フェイクラバーズ 作:かえで
唇に何かが触れた直後、花の香りがかすかに漂ってきた。
……ラベンダーだろうか?
(見えないって、なにもいいことないや)
何をされているのか。相手が何をしているのか。
それを視覚以外で感じ取らないといけない。
それがひどくもどかしいけれど、仕方がない。
目隠しがないと、エッジと会話することもままならないのだから……。
「……エッジ?」
『今すぐきみの身体が欲しい。——抱かせてくれ』
「うそ」
(あ、あたし……エッジに抱かれちゃうの!?)
前科者が、更に重い罪を犯そうとしている。
エッジの口から飛び出した衝撃的な言葉に、リディアの身体はぴしりと固まった。
『どうしたの? リディア』
「あ……」
エッジの呼びかけに、リディアは我に返って何か言いかけようとした。
すると、彼の部下である美しいくのいちの姿が脳裏を掠めた。
『嫌?』
「……そうじゃない」
『だったら何かな』
(イザヨイさんがかわいそうだよ)
涙を流しながら、毒に侵されて横たっているエッジへ回復を施していた。
アスラの『浄化』中を除いて、ずっとエッジの片時を離れなかった。
エッジの傷が治らないとわかり、アスラへに抗議……。
エッジがアスラに命を救ってもらう場に立ち会った時。
イザヨイが見せた行動から、彼女がエッジに恋情を寄せていると気付いた。
「エッジには……イザヨイさんがいるじゃない」
『……』
「あの人がいるのに、あたしそんなことできな……っ!?」
イザヨイに合わせる顔がない。そう訴えた直後、突然エッジに口を塞がれてしまった。
すぐに、ぬるりと口の中に何かうごめくものが入ってきて。
口内を荒々しく貪られたことで、その何かがエッジの舌だとわかった。
口付けには軽いものと、深いものがあることは知っている。
しかし、生まれて初めてな上に詳しい知識がある訳でもない。
ただただ、リディアはされるがまま。
そんな中、既知感のある……先ほどと同じ、ラベンダーの香りがかすかに漂ってきた。
(さっきのあれもキスだったんだ!)
既に唇を奪われていたことに気付くも、口を塞がれている。
文句ひとつも言えないまま、エッジが吐息をもらしながら顔から離れていった。
「っ、はぁっ、はぁ……」
『彼女は部下以外の何者でもない』
「……」
『きみがミストの男性に興味がないのと同じだ』
(あたし、なんか変なこと言ったかな……?)
エッジの声は、どこか怒気をはらんだ冷徹なものだった。
突然機嫌を損ねた理由が、リディアにはさっぱりわからない。
「あたしじゃなくても別にいいじゃない。そういうことやってくれる女の人、エッジならたくさんいるでしょ?」
『……ふふっ』
なぜ今、ここでいかがわしい行為をしなければならないのか。
そう疑問を口にしたが、エッジから返ってきたのは答えではなく、笑い声だった。
「何がおかしいの?」
『手当たり次第引っ掛けてきたから、きみぐらいしか残っていないんだよ』
「ええ……?」
エッジと出会って以来、彼の女性関係にほとんど興味がなかった。
気のいい兄のような存在だった男の本性を知り、がっかり感が否めない。
一方で、安堵した。イザヨイがこんな男に狙われずに済んでよかった、と。
(ローザは気付いてたのかな……)
ローザはエッジを仲間として認める一方で、どこか敬遠していた。
それは彼の女癖の悪さをうすうす感じ取っていたからかもしれない。
『女好き、遊び人、好色、性豪、女たらし……どうぞ好きなように呼んで?』
「っ、それ以上、言わないで……」
エッジが悪びれもせず、はしたない言葉を並べ立てて、がっくりと首を垂れた。
(セシルが性豪なんて言う訳ないじゃない……)
初恋の人には、思い出の中で綺麗なままでいてほしいのに。
セシルの声でそれを言って欲しくなかった。
『何? リディアはこんな男に抱かれたくないんだ?』
「っ、そういう訳じゃ」
『——だめだな』
「え?」
『さっきの潔さは何だったんだ。自分で言ったことに責任持てないようじゃ話にならないよ』
大きく息を吐く音に続き、すぐそばに感じられた男の気配がすっと離れた。
続けて、がたがたと物音が耳に入ってきた。エッジが立ち上がったようだ。
「ちょっと、どこ行くの?」
『帰るよ』
「えっ……!?」
『こんな時間に押しかけて悪かった。——じゃあね』
エッジの足音と気配が次第に遠ざかっていく。
リディアがうだうだしていたから、業を煮やしたらしい。
(帰ってしまったら、本当に終わっちゃう!)
