※この作品はR-18です。

フェイクラバーズ   作:かえで

25 / 160
個人授業

 

 

——午後2時

 

 

 不意打ちで訪れたミスリルから、再びエブラーナにとんぼ返り。

 今度は同じエブラーナでも、お城ではない。

 訪れたのは、エブラーナでも寒い地域、大陸の北西の高地にある薬草畑だった。

 正式には薬草園。

 数年前に、いつか連れてってやるとエッジに言われたことがあった。

 それ以来、リディアが密かに楽しみにしていた場所だった。

 

「お客さん多いね」

「ちょうど今が稼ぎ時なんだよ」

「エブラーナ以外のお客さんも結構いるね……」

「噂聞きつけてやってくるみてえだな」

 

 園の出入り口に向かう客。

 見終わったのか、出入り口から出てくる客……。

 エブラーナ国内にもかかわらず、着物を着ていない客もちらほらいる。

 大盛況とはまではいかないが、行き交う人々が途切れることがない。

 そんな周囲を見回しながら、リディアもエッジと共に園の出入り口に向かう。

 

 —— —— ——

 当初、薬草園は個人が経営していた。

 2年前から国が援助を増やして、今は実質国営施設に変わっている。

 

 7の月から、翌8の月半ばまでの繁忙期の間だけだが。

 一面広がる薫衣草の畑は園の名物となっており、国内外で人気が高い。

 来年から、繁忙期限定でお城と薬草園の間を結ぶ直行便を設ける予定だという。

 —— —— ——

 

「ここにある植物は、みんな薬草なの?」

「あとのお楽しみだ。事務所にちょっと顔出すから、悪りぃが付き合ってくれ」

「いいよ」

 

 連れてきてもらったのだから、文句を言う権利はない。

 もしかしたら、薬草好きだという園の主に会えるかもしれない。

 エッジの頼みに素直に応じて、一緒に事務所へ向かった。

 

 出入り口を抜けて、行き交う客の流れから外れたところに。

 大きめの小屋がぽつんとたたずんでいた。

 

「ここが事務所な」

 

 エッジが我が物顔で扉を荒っぽく開けた。

 広い室内には机がふたつだけしかなく、ひとつは空席。

 

「おっ、お館様ぁ!?」

 

 一番奥の机についていた中年の男性が、こちらを見て勢いよく立ち上がった。

 筒袖とたったか袴の組み合わせ——エッジと似たような格好をした、この男性。

 どうやら、エッジと顔見知りのようである。

 

「よう、イナミ」

「いやぁ、どうもご無沙汰しております……!」

 

 イナミと呼ばれた男性が、しきりに頭を下げながらエッジの前にやってきた。

 虚弱そうな見た目も余計して、ずいぶん腰が低いように見える。

 

「畑に入り浸ってる暇もねえようだな」

「はい。年に一度の繁忙期ですから……」

「人、足りてんのか」

「えっ」

「報告読んだぜ? 客は増えてんのに、従業員は去年と数変わってねえのな」

「あぁ……いや、そのぉ……」

「去年から手広くやり始めたのに、業務が追っつかなくなったらどうすんだ。畑手入れする奴がいなかったら本末転倒だぞ?」

「そ、それが……こういったところで働きたい者が……なかなか現れないもので……」

 

 エッジに指摘されるにつれて、イナミの頭が下がり、身体が縮こまっていく。

 

(これ、エッジが経営した方が儲かるんじゃないの……?)

 どうやらこのイナミが園の主——薬草好きの男性のようだ。

 しかし園を取り仕切る者としては、いささか頼りなさげに見える。

 

「数字言ってみろ」

「は?」

「今なら人回せる。上限は3……いや、20だな」

「ほ、本当ですか!?」

 エッジからの思わぬ提案に、イナミが背筋をぴんと伸ばし、顔をぱああと輝かせた。

 

「ああ……! お館様のご配慮にいつも感謝しかありません……!」

「力仕事に自信ある奴ばっかりだ。農作業もやってくれるぜ」

 

(イザヨイさんと話してた件だ!)

 お城でエッジとイザヨイがこんな話をしていた。

 カルミネで働いていた者を連れて帰ってきたが、エブラーナに残る者が多い、と。

 エッジは彼らのうち何人かを、ここで働かせるつもりでいるようだ。

 

(すごいなぁ……!)

 カルミネで働いていた者の働き口まで確保してあげるとは。

 エッジの手腕に感心してしまう。

 

 補充要員の交渉を始めたエッジとイナミを、後ろから眺めていると。

 またもやノックもなしに扉が開く音が聞こえた。

 

「ちょいと、あんた……」

 

 浴衣を着た熟年女性がそう言いながら、気だるげに部屋に入ってきた。

 

「よう、久しぶり」

「あっ……あらまぁまぁ、お館様ぁ! お久しぶりですぅ!」

「ちょっと見ねえうちにスリムになったな」

 

 エッジを見るなり、ぱああっと態度が一変した女性に、エッジが返事をした。

 それがお世辞だと、リディアがすぐに気付くことが出来たのは。

 その女性をスリムと呼ぶには無理がある、ふくよかな体型の持ち主だったから……。

(でも、すごく明るくていい人そう)

 

「またまたぁー。お館様も、今日は一段と男前ですことぉ!」

「オレは前から男前だぞ?」

 

 女性がはしゃぎながらエッジに近付き、お世辞を述べている。

 しかも言い方が悪いが、馴れ馴れしくエッジの身体をぺちぺち叩きながら、だ。

 敬語を使われる以外は、エッジの態度もミストにいる時と変わらない。

 

 エッジはエブラーナの民に慕われている。

 旅をしていた頃、リディアは洞窟に避難していた民、それも複数人からそんな話を聞いていた。

 実際こうしてエブラーナの民と会話するエッジを目の当たりにして。

 これは慕われても当然。改めてそう感じた。

 

「ねえ、エッジ」

「あ?」

「この方たちが前に話していた……」

「そうだ。趣味が高じて薬草園作っちまった管理人とその嫁」

「あの、そちらの方は、もしやするとリディア様ですか?」

「……ええ、はじめまして」

「はじめまして、ようこそ薬草園へ。イナミと申します」

 

 イナミがお腹に頭がつきそうなぐらい頭を下げてから。

 とても忍者とは思えないぐらい白く華奢な手を差し出してきた。

 リディアも少しの違和感をそのままに、一歩前に出て握手に応じる。

 

「……失礼ですが、イナミさんも忍者なんですよね」

「はい。らしくないとよく言われます」

「こいつは忍者だが、薬草学と農学専門。くわやかまを持たせりゃ、右に出るものはいねえし、水遁も使えるぞ」

「すごい! それなら、水も撒き放題だね」

「う、ううっ……お館様やリディア様にそんなことを言われるなんて……光栄です……!!」

 

 国王さまから、お褒めの言葉をいただいたからだろう。

 イナミがぐずぐず泣き出してしまった。

 

(イナミさんは、エッジみたいに戦闘出来る忍者ではないんだ)

 以前エッジから、こんな話を聞いたことがある。

 エブラーナに生まれた者は、幼少時から必ず忍者の修行を始めて。

 成人を迎える前に忍者を続けるか、別の道を選ぶか選択する機会がある、と。

 

「はぁーあ。相変わらず、しょうもない男ねぇ」

「……うう、っ……」

「お館様が来るといつもこれぇ。どんだけ泣いたら気が済むのかしらぁ」

「ほ、ほっといてくれ……うう……」

 

 イナミの妻らしき女性が呆れながら、号泣する伴侶を見やっている。

 イナミがこの女性の尻に引かれているのは、一目瞭然。

 

「はじめましてリディア様ぁ。イナミの妻ウルキですぅ。お噂はかねがねぇ」

「噂?」

「ええ! だってぇ、おやか……」

 

 ウルキと握手をするために手を差し出すした瞬間。背筋にぞくりと寒気が走った。

 今は夏真っ盛りの季節で、ちっとも寒くないのに。

 

ばったーん!

 

「えっ?」

 

 寒気と襲われると同時に、室内が少し揺れた。

 しかも、視界に収まっていたウルキの姿も消えて……。

 

「ウルキさん!?」

「うー、うー……うー……」

 

 足元を見ると、ウルキがうなり声を上げながら仰向けに倒れている。

 幸いにもリディアたちは今、周りに何もない広い場所にいた。

 そのためウルキは倒れた際、頭を机の角にぶつけることなく二次災害を免れた。

 

「ウルキ、大丈夫かい!?」

 

 そんなウルキの元に、伴侶のイナミが真っ先に駆け寄る。

 リディアも心配になってウルキの元へ近付こうとしたら。

 

「——そこにいろ」

「え?……う、うん」

 

 背後にいたエッジが、リディアを軽く押し退けてウルキのそばに寄った。

 すぐに身体を、がしがし揺さぶり始めたように見える。

 しかし、エッジはこちらに背を向けており、はっきりそうだとは言えない。

 

「あの、ウルキさん……大丈夫ですか?」

「お、お騒がせして申し訳ございません……! こいつは元々貧血気味で……こうしてよくぶっ倒れるんですよ……ははは、っ……」

 

(貧血なのは、イナミさんの方じゃないの?)

 イナミがこちらを向いて笑ってくれたが、引きつっている。

 しかも顔色が悪く、汗をだらだら流しながら。

 倒れているウルキよりも、イナミの方がよほど具合が悪いように見える。

 

「……うっ」

 

 ウルキがうめき声を上げながら、意識を取り戻した。

 

「お、気ィ付いたか」

「大丈夫かい? ウルキ」

「……あれぇ……? わたし……」

 

 それからウルキと残りふたりが何か話し合いを始めた。

 まるで作戦でも練っているかのように、それはもう小さい声で。

 

 そんな彼らの作戦会議ならぬ密談を、遠巻きから眺めていた。

 ……途切れ途切れで聞こえてくる会話と、ウルキとイナミの様子に首をかしげながら。

 

 程なくして、密談は終了。

 ウルキが園の案内を申し出てくれたが、エッジがやんわりと断りを入れてくれた。

 モンスターが徘徊する危険な場所でもない。自由に歩き回りたかったので、ほっとした。

 

「ええ? わたしも行」

「——どっ、どうぞごゆっくりぃ!!」

 

 諦め切れない様子のウルキを、イナミが押さえつけながら挨拶してくれたおかげで。

 リディアとエッジは遺恨を残すことなく、事務所を後にしたのであった。

 

§

 

「メインはあれな」

 

 エッジが遠くに見える、なだらかな丘一面を指さした。

 一面紫が占められているそれが、この薬草園の名物——紫の丘だという。

 

「ここから見ても、きれいだね……!」

「上に登ると絶景が拝める。今回は出血大サービスとして穴場ポイントに連れて行ってやるよ」

 

 その場所は、一般客が入ることが出来ない場所だという。

 

「ここからだいぶ離れた場所にあるんだね」

「将来的に園を拡大するつもりで、あえて一番奥に作ったんだとさ」

「賢いなあ」

「……あんま遅っせえと置いてくからな」

「失礼ね、普通に歩けるもんっ」

 

 リディアとエッジは、目的地——紫の丘へと歩き始めた。

 一番奥にあるので、しばらく歩き続けなければならないが、やる気に満ちあふれていた。

 

(出来るだけ、お腹空かさなきゃ!)

