フェイクラバーズ 作:かえで
—— —— ——
リディアが物心ついたばかりの頃。首をかしげる出来事がたまに起こった。
『その子が大きくなったら、うちの子と結婚してやってくれないか』
自宅にやってきて、母のエスタにそう言いながら頭を下げる大人が何人かいた。
その頃、リディアは同年代の子どもたちと集落の近くの小川や森でよく遊んでいた。
ところがある日、川で遊んでいたら。
一緒に遊んでいた男の子の親が突然現れて、自分の子どもにこう叫んだ。
『こんな危ないところで遊んじゃだめでしょ!! リディアが怪我したらどうするのっ!』
……そのまま遊びはお開きになった。
それ以来、一緒に遊んでいた子どもたちと遊んだことはない。
それどころか火災が起こり、彼らと二度と会えなくなってしまった。
なぜ大人たちはそんなことをしたのか、言ったのか。
リディアはその度に不思議でならなくて、母にたずねたけれど。
『リディアは普通に暮らしていたらいいのよ』
いつも困ったように笑いながら、答えを濁してばかりだった。
§
大人になってミストに帰ってきてから、やっと理由を知った。
リディアの母エスタも召喚士。
そして、リディアが生まれて間もなく亡くなった、父ニクスも純血の召喚士だった。
ミストの中には、純血の召喚士であるリディアを特別扱いする人がたくさんいた。
まるで、何百年と続く貴族や王族のように……。
—— —— ——
——午後9時半すぎ
数十人の女性たちが、巡回艇からぞろぞろミストの地に降り立った。
全員、ギルバートのバロン公演を観に行った帰りだと思われる。
巡回艇に乗っている間に、公演の熱気や興奮は冷めてしまっている。
もう眠い、疲れた、明日も朝が早い……。
女性たちが疲労を口々に訴えながら、各々持参したランタンに火を灯すと。
それを片手に、真っ暗な発着場から集落へ向かう。
最後にリディアを含む3人の女性たちが巡回艇を降りた。
3人はおしゃべりにすっかり夢中。
他の女性たちと反して帰りたくない派であった。
「あっ、ふたりともちょっと待って。【……」
ランタンに火を灯そうとするライザとアリサを止めて、リディアは詠唱を唱え始めた。
「ちょっと、何ぶつぶつ言ってんのー?……わわっ、何これー!?」
詠唱を終えると、リディアの手のひらから頭ひとつ分の大きさをした灯球が現れた。
頭の上を付かず離れずの距離でふわふわ浮かびながら、周囲を薄く照らしている。
「明るいでしょ。ランタンつけなくて済むよ?」
「綺麗……! だから、あなたの荷物が少なかったのね」
「そうなの。触っても大丈夫だよ?」
「……全然熱くないわ」
「あら、ほんとねー」
ライザやアリサが、灯球を指でちょんちょんと触るが火傷はしない。
球体の中央で炎がめらめら燃えているが、表面上は氷に覆われているので熱くない。
「ちっちゃな太陽みたーい。これもオリジナルー?」
「うん。一昨日やっと完成したの。雨の日も大丈夫だし、これで夜道は楽勝だよ」
灯球は氷と炎と風を組み合わせた、リディアの手作り魔法である。
効果時間は30分。
強い衝撃で割れてしまうが、同時に炎も消えてしまうので火災になる心配がない。
雨の日の傘や荷物で手が塞がっていても、ランタンを持つ必要がない。
3人はようやく発着場の出口に向かって歩き出した。
「魔法が使えるって……うらやましいわ」
「しょうがないわよー。向き不向きあるものー」
「そうだよ。あたし魔法は使えるけど料理や家事は苦手だもん」
「あらま、よくわかってるじゃないのー。あんたは、ものぐさで適当な分をそれでカバーしてるものねー」
「ゔっ……」
「この世界は、バランスよく出来てるわぁー?」
(次はほこりやちりだけ飛ばす風魔法を作ろう! なんて言えないや……)
アリサの的確で容赦ない一言が、リディアの胸にぐさぐさっと突き刺さる。
—— —— ——
ミスト帰郷直後、リディアはミゼルの自宅に身を寄せた。
目的は必要最低限の家事スキルの取得だ。
幻獣界は不思議な力が作用して家事をやる必要がなかった。
そんな世界で10数年暮らしていたら、家事スキルはあってないようなもの。
ところが、ジャンヌを師と仰いだのがまずかった。
彼女は『細かいことは気にしない』がモットー。とどのつまり、ずぼらな女性だった。
