フェイクラバーズ 作:かえで
太陽は知っている ※
7 years later
——1の月31日
灰色一色の空から、大粒の雨がミストの地にぼたぼた降り注いでいる。
そんな中、三色の傘が薄暗い並木道の彩りに華を添える。
「もうやだー。いい加減この雨なんとかなんないのー?」
アリサが黄色い傘を差しながら、うざったそうに声を上げた。
「雨、そんなに嫌?」
「大っ嫌ーい。濡れるし暗いし憂鬱だし……いいことなーんにもないもーん」
「そこまで言わなくたっていいじゃない……」
雨をとても嫌う気持ちが、今ひとつわからない。
リディアが赤い傘を持ちながら首をかしげていると、ちょんちょんと肩をつつかれる。
その方向を見ると、ライザが青い傘をくるくる回して笑っていた。
「ダムシアンは、雨がほとんど降らないもの。アリサが嫌がるのもしょうがないわ」
「あっ、雨慣れしてないんだね。ライザはどう?」
「わたしは好きよ。雨の音や匂いって、すごく落ち着くの」
「すごい……雨が好きな人はじめて見たよ」
「あたしとまるっきり反対ねー」
(降らないと作物が実らないし、何かと生活に困るし……)
リディアは現実的な問題から、雨の重要性を認めている。
しかし、ライザのようにたしなみレベルで、雨を楽しみにしている訳でもない。
そのため、アリサとライザの中間ポジションといったところか。
「でも、今日も楽しかったね」
「家に帰ってから料理する手間が省けるのは、でかいわぁー」
ただいまリディアたちは料理教室の帰り道。
料理教室は毎月中旬と月末の午後に、公民館にある調理室で行われている。
その日は黒魔法講座がお休み。リディアもほぼ毎回参加している。
—— —— ——
料理教室は、その日の夕食のおかずづくりも兼ねている。
料理教室の参加者の多くは主婦——既婚女性。
独身女性はリディアを含めて数えるほどしかいない。
教室では事前に4人分の食材が準備されているが、それでは足りない家庭が多い。
ほとんどの主婦は足りない分の食材を自前で準備して、教室で大量に作る。
そして試食はほどほどにしておいて、作ったものを全て自宅に持ち帰っている。
更には、別の食材を持ち込み、その日のレシピと全く関係ない料理を作る参加者もいる。
—— —— ——
「たくさんの人と一緒に作るから、ひとりで料理するよりモチベーションが上がるのよね」
「ミートパイ美味しかった……!」
「よかったわ。あなたが甘いものじゃなくてもイケる口で」
本日ライザは、自前で材料を持ち込んでミートパイも作っていた。
リディアのかばんの中にも、本日作ったアップルパイと一緒にそれが入っている。
「次はバレンタインデーの前日かー」
「先が長いわね」
「毎日やってほしいぐらいだよね」
「……あんた何言ってんのー?」
「え」
本音をもらした途端。アリサが声のトーンを下げて、じと目でこちらを見てきた。
「あんたは、試食とおすそ分けタイムしかやる気ないじゃなーい」
「うっ……」
アリサに図星をさされてしまい、言葉を詰まらせる。
—— —— ——
リディアは、『料理を覚えたいから』料理教室に参加しているのではない。
作った料理を持ち帰ることが出来る。
本日のライザのように、別の料理を作った人から分け前も回ってくる。
そうなれば、翌日の夕食までは献立を考えなくて済む。
だから、顔を出しているようなものであった。
—— —— ——
「そんなこと言っちゃだめよ。せっかくのお休みなんだから、楽させてあげましょうよ」
「そっ、それより! 今度はアリサの番でしょ? 何作るの?」
ライザが助け舟を出してくれた。それを好機と捉えて話題に変えた。
料理教室では、主婦の参加者が持ち回りで講師をつとめることになっている。
ところが、次回の講師が呆れたような顔に変わってしまった。
「あんたレシピ読んでないわねー。さっきもらったでしょー?」
「あっ……!」
「本当いい加減なんだからぁー」
次回のレシピは、毎回試食タイムに配布される。
しかしリディアは一度もその場で読んだことがなかった。
(ダムシアンのお料理……パスタと……あと何だっけ……?)
ここで言い返してもアリサが相手だと、ドツボにはまるだけ。
反論は諦めて、いかにも彼女が準備しそうな料理を頭の中で考える。
「……や、やっぱりピザ?」
「ええ、そうよー?」
「やったぁ! 久しぶりに食べられる!」
次回は美味しいピザ。予想が的中して歓声を上げた。
この瞬間、アリサから2回連続で図星を突かれたことはどうでもよくなった。
「小麦はミストにいくらでもあるけど、チーズや具材は実家から取り寄せるの?」
「ええ。ミストのみなみな様をチーズ地獄にご案内! 太らせてやるわよぉー?」
「わたしには、効かないよーだっ」
「チーズもお菓子も変わんないでしょーが」
—— —— ——
次回のアリサ講師によるピザのように、各国の料理を食べられる機会にも恵まれている。
ミストにはない食材の調達で予算がかかっても、領収書さえあれば全額返金してもらえる。
—— —— ——
独身女性は、講師をやらなくて済む。
そんな理由もあって、リディアにとっての料理教室はメリットだらけ。
唯一のデメリットといえば、こうしてアリサから度々ツッコまれること。
「でも、アップルパイじゃ、晩ごはんちょっと足りないかもー」
「ライザのミートパイがあっても足りないんだ……」
「あたしとオリバ以外、食い意地だけはみんな2.5人前だものー。参っちゃうわー」
「こういう時、アリサのおうちは大変だね」
「スープでかさ増ししたらどうかしら?」
「それいいわねー。帰ったら野菜スープつーくろーっと」
アリサは5人家族。夫のラルフと育ち盛りの3人の息子がいる。
アリサと長男オリバ以外は、みんな食欲旺盛で少しふくよかな体型の持ち主である。
アリサとオリバの食べる量が1なら、他の家族は2でも足りないという。
「あー、そうだっ! そういえば……」
東区画で暮らす女性が、旦那と子供を置いて実家に帰ってしまい、そのまま戻ってこない。
アリサが他の住民から聞いたそんな話を、リディアとライザに教えてくれた。
アリサは社交性が高く、このような話を周囲から拾いとるのがとっても上手。
それからリディアたちはしばらく立ち止まったまま、その女性の話題で大いに盛り上がった。
§
「それじゃ、わたしこっちだから」
話題が一段落して、しばらく3人が歩いていると分かれ道がやってきた。
ここでライザやアリサとはお別れである。
「あんた、明日も講座休みでしょー?」
「うん」
「よかったわねー。ゆっくり読書出来」
「——今日は月の終わりよ?」
「え?……ああっ! そうっ! そうだったわねぇー」
(今日もまた、からかわれちゃう……)
ライザに声をかけられて、今日はどんな日なのか思い出したのか。
アリサがこちらを向いて、にたにた笑ってきた。
「ごめんなさいねー。あんた本読んでる場合じゃなかったわねぇー!」
「それじゃあ、リディア。どうぞごゆっくり」
「濃密な夜を、お過ごしくださいませぇー?」
(やっぱり!)