 歩くのは苦ではないし、絶景を見たいのもあるけれど。

 これが終われば、夕食も兼ねた甘味が自分を待っている……。

 

§

 

 そんな紫の丘への道中、小さな畑をいくつか見つけた。

 よもぎ、どくだみ、おおばこ……。

 花の彩りより草の色の割合が多いそれらは、忍者が用いる薬草。

 毒草以外を全て展示するのが、園の主イナミの野望だという。

 

 それぞれの畑に看板——効能や収穫時期、利用法が記載——があるにもかかわらず。

 興味を引いたものは、エッジが事細かく説明してくれた。

 

「自然で出来たお薬だから、身体に優しそう」

「エブラーナにゃ、ポーションや毒消しとかなかったからさ。利用できるもんは利用した結果が薬草だ」

「え……? エブラーナにはアイテムがなかったの??」

 

 回復アイテムポーションは、200年ほど前に地上で開発されたと言われている。

 上位互換のハイポーションやエクスポーションは、つい最近作られたばかり。

 それらはポーションに改良を重ねに重ねて出来上がった、努力の結晶ともいえる。

 

「おまえ昔、城で日記盗み見したろ」

「うん」

「あれが書かれたちょい後に入ってきたんだよ」

「そんなに遅かったの!?」

 

(エッジが小さい頃はなかったんだ……)

 ミストではポーションや毒消しはおなじみアイテムだった。

 リディアが生まれるずっと前から重宝されていたと聞いている。

 

「オレが即位するまで、エブラーナはどことも交流してなかったからなぁ」

「……孤立してたんだ」

「そうだな。外とのつながりは、たまに港にやってくるダムシアンの商船だけでな。そいつがうちにアイテムをもたらしてくれた」

 

 ぽつんと離れた大陸の国だから、仕方がないのかもしれないけれど。

 リディアもエッジと出会うまで、エブラーナという国の存在を知らなかったぐらいだ。

 エッジの話は、いかにエブラーナが外界と隔絶した国だったのかを如実に表していた。

 

「誰も、海の向こう側と仲良くしたいって思わなかったの?」

「身内で手いっぱいで、よそに国や大陸があるって意識が薄かったんだよ。上も下もみーんな」

「……昔のミストとおんなじだね」

 

 バロンからの侵入者を防ぐため、近くの洞窟でミストドラゴンが村を守ってくれていた。

 それぐらいには、ミストも6年前までは閉鎖的な村だった。

 

 外の付き合いに消極的ゆえに未開の地。

 エブラーナは、そんな認識を持たれていた以前のミストとそっくりだと思った。

 

§

 

 目的地に向かって歩いていると、既視感のある小さな樹木を見つけた。

 

「これも薬草なんだ……」

 

 季節外れで葉が生い茂るだけのももの木を、不思議そうに見上げる。

 ももは、皮をむいて甘い果実をいただく果物だと思っていた。

 

「こいつは葉っぱが肌荒れ、種が婦人病に効き目があんだ」

「実は食べられるし、お薬にもなるし。お得だね」

「果物兼薬草は……そいつとゆずがここにあるな」

「ゆず?」

「おまえらがよく食うオレンジの仲間だよ」

 

 —— —— —— 

 ゆずはオレンジのように果物として食さず、果実を絞って調味料として使われる。

 お昼に食べたお弁当の中にも、ゆずがこっそり混ざったおかずが入っていた。

 皮も種もそれぞれ咳を鎮めたり、胃腸薬として使われていた。

 ちなみにエブラーナでは冬に美容と健康目的で、ゆず風呂に入る習慣があるという。

 —— —— ——

 

 ゆずも、ももと同じく果実まるごとお得な果物兼薬草。

 エッジが詳しく説明してくれた。

 

「すごいね。ここにあるのは、みんな本当に薬草ばっかりなんだ」

「ハーブもあったろ」

「うん。エブラーナではなじみが薄そうなのに……」

「イナミが移民をツテに大陸外のハーブの種や苗を入手して、育てたんだよ」

「じゃあ、これからも……」

「忍者が使わない薬草の畑を増やしていくとさ」

 

 薬草園には、ローズマリーやミントなど……。

 エブラーナ大陸外では、ハーブと呼ばれる薬草の畑もあった。

 こちらは知識外なのか。エッジは物言わぬ状態だったが、看板の説明だけで十分事足りた。

 

§

 

 紫の丘に向かう道を、様々な薬草を眺めながら歩いていた時。

 

(さっきのこと、聞いてみよう)

 ふとあることを思い付いて、「ねえ」とエッジに声をかけた。

 

「なんだ、もうくたびれたか」

「違うったら。さっき、ウルキさんがエッジに謝ってなかった?」

「はあ?」

「エッジに、申し訳なさそうにしてたように見えたの」

 

(お礼してたようには見えなかったけど)

 3人の密談を遠巻きに眺めていたら、しかとこの目で見た。

 ウルキが畏怖に近い表情で、エッジの方を見ていたのを。

 

 —— —— ——

『ああ、死ぬかと……』

『……ついつい……すぎちまった』

『とんでも……ません。こちらが……きみ……悪いよ……決まってるだろう』

『すっかり……大変……でしたぁ……』

『……ねえから……今度から……てくれよな』

 —— —— ——

 

 その時のエッジの表情は見ることが出来なかったけれど。

 イナミもウルキをなだめつつ、エッジに申し訳なさそうにしていたし。

 

「礼言われただけだぞ」

「……ふうん」

 

 エッジのそっけない返事を聞いて、表向きは納得したふりを見せたが。

 ますます首をかしげてならない。

 

「民を介抱してやれる国王なんかそうそういねえ。ウルキの奴もレア体験って周りに自慢出来るし、別にいいだろ」

「まあ、そうだけど……」

 

(自分でそう言っちゃうところが怪しいんだよ)

 隣で歩いていたエッジがリディアの先を歩き、両腕を上げて後手を組んだ。

 エッジがそう言うならそうなのだろう、とは思えない。しかも、気になることはまだある。

 

(噂って一体なんだろう?)

 イナミとは一切面識がなかった。

 それなのに、彼がリディアを見るなり、名を当てたのも驚いた。

 召喚士として知名度が高いから、すぐに気付いたのだろうか?

 

 ……などと、もやもやを抱えながら歩いていたら。

 歩く速度を落としたのだろう。エッジが隣にやってきてこう言った。

 

「先にあっち寄るか」

 

 エッジが指で示した方向に視線を向けてみたら。

 壁が柱以外、透明な建物が小さいながらも見えてきた。

 

「なあに? あれ」

「ばら園。去年出来たばっかだ」

「うそ!!」

 

(そうだ! ばらはお花だけじゃないもん!)

 ばらも美容目的で使われる薬草のひとつである。

 親友と同じ名を持つ花の女王が、ここでも拝めるとは!

 

 期待に胸を躍らせると、エッジを抜かして顔を見ぬように後ろを振り向いた。

 

「エッジー! 早く、ばら見に行こうよっ!」

「はいよ」

 

 早く見たいと急く心が、そのまま足に伝わったようだ。

 足取り軽やかに、ばら園のある方向に向かう。

 

 花の女王とご対面出来る楽しみと嬉しさのあまりに。

 もやもやなんて、すっかりどうでもよくなってしまったのであった……。

 

§

 

 数分後。四方の壁と天井がガラスに覆われた大きな建物——ばら園に到着した。

 

「うわぁ、すごくきれい……!」

 

 建物に入るやいなや、見渡す限りのばらに感嘆の声を上げた。

 

 室内に漂う、ばら特有の濃厚な香りは好みではないけれど。

 豪華絢爛なばらの花を見たら、香りなどどうでもよくなる。

 

 そんなばら園内には、鑑賞通路が設けられていた。

 案内表示用として、矢印のついた看板も設置されている。

 他の客がその看板に沿って、次々と通路の入口に入っていく。

 

「あっ」

 

 突然首にぶら下がっていた黒いあごひもが宙に浮き上がり、頭が一気に軽くなった。

 

「ぐるっと見てこいよ」

 

 器用に帽子を外した張本人に、背中をとんと叩かれる。

 

「いいの……?」

「ああ。ここで待っててやるから、行ってこい」

 

 エッジはイナミたちとの会話を聞いた限り、何度かここを訪れているようだ。

 そもそも、薬草学として知識を得ただけで草花にはあまり興味がなさそうに見える。

 

「それじゃあ……お言葉に甘えて、行ってくるね」

「おう」

「置いてかないでよ」

「しねえよ」

 

 軽口を叩き合ってから、ひとり鑑賞通路に入った。

 

 帽子がないおかげで、頭がすうすう風通しがいい。

 これまでリディアは帽子をかぶったことがなく、今日のそれは人生初ものだ。

 

 いくら麦わら帽子といっても、少し蒸れて暑苦しいと思っていたところだった。

 エッジが申し出てくれて、ちょうどよかった。

 そう思っていたら、ふと脳内である仮定が浮かび上がってきた。

 

(まさか、わざわざそのために?)

 ひとりで見に行けと、エッジは背中を押してくれたのだろうか。

 帽子をかぶっていても、お互いに配慮して合っていたのはうすうす感じていたし。

 

「……ないないっ」

 

(そんなことある訳ないじゃない)

 エッジは情が厚いが、そこまで気が利く人間ではない。

 そう思いながら、横に首を振ることで仮説を脳内から追い出してしまった。

 

「わあ……」

 

 歩を進めると、通路の左右の赤ばらが自分を挟み込むように咲き誇っている。

 

 橙と混ざったような鮮やかな赤ばらをはじめに。黒が混ざったような血のような赤ばらまで。

 同じ赤でもそれぞれ微妙に色が違う。

 

 花の形も1種類だけではなく、薄い花びらが数多く重なったもの。

 枚数は少ないが、花びら同士が上手く重なり合って、芸術的な形を構成しているものまで、多様だ。

 

(赤ばらがお似合いなのは、やっぱりギルバートだね)

 たった一輪でも、ご本人から手渡されようものなら。ミストの女性たちは腰砕け。

 狂喜乱舞するアリサの姿がすぐ想像出来る。

 

 看板に従って歩くと、次は白ばらのエリアだった。

 花の色ごとに場所を区分けしているようだ。

 

(白は、やっぱりセシルとローザだなあ……)

 バロン城のセシルたちの私室に繋がる庭園で、ローザが白ばらを育てていた。

 何色にも決して染まることのないほどの心身の強さ。

 そして、白特有の清廉潔白さは、まさにセシルとローザそのものだと思う。

 

 通路の途中にも、ところどころに看板が設けられていた。

 矢印だけでなく、この温室を作った目的が書かれたものや。

 薬草としてのばらの効能が書かれたものなど。

 それらの前で立ち止まって、解説に軽く目を通し終えてから再び先に進む。

 

