気を利かせろと言いたい。
「……ほ、本日バロンで行われるダムシアン王の公演に、友人の方から頻繁にお誘いを受けておられました」
「あいつ断ってただろ?」
「はい……」
余計な一言を添えたのが功を成したようだ。
ようやくゲッコウが口を開いてくれたが、肩透かしを食らった。
(いつものことじゃねえか)
ミストの女性たちがギルバートに夢中な中。リディアは傍観を決め込んでいる。
ギルバートの歌を聴きに、一度もバロンへ行ったことがない。
「で? 他には」
「はい、もうひとつ……」
——数時間後
空の色が、橙から紫へと彩りを変えていく。
エッジは、西に沈んでいく夕陽を背に浴びながら発着場にやってきた。
真っ先に視界に入ったのは、奥で停泊中の巡回艇だった。
『……へっ、タイミングいいじゃねえか』
このまま巡回艇に乗り込めるなんて、なんと運がいい。
今の風貌とは、とても似つかわしくない不敵な笑みを浮かべて一目散に走り出した。
ところが、その数秒後。
エッジの表情から、余裕がすっかり消え失せていた。
裾が足首辺りまである、黒色のマントが足の動きを鈍らせて、思ったように早く走れない。
しかも、この季節に頭からすっぽりフードをかぶっているので、蒸れて暑苦しい。
走る度に夜色の長い髪が揺れるのも、邪魔で仕方がない。
とうとうマントを両手で持ち上げ、全力疾走に切り替えた。
「間もなく扉が閉まりま」
『——待って! 乗ります!』
乗務員に向かって甲高い声色で叫んだ。そのおかげで、滑り込みセーフ。
1分もかからないうちに、巡回艇がゆっくりと上昇した。
無事に乗艇出来た。そう胸をなでおろしながら案内所へ向かう。
『あの、すみません』
案内所のカウンターに常駐している乗務員に声をかけた。
「っ!?……ど、どうされましたか、お客様?」
『今からミストまで、どれぐらいかかるかしら?』
(しょせん一見さんだ。どうでもいいや)
乗務員が身体をびくりと震わせて、驚いたような表情を見せたが。
エッジは意に介さず、更に質問を続けた。
「そうですね。半日は見ていただいた方がよろしいかと」
『……そんなにかかるの!?』
「ええ。この巡回艇は『左回り』ですから」
(マジかよ……!)
乗務員が路線図を出して、エッジにそれを見せながら説明を始めた。
これが人生初の巡回艇。素直に相づちを打ちながら話を聞いた。
—— —— ——
巡回艇は、日々環状運転という形態で世界中を運行している。
右回りなら、トロイアとバロンを経由するだけでミストに到着する。
しかし、今乗っている左回りは逆の航路になる。
ミストまでは、トロイアとバロンを除く各地を経由するため時間がかかるという。
—— —— ——
「早くミストへということでしたら、次のアガルトで右回りに乗り換えをお勧めします」
『……どうも』
乗務員に礼を述べて、エッジは案内所から離れた。
それから、次の停泊先アガルトで乗り換えることに決めた。
せっかく脱走を図ったのに、またエブラーナに逆戻りである。
ちょっとがっかりしたが、早くミストに行きたいなら乗り換えるしかない。
とりあえず、アガルトに着くまで時間がある。
目的の場所を探すために、艇内をうろつき始めた。
しかし……。
「怖いよお……」
「しっ、見ちゃいけません」
女児が母親らしき女性に抱きついて、その女性になだめてもらっている。
それからも艇内を歩いていると、通りすがりの乗客がこちらを見てぎょっとする。
(目立たない風貌にしたはずだぞ?)
驚かれる理由がわからない。心の中で首をかしげながら歩き続けていた。
ところが、3人の女性客たちのそばを通り過ぎようとした瞬間。
「あの人、綺麗だけどなんかごつくない?」
「多分アレよ」
「ああ、アレね。巷で流行ってるみたいね」
「やだわ、キモい。キモすぎー」
非常に痛い視線。そして、ひそひそ話が嫌でも耳に入ってきた。
(キモい!?)
特に最後の女が吐き捨てた言葉は、辛辣だった。
修行を積み重ねて、研ぎ澄まされた聴覚を手放したくなるぐらいには。
『……』
(てめえに言われたくねえわ!)
年増で相当肥えたあの女より、(今の)自分の方が美しいのに!