ふたりから挨拶と共に、意味深な言葉をかけられた。
何を言われるのか大体わかっていたのに、リディアはかああっと顔を赤らめる。
「な、何よっ! ふたりともにやにやしちゃって!……なっ、何にもないんだからっ!!」
からかい半分、本気半分の挨拶をしてきたふたりに大声で言い返す。
そして、ばしゃばしゃと水が跳ねるぐらいの荒っぽい足取りでその場から離れた。
「がんばんなさいよー!」
「楽しんでね」
ふたりの笑い声混じりの声援を背に受けながら、勢いよく歩いていた。
それでも、ふたりから見えない距離まで進んだところで、急に怒りが冷めてしまった。
「また怒っちゃった……」
その場に立ち止まって、独り言をぽつりともらしてから、また歩き出す。
しかし、先ほどと一変して足取りは重い。
(立派な大人の女性への道のりは、まだまだ遠いよ……)
4ヶ月くらい前から、さっきのようにアリサとライザと喧嘩のような別れ方をすることが増えた。
もっとも次に会うと、ふたりは何事もなかったかのように声をかけてくれる。
リディアがからかいに過剰反応して、ひとりで怒っているだけなのだ。
—— —— ——
先ほど話題になっていた、駆け落ち疑惑の女性をはじめに。
ミストはほのぼのからどろどろまで、どんな内容にも関わらず噂が広まりやすい。
『住民が入れ替わっても、しょせん田舎。こういうところはちっとも変わらないね……』
いつかジャンヌもそうぼやいていたが、狭いコミュニティではよくある話らしい。
§
ところが、噂が広まりやすいミストでも。
『毎月最終日の夜になると、あの男がリディアの自宅を訪れて一夜を共に過ごしている』
そんな噂という事実は、まだ広まっていない。
それを知るのは、ジャンヌとライザ、そしてアリサだけ。
ジャンヌ経由でミゼルも知っているかもしれないが、リディアには何も言ってこない。
彼女たちにバレたのも、なんともまあお粗末な理由だった。
『ねえ、アリサ』
『何よー』
『ミートボール、もうちょっともらえないかな……』
昨年9の月の料理教室、ミートボールを作った。
そのおすそ分けタイムで、リディアは分け前が少ないと訴えた。
(エッジ、これだけじゃ足りないよ)
翌朝の男の朝食を確保せねば。その一心から。
毎回月末の料理教室になると、多めにおすそ分けしてもらっていたのだ。
『ケーキじゃあるまいし、おまえそんなに食べないだろ』
『そんなことないよ』
『しかも月末になると中旬以上に必 死。——何があったんだ』
『そ、それは……!』
勘の鋭いジャンヌに追求されてしまい、白状せざるを得なかった。
さすがに男と身体の関係を結んだことだけは、隠したけれど。
§
それでも口止めを頼んでもいないのに、ジャンヌたちは言いふらさなかった。
しかも、リディアをからかう時も男の名前は出さないし、内容もぼやかしてくれる。
そんな彼女たちのおかげで、奇跡的な状況——噂が広まらない——を維持出来ていた。
—— —— ——
(やっぱり、たくさん経験積まないとだめなのかな……)
立派な大人の女性になるには、どうしたらいいのだろう。
そう考えながら歩いているうちに、自宅に到着していた。
「——ただいまぁ」
自宅には誰もいないとわかっていても、リディアは決して挨拶を欠かさない。
むなしいと感じたことがないので、やめようと発想したこともない。
小さな頃からの習慣は変えようがないのだ。
(右手はなんとかなってるけど、顔はいつ見れるようになれるのかな……)
中に入るなり、玄関脇のフックに掛けられている濃紅色の帽子が視界に入った。
男がここを訪れる時に限り、この帽子を目深にかぶることで、男の顔を回避している。
台所へ向かうと、手提げかばんから本日の戦利品を取り出し始める。
「へへっ……これだけあれば、明日のお昼ごはんも作らなくていいかも」
バレてよかったというべきか。ジャンヌたちに白状して以来。
せがまなくても、おすそ分けをたくさんもらえるようになった。
「晩ごはんは……アップルパイ3つとミートパイ1つで十分だね」
(残りは明日の朝ごはん、それでも残ったらお昼ごはん!)
残りのライザ特製ミートパイは明朝、男に全投げすることに決めた。
あの男は衣食住すべて肉食だから、ほいほい食べてくれるだろう。
最後にかばんから取り出したのは、長い木箱。
リディアは何気にその箱のふたを開けると、にたりと笑みを浮かべる。
(本物はまだ持てないけど、これでお料理出来るから問題ない!)
木箱の中身は、赤い取っ手がついた金属らしからぬ白色の刃。
刃先と刃元が丸みを帯びていて、一見おもちゃのように見えるが。
これはれっきとした包丁なのだ。
***
カルミネの事件以来、リディアは利き手である右手で刃物を持てなくなった。
戦闘用のナイフはおろか、包丁や食事用のナイフも……。
どうやら、『斬る』に特化した金属類を受け付けなくなったらしい。
事件から5日後。
男がミスリルの工房へ連れていってくれた。
職人に事情を話したら、今のリディアが右手で使えるような包丁を作ると約束してくれた。
それから1ヶ月後。
ミスリルの工房から、男いわく『ブツ』が自宅に送られてきた。
中に入っていたのは、白い包丁。
もう1本同じ包丁が入っていたが、そちらは刃の部分がぎざぎざ。
同封のメモには、それはハムやバナナ……柔らかい食材用の包丁だと書かれていた。
すぐにどちらの包丁も手にしてみたが、手が震えたのは最初だけ。
何も問題は起こらなかった。
後日、男に報告したら、なぜ症状が起こらないのかこう分析してくれた。
「こいつらは、ぱっと見おもちゃにしか見えねえだろ? たぶん、おまえの中で『斬る』や『刃物』だって認識してねえから、手が震えねえんだろ」
問題と言えば、刃先の丸さが細かな作業に不向きなことぐらいだった。
それについては、リディアの大雑把な性格がよい方向に向かったのか。
ものを切って食べられたらそれでいいと、大して気にも留めなかった。
***
リディアは上機嫌な表情を浮かべながら、戦利品をオーブンの中へ。
そして包丁を棚に収めてから、重みを残すかばんを持って書斎(兼寝室)へ向かう。
ところが、ふとあることが頭に浮かんできて、歩く度に表情は鬱蒼としたものに変わっていく。
「あぁ……やだやだぁ……」
ぶつくさ不満を口にしながら、寝室に入る。
(また、『あの』エッジを見なきゃいけないんだ)
男から今夜も、世の中の酸いも甘いもを『身体』に叩き込まれてしまう。
もっとも、以前なら場数を踏む、慣らす。そんなワードに反発していたはずが。
男と2、3回、一夜を過ごしただけで身体が甘い快楽に反応してしまうようになった。
しかし、どうしても受け入れがたい状況がひとつだけある。
それがリディアをどんよりとさせてしまうのだ。
(仕方がない……お風呂と晩ごはん、さっさとすませちゃおう)
とりあえず男が来るまで、気晴らしも兼ねて読書することにした。
かばんから本を1冊ずつ取り出し、机の上に置いていく。
合計4冊の文庫本。全てアリサから本日借りたものである。
—— —— ——
『少しずつ知識をつけて、温室育ちから脱走を図ろう!』
そんな目的から、読書好きのアリサに書籍を借りるようになってから半年が経った。
彼女はいつも手持ちの本と新刊を混ぜ込んで、リディアに貸してくれる。
—— —— ——
「どれから読もうかなあ……?」
1冊手に取り、文庫本の裏表紙の書かれているあらすじに目を通す。
恋愛ものばかりと思いきや。歴史や活劇にホラー、随筆……。
アリサが定期的に貸してくれる書籍は、意外にも多種に渡っている。
あらすじに目を通し終わった本を書机の上に積み上げていく。
そんな作業を何度か終えて、ようやく最後の1冊を手に取った。
よく見れば、タイトルの一部に『殺人事件』と銘打ってある。
「やったぁ、今日も入ってた……!」
(この本、後で読もう!)
恋愛小説よりミステリーを好むリディアにとっては、嬉しい限り。
わくわくしながら小説を裏返して、あらすじに目を通す。
—— —— ——
父親の借金のかたにリゼが引き取られた先は、恋人の親友バルトが所有している別荘だった。
『君が僕になんでもしてくれるという約束を結んだ』
それから恋人と引き裂かれて、バルトの奴隷として暮らす日々。
父親とバルトに復讐を誓ったリゼだったが、次々と周りの人が……。
—— —— ——
「なんでもしてくれる……言質……」
あらすじの中にとても身近な単語を見つけて、しばし呆然としていたのであった。
——そして数時間後
夕食も入浴もすませて、あとは男がやってくるのを待つだけ。
ただいまリディアは、居間(兼台所)で読書中。
次のページをめくるなり、目に飛び込んできた文に思わず顔を歪めてしまった。
「また、飛ばさなきゃ……」
(この小説、こういうシーンばっかりじゃない!)
主人公と性的関係を強制的に結んだ男性が、またもや主人公をいたぶり始めた。
そんな非道かつみだらな場面に出くわしてしまい、それが終わるまで流し読みに徹する。
—— —— ——
4冊あるうちの中から、この小説を最初に読むと決めたのは他でもない。
話の発端が言質から発したものに加えて、お好みの推理小説だったから。
読んでみたら、立場が似ているせいか主人公にも感情移入しやすかった。
—— —— ——
(こうやって、小説の題材に取り上げられるぐらいだもんね……)
やはり言質を悪用した犯罪行為は、巷でよくある話なのだ。
昨年の夏、言質とかいう言葉を教えてくれた男の言うことは正しかった。
博識なあの男に感謝しなければ……そう思っていた時。
どんどんどん
(……うわ、来ちゃった)
短いけれど嫌な時間が、とうとうやってきてしまった。
小説を机に置いてから玄関へ向かうが、足取りはとても重い。
そして玄関そばの壁に掛けてあった帽子をかぶってから、恐る恐る扉を開いた。
「……いらっしゃい」
リディアはため息をつきながら、男を出迎える。
「寒いから、早く入って」
男は、一言も口を利くことなく室内に入ってきた。
顔は見えないが、黒い雨合羽が不気味さを醸し出している。
水滴が滑り落ちて床にぼたぼたと落ちる様も、それを際立たせている。
「あっ、忘れてた……!」
男が雨合羽を脱ごうとしたのと同時に、リディアは慌てて隣室へ向かう。
またタオルを準備し忘れていた。
(まだまだくせ付け出来ていないなあ……)
待て待て。一時的な関係にくせ付けの必要があるのか?