 それを繰り返しているうちに、桃ばらエリアに入っていた。

 小さなばらが、数多く互いに身を寄せ合っている。

 こじんまりとしていて可愛げのあるそれは、ポロムにお似合いのように感じた。

 双子の弟は、桃ばらの番人か。はたまた、他の花の甘い蜜を求める蜂か……。

 

「オレンジもあるんだ……!」

 

 次は、なんと橙のばらエリア。生まれて初めて見る色のばらだ。

 さすがに、ここまでのエリアに比べて花の数はとても少ない。

 

 そんなばらを、じっと凝視する。

 太陽のような、あたたかい橙のばらは、一体誰がお似合い……。

 

「わっ!?」

 

 突然視界の上半分が真っ黒に染まり、頭を軽く締め付けられた。

 

 ……帽子をかぶせられた。

 すぐにそう気付いて、後ろをゆっくり振り返る。

 そこには、マントを羽織った男性——エッジが立っていた。

 

「出入り口で待ってるんじゃなかったの?」

「迷子探し」

「何言ってるの? こんなところでなる訳ないじゃない」

 

(やっぱりじっとしてられなかったんだ)

 軽々しく冗談を口にするエッジに呆れて、再び前を向いて橙のばらを見る。

 よく言えば元気。悪く言えば落ち着きがないと言えばいいのか。

 じっと黙って動かないエッジをほとんど見たことがない。

 

 ふいにカルミネで毒に侵されて、床に倒れていたエッジの姿が頭をよぎる。

 あの時は、話さない動かない彼の姿を見る貴重な機会だった。

(……あんなの、もう見たくないよ)

 

「満足したか?」

「……うん。オレンジなんて生まれて初めて見たよ」

「品種改良で作れるらしいぞ」

 

 近年、世界中のばら愛好家が品種改良に乗り出した。

 彼らは新色ばらの認知度向上に一役買っている。

 

 ウルキもそのひとりで、品種改良してオレンジばらを作った。

 橙色のばらは歴史が非常に新しく、希少価値がとても高いという。

 

「いつか緑や紫もここにも並ぶらしいぞ」

「緑!?……見てみたいなあ」

「だいぶ先だけどな。そん時ゃ、誰かと見にこいよ」

 

 エッジがさらっとそう話したのを聞いて、きょとんとする。

 

 エブラーナと言えばエッジ。

 エッジと言えばエブラーナ。

 エッジは、リディアとエブラーナに関わるものを繋げてくれる存在だ。

 

「……エッジが連れて来てくれるんじゃないの?」

 

 エッジが何も答えてくれないことで、はっと我に返った。

 

(何言ってるの、あたし!?)

 緑のばらが咲き誇る頃には、エッジには王妃さまや子どもがいるだろう。

 そもそも、いくら長い付き合いだからと言って、毎回付き合ってくれるとは限らない。

 それなのに、次もエッジと一緒にここを訪れると勝手に思い込んで、口にしていた。

 

「ごめん。さっきのなかっ」

「——いいぞ」

「えっ?」

「また連れて来てやる……今のまんまならな……」

「うん、楽しみにしてる」

 

 珍しく小さな声だったせいで、最後にエッジが何を言ったのか。

 聞き取ることが出来なかったが、さして気にならなかった。

 

 緑のばらが咲き誇れば、またエッジが自分をここに連れてきてくれる。

 本人からそんな確約をもらえた喜びの方が大きかったから。

 

§

 

「入口と同じ小屋……」

 

 ばら園を出て、再び紫の丘へ向かって歩き始めた。

 そんな中、少し離れたところに小屋を見つけた。

 入口のそれとは違い、今度は客の出入りが多い。

 しかも、そこから出てくる客の大半が、大なり小なり紫色の袋を抱えている。

 

「ありゃ、休憩所も兼ねた売店だ」

「売店? 石鹸や練り香も売ってるのかな?」

 

 以前エッジから、ラベンダーの練り香をもらったことがある。

 もしそれが売っているなら、2つか3つぐらい買いだめしておきたい。

 

「練り香、使ってたのか」

「うん。とっくの前になくなって、ずっと欲しかったの」

「早くそれ言えよ。取り寄せてやったのに」

「エッジがここに通ってるなんて思ってなくて……だから、後で寄っていい?」

「いいぞ。他にもいろいろあるしのぞいてけ」

 

 何か頬張っている客もいる。

 気になって目を凝らしてみると、渦巻き状の食べ物——アイスだった。

 

(バロンで、ソフトクリームと呼ばれてたアイスだぁ……!)

 クリームの部分が紫なのは、薫衣草の花を少々混ぜ込んでいるのだろうか。

 

(だめだめ!)

 まずはかねてからの目的、紫の丘に向かうのが先だ。

 そう自分自身に言い聞かせながら、そのまま売店の近くを通り過ぎた。

 未練がましく、時折ちらちら後ろを振り返りながら……。

 

§

 

 またしばらく、丘までの道を歩いていた時だった。

 

「ちょっと、先に歩いてて」

 

 隣を歩いていたエッジに声をかけてから、立ち止まって麦わら帽子を外した。

 

(何か細工されたのかな?)

 ばら園から離れて大分経つ。それなのに、かすかながらも、ばらの香りが消えない。

 しかも頭もばら園に入るまでと比べて、どこか重く感じる。

 

「なにこれ!?」

 

 帽子を見た瞬間、すっとんきょうな声を上げた。

 リボンの結び目辺りに、赤いばらの花が4輪器用にくっついている。

 素朴な麦わら帽子が、優雅なものへ様変わりしていた。

 

(あの時だ!)

 おそらく犯行時間は、ひとりでばらを見ていた間ではないか?

 先を歩く犯人をぎっとにらんでやると、肩をすくめている。

 前を向いたままでも、リディアに呆れているのがすぐにわかった。

 

「……気付くの遅っせ」

「ばらって高いんだよ!? 勝手に摘んじゃだめじゃない!」

「ウルキに頼んだんだよ」

 

 出入り口でリディアを待っていたら、ばら園にウルキがやってきた。

 ちょうどいいと思って、彼女に頼んで細工してもらった。

 犯人——エッジはそう自供した。

 

(ウルキさん、ばら園に来てたんだ)

 リディアは、ばら園ではウルキの姿を見ていない。

 すぐに別の場所に向かったのだろうか? 

 

「嫌なら外せよ」

「やだ。きれいなのにもったいないじゃない」

「ほれみろ。すぐかっかしやがって」

「でも……日にち、保たないね」

「生の花は結婚式で使うし、今日は記念日だ。ちょうどいいじゃねえか」

「え?」

「おまえの人生初デート記念日」

 

(まだそれ言うの……?)

 『デート』——昼食以来、そのワードを聞いた気がするが。

 朝からデートデートとうるさかったし、しつこいエッジに呆れてしまう。

 

「だから、今日はデートじゃ」

「——あともうちょいだ。さっさとしねえと置いてくぞ」

「もう……ちょっと待ってったら」

 

 文句を言おうとしたリディアを遮って、エッジが再び歩き始めた。

 

 歩くスピードが速すぎて、姿がだんだん小さくなっていく。

 そんなエッジに置いていかれないように、リディアが駆け足で後を追う。

 

 無事に追いついて、隣へ戻ると。

 エッジは途端に歩速を落として、リディアのそれに合わせてくれた。

 

 —— —— ——

 なぜエッジが赤いばらを4本、帽子にぶっ刺したのか。

 この時のリディアは全く知る由もない。

 —— —— ——

 

§

 

「こっちな」

 

 あと少しで紫の丘の麓というところで、エッジに指で示された。

 その方へ歩いているうちに、周囲にはリディアたちしかいなくなっていた。

 

「誰もいなくなっちゃった」

「従業員用の道に入ったからな。その先に絶好穴場ポイントがある」

「従業員……そんな道もあるんだ」

 

 畑を挟んだ反対側にも通路があり、リディアたちが登っているそれよりも幅が広い。

 そちらは一般客用の鑑賞ポイントに直通しているという。

 

「そういう道も作っとかねえと、畑手入れする時に道具や材料が出しにくいだろ」

「あぁ、お客さんに迷惑掛けちゃうか」

「そういうこった」

 

 風が紫の穂をさわさわ揺らして、香りをリディアたちの元に届けてくれる。

 反対側の通路をふと見ると、多くの客が丘を登り下りしていて混雑しているように見えた。

 

「あたしたちだけ、なんか申し訳ないな」

「おまえは人混み慣れてねえからこっちにした」

「……そこまで気を使わなくてもよかったのに」

「こういう時に、国王の特権使わねえでどうすんだよ」

「あはは、っ……! こんなことで特権使っちゃうんだ!」

 

 冗談交じりのエッジの言葉を聞いて、けらけら笑う。

 他にいくらでも、特権を使いたい、特権を使わねばならない場面があるだろうに……

 

 しかし、実は人が多いところは少し苦手なリディアのために。

 エッジが特権を使ってくれたことがわかり、密かに感謝したのであった。

 

§

 

「着いたぞ」

「本当に遠かったねえ」

 

 ようやく、緑の草原が広がる絶景穴場ポイントに到着した。

 

 紫の絶景を拝んだのだろう。

 わあ、きれいと客の歓声が、樹々の隙間を抜けてかすかに耳に入ってくる。

 

「お客さん、近くにいるのかな?」

「一般客用と、ここは地続きでつながってんだ。林が間仕切りの代わりになってて、互いに不可侵なんだよ」

「邪魔されないんだね」

「おまえも眺めてみろ。いくらでも声出し放題だぞ」

「うん」

 

 身体を翻して、リディアは丘の上からの景色を望んだ。

 薄紫のラベンダーと濃紫のそれで、畑をグラデーションに彩っている。

 

「すごーい!! 違う世界みたいだぁ!!」

 

 一面広がる紫のじゅうたんが視界に入るやいなや。

 ご多聞に漏れず、リディアも感嘆の声を上げた。

 

 8の月の半ばが過ぎると、ラベンダーは全て刈り取られる。

 それからは、精油に姿を変えてしまう。

 精油は天然の香料として、化粧品や練り香を含めた香水や石鹸の香りづけに使われる。

 エッジがそう教えてくれた。

 

「全部刈り取っちゃったら、お客さん来なくなるよ?」

「だから、今のうちに稼いどくんだよ」

「そういえば……イナミさんが今は繁忙期って言ってたね」

「そ。ばら園は秋冬の集客を考えてウルキが思いついたんだよ」

「奥さんも趣味と実益兼ねちゃったんだ」

「あいつらはふたりとも忍者だが、元々城下町で花屋をやってたからな。一般人と変わんねえよ」

 

 薬草のひとつであるラベンダーを広めるために、イナミが小さな畑を開墾した。

 それが、この園を開いたきっかけとは聞いていたが。

 たった3年で、よくここまでの畑を作り上げたものだと感慨に浸る。

 

「ここはラベンダーだけじゃないんだね。ばら園や売店まであるなんて、すごいよ」

「そればっかだとマンネリになっちまうだろ」

「……え?」

「人って奴は飽きやすいもんでな。マンネリになったら客が来なくなっちまうんだよ」

「そうなの?」

「毎日同じケーキ食えって言われたら、おまえどうする」

「うーん……ケーキは毎日でも食べられるけど、たまには違う種類のものが食べたいなぁ」

「だろ? 奢りや惰性は商売の敵だ。商売に限らず、人や国にも同じことが言える」

 