家事や料理は一通り出来るようになったが、ジャンヌの影響を受けて大ざっぱ。
元来リディアも、ものぐさ寄りの人間だったのも余計かもしれない。
—— —— ——
今はアリサの鋭い一言を気にしているが、このまま家に帰ったらすっかり忘れてしまう。
そう。楽観的なおかげで向上心がなく、改善までには相当な時間がかかると見られる。
「しっかしさー、この間の寄合。あんだけ空気悪かったのは初めてねー」
「あなたも大変ね。ミゼルさんがいなかったら、今頃幻獣界に帰ってたでしょう?」
「ミストから出ていってたかもしれないけど、さすがにそこまでは……」
「あんた。これから話が来ても全部断んなさいよ。キロンさん、昨日のアレ絶対納得してないしー」
「わかってるよ……あたしもあの人、好きじゃないもん」
「ミゼルさんたちのことも嫌ってるものね。移民のことも……」
「っ、ごめんね」
「平気よ。露骨なのは、あの人だけですもの」
キロンはミスト生まれの年配男性。集落の西区画に住んでいる。
(ライザやアリサたちが来てくれたから、今のミストがあるのに……ひどいよ)
よそ者——ミストで暮らす移民を見下している。
寄合ではいつも仏頂面で、移民が発言するとすぐ噛み付く。
ミゼルやジャンヌに対する心ない影口を叩いているのも見たことがある。
そのくせ純血の召喚士であるリディアには媚びへつらってくる。
関わりたくない。滅多に人を嫌わないリディアがそう思ってしまうほどの人物である。
「でも、あの時のあんた。ちょっとかっこよかったわー」
「みんなの前で『あたしは好きな人じゃないと結婚しません!』ですもの」
「ふたりがあたしの立場でも、同じこと言うでしょ?」
「そうね、政略結婚ってあり得ない。ローレルも怒るわよ」
「いっくらひとりしかいない召喚士だからって言ったって、あんたは王女でも女王でもないのにねー?」
「アリサ、もう少し言い方があるでしょう……」
「いいの。そうやって言われる方があたし嬉しいもん」
「そうよー? この子は魔法や召喚術が使えるってだけでそこらへんにいる子なんだからー」
(特別扱いされたくないもん)
特殊な血を持とうが、召喚術や黒魔法を極めようが、世界を救おうが。
『どこにでもいる普通の人』としての生き方を貫きたい。
そんなリディアにとって、アリサからの一言は嬉しい限り。
***
エミールによってリディアはカルミネに連れ去られたが、翌日エッジに救出。
ミストに直帰して、ミゼルの自宅で一晩過ごした。
——4日前 7の月12日
「念のために、今日はバロンの病院で診てもらっておいで。ジャンヌさんが付き添ってくれるから」
朝起きてすぐ。ミゼルから病院へ行くよう申し渡された。
「そんなの必要ないよ」
「だめです。診てもらいなさい」
「大丈夫。けがしてな」
「——わがまま言うんじゃないっ」
「おじちゃん……」
「どうしてエドワードくんが、エブラーナ城にきみを連れて帰ろうとしたかわからないのか?」
温和なミゼルから、生まれて初めて厳しくとがめられた。
しかも反論は的を得ており、ぐうの音も出ない。
「……あたしを……お医者さんに診せるつもりだった」
「そうだね」
実は前夜——救出直後、エッジからエブラーナ城に1泊するよう勧められていた。
—— —— ——
リディアが怪我をしていないか。医師の診察を受けさせないとならない。
事件に巻き込んだ責任がある。最低でもそれぐらいやらなければ筋が通らない。
—— —— ——
エッジがそう考えていたのはわかっていたが、リディアは勧めを固辞。
カルミネを発ってすぐ、ミストに送り届けてもらった。
「あの人、きみのことすごく心配してたよ? 結果はどうあれ、エブラーナ城に寄らなかった代わりだと思って、バロンへ行っておいで」
「はい……」
それからジャンヌに付き添われて、バロンの病院で診察を受けた。
診断結果はどこも異常なし。
なお、目の痛みと胸苦しさについては医師に話さなかった。
エッジと別れてから、その症状は一切現れていない。
薬ですぐ治るようなものではないと気付いたから。
§
病院を後にして、巡回艇でミストに帰る途中。
ジャンヌからこんなことを教えてもらった。
「ミゼルの奴、明日の夜に寄合を開くらしいぞ」
リディアがさらわれた夜に寄合を開いたばかりなのに、なぜ?