そんなくだらない葛藤と戦いながら、タオルを数枚抱えて再び戻ってきた。
「はい、これ」
『……』
「代わりにそっちもらうよ」
顔は見えないが、顔色を窺うように恐る恐る男に声をかけた。
タオル1枚を男に渡して、代わりに脱ぎ終えたばかりの雨合羽を受け取る。
(もうやだ、この時間……)
現在、夜の関係でリディアを大いに憂鬱にさせているのがこれである。
この家を訪れた直後、なぜか男は言葉を一言も発しない。
結果、リディアが一方的に話し続けるしかなく。
ひとり舞台のようなものをこなさなればならないのが、苦痛でたまらない。
「ねえ、返事ぐらいしてよ」
『……』
「お礼言えないなんて最低だよ」
『……』
「ねえったら!!」
あまりの手応えのなさに頭に血が上り、男に向かって怒鳴ってしまった。
この時間、リディアはこうやって怒声を上げることが多い。
室内がしんと静まり返り、外で降る雨音が響いたが。
すぐに男がタオルで濡れた足をごしごし拭く音に上書きされた。
『……わるい』
(お詫びじゃなくて、しゃべって欲しいのに……)
男が小さな声で詫びてくれたが、ちっとも心が動かない。
雨合羽を引っ掛けるために、仕方なくその場を離れて玄関先へ移動した。
「身体の具合でも悪いの?」
壁に取り付けられたフックに、雨合羽を引っ掛けながら。
こちらに背を向けている男へ、視線を移しながら声をかけた。
『……』
こっちを見ている。リディアの声でそう察したのだろう。
男は、首を横に数回振っただけであった。
いつもと同じ対応だったことに、ため息をつきながら男の背後に近付く。
「どうして、いつもこの時間だけ黙っちゃうの?」
『……』
「こんなのエ……!!」
(危なかったぁ!)
ついつい、いつもの癖で男の名を呼びそうになった。
男も男で、『またこいつは……』とばかりに、身体をぴくりと動かした。
しかし、ルール違反ではないため、何も報復されなかった。
「……あなたらしくないよ」
(あたしの方こそ、あたしらしくない!!)
切った言葉の続きを口にした途端、背中にぞわわと寒気が走る。
過去に『あんた』と呼んだことはあるが、年上の人間に失礼かもしれない。
その結果が『あなた』。違和感ばりばりだ。
『……』
またまた男は、首を横に振っただけだった。
リディアの言うことは聞かない、無視という意味なのか?
もしくは、リディアから見た『らしくない男』も、自身の一部だとでも言いたいのか?
残念ながら、首振りだけでは男の真意を推し量ることが出来ない。
「暗いし、怖いし……もうやめて欲しいんだけど」
『……』
(まさか、あたしの反応を見て楽しむために、わざとやっているんじゃないよね……)
切実な訴えも、男が首を横に振って拒否してきた。
「あっ、わかった! もう気が済んで、わたしを抱きたくないんでしょ?」
『……』
「っ、そう……」
これは横ではなく、縦に振ってほしかった気もする。
しかし、首を縦に振られると昼の関係も終了する可能性が高い。
昼の関係を維持するために、夜の関係を嫌々受け入れているリディアにしてみれば。
縦だろうが横だろうが、複雑だ。
『……っ、』
男が、タオルを部屋の端にある洗濯かごに投げ入れてから立ち上がった。
それを見て、リディアは身体を翻すと目を固く閉じる。
(ああ、やっと終わった……)
背後に男の気配を感じると同時に、帽子が外されて目元に布の感触を受ける。
目を布で覆い隠す作業が始まったようだ。
『全然嫌じゃない。今日が来るのをずっと楽しみにしてたよ?』
男はここから、別人の仮面をかぶってしまう。
それでも、先ほどまでの陰鬱だんまり状態よりは、ずいぶんマシである。
(それなら、普通に家に入ってきたらいいじゃない)
先ほどまでの暗くて陰気臭い男は、ヤるのを本気で嫌がっているように見えた。
毎回文句や不満をぶちぶち口にするリディアよりも、よっぽど。
「だったら、だんまり状態は、もうやめ……」
だんまり状態は、もうやめて。
そう言おうとしたが、途中で言葉を切って口を尖らせる。
『どうしたの』
「やめてってお願いしようと思ったけど、やめたの」
『珍しいね。すぐ諦めるなんて……』
「時間の無駄だから、これからも頼まないことにする」
『正解。学習出来るようになるまで、半年か……時間がかかったね』
(褒めてるの? けなしてるの? どっちなの……?)
今のリディアは、目元を布で隠すために頭を固定されている。
首をかしげたくても、かしげることが出来ない。
—— —— ——
布を巻く作業はいつも長い。
布が長いのか、何度も頭にくるくる巻かれているようだし。
時折、後ろの髪がふわりと持ち上げられている感触を受ける。
結び目を後ろ髪に隠そうとしている。
リディアがそう気付いたのは、つい2ヶ月前のことである。
—— —— ——
「ひとつ聞いていい?」
『いいよ。答えられる範囲でなら』
「毎月毎月、ヤる必要ってある?」
『……どういう意味かな』
先月から抱えていた疑問を口にした途端。男の声が冷たくなったように聞こえた。
「そ、それは……何も日にちをずらしてまで……ヤらなくてもいいと思って……」
『去年のクリスマスのこと?』
「そ、そう……あなたは、年末年始忙しいから……ここに来ないでしょ?」
『そうだね』
「だったら12の月は、お休みでいいじゃない。クリスマスに前倒ししてまで……必死すぎるよ」
今思い出しても、あの時の失望感といったら……。
—— —— ——
どの国も、年末年始は特別な行事が多い。
一国の王であるこの男も、その間だけは一度もミストにやってきたことがない。
男は脱走癖があるが、国務を疎かにする人間ではない。
そのことをよく知るリディアは、この年の秋から期待に胸を躍らせていた。
12の月最後の夜は、年末年始とかぶるから絶対にない!と。
そして、11の月の末日。
いつものように男が自宅にやってきて早々、リディアにこう言った。
『さすがに来月は忙しいからね。クリスマスに前倒しするよ』
『え』
(『今年は今日が最後だね』じゃないの!?)
日程変更を言い渡された瞬間、どれだけがっかりしたか。
そして事前予告通り、クリスマスの夜。
男はリディアの自宅に現れて、ヤることヤッて翌朝帰っていった。
この日、ケーキを持ってきてくれてなかったら追い出していたと思う。
なお、そのケーキは朝まで氷魔法で箱ごと冷やしておいて。
翌朝リディアのお腹の中に全て消えたのであった。
—— —— ——
「我慢出来なくなったら、そういうお店がトロイアに出来たし、たぶん、エブラーナやバロンにもあるだろうし……そこに行けばいいじゃない」
『……』
「だから……クリスマスに、わざわざミストに来なくても別に……」
日程をずらしてまで、月に一度必ずヤる必要があるのだろうか?
いつか男に訴えてやろう。
クリスマス以来そう思っていたが、たどたどしいながらもやっと訴えることが出来た。
『そのお店のこと、どこで知ったの?』
「先週、おばちゃんにトロイアのガイドブックを借りて、そこにお店のことが載っていたの」
—— —— ——
ジャンヌの自宅から帰宅した夜、借りた本を読んでいたら。
『お金を払えば一夜限り女性を抱くことが出来る』お店の記事を見つけてしまった。
そのお店は、トロイアの超有名パブ『王様』以上のサービスを提供してくれる。
しかも、最高クラスの女性でも一夜10000ギル。
『王様』の超高額会員証100000ギルより、安価で女性を一晩買えるのが魅力的。
そう本に書いてあった。
—— —— ——
そういった女性を期間限定で買えるお店は、借りた小説の中に何度か出てきた。
想像上のものだと思っていたら、まさか実在していたとは……。
『どうして、その本を借りようと思ったの?』
「おばちゃん、しょっちゅういろんなところにお出かけしてるの知ってるでしょ」
『ああ』
「ガイドブックまで買ってるから、いろんな場所にすごく詳しいの。あたしはトロイアには滅多に行かないから、ちょっとでも観光気分を味わいたいなあって思って……」
1ヶ月前のことを今更ほじくり返すように質問したのは。
皮肉にも、男から勧められていた読書のおかげでもあった。
『偉いじゃないか……!』
「……」
『知識欲があるのはいいことだよ』
(今の時間に褒められても……)
男が称賛してくれたが、リディアは何も返事をしなかった。
昼に同じ台詞を言ってくれたら、素直に喜んでいたのに。
そして、ようやく目隠しが完成したのか。
きゅっと後頭部を中心に、頭を強く締められる感覚を受ける。
(今日も、日付が変わるまでヤラれちゃうのかな……)
不安になってきたリディアの耳元に、男が顔を近付けてきたようで、吐息がかかった。
『——でも』
「!?」
『記憶力の悪さと学習能力の低さが足を引っ張っている』
(また、『あれ』だぁ……!)