 帰郷後すぐに、ミゼルと話したことを思い出す。

 幻獣界と関わる面はそのままに、ミストを少し変えたい。

 ミゼルはそのために欠かせない存在である移民に頭を下げて、協力してもらっている。

 

「ミストも一緒……」

「変化がねえと何も始まらねえし、何も起こらねえ。ここで例えたら、ばら園や売店は変化の恩恵ってとこだ」

「恩恵かあ……」

 

 気が付けば、今のミストは以前に比べて、ずいぶん風通しがよくなった。

 ミストでは、花火大会が変化の恩恵にあたるのかもしれない。

 ……などとつらつら考えていると、エッジから意外な質問が飛んできた。

 

「城、やっぱ疲れちまったよな」

「うん……エッジには悪いけど」

「もう来るこたねえだろ。今日だけ目ぇつぶってくれ」

「そんなこと……!」

 

 いつもと同じ、軽い口調で放たれたエッジの言葉。

 それが突き放されたように感じられて心が沈み、頭も垂れていく。

 

 そんなことない、また来るよとも言い切れず。

 かと言って、そうだよ、もう来ないもの……とまでは思っていない。

 どう答えたらいいのかわからず、言葉が出てこない。

 

「……悪りぃ、言いすぎた」

「いいの」

 

 ぶんぶん首を大きく横に振った。

 エッジはよっぽどのことでないと謝らない。

 本気で申し訳ないと思っている証拠でもある。

 

 —— —— ——

 見えないけれど、エッジに専用の護衛がついた。

 そのせいで敷居が高くなり、すっかり足が遠のいていたエブラーナ城に先ほど足を運んだ。

 内装や外装といった外見は、以前と変わらなかったが、使用人がまた増えていた。

 ますますお城らしくなっていて、物理的にも精神的にも距離が遠いままだった。

 —— —— ——

 

「それもあるけど、お城でのエッジが本当に人が変わっちゃったみたいで……」

「エブラーナ、特に城の中じゃ、ばかやる訳にゃいかねえんだよ」

「あれは、演技でそうしてただけだよね?」

 

 なぜそんなことを聞いたのか。

 それは、昨夜エッジが声だけとはいえ『セシル』を演じていたからだ。

 

 『国王』として、リディアに謝罪してくれた時と同じように。

 お城では『上司』の仮面をかぶって、イザヨイたちと接しているのではないか? 

 もし、そうだったらエッジは何も変わっていないかもしれない。

 そんな期待を込めて質問してみたのだが……。

 

「最初はそうだったが、今は演技と地が半々ってとこかね。そのうち逆転するかもな」

「っ、そう……」

 

 いずれ完全に『大人しい』エッジに変わってしまうのか。

 そう思ったら、気持ちがずんずん沈んでいく。

 

「おまえは、さっきウルキと話してた時や、ミストにいる時のオレがいいのか」

「うん。前はお城でもそうだったじゃない。なのに……」

「『国王』や『上司』の顔でいねえと、だめな時もある。必要に応じて使ってたら、自分のもんになってた」

「立場が人を変えちゃうんだ」

「そんなとこ。なんせ、この世は諸行無常だからな」

「……しょぎょうむじょう?」

「万物は絶えず変化し続けて、永遠や不変は存在しねえってこった」

 

 リディアは、ラベンダー畑を改めて眺めた。

 

 ラベンダーの見頃は、毎年7の月から、翌8の月半ばまで。

 その時期を逃したら、紫の絶景は翌年までお預けになる。

 花の命は短く、いつまでもこの絶景が続く訳ではない。この世界は、幻獣界とは違う。

 

 これからは召喚士を一から育てよう。無理やり血をつなぐ結婚で召喚士を増やすのは、やめよう。

 今のミストでは、そんなスローガンを掲げて召喚士育成に力を注いでいる。

 リディアもそのお手伝いをしている。

 

(あたし、わがままだ……)

 ミストには変化を望むくせに、エブラーナ城やエッジが変わるなんて寂しい。

 そう思ってしまうなんて、都合がよすぎる。

 

「……ちょっと……何するの」

 

 エッジが隣から帽子のあごひもを、くいくい引っ張ってくる。

 

「うじうじすんなって」

 

 引っ張りが止まった代わりに、ぽんと肩を叩かれた。

 

「変化変化言うけど、何かしら『芯』は残るもんだ。そうじゃねえと個性がなくなっちまうし、人間なら誰だおまえ状態になるだろ?」

「ここの『芯』は、薬草やラベンダー?」

「そうだな」

「じゃあ、エッジは……いたずらやちょっかいをかける今のエッジが『芯』なんだ」

「ははっ! まあ、こればっかはやめらんねえからな」

 

 笑うエッジを見て、リディアは安心した。

 

(よかった!)

 エッジはおちょくってきたり、ろくでもないことを言ってきたりする。

 腹立たしくなる時もざらにある。

 それでも、子ども心を忘れないエッジが一番エッジらしいと思う。

 

「好きな食べ物や信念も、『芯』になる?」

「ああ。あとは癖とかな」

「人の命は限りがあるし、変化もあるけど……その中で不変でいられるものがあるってことなんだね」

「そういうことだ」

「エッジの話、時々だけど本当にためになるよ」

「そりゃあ、オレは賢」

「——やだなぁ、ずる賢いの間違いでしょ!?」

 

 リディアはけらけら笑いながら、エッジを遮ってまでからかった。

 

 エッジはばかではない、むしろ賢い。

 しかし自分でそれを言うなんて、おこがましいにも程がある。

 日頃のちょっかいの恨みを込めて、『ずる』を付けてあげた。

 

「……おまえって奴は」

「え、何か言った?」

「いっつも余計なこと言いやがって!!」

 

 エッジに怒鳴られて、リディアはきゃあと叫びながら走り出す。

 この場所はなだらかといえ、傾斜地。

 すっ転ばないようおどける程度だが、エッジも後を追いかけてきた。

 

 変化を受け入れろ。そう諭されたにもかかわらず。

 今、この瞬間が『芯』となり、遠い未来でもこうやって走り回れたらいいのに。

 そう思いながら、しばらくエッジと追いかけっこを続けていた。

 

§

 

 追いかけっこが終わり、立ち止まったリディアの背後にエッジが迫ってきた。

 

「——ちょっと貸してくれ」

「あっ」

 

 あごひもが引っかからないように、それはもう器用な手付きで。

 麦わら帽子を取り上げられてしまった。

 

 顔を見ぬよう、うつむきながら振り返ってみれば。エッジがその場に寝転がっている。

 顔を見せないように、顔の上に帽子を乗せて右手で軽く押さえている。

 そんな姿を見て、今から休憩するのだと察した。

 

(朝からずっと、左目だけでがんばってたもんね)

 さすがに目が疲れてきて、休ませるつもりなのだろう。

 さて、今からどうしようか。リディアはそう思案……しなかった。

 

(食べたいなあ!)

 絶景から、ある場所をじっと眺める。

 狙いはもちろん、売店の近くを通った時に見かけた紫色のアイスである。

 

 二度手間になるが、食べながら戻ってきたらエッジにばれやしないし。

 お待ちかねの甘味のための腹ごなしにもなるし、エッジを休憩させるのにもちょうどいい。

 

「ね、エッジはここで休んでて。あた」

「——おまえも休むんだよ」

「ええっ!?」

 

 エッジが上体をさっと起こすと、リディアの右腕を力で引っ張ってきた。

 そのまま引きずられるような形で、その場に尻もちをつかされてしまった。

 

 尻もちしても、草の上だったので大して痛くなくてよかった。

 そう思いながら隣に視線を移すと、エッジはもう寝っ転がっていた。

 

「あたしは疲れてないからいいよ」

「休憩終わったら、売店でアイスおごってやるぞ」

「バレてたんだ……!?」

「そりゃあ、あんだけ ちらっちら ちらっちら 後ろ見てたらな」

「ううっ……」

 

(そこまで見られてた……)

 一部だけ妙に強調したエッジの言葉に、恥ずかしくなって両手で顔を覆う。

 

「空眺めて、のんびり出来る機会なんかそうそうねえ。さっさと寝っ転がっちまえ」

 

 さあっと畑の方向から風が吹いてきて、優しい花の香りが鼻腔をくすぐってきた。

 こんな真っ昼間から何も考えず、ぼうっとする時間は普段ほとんどない。

 めくるめく今日1日の動きに、疲れていないとは決していえない。

 エッジの言うことも一理あるかもしれない。

 

「わかったよ……」

 

 そう答えてから背中を地に沈めて、森林浴ならぬラベンダー浴を始めた。

 

§

 

 西に傾き始めた太陽が、草原に寝そべる自分たちをさんさんと照らしてくれている。

 夏にもかかわらず、太陽がぎらぎらしていないのは、ここが涼しい高地だからだろうか。

 

 あれからエッジは、一言も物を言わない。

 きっと昼寝をしているのだろう。

 エッジをよそに、リディアは風が運んでくるラベンダーの香りを、胸一杯に吸い込んだ。

 

「うーん……いい匂い……」

 

 練り香を介して、香りをたしなむのとはまた違う。

 穏やかなラベンダーそのものの香りに包まれながら。

 自然あふれる、この世界と一体になったような気分になる。

 

 花の香りをたしなみながら夏の天空を眺めていたら、ふとエッジの言葉を思い出した。

 

 —— —— ——

 諸行無常——この世界やそこに属するものは、時を刻みながら少しずつ変化している。

 今目にしている青い空に漂う白雲の形も、今この瞬間だけのものだ。

 そっくりそのまま同じ形や大きさで現れることは、二度とない。

 —— —— ——

 

 幻獣界と違い、この地上世界には不変と言うものが存在しない。

 飛空艇も、エブラーナも、エッジも、ミストも……。

 そして、リディアも変わっていくのだ。

 

「知らないことばっかりだなぁ……」

 

 目の前に広がる青い空を見ていると、世界は広い。そう感じさせられる。

 

 リディアは現在、世界各地を巡る機会がないと言って等しい。

 1日でこれでもかと、忙しない日程をこなしたのは何年ぶりだろう。

 今日1日で得た情報量は、ミストで過ごす1日よりもはるかに多い。

 この後次第だが、キャパオーバーになってしまいそう。

 

 自分という人間は、まだまだ地上世界をわかっていな……。

 

「——だから、オレに騙されたんだよ」

「!」

 

 思わずつぶやいた独り言を、エッジに聞かれていた。

 首を動かすと声の主が、リディアの方に帽子をずらして顔を隠してくれている。

 

「寝てたんじゃなかったの?」

「眠てえ訳じゃねえし」

 

 怪訝そうに眺めるリディアをよそに、エッジはぼそりとこうつぶやいた。

 

「……知らねえことが多いのは当たり前だ。地上で暮らした年数が年齢なら、おまえはパロムたちと同世代。オレとはふた回りも違うからな」

 

 遠回しに幼いと言われているようで、胸がつきりと少し痛くなる。

 