まだ許してもらっていないのに。
このままエッジと顔を合わすこともなく、一生を終えるのか。
「待って!!」
『何』
リディアは大声を張り上げてエッジを呼び止めた。
足音はぴたりと止まったが、抑揚がない声は無感情そのもの。
「何でも言うこと聞くって、あたし言った!』
エッジの本性を知ってしまった。
それでも、この5年近くで培ってきた関係をどうしても捨てきれない。
例え身体を代償にしても、エッジの顔を直視出来なくても……捨てたくない。
「だから……約束はきちんと守るよ」
『そう? じゃ、お言葉に甘えて』
ひどく楽しそうな声と共に、エッジの気配が再びこちらに近付いてくる。
(もしかして、またカマかけられたんじゃ……)
過去の行いを振り返ると、それぐらいのことはやりかねない。
そう考えていたら、エッジの気配がそばで留まったまま動かない。
目の前に座ったのだろうか?
『これはもういらないね』
「っ!?」
羽織っていたエッジのマントを突然はがされて、上半身の風通しがよくなった。
さすがに夜着までは脱がされていないようだ。
ひとまず安心したが、そうなるのも時間の問題……。
『隣に行こうか』
「ひゃっ!」
リディアの身体がふわりと宙に浮いた。
背中と膝の下だけが何かで支えられて、とても不安定な姿勢だ。
「ね、ねえ……」
『何かな』
「1回我慢したらいいんだよね? それで許してくれるんだよね?」
『もう許してるよ』
「じゃ、じゃあ何もしなくて」
『——許すと抱くのは別だよ』
「!?」
今までの関係が、この先も続くのかどうか。
最大最重要案件だったそれは、解決の方向へ一歩前進した。
そう安堵したのも束の間、今度は動揺を隠しきれない。
(こういうのって、普通1回きりで終わるんじゃないの!?)
今後もリディアを抱く可能性がある。エッジがそうほのめかしたせいで。
「この先、まだまだ続くの??」
『ぼくの気が済んだら、今日で終わる』
「お、おねがい。1回で気が済んでよ……!」
『そのために、今から身体の相性を確かめるんだ。答えられる訳がないよね?』
「そんな……」
『そうだな、もし続いたら……借金返済するつもりで抱かれたらどう?』
「しゃ、借金!?」
『多少でも気が楽になるかもしれないね』
ゆさゆさと身体が大きく上下に揺れて、扉を開ける音が聞こえてきた。
エッジに抱えられて、寝室に運ばれているらしい。
『あぁ、奨学生の気分になれるから、授業料返済って名目でもいいな』
「も、もうなんでもい」
『——はい、着いたよ』
どさり
身体の揺れが収まったと思ったら、ベッドの上に下ろされたのだろう。
両肩に軽い衝撃を受けて、そのまま身体を転がされてしまった。
『ちょっと待ってて』
エッジの気配が遠ざかった。
その代わりに、近付いたり遠ざかったりする足音が聞こえてきた。
これは、部屋の明かりを点けに動き回っているのだろうか?
足音が聞こえなくなると、今度はかたりと何か固い音。
何か物を置いているのか?
するすると何か引っ張る音は、もしや帯を解いているのか?
ばさりと何か投げるような音は、まさか服を床に脱ぎ捨てているのか……!?
音ひとつだけで、変な想像力をかき立てられてしまう。
程なくして物音が止み、少しの静寂の後にベッドがきしむ音。
同時に身体に重みを感じた。
視界を遮られているが、エッジに押し倒されたのだと察した。
(やっぱり本当にやるんだ……!!)