再びミゼルの自宅に戻り、真っ先にその理由をたずねた。
「みんな、きみがカルミネにさらわれたって知らない。情報はみんなで共有した方がいいから、経緯を発表しようと思ってる」
「そうなんだ……」
(あたしとおじちゃんぐらいしか、カルミネのことすら知らないもんね)
リディアは悪い奴らにさらわれたようだ。エブラーナが捜索してくれる。
リディアが行方不明になってから、ミゼルはミストの住民にそう説明しただけ。
緊急で寄合を開き、リディアの生還と共に事件の説明をする予定だという。
「あとね。いい加減あぶり出そうと思ってるんだ」
「あぶる?」
ミゼルが困ったような表情に変わり、こう言った。
「ローレルのお母さんが昨日、ここに来てさ。ぼくに『村長の特権でローレルとリディアを結婚させろ』って言ってきた」
ローレルはミスト先住民の29歳男性。
母親とふたりで北区画で暮らしている
「あ……あたしがローレルと……け、結婚!?」
「どう? する気ある?」
ばん!
「ある訳ないでしょ!? ローレル恋人いるじゃない!」
思わず立ち上がり、机を叩くぐらいには驚かずにはいられなかった。
「そうだよね。今朝ローレルにも話したけど、めちゃくちゃ怒ってた」
「当たり前だよ……」
「今頃、親子喧嘩してるんじゃない?」
ローレルは移民の紹介で、数年前からカイポの女性と遠距離恋愛中。
ふたりがミストで逢瀬を交わすところを、リディアも度々目にしたことがある。
ローレルと顔を合わせると、それはもう嬉しそうに勝手にのろけてくれる。
そんな男性が、他の女性と結婚なんかする訳なんかない。
リディアも、男性として全く見ていないのであり得ない。
「心配しなくても、お母さんにすぐ断ったよ」
「よかった……! ありがとう、おじちゃん」
今回はミゼルの機転のおかげで自ら動かなくても済んだ。
そう喜んでいたら、ミゼルが表情を暗くした。
「若くして亡くなったけど、ローレルのお父さんも召喚士だったんだよ」
「それじゃあ、ローレルのお母さんは……!」
ローレルは黒魔法を一切使えない。彼の母親も習得は中級レベル。
ふたりとも召喚士ではないことから、ローレルの母親の狙いにすぐ思い至った。
「そう。出来るだけ濃いミストの召喚士の血を残したくて、息子ときみを結婚させようと思いついて、わざわざ直談判しにきたんだよ」
「こんな話が、これからも出てくるかもしれないってことだよね」
「そういうことです」
リディアは喜びから一転、不安になったが。
ミゼルの一連の発言から、明日の寄合で何を『あぶる』のか察することが出来た。
「おじちゃんは、ローレルのお母さんみたいな人を明日の寄合であぶり出すつもりでいるんだね」
「その通り。そろそろ移民の人たちにも、昔の事情ってものを知ってもらいたいからね」
—— —— ——
6年前の火災でミストの住民は、リディアを含めて20名ほど生き残った。
その内の半数以上は改革派。
ミゼルやリディアをはじめ、新しいミストを作ろうとする若い者が多い。
一方で、ローレルの母親やキロンのような頭が固くて古い、いわゆる保守派の住民もいる。
村長かつ改革派筆頭のミゼルに不満を持ち、『昔のミスト』を取り戻したがっている。
—— —— ——
そして現在、ミストには人口の大多数を占める移民もいる。
彼らは『よそ者』を下に見る保守派よりも、改革派を支持していた。
「明日は荒れるよー?」
翌日の夜。緊急の寄合が開かれたが、ミゼルのその言葉通りであった。
「だから、あたしはリディアとローレルが結婚するようミゼルに言ったんだよ! こんな事件が起こる前に、早くリディアの血をミストに残さなきゃならないって!」
リディアがさらわれた経緯を、ミゼルが話し終わった直後。
早速あぶり出されたのは、ローレルの母親その人であった。
「あたしは、好きな人じゃないと結婚しません!」
「俺もだ! 勝手に縁談を進めるなんてばかげてる!」
ローレルの母親の発言に憤慨したリディアに続き、ローレル本人もそう訴えた。
しかし、移民の参加者はみんな首をかしげるばかりである。
それもそのはず。彼らは火災が起こる以前のミストのしきたりを知らない。
ここまで来ると、移民にも事情を暴露せざるを得ない。
「移民のみなさんは、ご存知ないでしょうけど、火事が起こる前のミストでは、これが日常茶飯事でしてね——」