 —— —— ——

 リディアと、『現在』同い年のライザは、既に伴侶を得て子どもがふたりいる。

 3つ年上のアリサも、既婚者で3人の子を持つ母親だ。

 

 事あるごとに、お小言を言ってくる義母。

 言うことを聞かない子どもたち……。

 ふたりが時折こぼす愚痴は、自分がまだ経験していないことばかり。

 

 話を聞く度に、リディアは新鮮に感じる。

 一方で、どこか置いてけぼりにされたように感じたりする。

 これまでの人生で、経験を積んできたのだと改めて思わせてくれる。

 

 ライザもアリサも、リディアのちょっと変わった出自を知っている。

 結婚したら、そうそう遊ぶ機会はなくなる。出産したら尚更だ。

 出不精はよくない。今のうちに、もっとミストの外に出て遊べ。

 ふたりはリディアにそう助言してくれる。

 —— —— ——

 

「……あたし、まだまだ子どもなんだね」

 

 アリサやライザですら、それなのだ。

 エッジから見れば、リディアという人間が子どもに見えても仕方がないだろう。

 

 思い出すのは、6年前も昨夜もエッジがささやいてくれた例の文句だ。

 やっぱりあれは単なるお世辞だったのかもしれない。そう思った途端。

 だんだん気持ちが暗くなってきて、ため息をつきながら腕で目元を隠した。

 

「……ちょっと」

 

 しばらくそうしていると、隣の誰かさんに何度も髪をくいくいと引っ張られる。

 痛くはない。悪意も感じられないが、止める気配がない。

 

「もう、引っ張らないでちょうだいっ」

 

 とうとう犯人に対抗するために、右腕をぶんと振った。

 それでも、犯人はしつこく髪を引っ張り続けてくる。

 

 年齢は一回り、地上での生活年齢はふた回り。

 リディアより年を重ねている犯人の方が、よほど子どもじみたことをやっている。

 

「やめてっ」

「——『おまえはガキじゃねえ』って、昔っから言ってるだろ」

「!?」

 

 子どもじみた仕草と相反して、エッジの声は真剣そのもの。

 それを聞いて、はっとした。

 

 —— —— ——

 幻獣界で10年ほどの修行を積んでから、再び地上に戻ってセシルたちと合流した。

 ところが、セシルたちにとってのリディアは数ヶ月まで小さな子どもだった。

 そのせいか、彼らは保護者のようにリディアに接してくることしばしば。

 それがリディアは面白くなかった。

 セシルたちと同じ大人なのに、子ども扱いしないで欲しい、と。

 

 そんな中、月へ赴いてゼロムスの牙城を少しずつ崩していた、ある夜。

 

『言っとくけどな。オレはおまえのことガキだなんて一度も思ったことねえぞ』

 

 一番リディアを子ども扱いしていたエッジの言葉に、驚きを隠せなかった。

 ……その後すぐ、セクハラを受けてしまったけれど。

 —— —— ——

 

「そうだった……」

「でもなあ。——おまえは大人でも、温室育ちの大人だからな」

「えっ?」

 

 なぜエッジがそんなことを言うのか、理解が出来なかった。

 

「それは、お金持ちのお嬢さま……王子さまやお姫さまのことでしょ?」

 

 温室育ちとは、高貴なお身分やお金持ちの方々を指す言葉ではなかったか?

 リディアは彼らのように、ひよわでもお上品でもないと思っている。

 

「周りに可愛がられて守られて、大した苦労してなきゃ誰でも温室育ちになれる。ばらと一緒だ」

 

 ばらと一緒だなんて、エッジもおかしなことを言うものだ。

 そう思いながらも、立ち寄ったばかりのばら園のことを振り返ってみた。

 

 確か……看板にこう書いてあった。

 年がら年中、同じ気温を保つため、温室内の気温をその都度調整している、と。

 

(全面ガラス張りなのは……!)

 ばらには欠かせない陽の光を浴びさせて、天候や気温の変化から、ばらを守るため。

 

「……そういうことかあ」

 

 ばらに例えた温室育ちの説明に合点が行った。

 リディアがばらなら、あのばら園の温室はミストや幻獣界だ。

 

 —— —— ——

 リディアは、今のミストでの暮らしにほとんど不満はない。

 苦手な家事も、それなりにこなせるようになった。

 純血の召喚士絡みで、縁談話を持ちかけてくる。

 リディアを高貴な人のごとく特別扱いしてくる、ミストの保守派の先住民。

 いわゆる、頭が古くて固い人たちが厄介なだけだ。

 

 自分のことを特別扱いしないでほしい。

 リディアは、ミストの住民に対してそう望んでいる。

 それを知る村長ミゼルは、リディアの希望に沿って様々な配慮をしてくれている。

 配慮というが、これも一種の特別扱いだろう。

 

 幻獣界もそうだ。

 辛かった修行を抜きにしたら、優しい両親代わりの存在がいる。

 仲の良い幻獣や住民もたくさんいる。

 

『何かあれば、いつでもここに帰っておいで』

『いつでも住民にしてあげるぞ』

 

 今でも、リヴァイアサンたちがそう声をかけてくれる……。

 —— —— ——

 

「気付いたか」

「うん……火事の後は、修行や戦い以外はあまり苦労してない。恵まれてる」

「6年前は特別だな」

「普通はあんなこと起こらないもんね……」

 

 この星以外の生物が、ある日突然大国バロンを乗っ取って。

 世界各地の国や村を滅亡寸前に追い込むなんて、過去の歴史ではなかったことだ。

 

「温室育ちは世間にもまれてねえから、無邪気で人をすぐ信用しちまうんだよ」

「だから、あたしは騙されたんだ」

 

 エッジの提示した条件をうっかり呑んでしまったのもそう。

 甘いものに釣られて、休日をエッジに預けて、ここまでついてきたのもそうだ。

 

「いいこともあるぞ」

「そんなのあるの?」

「寛容で周りに優しいのも温室育ちの特徴だ」

「そんなこと……」

「おまえ、大して嫌いな奴いねえだろ」

「……言われてみたら……いないかも……」

 

(キロンさんぐらいかなあ)

 彼への感情は、現時点では嫌悪レベルで留まっている。

 今後ミゼルやジャンヌに余計なことをしたら、憎悪レベルまで跳ね上がるかもしれない。

 

「それに、幻獣と仲いいだろ」

「うん」

「異世界の生き物でも、分け隔てなく付き合える。よほどの悪人でもねえ限り、相手を許せるしな」

「それが寛容……」

「ああ。——おまえの個性のひとつだ」

 

 更にエッジは、ローザよりもリディアの方が優しいとまで言ってのけた。

 

「えー? ローザの方が優しいに決まってるじゃない」

「あいつはおまえにすげえ優しいからな。そう思ってもしょうがねえ」

「そうだよ。エッジの気のせいだよ」

「あいつの優しさってのは、ダチや仲間、弟子とか身内限定なんだよ」

「そうなのかなあ?」

「そうなんだって……まあ、オレはその中に入ってねえみてえだが」

「あははっ! なにそれー! ただの逆恨み!」

 

 エッジのぼやきに、リディアはお腹を抱えて大笑い。

 温室育ちという微妙な評価をいただいてから、もやもやしていた気持ちが少し晴れた。

 

(やっぱり自覚はあったんだ)

 ローザは他の仲間と接する時、エッジにだけはかなり手厳しい。

 優等生のローザには、まるでエッジが不良か遊び人に見えて仕方がないのだろう。

 仲間といっても、生きる世界が違うというか……。

 

「温室育ちがいやなら別の名前に変えてやるぞ」

「何に?」

「『世間知らず』『無知』『箱入り娘』『過保護』『苦労知らず』ってとこかね」

「……温室育ちでいいよ」

 

 エッジが並べた候補の数々は、どこか負の要素が漂うものばかり。

 子どもに逆戻りするような感じがして、現状維持を希望した。

 

(だからかあ)

 リディアが持っていた温室育ちのイメージは、高貴なお身分。

 それにもかかわらず、エッジは温室育ち……ばらではないと思う。

 常に外敵に晒される雑草や樹木のように、自分よりも長く世間にもまれている。

 

 もしかしたら、女遊びも温室からの脱却に一役買っているかもしれない。

 ……女性が入れ替わり立ち替わるのは、大いに問題があるけれど。

 

「ギルバートも温室育ちだよね」

「あいつは見た目も中身もまんまだな」

 

 高貴なお身分の温室育ちで、ぱっと思い浮かんだのがギルバートだ。

 人の心を癒せも惑わせも出来る歌声を持つ吟遊詩人。

 そして、おおよそ戦いや争いなど無縁な赤いばらと白馬が似合う元王子の国王様。

 エッジ——王族の血を引く国王——とは、好対照的な存在である。

 

「昔ね。ギルバートに『いくじなし』って言ったことがあったの」

「そんなこと言える女は、おまえとローザぐらいしかいねえよ」

「だから、アリサたちには内緒にしてる。言ったら怒られちゃいそうで……」

「あいつらだけじゃねえ。全世界の女、敵に回すぞ」

 

 帽子の向こう側で、くつくつエッジが笑っている。

 出会った頃のギルバートは、心身共に打たれ弱い温室育ちそのものだった。

 

 —— —— ——

 ギルバートが、最愛の人を失った直後。

 当時子どもだったリディアには、その姿が『いくじなし』にしか見えなかった。

 そして、その場でギルバート本人にそれを言ってしまったぐらいには……。

 —— —— ——

 

「つっても、あいつは会う度に国王らしくなってきてるぞ」

「そうだね。昨日、久しぶりに会ったけどしっかりしてたよ」

 

 ギルバートはリディア並みの非力で攻撃能力はほとんどない。

 しかし、国王に即位して以降、精神的成長ぶりは著しいもの。

 

「責任ある立場についたろ? んで、国益ゲットするために世界ツアー。そいつらが、あいつを温室から脱出させようとしてんだよ」

「立場が人を作るって、ギルバートのことでもあるね」

「ああ。ついでにオレに負けず劣らず、頭が回るようにもなったしな」

 

 リディアもエッジの話に大いに同意する。

 

 —— —— ——

 昨夜、演奏会が終わってからギルバートが劇場から出てきた。

 その時、アリサをはじめとした数多の女性ファンが彼の元に押しかけていた。

 しかし、ギルバートはそれに動じず、彼女たちに手を振ってダムシアンへ帰っていった。

 昔なら女性たちのパワーに圧されて潰されていただろう。

 ギルバートも、6年という時間をかけて少しずつ変化を遂げているようだ。

 —— —— ——

 

「落ち込んでんのか」

「そこまでは……」

「ほらな? そこで逆ギレしねえから大人なんだよ」

「だって、今までの積み重ねがあるから、今のあたしがあるんだもん」

「そうだな。おまえが幻獣界に行かなきゃ、世界滅亡してたからな」

 

 今ある穏やかな生活は、過去の辛いことや出来事を経たおかげ。

 そう気付くようになったのは、いつの頃だっただろうか。

 

 故郷が炎に包まれて、近所の人や最愛の母エスタを亡くした。

 素質があると褒めてくれた、大賢者テラも死んでしまった。

 