緊張と不安で、リディアの胸の鼓動が早くなる。
そんな中、エッジから『リディア』と甘い声で名を呼ばれた。
「……なに」
『いいこと教えてあげる』
「え」
『キスは鼻呼吸。——これ常識だから』
リディアの両頬にそっと何かが触れてきた。
セシルを思わせる、包み込むような優しい感触だ。
頬に両手を添えたのだろうか。そう思った矢先。
「ちょっ、エ……っ!?」
その名を口には出さぬよう、まるでたしなめられるかのように。
エッジがリディアの口中に舌を潜り込ませてきた。
「っ……」
逃げ続ける舌を、まるで我が物にせんとばかりに。
貪欲に口中をさまようエッジの舌は、セシルのイメージとは程遠い。
狭い口内に安全な逃げ場所などなく。
追い詰められた末、エッジのそれに絡め取られてしまった。
「ん、っ……!!」
キスは鼻呼吸。そんな助言など、頭からすっかり抜け落ちていたせいで。
息苦しさのあまりに首を左右に揺らし始めた。
それでもエッジが一向に離れる様子はない。……苦しい。
(だからあんなこと言ったんだ……)
助言通り、鼻で息吸いすることに渋々切り替えたら。
確かに苦しさから解放されたが、エッジは離れてくれない。
今度は、舌を絡ませる合間にリディアの上あごや舌の裏側をなぞってくる。
(騙された!)
それが何度も繰り返される上に、室内はほとんど音がない。
くちゅ、くちゅりと舌が絡み合う、いやらしい水音だけが聞こえてくる。
エッジが、わざと音を出るような絡ませ方をするせいだと気付いた。
「っ……あ……ぁ、んっ……」
ついには高く甘い声までもらしてしまった。
次第に身体のこわばりは緩み、頭の中が白に染められていく。
下腹部にも、自ら慰める時と同じようにじんわりと熱がこもっていく。
「はあ、っ……」
(キスってこんなに時間を掛けるものなの??)
ようやくエッジから解放されて、大きく息をついた。
『どう?』
「なにが、『どう?』よ!? 引き延ばしするためにあんなこと言ったんだ!」
『でも、気持ちよかったでしょ』
「全っ然!」
『あんな声上げたのに?』
「う、っ……」
引き延ばしすることで、感度がいいと思われるあの声を出させる。
そこまでがエッジの策略だったようで、それにまんまと乗せられてしまった。
『いい反応を見せてくれたね。助言してよかったよ』
(なんなのよ、もう!?)
笑うエッジと対照的に、とても腹立たしい思いでいっぱい。
今、目の前にいるのはセシルの仮面をかぶった悪魔。絶対にそうに違いない。
「……結局、セシルのままで抱いちゃうんだ」
『うん。ただし、ルールに従ってもらう』
「?」
『これからは誰の名前を呼ばないように』
「ええっ!? どうして名前呼んじゃいけないの!?」
前例もあるし、ここまで一向に仮面を外そうとしなかったぐらいだ。
エッジがセシルの仮面をかぶって抱くのは、まだ譲歩出来る。
しかし、誰の名前も口にしてはいけないルールは納得が行かない。
6年前と同じように、セシルの名前呼び放題でいいではないか。
『どうしてって、ぼくが決めたからだよ』
「何それ? 意味わかんない。そんな変なルールで抱くなら、最初からエッジのままで抱けば済む話じゃない」
『……』
「セシルのふりして抱いて、エッジはそれで本当に気が済むの?」
『……』
「これじゃあ、いつまで経っても解放してもらえないじゃない。あたし……エッジにずっと抱かれ続けなきゃ……」
現在リディアを押し倒していると思われる目の前の男に、素朴な疑問をぶつけた。
もっとも、最後の方は沈黙を貫く男に不満をぶつぶつ垂れ流しただけだが。
「……て」
「え? 何か言った? 聞こえないよ」
ここまでずっと黙っていたエッジが、ぼそりと何かをつぶやいた。
語尾しか聞き取れなくて、催促したまではよかった。
「しょっぱなから、ルール破りやがって……!!」
「っ!?」
凄みを思わせる低く重い声が、リディアの上に降り注がれた。
「オレの説明、なんにも聞いてなかったのか……!!」
(こんなエッジ知らない……すごく怖い!)