男が後ろからリディアの身体を強く抱きしめると、冷たく低い声でささやいてきた。
ここから本来の男の声で、脅しをかけてくるのが目に見えている。
頼むから、もう何も言わないでくれ。心の中でそう懇願していると……。
『身体の相性がいいと最初に言ったはずだ』
「ひっ……!」
(セシルの声で、まだよかった……)
初恋の人の穏やかな声質は、人を殺めるようなものとは縁がない。
おかげで、ほんの少しだけ恐怖は和らいだが、それでも怖いものは怖い。
本来の男の声だったら殺意に近い恐怖を感じて、冷気が背筋を走っていた。
『今はきみじゃなきゃ、満足出来ないんだよ』
「や、っ!……ぁあ、っ、あん……!」
リディアの首筋を、男が舌でつうーとなぞると甘噛みしてきた。
背後から力強い男の腕で抱きしめられていて、抵抗出来ず。
ゆるい快感が身体中を駆け巡り、甘い声を上げてしまった。
『そんな店を知ってるぐらいだから、男が性欲の塊だってことも知ってるよね?』
「っ……知らない」
『本当? 変だなあ』
不審げにつぶやく男に向かって、ぶんぶんと何度も首を横に振った。
—— —— ——
温室からの脱走を図るため、リディアは様々な書籍を少しずつ読むようになった。
ただし、露骨な性描写のある書籍や場面は積極的に避けている。
そういう本と知らず、露骨な場面に出くわした場合は、その部分だけ流し読みしている。
—— —— ——
男という生き物は性欲の塊。ぼんやりながらそう思っている。
けれど、知識として自ら頭に入れたことがない。そのため知らないアピールしたのだ。
「あっ……!」
早く離れてくれ。そう必死で祈っていたら、右手が突然強い力で引っ張られる。
『——これでわかるよね』
「っ!?」
今触っているものの正体を当ててみろ。
そう言わんばかりに、男の手がリディアの右手全体を覆うように包み込み、何かを押し付けてきた。
その感触から、今の季節に似つかわしくない温かさと強い弾力が伝わってくる。
「何これ……!?」
(ここに来たばかりなのにおかしいでしょ!)
何かの正体は、男のモノだった……。
それも今、ここでリディアを押し倒してもおかしくないぐらい、興奮した状態。
『男という生き物は、女性とは違ってね。いつどこでもヤりたくてたまらないんだよ』
「へ、へえ……そうなんだぁ……」
『それなのに、きみの顔に免じて毎月たった1回に譲歩してあげたんだ。むしろ、きみがぼくに感謝して欲しいぐらいだよ』
「ど、どうも……」
『いい子。これでまたひとつ賢くなったね』
リディアの両肩をぽんと叩いてから、男が身体から離れていった。
(これからはすぐ、部屋に連れて行ってもらうように仕向けなきゃ!)
説教と言う名のセクハラがやっと終わり、唇を噛みながらそう心に誓った。
なぜなら、男は寝室に入ってからは仮面をより強固にする。
それからはヤることに必死で、おちょくってこないから。
そんなにおちょくりたいのなら、健全な昼間『だけ』にして欲しい。
『……すぐに部屋に行くのも』
早く寝室に連れて行け。
そう願うリディアと反比例するかのように、男はまだここに留まる気でいるらしい。
「もういいから、早くあっち連れてって」
『へえ? リディアも溜まって』
「——違うったらっ!! 早く終わらせて眠りたいのっ!!」
『……あ』
リディアが急かすも、怒鳴っても。のれんに腕押しぬかに釘。
男はちっとも気にするような気配を見せない。
「ちょっ、と! 何するのよ!!」
男にぐっと腕をつかまれて、大声で叫んだ。
しかし、男がそれを無視してどこかにリディアをずるずる引きずっていく。
『はい、ここ座って』
「……!!」
肩を押されて椅子に座らされた。
その瞬間、リディアの顔からさぁーっと血の気が引いていく。
アリサから借りた小説を、机に置きっ放しにしていた!
『あれ? 何か読んでたの?』
「待ってっ! その本、読んじゃだめっ!」
『別にいいじゃないか』
「やだ! やめてったら!!」
『ぼくが来るまで、一体何を読んでいたのかな……?』
昼ならまだしも、この時間に内容を見られたら、完全に男の思うツボ。
男を止めるために、必死で大声を上げる。
そんなリディアは、全く気付いていない。
必死で止めようとすればするほど、ますます怪しまれることなんて……。
(ああ、終わった……)
程なくして、ぱらり、ぱらりとページをめくる音が聞こえてきた。
男が小説に目を通しているのが丸わかりである。
『珍しい……! エッチな小』
「——推理小説」
やや興奮気味に声を上げた男へ、即座に訂正を入れた。
『違うね。これは推理小説に見せかけたエッチな小説だ』
「……逆だもん」
『逆だろうが何だろうが、エッチな小説に変わりはないでしょ』
何も言い返せず、がくりと頭を垂れた。
推理もの特有の殺人事件連発の影で、無駄に性描写が多い。
それが、この小説の唯一にして最大の欠点であった……。
(まさかアリサ、気付いてないよね……?)
本日こんなタイムリーな小説を貸してくれた親友を勘ぐってしまう。
リディアと男がこんなことをヤッていることまで、知らないはずなのに。偶然とは思えない。
『セックスしてる場面ばっかりじゃないか。これ、殺人事件要る?』
「だから、下品な言葉使わないでって、いつも、っ……!」
恥ずかしさのあまり、顔を覆ってしまった。
露骨な表現をいとも簡単に口にするのは、いかにもこの男らしい。
それでも、その声で口にするのだけは本当に辞めて欲しい。
思い出の中で、きらきら白銀色に輝く初恋の人が穢れてしまいそう。
『うん、いいこと思いついた』
「……何を」
上機嫌そうに話した男に向かって、リディアは苦々しげにたずねた。
昼夜関係なく、この男が考えることなんか大抵ろくでもないことに決まってる。
がたがたと男が立ち上がったような音が聞こえて、憂鬱な気分に陥っていた矢先。
背後に男の気配を感じて、さっと両手で頭を抱えて机にうずくまる。
「やだぁ! こんなとこでシタくない!」
『変なことはしないよ』
(当たり前でしょ!)
ここでシようものなら、これから食事の度に思い出してしまうではないか。
「あっ!」
うずくまってから数秒後。あっけなく男に両手をはがされる。
立て続けに、それぞれの腕を押さえつけられてしまった。
「ちょっと、離してっ!」
これはもう拘束ではないか。
リディアが抵抗していると、耳元で男がひどく楽しそうな声でこうささやいてきた。
『この本。ぼくが今から、「ご丁寧」に朗読してあげる』
やはり、ろくなことではなかった。
リディアは頭を大きく垂れながら、新たに学習した。
……男が入ってくる前に、読んでいた本はどこかに隠しておかなければならない、と。
***
義務という名の睦事を終えた直後。
リゼが裸体を隠そうと白いシーツを引っ張ろうとした瞬間。
「何をやっている」
「えっ……」
バルトが一糸まとわぬ姿で近付いてきて、思わず身構える。
退廃的な雰囲気を漂わせていることから、これからすぐにまた抱かれるのは必至。
「今度は僕のをしゃぶってもらおうか」
「いやよっ! どうしてそんなことしなきゃならないのっ!!」
バルトから口淫を要求され、緑色の瞳を滲ませながら大声で叫んだ。
「なぜそう嫌がる」
「わ、私……一度もしたこと……」
「何だ。しゃぶらせてもらえなかったのか?」
「っ、ゆっくりでいいからって……だから……」
「く、くっ……は、あははははっ!」
腹を抱えて笑うバルトを見るのは初めてだったが、誰かを侮蔑しているように感じた。
その誰かとは、ジルベール。
バルトと無二の親友であり、リゼの恋人でもあった男性だ。
「ジルベールを笑わないでっ!!」
愛する人を罵られた怒りから、リゼは身体を覆い隠すシーツを強く握りしめながら。
バルトに向かって怒声を上げた。
「何がゆっくりだ。あの男の聖人ぶりにはほとほと反吐が出る」
「ジルベールは、あんたなんかと違……いや、っ……!!」
バルトが近付いてきて、リゼは警戒心から更に身体を白で覆い隠そうとしたが。
破れそうな勢いでシーツをはがされてしまい、目論見は失敗に終わった。
「これをジルベールのものだと思って、しゃぶったらいい」
強引に頭をつかまれ、バルトの下半身に近付けさせられる。
「きゃあッ!」
「いずれは、僕のが欲しくなるようになる」
気が付けば、目の前にはバルト自身が既に天にそそり勃っている。
「……っ!」
あまりにも暴力的で猛々しいそれを、至近距離で目の当たりにして、リゼは思わず息を呑んだ。
ジルベールの代わりは誰も務まらない。
この男のものが、ジルベールの代わりになれる訳がない。
「もう嫌っ! お願いバルト! 私を家に帰して!」
「父上の借金を今すぐ返してくれるのなら」
「っ、それは……」
「出来ないだろう?」
リゼの父親は賭博と借金を繰り返して、多大な借金を背負ってしまった。
困り果てていた彼にバルトが近付いてきて、借金を肩代わりすると申し出た。
父親はその申し出に即座に応じ、無事に返済を終えた。
問題は、父親が借金のかたにバルトの元に差し出したのは、娘のリゼだった。
バルトへの返済が終わらない限り、リゼはバルトの言うことを何でも聞かなければならない。
「出来ない以上、君には僕と君の父上が結んだ約束を果たしてもらわないとな」
「……ぅ、っ……」
(お父様……!)