 昔に、元に戻して欲しいと、何度思ったことか。

 それでも、この地上世界にはそんな都合のいいことは起こらない。

 ならばこれからどう生きようか。

 そう前向きに動いた結果が今だから、幻獣界で暮らしたことも後悔していない。

 ただ……。

 

「10年って、すごく長いね。時間も戻らないし……経験もすぐ取り返せない……」

「修行といっしょだな」

「うん」

 

 昨夜アリサから、『あんたはものぐさで適当な分をそれでカバーしてるの』と言われた。

 幻獣界で10年過ごして、修行の果てに世界を救う力を持つことが出来た。

 その力は、今は魔法の指導として、ミストで生きる術となっている。

 アレンジして新たな魔法を作って、日々の暮らしも楽にしている。

 

(仕方ないよね)

 エッジにも、大人と言われたし。

 どこにでもいる普通の娘として、ミストで一生を終える予定だし。

 別に温室育ちのままでも……。

 

「おまえも、温室から逃げ出せるぞ」

「え」

 

 諦めかけていたリディアに、歯止めを掛けてくれたのは。

 どこか間延びしたエッジの声だった。

 

 どうして、自分の考えていることがわかったのだろう。

 まるで想像上の能力である、心話——テレパシーを使ったかのよう。

 

「あたし、ミストから出て行くつもりないよ」

「オレも、ずっとエブラーナだぞ」

「あたしは、エッジやギルバートみたいに、あちこち飛び回る時間がないよ……」

「ミストをほったらかしにできねえもんな」

「うん。そこまでして温室育ち卒業したくないの」

 

 ミストに留まる理由は、故郷のお手伝いをするためである。

 言うなれば、次世代の召喚士の育成だ。

 これはリディアの昔から変わることがない『芯』で、おざなりに出来ない。

 

「時間はかかっちまうが、今のまんまでも出来ることはあるぜ」

「え?」

「なんでもいいから本読んで、いいとこ取りすりゃいい。あとは、世の中の動きが知りてえなら新聞だな」

「読書と新聞で脱出……?」

「知識は最強の武器にもなる。依存するのはよくねえが、頭に入れといて損はねえ」

「……!」

「知識を頭に入れたら記憶喪失にならねえ限り、死ぬまで手放すことはねえからな。こんなお手軽な温室脱出法、そうそうねえぞ?」

 

(これなら少しずつでも出来る!)

 エッジの話を聞いて、リディアの目からうろこが落ちた。

 

 —— —— ——

 新聞は社会の出来事や政治情勢などを、早く伝えるための印刷物である。

 雑誌に続く新たな情報手段だと言われている。

 

 ゼロムス打倒後、世界各地に新聞社が作られた。

 現在それぞれの会社がほぼ毎日、新聞を刊行して購読者に配達している。

 ミストにも新聞配達人が現れるようになったぐらいだ。

 

 村長のミゼルは、世界各地の新聞を取り寄せている。

 新聞は、彼に借りればいい。

 本は、本好きのアリサにもっと貸してと頼めばいい。

 何なら、近隣のバロンやダムシアンの図書館にも足を運べばいい。

 ……性格上、アリサに借りるだけで終わるかもしれないけれど。

 —— —— ——

 

「ねえ、他には何か方法ないの?」

「他なあ……」

 

(エッジは物知りだから、他にも知ってるはず)

 リディアは浮き足立って、更なるお手軽脱出法をエッジにせがんでみた。

 しかし、隣の男は途中で言葉を切って黙ってしまった。

 

 何か考えていたのか、しばらくしてからエッジがリディアにこう言った。

 

「……エブラーナのことわざに、『亀の甲より年の功』ってのがあってな」

「なにそれ」

「人生の先輩、老人を敬えってこった。年寄りからためになる話を聞きゃいい」

「お年寄り……」

 

 そう言われたものの、リディアはあまりぴんと来ない。

 息子が移住するのと合わせて一緒に越して来た者、火災で生き残った者。

 彼らを合わせても、今のミストにはお年寄りが指折り数えるぐらいしかいない。

 身近なお年寄りといえば、シドか……。

 

(そうだ!!)

 老人ではないけれど条件にほぼ合う人間が、すぐ近くにいるではないか!

 リディアはひらめいたと同時に、勢いよく上体を起こす。

 そして、隣で寝そべる男に向かって、こう叫んだ。

 

「——じゃあ、エッジがいろいろ教えてよ!!」

 

 リディアの勢いに押されたのか、エッジがだるそうに左手で頭を抱えた。

 

「なんで、オレ……」

「あたしから見たら、年よ……あ、えっと、人生経験豊富だから!」

 

 リディアは一方的に話し続けていたが、途中で逆鱗に触れそうな言葉を言いかけた。

 そのせいか、エッジが身体をびくりと震わせた。

 

「オレは年寄りじゃねえって言ってるだろ!」

「言ってないもん!」

 

(最後まで言ってないからセーフだもん!)

 年寄りだと気にして、いちいち怒るエッジが悪い。

 リディアは負けじと、言い返してやった。

 

「エッジは温室から脱走してるよね? 王子さまだったから、温室育ちになっていたかもしれないけど、脱走の常習犯になっちゃったじゃない」

「……」

「国王さまになった今でも、花火の打ち上げや裏方や家事が出来るし、タオルをふわふわに乾かす知恵も知ってて、物知りだし。いい行いと呼べないけど、女遊びも派手で世間にもまれているしね」

「……」

「頻繁にミストに遊びに来てくれるから、シドおじちゃんに話を聞くために、バロンに足を運ばなくていいし。だから、エッジがいいの」

 

 だんまりなエッジに、リディアは選出理由を一方的に話し続けた。

 人生の先輩として賞賛を込めたつもりだ。

 最後だけは、ものぐさゆえの自己都合な理由だったけれど。

 

「昔、エブラーナ城で授業してくれたじゃない。話も面白いもん」

「……」

「たまにでいいから。それでも、だめ?」

 

 座り直して、だんまりを決め込むエッジを見下ろしてみた。

 どうやら、たぬき寝入りしていると思われる。

 

(お年寄り扱いしたのが、まずかったかなあ)

 当面の間、昼の関係が続くことは既に確定事項である。

 その時に、授業と言う名のためになる話を聞かせてくれるだけでいいのだけれど。

 

「……ったく、しょうがねえ奴だな」

 

 顔を隠す帽子を右手で押さえたまま、エッジがむくりと起き上がった。

 ここまで来たらもう大丈夫。良返事は間違いない。

 リディアは目を輝かせながら、返事を待つ。

 

「リディアちゃんに、この世のいろいろを教えてやるとすっか」

「やった!」

「昼は授業料タダにしてやる」

「ほんと? ありがと……っ!?」

 

 諸手を上げて喜んでいたら、エッジがぬうとリディアの顔の前に近付いてきた。

 エッジが帽子で顔を覆い隠してくれたままだから、何も症状は出なかった。

 けれど、恐ろしいぐらいの至近距離にエッジの顔がある。

 そのせいで息を詰まらせたリディアへ、エッジがこうささやいてきた。

 

「——昼夜問わず、いい女に仕込んでやるからな」

「っ!?」

「覚悟しとけよ?」

 

 男の色気を感じさせるエッジの声に、胸がどきりと跳ね上がってしまった。

 自分の顔は、今真っ赤になっているかもしれない。

 見られなくてよかった。

 リディアはそう安堵するも、女性限定で本気のエッジに驚きと焦りを隠しきれない。

 

(心臓に悪いよ……!)

 このエッジなら、ばらも似合うし、大抵の女性は確実に堕ちるだろう。

 昨日は想像しただけで爆笑したが、あれは大間違いだった。

 しかも、こんな真っ昼間からいやらしい気配を漂わせるなんて……!

 

「エ……エッジのばかあっ!!」

 

ぼすん!

 

「っ!!」

 

 右の拳をぎゅうと握りしめて、エッジのみぞおちに叩きつけてやった。

 すると、エッジが小さくうめいてから上半身を思いっきりかがめた。

 

「……く、くくっ……!」

「変なエッジ……」

 

(叩かれて笑う人なんてそうそういないよ?)

 なぜかエッジが笑い始めてしまい、リディアはすっかり毒気を抜かれてしまった。

 笑った理由すら聞く気にもなれず、目の前の男を呆れながら見つめるだけだった。

 

§

 

「授業終わったら、アイスな」

「おねがいします」

 

(えらっそうだなあ。人に物を教える態度じゃないよ)

 先生——エッジは、帽子で顔を覆い隠した状態で寝そべっている。

 気だるげに両足を組み直す様が、更に呆れを生じさせてくれる。

 

 そんな態度に、リディアは教育者の端くれとして大いに疑問を感じた。

 それでも文句を言わなかったのは、生徒——リディアも正座を崩した女の子座りだったから。

 

「世の中には、オレみたいに言質取って身体要求する奴がごまんといる」

「え……? げんちって何? 初めて聞いた」

「そっから説明かよ……」

 

 エッジがかったるそうにため息をついている。

 その様子から、何も知らないリディアに呆れているように見える。

 

(これがさっきエッジが言ってた、無知なんだ……)

 以前カルミネのことを、新商品のお菓子だと勘違いしたぐらいだ。

 リディアは今まで地上のものに関して、甘味以外あまり興味がなかった。

 世間の動きは、ごくたまにこうしてエッジから話を聞くか。

 ローザやギルバートから届く手紙の内容で満足していた。

 

「言質ってのはな、言葉の人質。後日証拠になる約束めいた言葉のことだ」

「証拠……」

「プロポーズと似たようなもんだな」

 

 言質は、商談や国の政、国同士での話し合いでよく使われる。

 交渉や約束を相手が破棄したり、内容を変えたりしないようにするために。

 場合によっては、こちらにとって有利なものにするために。

 話し合いの中で、相手から証拠となる言葉——言質を引き出して取っておく。

 言質はいわば保険のようなものだとも、エッジが話してくれた。

 

「エッジは……」

「あ?」

「セシルたちから、その……言質を取ろうって、思ったことあるの?」

 

 エッジはセシルやヤン、ギルバートと定期的に顔を合わせている。

 それでなくても互いの国を訪れて、何かしら話し合いをしているはず。

 いくら国同士の話し合いとはいっても、相手は元仲間だ。

 それでも、言質を取る——保険をかけるようなことを、エッジはやるのだろうか?