仮面を外したエッジ本来の恐ろしい声に、生きた心地がしない。
同時に、名前を口に出してしまっていたことに気付いて、両手で口を押さえた。
『だめって言ったらだめなんだよ』
「あっ!」
再び仮面をかぶったエッジに、両腕をつかまれて口から引きはがされてしまった。
「ぁ……やだぁっ! 耳、こない、でっ……!」
『相変わらず、ここが弱いんだね』
「……ぁ……ぁああっ……!」
エッジに耳たぶを甘噛みされる。
更には、吐息をもらしながらどこか熱を帯びた声でささやかれて。
びくびく身体を震わせながら、甘い声を上げてしまった。
「な、何よ、この罰ゲーム……」
『すぐにルールを破るのはどうなんだろうね。リディアらしいけど』
エッジに笑われながら、耳と腕の縛りから解放された。
(ああ、やっぱり服脱いでたよ……)
抵抗するために両腕を天に伸ばすと。両の手のひらが何かに触れた。
温かく、なめらかな感触の正体はエッジの胸。しかも、直肌だ。
「ねえ、他にも理由があるんでしょ? 教えてよ」
『何度聞かれても、同じ返事だよ』
「そんなぁ」
『ぼくの言うこと「なんでも聞いてくれる」んじゃなかったの?』
「——あ」
リディアはようやく事の重大さに気付いた。
諦めの境地に達してしまい、両腕をゆっくりと降ろした。
エッジに都合の悪い文句や希望や質問は、全て自分自身に跳ね返ってくる。
まるで、『なんでも言うこと聞く』が、反射魔法リフレクのように思えてならない。
(だからあんな条件を出してきたんだ)
いつでもどこでも抱けるように。
エッジの思いのままに出来るそんな条件を、安易に呑んだ結果。
目の前にある選択肢は、エッジの言いなりになることだけ。
『ずるいことを思いついた自覚はある。だから……ぼくを憎んでも恨んでも構わない……』
「……っ」
抵抗を諦めた証でもある動きは、エッジにも伝わったらしい。
ひどく哀しそうな声で、優しく頬を撫でられてしまった。
エッジの手は、未だ修行を重ねる手練れのものでざらざらだ。
感触は決してよくないはずなのに、なぜか心地よくて一瞬どきりと胸が跳ねてしまった。
(だ、騙されちゃだめ! これは演技なんだから!)
下唇をぐっと強く噛みしめて、胸が跳ねたことを無理矢理打ち消してからこう言った。
「わかったよ……どうぞ好きにしてください……」
白旗宣言の一方で、リディアは固く心に誓う。
(負けるもんですか!)
エッジは6年前と同じように、『セシルに抱かれている』と思いこませようとしているようだ。
しかしいくら刺激を与えられようが、快楽に流されようが。
これからは、あの時のような錯覚に絶対陥ってやるものか。
エッジの策略に完全に屈してやるものかと。
『最初からそう言えばよかったのにね』
エッジに優しく耳元でささやかれた。彼はどこかズレたリディアの決意に気付いていない。
改めて意識して声を聞いてみると、やはりセシル本人とそっくりである。
今の状況において、リディアが知ることが出来るエッジの要素はごくわずか。
小賢しい思考から来る行動パターンと、手の感触と短い髪……それぐらいだ。
「待って、お願いがあるの」
『何?』
「あの……出来れば……痛くないようにしてください……」
『えっ、まだ処女だったの?』
「し、知ってるくせに! とぼけないでよ!」
この場の流れで気付かない訳がないのに。
それ以前に、長い付き合いでわかっているくせにわざとらしい男だ。
ここまでの恨みを込めて、エッジの身体を拳で力一杯殴ってやった。
この男にとっては大したダメージではないから、怒らないだろう。
『心配しないで、出来る限り努力するよ』
予想通り、エッジがくすくす笑いながら頭を撫でてきた。
上からふわりと押さえるような手付きは、セシル特有の撫で方だ。
やはり、この男は何が何でもセシルを演じる気でいる。
リディアは改めて、下唇をぐっと強く噛みしめた。
これから始まるであろう、エッジからの襲撃を受けて立つために。
エッジに対して、ささやかな反抗を始めるために。
(ぜんぶエッジの思い通りになんかさせやしないんだから!)
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