父親憎しのあまりに、こぼれる涙がぱたぱたとバルトの股間へ落ちていく。
「君は、僕の奴隷なんだ。——ほら、早くしゃぶってくれ」
「う、うっ……」
はち切れんばかりのバルト自身を、涙を流しながら口に頬張る。
2週間前から、リゼはバルトの別荘に幽閉同然の暮らしを強いられている。
彼の言葉通り、こうして日々奴隷のような扱いを受けている。
奴隷は奴隷でも、性的奴隷と呼んだ方がいいのかもしれない。
ただ、衣食住は保証されており、バルトがいない間は比較的自由な行動を許されていた。
「恨むなら、借金を作ったきみの父親を恨め」
今ここで、口に含んでいるこれを噛み千切ってやったら、この男はは死んでくれるだろうか。
リゼは殺意に近い憎しみを募らせながら、舌をたどたどしく動かし、刺激を与え続ける。
「くっ、初めてにしては……っ、上手いじゃないか……!」
バルトは全く気付いていないようだ。
目の前にいる女に殺意を持たれていることなど。
それどころか、リゼの口と舌による刺激で、自身をますます滾らせる一方。
そんな中、リゼが視線をちらりと上にやると。
バルトが醜悪な笑みを浮かべて、両手をリゼの顔へ伸ばしてきた。
「だが、このままでは満足出来ない」
「ぐっ……!?」
バルトに頭をつかまれ、喉奥に自身を一気に押し付けられた。
涙が止まらない。
それが口や喉を圧迫する苦しさからなのか、屈辱を受ける悲しさからなのか。
リゼには、もう何もわからない。
「ああ、いい余興を考えた」
「……?」
「今度これを見せてやろうじゃないか。あの男に」
「!?」
主語がぼやけていても、バルトが誰に見せたがっているのかすぐにわかった。
ジルベールに見せられる訳がない!
まるで娼婦さながらに、バルトのものを口で慰めているところなど。
「楽しみだなあ、リゼ……!」
(殺してやる!)
借金の肩代わりを名乗り出たバルトに、娘を捧げた放蕩な父親に。
愛する男ジルベールの親友として、善人のふりをしながら。
実はこの身体を虎視眈々と狙っていた、目の前にいるバルトに。
……いつか必ず復讐してやる。
リゼは、己にそんな誓いを立てたのであった。
***
(拷問だあ……)
あまりに恥ずかしい内容で、耳を塞ごうとしたが失敗。
男の力に敵う訳がない。
そのまま情感がたっぷり込められた朗読を、耳元で聞かされた。
—— —— ——
男は朗読中、リゼとバルトの声を使い分けていた。
特にバルトの嘲るような高笑いと、最後のリゼの鬼気迫る心の声は圧巻の演技力だった。
この男は国王をやめても、どんな職業だろうが、人生を余裕で歩めるに違いない。
—— —— ——
『ぼくもそのうちきみに殺されるかもしれないなぁ』
机に突っ伏したまま憔悴するリディアを押さえ付けながら、男がからからと笑い出す。
「するわけないでしょ!」
『うそうそ。冗談だよ』
アスラを喚んで、男の命を救うお手伝いをしたというのに。
いくら冗談でも、言っていいことと悪いことがある。
むしろ殺されるとしたら、深い傷を負わせてしまったこちらではないか。
「やだぁ! もう離してったら!」
机を叩きたいのにそれすらも叶わず、背中に寄りかかったままの男が憎たらしい。
「まだ、途中までしか読んでないんだからぁ!」
(バラしたら、魔法を使ってやるんだから!)
ぱらぱらと、男がページをめくる音がまだ続いている。
性描写が多いとはいえ、小説の続きが気になっているのに。
推理小説のネタバラしほど、不快なものはない。やめてくれ。
『心配しなくても、最後はバラさないよ』
「……」
『じゃあ、続き……』
「あっ……相変わらず、演技上手だねぇ? 舞台俳優になったらどう? 絶対人気者になれるよお?!」
誉め殺した言葉に、高い演技力への賞賛を少し混ぜ込んでやった。
早く解放して欲しくて声が上ずってしまったが、気にしない。
すると、ページをめくる音が止まって、ざあざあと雨の音だけが室内に響く。
『……やめておくか』
「ほんと??」
(誉め殺しが効いた!)
残念そうな男のつぶやきを聞いて、リディアは嬉しさのあまり、明るい声でたずねた。
これでようやく拷問から解放される。
もっとも、今度は身体を強要させられるけれど……。
ところが、ちっとも拘束から解放されない。
それどころか再びページをめくる音が聞こえてきて、いらいらが募る。
「……もう終わったんでしょ? 早く離れてちょうだい」
『まだ』
「えっ!? さっき、やめたって言っ」
『——さっきの続きの朗読をやめただけだよ』
「うそぉ……」
男がかさかさという音を立てていたのは、読み聞かせがいのある場面を探していたようだ。
『ああ、この場面は聞き応えありそうだ』
……朗読と言う名の身体が痛くない拷問は、まだまだ続く。
——数分後
『着いたよ』
「わっ……!」
『リゼがあれほど嫌っていたバルトの上に自ら乗っかって、腰を振りよがっている』
男がそんなただれた場面の朗読を終えるなり、リディアを横抱きして寝室に連れてきた。
「……あれ??」
ところが、リディアが降ろされたのは、なぜか冷たく固い床の上だった。
不思議に思っていると、ぎしりときしむ音が耳に入ってきた。
男がベッドの上に乗ったか、座ったかと思われる。
「自分だけベッドの上なのずるいよっ!」
『こら、こっちに来たらだめだって』
「こんなところでシタくないっ!」
『床ではシないよ』
手探りでベッドを探し当てて、手をついて乗ろうとするも。
男がやんわりと止めに入ってきたせいで、再び床に座らされてしまった。
(まさか、またろくでもないことを……)
リディアが悲観的な予想を立てた、その時だった。
「え?」
ぐいと強引に右手をつかまれて引っ張られると、何かを押し付けられた。
「ひっ!?」
既視感のあるそれは、さっきも触らせられたのと同じ、男のモノ。
しかも、先ほどと変わらず滾りに滾っている……!
「いやぁっ! 離して!!」
強い力で押さえつけられていて、右手を離したくても離せない。
抵抗していると、男がとんでもないことを要求してきた。
『今から、リディアの口で「ぼく」を気持ちよくしてもらうから』
「あぁ……」
小説に出てきたバルトと同じように、自分のモノを『しゃぶれ』と男は言う。
リディアは愕然となって、背を丸めてうずくまるが、右手は対象物に押し付けられたまま。
『大丈夫だよ。リゼのように服は脱がさないから』
「そんな問題じゃないでしょ!?」
『試験だと思ったらいいよ。終わったら床からベッドに格上げしてあげる』
ここでようやく、男が小説を読み聞かせした意図に気付いた。
あれは単なる嫌がらせではなく、事前予告だったのだと。
——さらに数分後
『はじめてにしては上手だね。指導が効いてるのかな?』
「……」
『もしかして、リディア。やったことあるの?』
「……っ!!」
(そんな訳ないでしょ! おに! あくま!)
何と性質の悪い冗談だ。
男に向かって顔を振り上げると、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
声が出せないので、心の中でぼろっかすに男へ暴言を吐くが。
心の底では、そこまで思っていなかった。
—— —— ——
目隠しのおかげで、男の生々しいモノや今の場面を見なくても済む。
もし相手が小説のバルトだったら、裸で強引に頭を抑え付けられて。
汚い言葉を投げ掛けられて屈辱を味わされる。
でも、男はそこまでやらないし、バルトに比べて圧倒的に紳士だ。
—— —— ——
不満は大いにあるけれど、あの小説を読んだせいで、これでもマシだと思ってしまう。
『口を動かす時、舌先で先をつつくか……なぞってくれるともっといいね』
「……ん、っ……」
—— —— ——
先に男が口にした通り。今やっていることは、指導……授業だとリディアは思う。
男の声や口調や仕草は、相変わらず初恋の人のイメージそのまま。
時折、『歯を立てたらだめ』『咬みちぎったらだめ』などと、指導めいたことを口にする。
(挙げ句の果てに、『頭の中にレモンを思い浮かべて』だもん……)
疑心暗鬼になりながらも、酸っぱい果物を思い浮かべてみたら、なぜか唾液が増えた。
引き続き顔を動かしていると、ぐじゅぐじゅといやらしい水音が聞こえてきた。
男によると『その音を聞くと、こっちも気持ちよくなる』らしい。
—— —— ——
(そんな知識いらない。もっと健全でためになるものを教えて欲しいよ……)
それがリディアの本音だったが、この時間に言ったところで、聞いてくれそうにもない。
『いいよ、その調子。でも、このままじゃイケないから……っ、首を上下に激しく動かしてみて』
「……ぅ、っ」
(あーあ、これがクリームやチョコだったらなあ)
ほんの少しだけ、やる気を出して頬張ってあげてもいいのに。
……などと、くだらないことをちらちら考えてしまうぐらいには。
男のモノは、とっても苦くて全然美味しくない。
「っ、は、ぁ……っ」
(まただぁ……)
男が小さな声を上げると同時に、リディアの口の中に入っているモノを昂らせる。
こうして、男が快感を得たと口で感じとってしまう度に、羞恥でいたたまれなくなる。
(さっさと『イカせて』終わらせて、冷たい床から脱出しよう!)