 リディアはそれが気になった。

 

「そんなことするかよ。あいつらは反故にするような奴らじゃねえぞ?」

「よかった……みんなを信頼してるんだね」

「あいつらも同じこと思ってるだろうな」

「でも、そうじゃない相手だと、うかうか話し合いも出来ないね」

「言質とプロポーズとの違いはそこだな」

 

 —— —— ——

 言質とプロポーズとの違いは、相手への信頼度の高さ。

 相手への疑念や不信感があるから、話し合いの中で言質を取ろうと躍起になる。

 相手側も言質を取られて、相手に有利にさせないよう言葉を選びながら慎重に発言する。

 言質を引き出して取ったら勝ち。言質を引き出され取られたら負け。

 話し合いは武器を持たない言葉の戦い、腹の探り合いになる。

 

 一方、プロポーズは互いに疑念や不信感は存在しない。

 愛する相手だからこそ、自ら進んで相手に共に生きようと誓いの言葉を口にする。

 相手側もよほどではないと拒否せず、プロポーズをしっかりと受け取る。

 —— —— ——

 

「……言質って、なんかイメージよくないね」

「だから、損得ありきの政治や商売の話し合いでしか使わねえ。おまえが知らなかったのも無理ねえよ」

「エッジはそれを悪用して、あたしを騙したんだ」

「そっから先は、わかるだろ?」

「……うん」

 

 悪人にとって、『なんでも言うことを聞く』は最高の言質。

 エッジが得意げにそう話した。

 言質を盾に、身体だけでなく金も要求出来る。

 相手の持ち物で気に入ったものがあれば、自分のものにも出来る。

 王妃になれ、召使いになれとなんでも命令出来る……。

 

「あーあ! ほんとばかなこと言っちゃったぁ……!」

「言っちゃなんだが、オレもおまえに言質渡してあるぞ」

「もしかして、『気が済むまで』がそれ?」

「そうだ。オレはそこらの悪人と違って、良心も持ち合わせてるから、期限設けてやったんだよ」

「っ……! 自分でそれ言っちゃうんだ……っ」

 

 自慢げに話したエッジに、リディアは思わず吹き出してしまった。

 それでも、発言にはおおむね同意である。

 良心がなければ、義務だろうが何だろうが、頭を下げてリディアに謝罪しない。

 刃物持てない問題を、早速なんとかしようと思わないだろう。

 

「先生笑う奴は、言質盾にして一生パシリの刑にしてやるぞ」

「エッジは、そんなことしないもん」

「へえ? 自信満々だが、なんか理由あんのか?」

「エッジには部下の人がたくさんいるじゃない。それに、あたしより自分でやった方が丁寧で早いから、あたしをパシリにしないよ」

 

 もちろん、エッジに話した理由もあるが。

 エッジが言質をかざして、無茶を言うのは夜だけ。昼は言わない。

 リディアは、そんな根拠のない確信を持っていた。

 

「——ははっ、よくわかってんじゃねえか!!」

 

 今度は、エッジが腹を抱えて笑い出した。

 左手で帽子をしっかり支えて、顔から帽子がずり落ちないようにしながら。

 

「不満なら、ローザに話すか。オレを訴えてもいいんだぞ?」

「どっちもしないよ」

「なんで」

「だって、セシルや……ローザに……」

「話せねえよな。セシルのふりしたオレにヤられたってのが、あいつらにバレちまう」

「うん……」

 

 リディアがローザに話さないと断言した理由は、6年前と同じである。

 訴える際には、全てを話す必要があるとわかっていたからだ。

 

 —— —— ——

 場合によっては、6年前のみだらな一件も芋づる式で晒されてしまう。

 エッジがセシルのふりをする理由だって聞かれるかもしれない。

 さらに芋づる式で、自分がセシルに思いを寄せていたことまでふたりにバレてしまう。

 リディアが黙っていても、エッジが追求された際に全て暴露するかもしれない。

 —— —— ——

 

(エッジが完全に悪いなら訴えていたけど、そうじゃないし……)

 リディアは昼の関係を続けたいという理由で、不条理な条件を呑んだ。

 エッジと共犯関係ではないけれど、それに近い。

 だからローザにも話さないし、エッジを訴えるつもりもない。

 

「何にしろ、一番大事なのは自己防衛だ。おまえもこの先、魔法使って襲われねえようにしろ」

「魔法で……?」

「正当防衛っつってな。そういう時に魔法や物理使って相手が怪我しても罪には問われねえ」

「じゃあ、エッ」

「——オレには使うな」

「ううっ……」

 

 どすの効いた声でエッジから返事をされて、うなだれる。

 

(泣き寝入りしているようなものだし、今更遅いか……)

 それ以前に忍者の頭領で戦闘狂のエッジへ黒魔法を使っても、追っ払えるかどうか不明。

 最大黒魔法メテオを使えば、退散させられるかもしれない。

 ただ、それを使うと自宅も一緒に壊れてしまうだろう。

 

「これからは、なんでもやるなんて絶対に言うな。ろくな目に合わねえから」

「大丈夫。もうそんなこと言わない」

「よし。じゃあ、今日の授業はこれでおしまいな」

 

 エッジは授業中、終始軽い口調で話していた。

 それでも締めの言葉だけは真剣そのものだった。

 寝そべったままだったから、真剣味に欠けている気もするけれど。

 

「……ディア」

 

 とてもわかりやすい世の中の授業が終わり、ぼーっと感慨に浸る。

 エッジの声が耳に入ってきても雑音と認識して、右から左に流すぐらいには。

 

「おい、聞いて……か」

 

 これからエッジにいろいろ教えてもらえる。

 普段ものを教える立場にいるけれど、楽しみで仕方がない。

 

「……ぐらいしろよ」

 

(悪人なのに、よくこんなこと引き受けてくれたなあ)

 まさか、昨夜のいざこざを早速授業にするとは思わなかった。

 昨夜犯した罪を、真っ先に事例として挙げて、わかりやすく話してくれた。

 性犯罪を訴える際のデメリットまで教えてくれた。

 やはり、エッジは自身で豪語するように良心もしっかり持っている。

 そうでないと、一国の王として国を治められも、民からも慕われも……。

 

「——おい」

「わっ!?」

 

(帽子で顔を隠したままなのに、よくほっぺたの位置がわかるなあ)

 エッジにきゅうと右頬をつねられて、ようやく我に返った。

 すぐに離れたエッジの左手と入れ替わるように、頬に右手を添える。

 

「ぼさっとしやがって、オレの授業わかんなかったのかよ」

「違うよ。感動してたの」

「お、さすがオレ」

「——経験者は語るって本当なんだねっ!! 生々しくて説得力あったよ!!」

「ちっ……」

 

 エッジが舌打ちすると、リディアに背を向けるようにふんぞり返ってしまった。

 最上級の褒め言葉を送ったつもりなのに、皮肉と受け取ったようだ。

 

「褒めたのに怒っちゃうなんて、へんなエッジ……!」

 

 こんな授業なら一生受け続けてもいい。

 そう思いながら、エッジのご機嫌が治るまで、その隣で満面の笑みを浮かべていたのであった。

 

 

 ——午後4時前

 

 

 薬草園を後にして、リディアは自家用艇に乗るなり、エッジにこんなお願いをした。

 

「このままミストに送っていってちょうだい」

「晩メシとケーキがまだ残ってるぞ?」

「いいの。エッジの帰りが遅くなっちゃうもん」

 

 残りの予定をこなすと、エッジがエブラーナ城に帰る前に日が暮れてしまう。

 エッジは今、右目が使えない。

 片目では夜間の飛空艇運転なんかさせられない。

 

「昼も運転出来たし、自動運転もある。夜も平気だって」

「何かあったら大変だよ。晩ごはんはもともと予定になかったし、ケーキはまた今度でいいから」

「けど」

「——『ケーキまるごと』って言質を取ってあるもん」

「あ……」

「お願いっ」

 

 エッジは最初不満を露わにしていが、渋々引き下がってくれた。

 

 そのままミストに……と思っていたら。

 エッジが向かったのはミストではなく、バロン。

 

「おまえの頼みをまるっと聞く訳にはいかねえ。ささやかな抵抗だ」

 

 洋菓子店に連れて行かれて、ケーキ3個をお持ち帰りで買ってもらってから。

 ミストへの帰路についたのであった。

 

 

——午後5時半すぎ

 

 

 エッジに買ってもらったケーキ3個を全て食べ終えた。

 

「はぁー、美味しかったぁ……! もう晩ごはんいーらなーい」

 

 空いたお皿にフォークを置くと、両頬に手を添えて甘い余韻に浸る。

 

「……今日だけは、目ぇつぶってやる。二度とすんなよ」

「わかってるよ」

 

 ご機嫌なリディアとは対照的に、エッジが不満そうな表情でコーヒーをすすっている。

 リディアの夕食——ケーキ3個に、どうしても納得行かないようだ。

 

(晩ごはんは、毎日ケーキ2つか3つでいいって、昔は思ってたのに……)

 実際ライザやジャンヌが焼いてくれたお菓子をつまんで、ごちそうさま。

 そういう日が、ざらにあった。

 そんな乱れた食生活を正してくれたのが、目の前にいる男であった。

 

「いくらメシ抜きったって、よく3つも食えるな」

「……明日から我慢するもん」

「3つ、いや4つだと、最低2週間は我慢だな」

 

 エッジが4つと言い直して、思わず眉をひそめてしまう。

 

(わざわざ増やす必要ある?)

 薬草園のアイスの分を入れてなかったから、言い直したのかもしれない。

 けれど、アイスはもともと予定になかった。

 薬草園でしっかり歩いて運動したから、3つでいいではないか。

 

「2週間は長すぎ。3日で十分だよ」

「甘っちょろいこと言いやがって」

 

 反論に出ると、不意打ちのごとくエッジの手が胸元近くまで伸びてきた。

 

「ふぁ!?」

 

 変な声を上げると同時に、胸元付近の服の布をつままれる。

 ゴムのようにびよーんと引っ張られて、ぱっと離された。

 伸びた布はリディアの胸肌に、ぺたりと吸い着くように元に戻った。

 

「ちょっ、と! どこ触ってんのよ!」

 

 こちらに伸びたままのエッジの右手をばちんと叩いてやった。

 服とはいえど、胸を触ってくるなんてセクハラではないか。

 

「そいつのせいで、気ぃ付いたらデブになってても知らねえぞ」

「あ……!」

 

 自身の体型の変化に対して、緊張感がまるでない。

 エッジはそう言いたいのだろう。

 

 —— —— ——

 服がきつくなったら太った。服に余裕があると感じたらやせていた……。

 地上製の服を着ていると、そういった気付きの機会がある。

 

 ところが、リディアの服はアスラが作ってくれた不思議仕様。

 太ろうがやせようが、リディアの体型に合わせてサイズが勝手に変わる。

 服が着れなくなる、サイズが合わなくなることはない。

 —— —— ——

 

「……じゃあ……1週」

「——1日保てば、いい方だな」

「そんなことないもん!」

 

 エッジの勧めとこちらの希望の中間を取って、1週間にしたのに。

 鼻で笑われてしまい、口を尖らせた。

 

「それより、もう帰らないと。本当に日が暮れちゃうよ」

「……しゃあねえ。帰るとすっか」

 

 エッジが窓の外を見やり、コーヒーを飲み干してから席を離れた。

 窓から差し込む西陽の橙光で、タイムリミットだと悟ったようだ。

 リディアも見送りするために後を追う。

 

「今日は本当にありがとね。ケーキもごちそうさまでした」

「次は、今月最後の『夜』だ。楽しみにしてろよ」

「——え」

 

 扉を開けようとしたエッジから、さらっと告げられた予告に目が点になる。

 

「ちょっと待ってよ」

「何だよ」

「次は来月の終わりじゃないの?」

 

 7の月分は昨夜(7の月17日)済ませた。だから、次は8の月31日。

 月に1回という約束はどこ行った。納得が行かない。

 

 —— —— ——

 バロンからミストに帰ってくる途中。

 夜の関係の詳細をふたりで決め……いや、エッジが全部決めた。

 

 リディアの月のものの巡りからして、月終わりが安全。

 加えて、ミストに続く謎現象の雨期——雨が目印になる。

 そういった理由から、エッジは毎月最後の日の夜、ここにやってくる。

 そしてリディアとヤッて、翌朝エブラーナに帰るという。

 

 週に1回に比べたらまだいいか。

 リディアはそう思い、渋々ながらエッジの提案を受け入れた。

 —— —— ——

 

「どうしてって……そりゃ、身体慣らすために決まってんだろ」

 

(絶対にやにやしてる!)