そう腹立たしさを覚えたが、表面上平静を装いながら先を急いだ。
§
5分後、ようやく目的場所——男性用トイレを見つけた。
扉の前に立ち、周囲の気配を辿ってみる。
中には誰もいないとわかり、素早く無人の空間に入った。
すぐにフードを外して、頭を横に振ると漆黒の長い髪がぱらぱらと揺れる。
「こっちだって好きでやってる訳じゃねえんだよっ!」
そう吐き捨ててから、洗面台の前に立って今の姿を鏡に映してみた。
黒いマントに、黒く腰まで長いワンレングス。
包帯で覆われた顔の右半分は髪を流して隠している。
その反対、左半分はきちんと化粧を施してある。
即興だが『目立たないけど綺麗な女』をイメージして変装したのに!
しかも、元がいいだけあって、顔の出来は素晴……素晴らしい?
(……こりゃ、女装って思われてもしゃあねえな)
数秒じっと鏡をのぞいてから、ようやく周囲に驚かれた理由を察した。
どれだけ覆い隠しても、筋骨のたくましさと高身長はごまかしようがない。
女性の姿格好と男性特有の身体の大きさが、絶妙なアンバランスを保っている。
「いいや、エブラーナさえ抜けたらこっちのもんだぜ」
髪の毛——かつらをつかんで、ごみ箱にばさりと投げ捨ててやった。
エッジは『変化の術』を使いこなせないため、仕方なく変装した。
その結果、顔だけはなんとか誤魔化せる。
そう心の中で、及第点を付けてあげたのであった。
§
その後、さっさと男の姿に戻して、次の停泊先アガルトで一旦降りた。
待つこと30分。
右回りの巡回艇が到着し、それに乗り直す。
巡回艇の甲板後部の一部区画には、屋根がついている。
しかも、雨や風、ほこりやちりから守るように、四方が透明な素材で囲まれている。
運営会社が考案したサービスの一環だと思われる、その区画へ入った。
そして、座席に座った途端。寝たふりを決め込んだ。
目を閉じると、酷使せざるを得ない左目がじんじんと染みる。
—— —— ——
『……リディア様に……ミストの男性との縁談の話が来ていたようです」
『あいつ、それ受けたのか』
『即座にお怒りになって拒否されました。既に村長が相手方に断りを入れていたそうです。ただ、こういった話は今後も出てくるだろうと村長がおっしゃっておりました』
『……ふーん』
『し、心配なさる必要はないかと! リディア様は、好きな男性としか結婚しないと住民の前で宣言されておりましたから……』
—— —— ——
どおりでゲッコウが気を遣って、口をつぐんでいた訳だ。今更ながらそう思う。
リディアは、ミストの召喚士の血を残す目的での結婚は望んでいないようだ。
そう安堵を覚えるも、不安は完全にぬぐいきれない。
(あいつの血は貴重だ。残したい奴がいてもおかしくねえ)
リディアが独り身である限り。この先も縁談話は持ち上がるだろう。
その度にリディアが拒否するとは限らない。
相手次第では、よろめくかもしれない。
……他の男に寄り添うリディアを想像しただけで、頭がおかしくなりそうだ。
—— —— ——
この5日間、リディアを渇望して止まなかった。
何度城を飛び出したくなる衝動に駆られたことか。
幸いにも、カルミネの事後処理や仕事が枷となって、エッジを城に留まらせてくれた。
しかし、本日で一旦区切りがついてしまった。
更にゲッコウから報告を聞き終えた途端。ついに枷が外れた。
ゲッコウが執務室から去ってから、こっそり倉庫へ赴いた。
……絶対リディアに会ってやる。
とは言え、病み上がりかつ片目で飛空艇の運転はさすがに危ない。
そう判断して、仕方なく巡回艇でミストに向かうことに決めると。
変装の道具や衣装をかっさらい、女の姿に変装して脱走してやった。
—— —— ——
エッジを乗せた巡回艇は、緩やかな速度で上空を翔けてトロイアを通過した。
次の停泊先バロンの次は、いよいよミストである。
甲板に出てベランダに寄りかかると、フードを押さえながら濃紺の夜空を眺める。
黒いマントの裾が、風でばたばたとはためくのも気にせずに。
「帰ったら、慣らし運転始めるとすっか」
人生初の巡回艇にもかかわらず。もう飽きてしまっていた。
この先、何が待ち受けているのだろう。
若い頃なら、そんな期待で胸を躍らせていただろう。
それが自ら移動手段を持ってしまうと、こうも認識が変わるとは……。