だんだん息苦しくなってきて、じわじわと目が潤んでくる。
いい加減、男のモノから解放されたくてたまらなくなる。
ついにリディアは、ベッドの上への昇格を目指すことに決めた。
男の指導通り、口や舌を駆使して、首を上下に激しく動かし続けていた時だった。
『はぁ、っ……ィア……そのま、ま……中に、っ……!』
(うそでしょ!?)
突然、男に頭を両手でつかまれた瞬間。
破裂しそうなぐらい膨張していた男のソレから、温かい液体が勢いよく口の中に放たれた。
「ゔぅー!!」
それまでくわえていた男のモノ以上のまずさに耐え切れず、吐きたい衝動に駆られる。
けれど、こんなものをこぼして服や部屋を汚したくなくて。
リディアはうめき声を上げながら、モノから口を離して両手で口元を押さえた。
ごくり
『ここに吐……ああ……遅かったか……』
一刻も早くまずさから逃れようとした結果、液体をすべて飲み込んでしまった。
男が、リディアに声をかけながら、口元に何か——おそらく手を出してきたのとほぼ同時だった。
男はリディアの口の中に出した後で、自身の手に液体を吐かせるつもりだったらしい。
「ゔっ……ま、まずい……!」
飲み込んでも、口の中に味が残ったまま。
リディアは両手で口元を押さえて、頭を床すれすれに付けんばかりに背中を丸めた。
『すまない……』
男がとても申し訳なさそうな声で謝罪してくれたが。
リディアは声の方向に顔をがっと振り上げて、怒りと不快感を露わにする。
「先に言ってよ!! お腹壊しちゃうじゃないっ!!」
『大丈夫、蛋白質の塊だか』
「——やだっ! まだ口に残ってる!……もう、最悪っ!!」
(これなら、普通に抱かれている方がマシだよ!)
食べ物の味と次元が違いすぎる。
不快な苦さが、口の中にこびりついて鼻につく。
ただでさえ、苦さが好きではないリディアにとっては辛い。
水でもなんでもいいから、お口直しが欲しい。
「み、みず……えっ?」
再び床に頭を下げて、お口直しをねだっていると。
男が上から、リディアの身体を包み込むように覆いかぶさってきた。
『……本当に悪かった』
「あ……!」
『もう頼まないから……許してくれ』
身体を小刻みに震わせながら、男の絞り出すような声が耳に流れ込んできた。
(どうしよう、追い詰めちゃった……)
昼夜限らず、この男は謝罪の言葉を滅多に口にしない。
これは本心からの謝罪だ。
そう気付いてしまい、逆に男に申し訳なくなってしまった。
男が自分の秘所を口で慰める時、まずい、最悪なんて言葉を聞いたことがない。
それどころか、時折『美味しい』とまで口にするのに。
「……ごめん、なさい……すこし、言い過ぎちゃった」
しゅんとしながら、謝罪の言葉を口にした。
得も言われぬまずさだったので、味については前言撤回しなかったけれど。
自分のことしか考えずに、文句を言いたい放題だった自身を悔やむ。
『謝らなくていいんだよ』
「でも」
男がリディアの頭を、ふわりと上から抑えるように撫でてくれた。
これはリディアの髪に配慮した初恋の人の撫で方だ。
『無理にさせてしまった、ぼくが悪いんだ。——ちょっと待ってて』
しばらくの後、がさがさと何か包装紙をめくるような音が聞こえてきた。
(なにしてるんだろう)
お口直しなら、水か何かを取りに寝室から出て行くはずだが、そんな気配は感じられない。
リディアが首をかしげていると音が止んだ。
そして、そばに男の気配が近付いてきたと思った瞬間。
『こっちにおいで』
「わぁ!?」
身体がふわりと浮き上がる。
足元に布の感触を感じて、男に抱えられてベッドに移動したようだ。
ところが、男はリディアを抱きしめたまま解放してくれない。
「あの」
『——今から、綺麗にしてあげるから』
「えぇ……!?」
ざらついた手のひらで頬を撫でられながら、男にそう告げられて。
リディアは思わず太腿をこすり合わせてしまった。
—— —— ——
この夜の関係において、綺麗と言う単語にはふたつの意味がある。
ひとつは、可愛いと似たような褒め言葉。
リディアをちやほやさせる目的で使っていると思われる。
そして、もうひとつが実に厄介なことに、下の口。
……秘所を、男がその舌で綺麗にすることであった。
—— —— ——
(今の流れだと下、舐められちゃう……)
男からの下半身への襲撃に備えて、警戒心を高めるのに必死だったせいで。
かさりと紙のようなものが開く音を拾うことが出来なかった。
「……っ!」
(こっち!?)
気付いた時には、時すでに遅し。
リディアの予想に反して、男が下ではなく上の口に自身の口を合わせてきた。
すぐに口をこじ開けられて、中に男の舌の侵入を許してしまう。
(あれ? これ、もしかして……)
続けざまに舌とは違う、何か固い物体が入ってきた。
その正体が甘いチョコだと、味覚で気付くまでに時間はかからなかった。
いつもならリディアの舌を貪る男が、今日は珍しくチョコを自身の舌に絡ませている。
(チョコを独り占めさせない!)
リディアも負けじと、舌を使ってチョコを必死で味わう。
男とチョコ溶かす競争を繰り広げるうちに、口の中に液体がたらりと流れてきた。
芳醇な香りが鼻いっぱいに広がって、舌がちりちりと少し焼け付く。
(この香り……)
すぐにお菓子作りの時に使うブランデーだと気付いた。
これは、おとなのチョコと噂されるお酒入りのチョコ。
存在は知っていたが、今まで食べたことはなかった。
(どうして持っていたんだろう?)
リディアが不思議に思っていると、口中のチョコは全て溶けてしまった。
男の舌が、リディアのそれに標的を変えて、舌を絡め取りながら。
まさぐるように背中を撫でてきた。
そうされるうちに、リディアの意識もチョコのようにとろとろ溶けていく。
いつの間にか、チョコの甘さとブランデーの香りによって。
口の中に漂っていた得も言われぬ苦さが消えていた。
「……ん、っ……ぅ」
溶けたチョコとブランデーをリディアはごくりと飲み干した。
かすかなその振動で気付いたのだろう。
先の言葉通り、男が口の中のチョコの残骸をねっとりとした舌遣いで舐め取っていく。
仕上げとばかりに、口中で一番弱い上あごのざらざら部分を緩急つけて何度か舐めてから。
最後にちゅっとリップ音を立てて、リディアの口から離れていった。
「は……ぁっ……」
『どうだった?』
「えっ」
『十分口直しになったと思うけど』
「……うん、美味しかった」
『そう。よかった』
「でも、どうしてこんなもの持ってるの?」
『ホワイトデー。もちろん、きみ宛て』
「……まだまだ先じゃない」
『ここに来る前にお店で買ってきたんだよ。本当はもっと後に渡すつもりだったんだけどね』
(バレンタインデーもまだなのに)
男の気の早さに、リディアはちょっぴり呆れてしまった。
—— —— ——
移民受け入れのおかげで、ミストでもバレンタインデーとホワイトデー文化が浸透している。
バレンタインデーは、女性が異性にチョコレートを贈って。
ホワイトデーは、男性が異性にクッキーを贈る習わしになっている。
どちらの日も渡す相手は、片思いの異性、恋人や人生の伴侶……。
—— —— ——
色恋に興味がないリディアは、この時期は毎年傍観者である。
もうすぐ世間話は、チョコの話題一色になる。
そして、あちこちのお宅からチョコの香りが漂い始め……。
「待ってよ」
『どうしたの?』
「わたし、あなたの恋人でもなんでもないよ?」
リディアと男は友人であって、チョコやクッキーを渡し合いするような関係ではない。
なぜ男がチョコを贈ってくれるのか、不思議でならない。
『……甘党なのに、興味ないんだ』
「え」
『今年から、義理用のチョコやクッキーも売り始めてるんだよ』
「義理? どういうこと?」
『友人や家族や上司……恋情抜きの相手に労いや感謝目的で贈るものは義理用って言われている』
「……ああ! 友だちだから、わたしに義理のチョコを送ろうと思ってたんだ」
『そういうこと』
昨年、ダムシアンの洋菓子店が利益拡大を狙って、義理用チョコやクッキーを販売した。結果、大繁盛。
他の国の同業者がそれを聞きつけて、今年からこぞって真似を始めたという。
「意外だね。そういうイベントって、昔の出来事や伝説がはじまりだと思ってたよ」
『そのうち、自分を褒めて労うための自分用チョコも出回るかもしれないよ』
「自分用?」
『お客さんがついても、いずれ限界がくるからね』
「なるほど……ターゲットを広げて、もっとお客さんを増やそうとするかもしれないってことね」
こういったためになる話は、いやらしい時間の中での清涼剤。
リディアは、男の話をうんうんうなずきながら興味深く聞いていた。
『そのうち、どっちもクリスマスのように定番行事になるだろう。お菓子屋は儲かってばかりだ』
「自分用、早く出して欲しいなあ」
『きみは義理より自分なの……!?』
「そんなことないよ。リクエストされたら義理チョコあげるもん」
「そう……期待しないで待っておくよ」
最後だけ男の声の抑揚が下がったように聞こえたが、リディアはなおざりにした。
(バロンやダムシアンのお店なら、明日にでも買いに行きたいなあ……)
リディアは自他共に認める、甘味至上主義者である。
先ほど、男に食べさせてもらったチョコの出処が気になって仕方がないのだ。
「ねえ。さっきのチョコってどこ」
『——どうぞ、召し上がれ』
男に唇をちょんちょんと指でつつかれて、反射的にリディアは口を開かせる。
すると、何かが口の中にころんと転がり込んできた。
甘い香りが鼻腔をくすぐり、舌で感じるよりも先に正体にすぐに気付いた。
(さっきのチョコだ……!)