ここでミゼルが『昔のミストの事情』をみんなに話した。
「そんなのおかしいだろ!」
「閉鎖的な村社会は時代遅れだよ」
「ミストのために、リディアを犠牲にするのは違うでしょ」
事情を知った移民は、リディアやローレルに賛成してくれた。
そんな彼らに、ローレルの母親やキロンをはじめとした保守派の先住民が反発した。
それから長い口論が始まってしまい、収拾がつかないと思われたが……。
「ローレルもリディアもそんな気がないのに、外野が結婚しろと命令するなんてばかげてます。改めて、ふたりの縁談はなかったと言うことで、みなさんお願いします。——では最後に、大事なお知らせがあります」
ミゼルがその場を無理矢理収めると、にっこり笑ってからなおもこう続けた。
「先日、トロイアのある会社が家庭用の浴槽を開発したそうです。それでですね……」
トロイアの会社Zから、こんな依頼をされたという。
—— —— ——
家庭用浴槽の運用テスト地域として、ミストの各家庭に浴室を設置させて欲しい。
浴槽並びに浴室の設置費用や修理費用は、全て会社が負担する。
代わりに、開発担当の社員がミストを定期的に訪問。
その際各家庭を回り、浴槽の保守点検と住民から使い心地をたずねる予定……。
—— —— ——
「早ければ、この秋からお風呂に入れるようになります。どうしましょう?」
ミゼルが採決を取った結果。
その場にいた全員が、おおーと歓声を上げながら挙手した。
毎日お風呂に入れる。それもタダで快適な暮らしが出来る。
そう聞かされて喜ばない人間はいない。
ローレルの母親も、キロンたち保守派の住民も大喜びで賛成していた。
「賛成多数ですね。明日企業さんにお返事します。あと、浴室いらない方は、ぼくに連絡下さい。——それでは、本日の寄合はこれで終わります。みなさん、長い時間お疲れ様でした」
荒れた空気が歓喜に上書きされたまま。3時間を超える寄合は、お開きとなった。
事前にローレルにも根回しを済ませていたミゼルの勝ちだ。
(脳ある鷹は爪を隠すって……おじちゃんのことを言うのかなぁ)
リディアは朗報を喜びながらも、ミゼルのやり口に感心するばかりであった。
昔は何かにつけてジャンヌにどやされて、その度にリディアの母エスタにフォローされていた。
どこか頼りないけど、優しい近所のお兄さんだったのに。
***
その日の寄合も、リディアはアリサとライザと帰り道を共にした。
しかし、そこは全員女性。
お風呂の話題で盛り上がり、この件に関して全く触れなかった。
「何が嫌って、あんたがオリバのお嫁さんになるかもしれないってのがねー」
「そうなんだよね……」
アリサにうなずいてから、大きくため息をついた。
アリサの子どもは3人いるが、全員男の子。
特に長男のオリバは、リディアの教え子の中で1、2を争うぐらいの黒魔法の使い手。
あと数年で、チョコボかシルフを喚ぶ事が出来るだろう。
仮に、その日が訪れたとしよう。
その時ミストの村長がミゼルではなく、キロンか保守派の先住民だったら。
オリバとリディアを結婚させようとするかもしれない。
召喚士同士、より濃い血を残せる。当事者の心情を無視したそんな理由で、だ。
「あんたにお義母さんって呼ばれるなんて、絶対に嫌よー」
「こっちもごめんだよ。粗相したらアリサにねちねち言われちゃう。そんなの耐えられないもん」
「あたしのどこが陰湿なのよー!?」
「お姑さんって、そんなもんでしょ!? ライザいっつも愚痴ってるじゃない!」
リディアとアリサがぎゃんぎゃんまくし立てる。
どこかズレたふたりの言い争いに終止符を打ったのは、この女性であった。
「ふたりとも心配しなくても大丈夫よ。ミゼルさんに任せておけばいいの」
「……そうねー。移民はみんな、あの人のこと慕ってるしねー」
ミゼルはよそ者だからという理由で、移民を冷遇したことがない。
その姿勢が移民から慕われるゆえんであった。
長きに渡って村長を続けられるのも、彼らからの支持が非常に高いから。
「あーあ。あたしが死ぬまでおじちゃんずっと村長やってくれないかなあ……」
「独身宣言? 少し早すぎると思うわ」
「まだ若いのに、夢も希望もないこと言うんじゃないわよー」
「だって、ライザやアリサ見てたら、結婚ってめんどくさそう……」
ばちん!