 『場数』を踏ませて、身体への負担を楽にさせてやると言いたげである。

 しかも、『慣らし』という表現が飛空艇みたいで腹が立つ。

 

「絶っっ対、嫌っ!! 単にエッジがヤリたいだけじゃない!!」

 

 エッジに向かって、不満を思いきりぶつけた。

 

 好きでヤリたい訳ではない。

 仕方なくヤッてあげようとしているのに、場数踏まれてたまるか。

 

「……っ!」

 

 すると突然エッジが、リディアの両肩をぐっと強くつかんできた。

 顔が近付いてくる気配を感じて、思いっきり下を向くと。

 さっきまでと一変して、冷たく尖がった気配が漂ってきた。

 

(あぁ、また『あれ』だぁ……!)

 昨夜セシルを終始演じていたエッジが、唯一発した自分の声で何かささやいてくる。

 そう予想して、ぎゅうと目を閉じて身体を縮こまらせることで。

 『あれ』に備えて迎撃態勢を整えた。

 

「それのどこが悪いんだよ」

「っ!」

「オレの言うこと何でも聞く約束だろが。言うこと聞かねえと、昼間もセックス三昧に変えるぞ」

 

 人を殺めそうなぐらい悪意に染まった、冷酷で低い声が頭上に降り注がれた。

 

「ひ……昼は、絶対……やだ……」

 

 まるで今日の夢に出てきた、エッジの皮をかぶった悪魔のよう。

 身体を震わせながらも、やっとの思いで拒否の言葉を口にした。

 

 お願いだから、昼だけは以前のままにしてくれ。そう必死で祈っていると。

 目の前で漂っていた冷たい気配が霧散して、くつくつと笑い声が聞こえてきた。

 

「……ってのが、言質の悪用例だ」

「えぇ!?」

「復習出来てよかったな。そんだけびびってたら、もう引っかからねえだろ」

「あぁ……よかったぁ……」

 

 エッジに帽子をとんと軽く叩かれると、緊張が解けて大きく息をついた。

 渋々授業を引き受けてくれたのに、復習までやってくれるとは……。

 エッジの先生ぶりに感心するも、やはりさっきの『あれ』は生きた心地がしない。

 

「月終わりに、ここに来るのは変えねえぞ。もし嫌がったら……」

「わ、わかった!……もうそれでいいから!!」

「決まりな。——昼は前と一緒。夜の話題は一切出さねえ」

「それ、ほんと?」

「ああ」

 

 これはエッジの言うことを素直に聞くことが出来る。

 昼と夜で線引きを引いてくれるのは、ものすごく助かる。

 

 さっきの凶悪犯さながらのエッジは、怖くて嫌だ。

 薬草園で一瞬顔をのぞかせた、夜の雰囲気を漂わせたエッジも同じく。

 どちらも頻繁に現れでもしたら、こっちの精神がもたない。

 下品な言葉も明るい昼間に聞きたくない、だからこれでいい。

 

「おまえもそっちの方がいいだろ?」

「……うん!」

 

 リディアは大きくうなずくことで、エッジの提案を受け入れたのであった。

 

 —— —— ——

 この日以降、エッジはリディアと交わした約束を固く守り通した。

 昼間は下品なことをあまり口にしない、人畜無害の好青年。

 以前と変わらず、不意打ちでリディアの自宅にやってくる。

 

 あの日のように、色気を感じさせる声や殺意すれすれの冷たい声で。

 リディアに話しかけることは一度もなかった。

 —— —— ——

 

 

——数時間後

 

 

 とても内容が濃かった1日が、やっと終わろうとしている。

 昨日と違い、今日は安心して寝付けのお茶を飲むことが出来る。

 

 本日リディアが選んだのは、薬草園の帰り際に手渡された、ばら茶だ。

 カップにお茶を注ぎ終えて、いよいよいただくことにする。

 

 両手でカップを持って顔に近付けると、上品かつ優雅な香りが鼻腔をくすぐる。

 一瞬うっとりとしたが、すぐになんとも言えない表情を浮かべた。

 

「……ラベンダーの方がいい」

 

(お花はすごくきれいなのに)

 匂いを嗅いだことで、さほどなかったばら茶への購買意欲は完全に消えた。

 

 ばらはやはり鑑賞するものだ。

 ラベンダーのさりげない花の香りの方が自分には合っている。

 

 しかも、今日頂いた茶葉はお試し用のひとり分。

 どんなばら商品も、高貴麗しい花の女王に相応しく、相当なお値段に違いない。

 ばら茶をいただくのも、人生最初で最後だろう。そう思いながら、一口飲んでみる。

 

(甘いなあ……)

 帰り際に茶葉を手渡してくれたウルキの勧めで、はちみつを多めに入れてみた。

 色と香り以外、もはやはちみつをお湯で溶かしただけの謎の飲み物だが。

 

「うん、まあまあだね」

 

 はちみつのおかげで、ばら茶へ良くも悪くもない評価を下した。

 数時間前に宣言したばかりの、1週間の甘味断ちを早々から破った自覚はない。

 

(今日は黒歴史にならなくてよかった)

 一口、また一口と。激甘ばら茶を少しずつ飲みながら、今日1日を振り返る。

 

 白歴史認定は出来ないが、今日は決して黒歴史ではないと言い切れる。

 エッジは終始『デート』と言って、はばからなかったけれど。

 リディアにとっては、世間を知る授業のような1日だった。

 

「あーあ、さっさと気が済まないかなあ」

 

(それなら、前みたいにお昼だけの関係に戻れるのに……)

 両手で抱えていたカップを、ことりと机に置く。

 すると、中に半分ほど残っている濃赤の水面が、ゆらゆら小さく揺れた。

 

 本日一番の収穫は、これからもエッジとの日常が続くこと。

 不安要素は、月に一度セックスというおまけがついたこと。

 おまけいらない。早く気が済んでやめて欲しい。

 それでも、昼の関係を続けるために割り切るしかない。

 

(でも、いつかは昼の関係も終わっちゃうんだよね)

 両手で頬杖をついてカップの水面を見つめながら、ため息をついた。

 

 —— —— ——

 ああ見えてエッジは、国王さま。高貴なばらと一緒だ。

 いくら女好きでも、王妃を娶らない訳にはいかないだろう。

 その時が訪れたら、帰郷後から続くエッジとの関係はおしまい。

 現在進行形の友人から、昔の仲間や戦友という過去の存在に『変化』する。

 

 もう少し続け、まだまだ続け。そう願い続けていたら。

 エッジとの昼の関係を手放したくなくなっていた。

 —— —— ——

 

 あれは確か、数年前にエブラーナ城に一泊した夜だった。

 エッジはエブラーナの薄暗い事情を、薄暗い場所でわかりやすく教えてくれた。

 あの頃も、終わりが見えている関係を憂いて、もう少し続いて欲しいと思っていた……。

 

がたん! 

 

 両手でカップを抱えて、ばら茶を一気に飲み干す。

 それをかちゃんと音を立てながら、机に置いた。

 そして、就寝前とは思えない勢いで席を立ち上がった。

 

「こういう時こそ、ラベンダーだよ……!」

 

 リディアはそうつぶやきながら、カップを手にして台所に向かう。

 

 近い将来、エブラーナの薬草園は彩りが増え、緑のばらが咲き誇っているだろう。

 エッジにそこへ連れて行ってもらうまで、どうか昼の関係が途切れないように。

 そう祈りながら、穏やかなラベンダーの香りに包まれて眠りにつくことにした。

 

 

 ***

 

 

——7の月の最後の日の夜

 

 

 月終わり恒例、ざあざあ雨が降る暗闇の中

 エッジが約束通り、あたしの家にやってきた

 

 昼といっしょで、我が物顔で家に入ってくるんだろうなあ

 そんなあたしの予想は扉を開けてから

 1秒もかからないうちに、こてんぱんにされちゃった

 

 このひと本当にエッジなの? 偽物なんじゃないの?

 まるで別人かと思わせる振る舞いにびっくりした

 

 顔さえ見たら、この人が本物かどうかわかるよね

 そう思って、痛みを覚悟して顔を見てみようとしたら

 エッジはあたしがかぶっていた帽子をはぎ取って

 あたしの目を布で覆い隠すと、セシルの仮面をかぶってしまった

 

 セシルの仮面をかぶったエッジは

 声や言葉遣いや仕草は、セシルそのものだけど

 それ以外は、昼間のエッジとほとんど変わらなかった

 

 だんまりなエッジは昔から好きじゃないから、少し安心した

 それでも、家に来るなり別人だった理由を聞いても

 エッジは答えてくれない代わりに、こんなことを言ってきた

 

『ぼくのことは、自分を慰める時の自分の手だと思ったらいいよ』

 

 あたしは耳を疑った

 ただでさえセシルの仮面をかぶって、自分を消しているのに

 自分をあたしの手だと思えばいいだなんて

 ますます自分をないがしろにして、これから先もあたしを抱くって……

 何を考えているんだろう?

 

 もしかしたら、あたしがセシルだと勘違いして抱かれなかった

 それがバレちゃったから、そう言ったのかもしれないけれど

 

 あたしが知っているエッジは、誰よりも前に出ないと気が済まない

 自分大好きな目立ちたがり屋

 こんなのあたしが知っているエッジじゃない

 

 どうしてそんなことを言うの?

 だめ元でそう聞いてみると

 少し間を置いてから答えが返ってきた

 

『そう思って抱かれた方が、リディアも気が楽になるでしょ』

 

 あたしがセシルのことを好きだったから

 夜はいやだいやだと抵抗していたから

 せめてものやさしさで、エッジはそんなことを言ってくれたかな?

 

 そうまでして、あたしを抱こうとするエッジが

 ますます不思議に思えて仕方がない

 

 それからあたしは、セシルの仮面をかぶったエッジに

 身体は正直だから仕方がないと、耳元でささやかれながら

 嫌な記憶を残すあたしの右手を、時々握りしめてくれながら

 快楽を植えつけられて、『おとな』の身体にさせられた

 

 あたしは、抱かれている間

 早く終わってよ

 もう朝まで寝かせてよと思う一方で

 

 エッジは気が済むまで、あたしを抱くと言ってたけど

 自分を徹底的に消したり、自分をさげすんだりして

 こんな調子で満足できるのかな? 気が済むのかな?

 

 エッジがそう気がかりでならなかったの

 

.

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。