いつの間に男は、包装紙を開けていたのだろう?。
そんな疑問はチョコと認識した時点ですっ飛んでいった。
「うん……うん……」
(ああ、しあわせぇ……)
舌でチョコを転がすと、甘さが口の中全体に広がっていく。
男のモノや液体とは大違いな味のそれを、口中で味わう。
程なくして、溶けたチョコの中からブランデーがつううとこぼれてきた。
「はぁ、美味しかったあ」
おとなの味と香りを数度の咀嚼で堪能し終えて。
ごくりと飲み込んでから、至福の声をもらす。
『そう、よかっ』
「——ね。このチョコ、どこのお店で買ったの?」
男を遮ってまで、甘味至上主義をいかんなく発揮した、その直後。
『っ……くく、っ……あははは、ははははははっ!!』
初恋の人をなぞって軽く笑っていた男が、途中から高笑いの声を上げ始めた。
(セシルは、こんな笑い方しないよ……)
これは本来の男の素の反応だと、リディアはすぐ感じ取った。
しかし、なぜそこまで笑うのかがさっぱり理解できない。
『……っ、思った通りだ……ほんとわかりやすい……!』
「何がおかしいの?」
『ぼくにチョコを口移ししてくれるのか、きみを試した』
「げっ!?」
リディアは思わず声をもらしてから、顔をひどく歪ませた。
『案の定、ひとりで味わって終わってしまったね』
(『召し上がれ』って言われたら、そのまま食べちゃうに決まってるでしょ!)
そもそも、自分に買ってきてくれたチョコを、なぜ男と共有しなければならないのか。
それも恋人でもなんでもないのに、互いの口を合わせて……。
『相変わらず、色気の欠片もない反応だな……』
大きく息をついた男にかちんときて、口を尖らせる。
「どうせ、わたしは……色気がありませんよーだ……」
まだまだ大人に成り切れていない、温室育ちの大人の女だし?
おとなの知識も、恥ずかしくて避けて通るぐらい苦手だし?
『そんなものなくてもいい』
「えっ」
男は更に強くリディアの身体を抱きしめると、耳元でこうささやいてきた。
『——ぼくは、そういうリディアがだいすきなんだよ』
「!!」
男性にしては、少し高めで柔らかい初恋の人のささやき声が。
リディアの鼓膜を経由して、ゆるい甘い快感へと変わり、身体中を走った。
ここまでは、男に何度もされている。
問題はそれと同時に、なぜか胸もどきりと跳ね上がってしまったこと。
(だ、だめよリディア! これは女好きの常套手段か、あたしをおちょくってるだけ!)
もしかしたら、初恋の人の甘い声に心がうっかり反応しただけかもしれない。
とにかく、この男に絶対堕ちてなんかいない。
必死で自身にそう言い聞かせているうちに、あることを思いついた。
「あの……」
『なんだい?』
「さっきのチョコ、まだ残ってるの?」
口直しならぬ心直し。もう一度、甘さに浸ってやろう。
そう考えたリディアは、男にたずねてみた。
『1個だけ』
「じゃあ、それ。今すぐちょうだい」
『だめ』
「だめ関係ない。わたしのチョコなんだよ?」
男にせがむものの、渡してくれる気配は一向に感じられない。
目隠しを外して、無理くりでもチョコを奪ってやろうか。
そこまで考えるぐらいには、甘味に対する執着心が、リディアを余計にいらいらさせる。
『後で食べさせてあげるよ』
「そう? だったら絶対、先に食べち」
『——口移しで』
「はい……!?」
男に取られないのなら、後回しでもいいか。
そう思って、渋々引きさがろうとした矢先。
男が聞き捨てならないことを口にして、耳を疑った。
(さっきみたいに、口に放り込んでくれたらいいじゃない!)
「ば、ばっかじゃないの!? あたしほとんど食べてないっ!! こんなのホワイトデーでもなんでもないじゃないっ!」
拳をぎゅうと握って、自分を抱えたままの男の背中にぶつけた。
リディアの拳では、男がダメージを食らわないのをわかっているので、力加減は一切なし。
しかも、甘いものの恨みを込めて何度も思いっきり叩く。
『くく、っ……』
しばらくの間、叩かれるがままだった男がくすくす笑い出した。
「何よ、突然笑っちゃって」
『一人称、元に戻ってる』
「……!」
男からの指摘に、しまったとばかりに両手で口を押さえた。
—— —— ——
少しでも、立派な女性に近付けるように。
そんな思いに加えて、新しい年を迎えてキリがいいのもあって。
年が明けてから、リディアは自分のことを『わたし』と意識して呼ぶようにしていた。
それでも、今みたいに血が上ると『あたし』に戻ってしまう時もよくある。
—— —— ——
『きみを素の状態に戻してしまうぐらいだ。お菓子の力はすごいね』
「じゃあ、口移しでいいから。どこのお店で買ったのか教え」
『——ひみつ』
「何よ、もう! わたしが自分で買うんだよ? 教えてくれたっていいじゃない!」
『教えてもすぐに忘れるから教えない』
「どうして?」
『きみは今から、ぼくに食べられるから」
「っ!? い、いいっ……食べなくてもいいからぁ……っ!」
味が甘くない深い深い口付けを男から与えられた。
それが合図となって前哨戦は終わりを告げて、本当にヤる時間がやってきた。
(朝……絶対聞いてみよ……)
甘くてほろ苦いおとなのチョコが、結局どこのお店のものなのかわからずじまい。
それでもリディアは快感にあえぎながらも。
必ずチョコの出所を突き止めてやる。そんな執念を燃やしていたのであった。
——2の月1日 早朝
新しい月に変わってから数時間後、太陽が東の空から昇った。
時同じくして、ミストを厚く覆っていた雨雲はどこかに流れて行った。
室内はいやらしい空気が漂っていたのに、今はすっかり爽やかなものだ。
「いただきまーす」
「いただきます……今日のメシ、なんだこれ」
「アップルパイだよ。昨日、料理教室で作ったの」
今の男は、昨夜のような陰鬱でもない。
仮面もかぶっていないし、健全そのものである。
そして、リディアも上機嫌。不満を露わにして何かと反発していた昨夜とは大違い。
「それでね。こっちがライザが作ったミートパイ」
そう説明しながら、ミートパイが載ったお皿を男のそばにずらしてあげた。
(アップルパイはあたしのもの!!)