「っ、痛ったぁい!」
「既婚者の前で、よく失礼なこと言えるわねー!」
「何よもうっ! 暴力反対っ!」
何気にぼやいた言葉に反応したらしい、アリサが背中を強く叩いてきた。
リディアも負けじと言い返す。
「でも、出来ることなら独身に戻りたいわ……」
義母との同居生活に、よほど鬱憤が溜まっているのだろう。
リディアたちを遠巻きに見ながら、ライザがくすくす笑っている。
アリサに叩かれた背中はじんじんするけれど、リディアは嬉しくて仕方がない。
特殊な血を持っているのに、こうして分け隔てなく接してくれる友人たちがいることに。
——午後10時半
普段なら、発着場から自宅まで徒歩10分もかからない。
しかし、アリサとライザと一緒ではどうしても長くなる。
集落の入口で30分以上おしゃべりし続けて、やっと自宅に帰ってきた。
「さっぱりしたぁ」
(ミントさまさま。お風呂に混ぜたらもっとすっきり出来そう)
この時期は、ライザから分けてもらえるお手製のミント油が欠かせない。
油を少々混ぜた水に浸したタオルで、身体を拭くだけでひんやりとする。
しかし、浴室が設けられるのは、早くて秋以降である。
その頃に、ミント風呂に入ろうものなら風邪を引いてしまいそうだ。
汗ばんだ身体を拭いたタオルを、ぽいっとかごの中に入れると。
お茶を飲んでから寝ることにした。
明日は講座がお休み。もったいない気がしたけれど。
夜着に着替えたリディアは台所へ移動した。
棚から紫色の缶を取り出してから、ケトルでお湯を沸かし始める。
「たのしかったなあ」
***
今日までリディアは、ライザからのお誘い——ギルバートのバロン公演——を断り続けてきた。
しかし、気晴らしと刺激はやっぱり必要かもしれない。
そう思い直した結果、今日もお誘いしてくれたライザへこう言った。
「あたしも、行ってもいい?」
「本当……!?」
その時のライザの喜びようったらなかった。
毎年適当な理由をつけて断っていたのが、申し訳なくなったぐらいには。
講座が終わってから、3人で巡回艇に乗ってバロンへ。
劇場へ足を運ぶと、ギルバートの楽屋を訪れた。
まさかリディアが来るとは思っていなかったのだろう。
ギルバートはとてもびっくりしていたけれど、こう言ってくれた。
「わざわざ足を運んでくれてありがとう。少しでも元気になってくれるといいな」
既にカルミネの一件がギルバートのところにも伝わっていたようだ。
ほんの少しの時間だったが、歓談を終えて開演の時間を迎えた。
相変わらずギルバートの歌声は心地よく、公演は大盛況の内に幕を閉じた。
***
鑑賞中以外は、ほとんどアリサとライザとおしゃべりしていたと思う。
ここだけの話だが、実はそんな雑多な会話の時間が一番楽しかった。
「きめた。明日、ライザ呼ぼう」
(アリサも呼べばもっと楽しいかも)
年1回の夜のお出かけですら、ライザの義母はいい顔をしないという。
毎年公演の翌日になると、ライザは渋い顔でリディアとアリサに愚痴をこぼす。
粘り強く誘ってくれたお礼に、明日は彼女の話を聞いてあげよう。
「うん、いい匂い……!」
紫色の缶を開けると、爽やかな花の香りが鼻腔をくすぐる。
中に入っていた淡藤色のラベンダーの茶葉をポットに入れる。
ひとり分なので、すぐにぐらぐら湯が湧き始める。
ある友人の髪色に酷似したラベンダーの茶葉と、かすかに漂う香り。
……それが今まで避けていた問題を思い出させてしまい、表情を暗くさせた。
(もう、戻れないよね)
本日思いつきでバロンに向かったのは、ギルバートの歌が聞きたかったから。
加えて、これからはエッジがここにやってこなくなるだろうから。
今後増えてしまう空白時間の使い方を模索する。そんな目的もあった。
—— —— ——
顔と大事な右目を傷付けてしまったせいで。
エッジの顔を見るのが怖いし、見てしまうと変な症状が現れてしまう。
いずれ、エッジはミストへ様子を見にやってくるだろう。
その時リディアは、自分が自分でいられる自信がない。
今日みたいに身体の痛みとして罪を思い知らされて、怯えて、泣くに違いない。
そもそも、エッジが本当に許してくれているかもどうかもわからない。
何にせよ、今までのように一緒に時間を過ごせないだろう。
—— —— ——
(結局ラベンダー畑に連れて行ってもらえなかった……)
あれほど長く続けばいいと望んでいたのに。
一瞬の出来事で、エッジとの友情関係を自ら終わらせてしまった。
とんとん
(おじちゃんたちかな?)
こんな遅い時間に自宅を訪れる者など、ミゼル夫妻ぐらいしかいない。
それも、ごくまれだ。
何か緊急を要する出来事でも起こったのだろうか?
ケトルの火を止めてから玄関に向かい、そおっと扉を開けた。
「はい、どちら様……」
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