歳を取ったものだ。
そうしみじみしていると、真暗だった地上に星雲のごとく小さな光の集まりが見えてきた。
バロンの発着場に巡回艇が着陸して、エンジン音が止まった。
しばらくして、興奮冷めやらぬ女性たちの声が聞こえてくる。
それと同時に、大量の浮き足立った気配が怒涛のように背後に迫ってきた。
「……ちっ」
(被っちまったか)
上空を眺めながら、小さく舌打ちした。
ギルバートのバロン公演からの帰り客が、押し寄せるかのように乗艇したようだ。
数分後、巡回艇はバロンを離陸。暗闇の中をミストに向かって突き進む。
ミストの女性も、この艇に数十人乗っているはず。
彼女たちにばれないように、リディアの自宅に向かうにはどうしたらよいか。
(るっせえなあ)
女性のおしゃべり声があちこちから聞こえてくる。
おかげで、脳内でミストを降りてからの算段を立てているのに、どうも集中出来ない。
徒党を組んだ女たちのおしゃべりは、エッジの苦手なもののひとつである。
甲高い声が神経に障って仕方がない。
早くミストに着いてくれ。そうやきもきしていると……。
「はあぁー、今年も素晴らしかったー! もういつ死んでもいいわぁー!」
「あーあ。ラルフさんかわいそう。また泣いても知らないよ?」
「楽しいんだからしょうがないでしょー。旦那とは別なのー」
「あなたが、ごはんよりお菓子を食べちゃいたくなるのといっしょなのよ」
「あっ、そういうことかぁ。だったら、アリサの気持ちわかるよ」
「おい! お菓子とギルバート様を一緒にしないでちょーだい!」
とても聞き覚えのある笑い声を耳にして、後ろを振り向いた。
その瞬間、胸の鼓動が自覚できるほど強くなった。
……リディアが仲の良い友人たちと談笑している。
(なんでここにいるんだよ!?)
押しの強い友人たちに、無理矢理バロンに連れて行かれたのだろうか?
あれほど見たかったリディアの姿を視界に入れながら。
少々の驚きと歓喜に震えるエッジをよそに、女性3人の歓談は続く。
「まさか今日になって、あんたが行くなんて言うとは思わなかったわー」
「元気そうに見えたけど、やっぱり引きずっていたのね」
「……無理言ってごめんね。急にギルバートの歌が聴きたくなっちゃって」
「いいのよー。ちょっとは元気出たでしょー?」
「うん、観に行って本当によかったよ」
リディアがほころぶような笑みを、友人たちに見せている。
いつもなら、そよ風のごとくエッジを包み込んでくれるその笑顔が。
かまいたちのように見えない刃と化して、エッジの胸を鋭く斬り付けてきた。
(オレだって……わかってんだよ)
前を向いて、フードを強く握りしめるとぎゅうと目を閉じた。
しかし、きりきりとした胸の痛みは一向に収まらない。
リディアを内紛に巻き込んで、辛い思いと自責の念を与えてしまった。
そんな自分がリディアのあの笑顔を、すぐ引き出せないことぐらいわかっている。
……わかっているけれど。
この顔を見たらリディアを悲しませるだけ。会わずにエブラーナに帰ろう。
そんな思いは、ミストに近付く度に薄れていく。
代わりに、ギルバートへの羨望や対抗心が湧き上がってくる。
リディアへの灰色がかった思いも、夜空のように黒く染まっていく。
「絶対、認めねえからな……」
ぼそりと吐き捨てたエッジの独り言は、周囲の雑音にかき消された。
リディアが、ギルバートの歌で癒されたいと自ら望んだ。
ギルバートが、ほんの数時間でリディアを癒して、あの笑顔を引き出した。
しかも、それにはエッジは一切関わっていない。
それを認めてしまったら、惨めになるだけだ。
リディアの隣に立って、寄り添って、傷を癒して、あの笑顔を引き出す。
そのために、ミストへ行って、リディアの自責を解放してやる。
同時に、決して認めたくない事実をかき消して、上書きしてやる。
エッジは夜空に両手を伸ばして素早く印を組み始めた。
しかし、周囲の客は歓談に夢中で気付かない。
もちろん、少し離れた場所にいるリディアもだ。
「……『隠れみの術』」
長い印を組み終え、術名と同名の呪文を唱え終えた瞬間。
エッジは、己の姿を跡形もなく消し去ってしまった。
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