男は全方位肉食、かつ質より量の人間。食にこだわりがない。
ミートパイを押し付られても拒否しない。そんな確信を持っていた。
「……オレは、こいつを食えばいいんだな」
「うん。アップルパイ、ひとつは食べていいから」
「はいはい」
男がミートパイをひとつ手に取って、かじりはじめた。
これでアップルパイは、リディアのほぼ独占が決まった。
—— —— ——
男と朝食を共にすることは、ろくなことがない夜の関係での唯一の収穫である。
またあんなことや、こんなことをされてしまった……。
そんな後悔や恥に近い感情は、この時間になるとどうでもよくなってしまう。
—— —— ——
今の時間は、まるで食後のデザートのよう。
甘いりんごの風味を味わいながら、リディアが感慨にふけっていると。
「おっ、意外と美味え」
(まただ)
男が、ミートパイを褒めているのが聞こえてきて。
リディアはパイを口に運ぶ手を止めた。
「どうした。急に不機嫌になりやがって」
「……他の人が作ったものは、褒めるんだね」
男に少し嫌味を言ってやった。
褒め言葉が自分ではなく、他人だったことに面白くない。
もっとも、こんなこと一度二度の話ではないけれど。
—— —— ——
今のように、男はリディア以外……。
もっぱら料理教室で作ったものを食べた時、美味しいと評価することがある。
しかし、リディアが作った料理を食べても、美味しいと一度も言ったことがない。
まずいと言われたこともないけれど。
これまでの男のリディアの料理への最上級の評価は、『そこそこ』や『まあまあ』。
一方、最下級は『微妙』……どちらも微妙な表現に留まっている。
—— —— ——
「おまえも、とびきり美味いもん作ったら褒めてやるがな」
「とびきり? そんなの無理だよ」
「努力したら、それぐらい作れるだろ」
「しないもーん」
「……ま、昔に比べりゃ作るだけマシだな」
(どうしてエッジに褒められるために、そこまでしなきゃいけないのよ……)
男に高評価をいただくために努力したことないし、する気もない。
リディアは速攻で割り切って、手元のアップルパイに再びかじりついた。
「アリサのおうちは、これじゃ全然足りないんだって」
「あいつ以外、みんな野郎だからな」
「『あいつらはねー。チーズは飲み物だと思ってるのよー』って、こないだ愚痴ってたよ」
「おまえ、アリサの真似うめえな」
「そう? エッジには敵わないけどね」
アリサの口調は、リディアでも真似出来るぐらい特徴がある。
そんな彼女の声を真似するのは、この男にとってちょちょいのちょいだろう。
「アリサ、また子ども作るって言ってたなあ」
「そっちも足りねえのか……」
「どうしても女の子が欲しいんだって。まだまだ先だと思うけどね」
「そういう奴に限って、ちっとも産まれねえもんだぞ」
「3人もいるのに、まだ頑張るんだもん……いいなあ」
子どもと接する講師のお仕事。日頃聞くアリサたちの子育て話。
その影響で、ほんの少し子どもを望む気持ちが芽生えてきた。
しかし、子どもをもうけようとするなら伴侶が必要になる。
伴侶はいらないから、子どもだけ欲しい……実に悩ましい。
(そうだ! あれ聞かなきゃ)
都合のいい遠い将来の話よりも、近い将来の話の方が大事。
朝食が済めば、男は祖国へ帰ってしまう。
その前に、これだけは聞いておかないといけない。
「ねえ、エッジ」
「あ?」
「あのチョコ、どこで買ったの?」
(やっぱり答えてくれない……)
日が明るいうちは夜の話題はしない。話題を出しても一切無視する。
男からそう告げられた時は、昼夜の線引きをしてくれると喜んでいたのに。
ここに来て、その弊害が現れるようになっていた。
「お店の名前だけでいいから教えてよ」
「……」
「何にも残ってないから、調べようないもん」
「……」
毎月のことだが、男は前夜の痕跡をほとんど残さない。
昨晩もリディアが眠っている間に、火遁で全て燃やしてしまったのだろう。
ごみ入れかごをのぞいても、どこを探しても。チョコの包み紙や箱——残骸は出てこなかった。
「もういいよっ! けちっ!」
がちゃん!
男が一向に返事をしてくれない。
ついに愛想を尽かして、机を思いっきり平手で叩いた。
陶器がぶつかる音が立とうが、ぐらりと机が揺れようが。
男は無反応を貫いて、黙々とパイを口にしている。
(このままじゃ、チョコの出処がわからないままで終わっちゃう)
リディアは焦り始めたが、ふとあることを思いついた。
今日から、2の月。
ホワイトデーどころか、バレンタインデーもまだ終わっていない。
今度は隙を見て目隠しを少しずらして、残骸の欠片をこっそり奪えばいいのだ。
「だったら、来月も同じもの買ってきて」
「……」
「わたし、伝えたから! 絶対に絶対だからね!?」
「っ……!」
ひとりで勝手に質問して、ひとりで勝手に結論付けて、ひとりで怒る……。
リディアにひとり芝居もどきをさせた男が、笑い声を必死でこらえている。
(これじゃ、夜のだんまり陰鬱状態と変わんないよ……)
頬を膨らませながら、お皿の上に置かれたパイの欠片を手に取った。
「そういや。あの包丁、使い勝手変わんねえか」
「ぜんぜん? ずっと使い続けるつもりだもん」
「あれな、もうすぐ店で買えるようになるぞ」
「……売れるとは思えないんだけど」
確かに、あの包丁はよく切れるがおままごと用の包丁にしか見えない。
ミスリルは本気でそれを商品として販売するのだろうか?
「需要があるから商品にするんだぞ? まあ、ばか売れはしねえと思うがな」
「誰が使うの?」
「ガキだよ」
「え、子ども……?」
「巷じゃ最近、親の手伝いするガキが増えてんだよ」
「あっ! ミストでもお手伝いする子が多い!」
黒魔法講座に通う子どもたちも、よくお手伝い自慢をしている。
「手伝いっつっても、もっぱら料理だ。そん中でも、包丁で材料を切りたがるガキがめちゃくちゃ多くてな」
「お母さんが使ってたら、真似したくなっちゃうよね」
「その影響で、ミスリルの工房に親子連れがよくやってくるんだと」
「でも、子どもに包丁持たせるって危な……! それで、職人のおじさんが、わたしの包丁に目をつけたんだ!」
「そういうこった。おまえのも包丁だが、刃先と刃元が丸いからな」
「白くておもちゃみたいだし、ぎざぎざの包丁もあるしね」
—— —— ——
親子連れの客が増えたし、そろそろ子ども向けの包丁も売り出そう。
そう考えたミスリルの職人が、真っ先に目を付けたのがリディア専用の白い包丁だった。
包丁は使い方次第では、自他を傷付けかねない。
しかし、リディアの白い包丁は安全性を重視して作られている。
デザインも包丁らしさを感じさせない。
一見おもちゃにしか見えないこの包丁が、子どもが手にするのに適しているかもしれないと。
そして、店を訪れた、親子連れ客の子ども数人に白い包丁を使ってもらった。
結果は大好評。それからとんとん拍子で、今年の春に商品化されることが決まった。
—— —— ——
ちなみに、もうひとつのぎざぎざ刃の包丁は、更に低年齢の子ども用に受注生産の予定。
男がミスリルの現状と併せて、白い包丁商品化の話を教えてくれた。
「すごーい。よくそんな発想に辿り着いたね」
「おまえもミスリルのお役に立てたし、脱走ポイント高けえぞ?」
「……それはわたしじゃなくて、エッジのおかげでしょ?」
男からの思わぬ褒め言葉に、リディアは首をかしげる。
—— —— ——
半年前、男がミスリルの工房にリディアをずるずる引きずりながらこう言った。
『ここなら、おまえが使えるブツを作ってもらえるかもしんねえぞ』
リディアは、そこで職人に症状とそれに至る経緯を話しただけ。
それ以降、この男がミスリルと連絡を取ってくれている。
職人との交渉や、こうして情報までもらうぐらいには。
—— —— ——
「いーや、おまえ。オレは仲介しただけだ」
「……仲介でも、お役に立ってるじゃない」
「あの包丁が出来たのは、おまえが刃物持てなくなったからだぞ?」
「変化の恩恵?」
「おお、それだ。大分賢くなったな」
「……へへっ」
(褒められちゃった)
男に褒められて、じわじわ喜びが高まってきて思わず笑みをこぼしてしまった。
夜に同じことを言われても、心はちっとも動かないのに。
「ね、ね」
「ん?」
「これ、全部食べて」
パイがふたつ残っているお皿を男の方に押してあげた。
「……珍しいな。腹、壊したか?」
「違うよ。もうお腹いっぱいなの」
(嘘だよ)
リディアが大好きで独占していたアップルパイ。
それを食べろと言われたら、男が訝しむのも仕方がない。
このパイは、男に向けたささやかでひそやかな伝言とお礼だ。
本人は決して認めないが、男もミスリルのお役に立っている。
「こりゃ、明日はどしゃ降りだな」
「絶対降らないもーん」
「後で文句言うんじゃねえぞ」
「絶対言わないもん。——ほら、早く食べて?」
「……わかったよ」
リディアが急かすと、お皿の上のアップルパイがようやくひとつ消えた。
胸をなでおろしながら、冷めかかったコーヒーを両手で抱えてふと窓を見やる。
すると、冬の太陽の光が、どこか頼りなさげに部屋を照らしてくれていて。
リディアは、心の中でひそかにこんなことを決めたのであった。
—— —— ——
この男は目立ちたがり屋。にもかかわらず、善意や償いは決してひけらかさない。
それでも、太陽だけは地上を照らしながら。この男のありとあらゆる所業を見ている。
自分も太陽を見習い、男を見守って善い行いを記憶に残しておこう。
……今の関係が、過去の思い出に変わるまで。
—— —— ——
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